第2章―1 潜入作戦
あたしは、戸惑っていた。
この間、シリウスに抱きしめられたとき、本当は彼の気持ちが見えたのだ。それはあまりにも小さくて、吹けば消えそうな想いではあったけど、確実にそこにあった。
しかし、彼はそのことに全く気づいていないような表情をしていたので、あたしはとてもそれを言い出せなかった。
なんてやっかいな力なんだろう……。彼の気持ちを知っていて、それでもそれを知らない振りをしなければならないなんて。あたしの心なんて5歳のあの時から少しも変わっていないというのに。
だから、シリウスがそばにいて欲しいと言ってくれた時、飛び上がるほど嬉しかった。
でも、それはあたしが本当に望んでいる形とは違っていた。
なんて残酷なことをこの人は言うんだろう。なんでそんなきれいな眼をしてそんなひどいことを言えるんだろう。
それでも、仕方なかった。彼は皇太子なのだ。
これから、宮に戻って、きれいなお姫様をお妃に迎えて立派な帝になるのだ。あたしがいる場所はその妃の座では決して無かった。
それでも、彼の傍にいたかった。傍で彼を見ていたかった。だから、たとえ側近としてでも、彼の近くに居る道を選んだのだ。
あたしたちは、ツクルトゥルスに来る時とは違い、今度は三頭の馬で、皇都シープシャンクスへと向かっていた。
出来ればまたシリウスと相乗りをしたかったのだけれど、馬が用意できる以上そんな必要は無く、あたしは多少がっかりして、一人、揺れる馬の上で、考え事をしていたのだった。
「なんだか浮かない顔してるけど、具合でも悪い?」
シリウスが、馬を寄せてあたしに話しかけてくる。
本当に、きれいな顔。それに均整のとれたしなやかな身体。この外見をしているだけで人が寄ってくるだろうに、それ以上にあんな力を持っているなんて、確かに不運としか言いようが無い。
あたしのこの属性が無ければ、こんなに冷静に顔を眺めることも出来ないのだろう。
このごろは、冷静とはとても言いがたいけれど。
「大丈夫よ。……もうすぐね。都」
「そうだな」
「作戦、うまく行くといいわね」
あたしがそう言うと、シリウスはその口角を少し上げてかすかに微笑んだ。
ああ、きれい……。
思わず見とれてしまう。
このごろシリウスはようやく笑うようになった。
都から出て、初めて笑ったのは、つい最近のこと。父と何か内緒話をした後に、何かをごまかすようにあたしに向かって微笑んだのだ。
あまりにきれいな笑顔だったので、あたしは見とれてしまって、内緒話の追求をしそびれてしまった。
昔から表情は無い方だったけれど、まだ幼い頃はその漆黒の瞳をキラキラ輝かせて、笑っていたと思う。
なにがこんなに彼を無表情にさせたのか。あたしはその原因である、「彼ら」に腹が立って仕方なかった。
詳しくは見えなかった。あたしは恐ろしくて見たくなかった。
それでも、見えた顔には覚えがあった。当然だった。この国で一番尊いとされる人とその妻なのだから。
シープシャンクスに着くと、あたしたちはひとまず例の倉庫へと向かった。
着替えをするためだった。
父が密かに取り寄せた鬘と女物の服をあたしたちはそれぞれ手に取り、着替えた。
先に着替えて、シリウスを手伝ったのだけれど、彼の方はあたしが隣に並ぶのが嫌になるような出来だった。
――つまり美しすぎて!
褐色の鬘とベージュ色の簡素なドレス、それに白いエプロンをつけたシリウスは、まるで人形のようだ。
それでも眼だけが何かを吸い込むかのような力を湛えていて、その人形のような容貌に生気を与えていた。
お互いに鬘がずれていないか、服装がおかしくないかなど確かめ合う。
シリウスが鬘を慎重に抑えながら、あたしをじっと観察していたかと思うと、ふと口を開いた。
「……当たり前だけど、そっちの方が似合ってる」
「ありがと」
あたしは自分の髪とほぼ同色の金色の鬘を着け、やはりベージュのドレスを着ていた。女の子の恰好は久しぶりで、スカートを履いた足下が何となく心細い。
彼の隣に並べば、あたしがいくら着飾ろうと、霞んでしまうことが分かっていたので、褒められようとあたしはそんなに嬉しくなかった。彼だって自分の姿を見れば、あたしにそんなことを言うはずが無い。明らかに引き立て役なのだから。
そんな思いが顔に出たのか、シリウスは怪訝そうに首を傾げる。その仕草がまた、様になっていた。
「ほんとに可愛いのに……」
……その顔で、どういうつもりで言ってるのかサッパリだわ……。
あたしはそう思いつつも顔が赤らむのを抑えられなかった。
メリディオナリスという男は、聞いていた通り、好色をそのまま体現したような男だった。
少し薄い頭、テカった顔、小さな眼に丸い鼻、のばした口ひげだけ妙に整えられていて、なんだかアンバランスな感じがした。体は丸まると太っていて、きっと自分では靴が履けないだろうというくらいに腹が出ていた。
侍女姿のシリウスとあたしを舐めるような視線で観察している。
こいつに仕えるの? ……と思うと吐き気さえ感じたが、これもシリウスのため。頑張らないとと自分を励ました。
シリウスは相変わらず無表情で、丁寧におじぎをすると、あたしに挨拶を促した。
あ、そうだった。彼は喉を痛めてることになってるのだった。
「短い間ですが、よろしくお願いいたします」
あたしが挨拶をすると、今までシリウスをにやにやしながら見ていたその視線がこちらに向けられた。
「ほう、きれいな声をしているね、お嬢ちゃん」
そうしてあたしの体を上から下までじろじろと見ると、言った。
「うむ、こっちの娘の方が……」
な、何よっ! あたしは思わずたじろいだ。
メリディオナリスはにやにやしながら嬉しそうに顎を撫でると、あたしの後ろに廻る。
次の瞬間シリウスがさっと動いたかと思うと、その腕を掴んでいた。そうして、その眼を彼にしっかりと向けると、妖しく微笑んだのだ。
うわっ!! それ反則……
案の定、メリディオナリスは魂を抜かれたような表情になり、がっくりと体の力を抜いてその場にしゃがみ込んでしまった。
シリウスはあたしの耳に口を寄せると、小声でささやく。
「こいつ、君のお尻触ろうとしてた」
「かばってくれたの? でも……あれじゃあ、あなたが標的になっちゃうわ」
「いいんだよ。その方が」
「よくない」
「いいの。君何も知らないから、危険なんだ」
「何を知らないって言うの」
シリウスは言葉につまり、しばらく考えたが、結局笑ってごまかした。
あたしは、やはりその顔に釘付けになってしまい、それ以上追求できなくなってしまったのだった。
メリディオナリスの家は、下級貴族とはいえ、何で儲けているのかひどく広かった。
ひたすらに掃除を行い、邸の隅々までを磨き上げる。
その後、あたしたちは、騎士団の時と同じように、細々とした雑用をこなし、ようやくあてがわれた自室へと戻った。
「……やっぱり同室なんだな……」
シリウスが迷惑そうにつぶやく。あたしは多少傷つきながら尋ねた。
「……そんなに嫌なの?」
「……嫌というか……困る」
無表情のまま、シリウスはそう言って、自分のベッドの上にどさりと腰を下ろした。
困るって、一体何が困るんだろう。あたしは、いつも不思議だった。昔は普通に同じ部屋で過ごして、同じベッドで眠ったのに。
「仕方ないじゃない。侍女の身で贅沢は言えないわ」
「分かってる」
「あの……今日も手をつないでもらってもいいかしら……」
あたしがおそるおそる尋ねると、シリウスは少し考え込んで、そして言った。
「いや、今日は僕は君から力を貰わない方がいい。その方がうまく行くはずだ」
「何考えてるの……」
「あいつは、多分、今日ここに来るよ」
あたしはぎょっとした。
「今日? そんなに早く?」
「さっきのヤツの様子見なかったの?」
見たけど……。その様子からどうこう推測は出来なかった。
「鈍いなあ……。やっぱり付いてきてよかった。……一応確認しとくよ。聞かないといけないことは、誰が指示したか。でもそれを直接言ってしまうと怪しまれる。だから、皇子のことを連想させるように誘導するんだ。出来そう?」
「んと……」
突然言われても思いつかない……。
皇子の事を連想させる? 『まるで皇子様のようです』……無理があるわ。
とにかく触らないと駄目だから……近づかなきゃいけないのよね。あのひと、お尻触りたかったみたいだし、触らせちゃったら楽なのかしら。
あぁ、でも、嫌だな。マルフィクにそうされたときは、気持ち悪かったけど、シリウスが見てなかったら我慢できた。でも、彼の前であんな風にされるのはすごく嫌だった。シリウスがあんな苦しそうな顔をするのは見たくない。彼もなんでか簡単に触らせちゃ駄目って言ってたし、怒られそう。
「と、とりあえず、一晩一緒に居ればそのうち読めると思うし……。駄目だったらまた明日頑張ればいいし」
だんだん彼の目つきが厳しくなるのが怖くて、あたしはしどろもどろになる。な、なんでそんな怖い顔するの!
「あ、えっと、シリウスが嫌だったら、あたし一人で頑張るから!」
そう言い切ってしまうと、シリウスはかなり呆れたようにため息をついた。
「……分かった。僕に任せろよ。多分標的は僕だから」
「え? でも」
「大丈夫。僕にだってスピカとは違うけど、力があるんだよ? うまくいくよ」
そういう彼はちょっと頼もしくて、あたしは頷いてしまっていた。
でも、このとき、あたしは何が何でも止めれば良かった。
――そう後悔するなんて、この時のあたしは、思いもしなかった。