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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第三部 闇の皇子と焔色(ほむらいろ)の罠
117/124

第11章―2


 メイサが医師を呼びにいっている間、あたしは吐き気と戦いながらも起き上がる。それにしても、なんでこんなに――と考えて、ふと思い当たる事がある。でも――そんなわけ、ないわよね? だって、あたし、まだ……。うん、そんなわけ、絶対ない。

 ぼんやりする頭を叩くと、扉から顔を出す。廊下を流れる空気は部屋の淀んだ空気に比べ随分ましだった。きれいな空気を吸って、部屋で使ってる灯りの臭いが駄目なんだと気が付く。獣の油を固めて使っているから、結構臭うのだ。大きく息を吸うと幾分吐き気が治まった。

 幸い部屋の前には誰もいなかった。逃げ出す事はさすがに警戒してるみたいだけれど、あたしの体調もあって出入り口だけしか固めていないみたい。廊下を見回っている侍従自体がこの間来た時よりもまばらな感じがした。

 あたしは侍従の目をかいくぐり、そろりと部屋を抜け出すと、階段を下りる。そして向かう。――地下の部屋へ。

 ここの屋敷で人を監禁するにはあの部屋が最適だった。あの閉じられた場所しか考えられなかった。

 階段は一階で一度途切れていた。暗く長い廊下の左右を確認すると、玄関がある方向――北側に数人の侍従に混じる赤い髪の背の高い男。

「また吐いたって?」

 ルティの声がして、あたしは一度階段脇の壁に身を隠す。よく聞くとメイサの声も聞き取れた。あたしの容態を一緒に居る医師に説明しているようだった。

「水も飲めないとなると……深刻です。なんとか飲んでいただかないと」

「あいつはワガママを言ってるだけなんだ。死にたがってるんだからな――そうはさせない。死のうとしたら、くくりつけてでも」

 ひやりとした声が響いて来て、その言葉の通りあたしを縛りはじめた気がした。体を震わせる。あたしは思い切って廊下に飛び出すと南側の廊下へと走る。記憶をたどりながら足を進め、途中奥に伸びる狭い廊下を見つけて、角を曲がる。たしか――この突き当たりに……

 ――あった!

 闇に包まれた、地下へと続く階段を見つけた時だった。

 後ろから力強い腕に抱き上げられ驚いて顔を上げる。

「え――ルティ?」

 いつの間に? 足音なんか聞こえなかったのに。

「油断も隙もないな。大人しくしてろ。本当に――死ぬぞ?」

 あたしは彼の腕の中でもがきながら必死で訴える。ここまできてそれを知らずに戻りたくなかった。

「ねぇ……父さんは? おねがい、父さんの事教えて。――父さんに一目会わせて!」

「駄目だ」

「父さんだけがあたしの生きる望みなの。お願い!」

「――逃げたわ。だから会えないのよ」

 しっとりとした声に振り向くと、いつの間にか追いついて来たメイサが答えていた。

「おい、言うな!」

「だって、可哀想過ぎるでしょう、この子。あなた情けってものが少しもないの? ――好きなの? 本当に?」

「――馬鹿野郎! 俺には俺の考えがある。スピカのことは俺がよく知ってる。こいつはな、守るものがあれば生きようとするんだ。レグルスを守らなくていいと知れば――」

「だから、変な意地は捨てて教えてあげればいいのよ。――悔しいのはよぉく分かるけれどね。そうすれば絶対に死のうなんて考えないんだから」

 二人のやり取りを聞きながらあたしは大きく深呼吸をした。逃げた――父さん――よかった――。あたしは、安心して目を閉じ、俯いて舌を歯の上に乗せる。

「――スピカ!?」

 一気に噛み切ろうとしたのを、一瞬早くルティのその指が阻んだ。

「ぐぅっ!」

 ――死なせて。あたし、もうこれ以上シリウスを裏切りたくない――

 怯んだルティの腕を引き抜き、再び舌を噛もうとしたけれど、口の中に広がるルティの血の味がそれをさせなかった。強烈な吐き気。そして鈍い痛みが全身を麻痺させていく。手足が痺れたかと思うと、それは一気に全身に広がり、あたしの意識を闇へと引きずり込もうとする。

 それでもあたしは最後の力を振り絞って舌を噛もうとした。ルティが頬を押さえて遮ると怒ったような声で叫ぶ。

「スピカ! ――馬鹿! 死ぬな! お前は今――――」


 え? 何て言ったの、今――

 あたしは急に遠くなった耳を澄ませる。隣でメイサが泣きそうな顔で必死で口を動かしているのが見える。狭まる視界の中、その口の動きだけがはっきりと見えた。

 

『あかちゃん?』


 うそ。


 あたしは動かない手でお腹をさすろうとする。温かい手がそれを手伝ってくれる。

 それは――まぎれもなく――『シリウスの子』。

 体温が上がって冷たく強ばった体が溶けていく。全身から力が抜ける。噛み締めようとしていた顎の力も自然、抜けた。


 ――だって、あたし、もう絶対に死ねないじゃない。


 体に血が通いだしたとたん、お腹の痛みが酷くなった。以前ルキアがお腹に居る時に味わった腹痛より酷くて背筋が冷える。ここひと月、随分無茶をしてしまってる事を思い出したのだ。特に馬車や馬での移動が子に影響しないとは思えなかった。

 怖くて思わずお腹を抱えこむと、メイサが慌てて医師を呼ぶ。ルティがあたしを横抱きにすると、壊れ物を運ぶように部屋まで抱えて行った。あたしはただ大人しくしているしかなかった。




 強引にベッドに寝かされ、絶対に動くなといわれた。医師が持って来た何か苦い液体を無理に流し込まれる。「お腹の張りを押さえる薬湯です……お子さまのためにどうか」

 意識がもう既に朦朧としていたけれど、気力を振り絞って飲み込む。直後、目の前から光と音が遠のいた。




(お願い。どうかその子を私から取り上げないで――――)

 すぐ近くで声がした。隣を見ると艶やかな赤い長い髪がうねっていてぎょっとする。

 慌てて周りを見回す。あれ? この部屋は――見覚えがある光景を不思議に思う。さっきまで別の部屋に寝ていたのに。何か変な違和感を感じ下を見て再び驚いた。あたしの体はフワフワ浮き、ベッドの少し上を漂っていた。その浮遊感と現実味の無さ。どうやら、あたしは夢を見ているみたいだった。

 それにしても……この声は……? 顔を見たかったけれど、その人は向こう側を向いていて、確認できない。自分が移動しようと思ったけれど、軽いにも関わらず、なぜか体はその場所から動こうとしなかった。

 隣に横たわる女性は泣いているようだった。時折鼻をすするような音が聞こえて来た。かわいそうになって髪を撫でようとしたけれど、差し出した手は空を切る。やはり幻なんだと、実感した。

 部屋にはベッドの上の女性を含めて三人の女性がいた。顔は暗くてあまり良く見えないけれど、皆赤い髪をしている。彼女達はシトゥラの血を引いているようだった。

(心配するな。この子は立派に育ててみせる。お前は心配せずに自分の使命を果たすが良い。それが王のため、ひいては国のためになる)

 誰? この赤い髪の女性は。横顔を見る限り、歳は他の二人よりも上に見えた。その声にも聞き覚えがあるような気がしたけれど、夢心地の頭ではなかなか思い出せない。

 赤子の泣き声が聞こえ、声のする方向を見ると、もう一人の女性が一人の赤ん坊を抱いていた。覗き込もうと顔を持ち上げるけれど、産着に深く包まれ、髪の色も目の色も見えない。

 やがて横たわる女性が口を開く。その声には諦めと、それから覚悟が含まれていた。

(お願い。私とあの人の子を――幸せにしてあげて)



 * * *



(随分うなされていたな)

(――あ、起きたみたい、瞼が動いたわ)

(それでは枕を変えましょう。洗ってあったものがようやく乾いたそうです)

(本当によく吐くヤツだ。今度吐いても換えが無い)

(しょうがないでしょう――あ、目を開けた)

 枕元で広がる話し声にうっすらと目を開ける。顔に窓から差し込む夕日が当たる。どれだけ眠っていたのだろう。何日も気を失って居たような気さえする。

 そっと手をお腹に当てる。腹部の鈍い痛みは薄れている気がした。吐き気は――随分軽くなっている。


「――大丈夫?」

 メイサの顔が一番に見えた。聞くのが怖かった。でも聞かずにはいられなかった。掠れた声が出る。

「――あかちゃん、赤ちゃんは!?」

「興奮しないで――大丈夫、大分落ち着いたみたいだって」

 メイサが困ったような顔であたしの額の汗をぬぐう。

 ほっとしたとたん後ろに居たルティの顔が目の端に映り、あたしをこんな状況に追い込んだのが誰だか思い出す。興奮するなと言われても、その顔を見ていたら無理だった。

「――どうして。何で教えてくれなかったの」

 彼を睨み、震える声で訴えると、ルティはふいと目を逸らして、そのまま部屋を出て行く。メイサがあたしの頭の下から枕を引き抜き、換えを差し込む。そして彼の代わりに問いに答えた。

「悔しいからに決まってるでしょ。あなたたちの結婚話が余計にこじれちゃうんだから」

「でも……」

 あたしは、彼の本性を思い出し、急に怖くなった。あの非情な男ならば、邪魔なものは消そうとするはずだった。そうだ、今なぜこうやって労わられているのかも分からない。手を施さずに、放っておけば、それかあたしを階段から突き落としでもすれば――子は流れてしまうだろうに。その方が都合がいいだろうに。

 そう思って震えて体を抱きしめると、メイサが呆れたようなため息をついた。

「あなたもねぇ、ルティを相当に誤解してるわよね。……まあ誤解されるようにしてる彼が悪いんだけど」

「誤解なんかしてないわ。あいつは欲しいもののためなら何だってするの。ひどい男、最低な――」

「――ちょっと」

 言葉を遮られ、メイサを見ると、眉が吊り上がっている。あたしはその迫力に思わず罵倒の言葉を飲み込む。

「分かったようなこと言っちゃって。――あなたにルティの何が分かるっていうの!」

 急に憤慨した様子を見せるメイサにあたしは驚く。「え? メイサ……あなた」

 ――このひと、まさか

「信じられない――ルティのこと……好きなの?」

「あーもう、この子ったら……。そりゃ『あなたの皇子様』も素敵でしょうけど、人の好みなんてそれぞれじゃない。――大体ね。私からするとあの皇子様もずいぶんひどい男だと思うけど。昔、あなたのこと忘れちゃったんでしょ? 力のせいって考えても、あんまりよね。それに今だって、妻の危機なのに、何をちんたらしてるのか助けにも来ないし。子まで作っておいて何よ。しかも二人目ですって? 自分の子を孕んだ妻を放り出すなんて、責任感のかけらも無いじゃない。これで父親なんて、十年早いわ。子供を作る前にもっとする事があるでしょうに」

「なんですって」

 次々に飛び出す聞き捨てならない言葉に気色ばむと、メイサがしまったというように口を押さえる。

「あぁ、もう興奮しないで! ……ごめんね。挑発するつもりはなかったの。ただ、やっぱり好きな男の事を悪く言われるとあなただって嫌でしょう」

 ……確かに。でも、あたしには分からない。

「ルティは……だって……簡単に人を殺めるような人よ?」

 恐る恐る口を開くとメイサは大きくため息をつく。

「王子だから、当然そういう決断を下す事もあるわよ。でも『簡単に』っていうのは違う。誤解もいいとこよ。――大体ね、そう言うからには、あなた、彼が人を殺しているのを見たの?」

「……それは見ていないけれど。……でも命令してたもの」

「なんて?」

「あたしを運んでくれてた行商人の人がルティの配下の兵士に――」

「殺されたって?」

 思い出す。そういえば、あの兵士達は『逃げた』って言ってたかもしれない。あれ――? あたし何か勘違いしていたのかしら? でも――、血と泥にまみれた父の姿が瞼の裏に蘇り、あたしは首を振る。

「で、でも、そうよ、父さんにも酷い事して」

「あの後ちゃんと手当てしておいたわよ。見た目はボロボロだったけど、傷はそんなに酷いものじゃなかったし。鎖もつけずに楽にさせておいたし……結構な扱いをさせてもらったわよ? 逃げてしまうくらいにね」

 あぁそうか、逃げられるってことは――体は治っているという事……

「でも本当に逃げちゃうなんてね。あなたがここに来るからって急に侍女を増やしたのがね……一人一緒に消えたから、あれが多分――」

「――ルティは父さんを大事にしてくれてたの?」

 ぶつぶつと続けるメイサだったけど、今のあたしには、その事の方が重要だった。メイサは口の端を優しく緩ませる。

「――彼は変わったのよ。あなたの言葉でね。ちゃんと手段を選ぶようになったの。恰好つけだから言わないけれど」

 意外な言葉に目を見開く。

「変わった? あたしの言葉で?」

「一年前、何か言ってくれたんでしょう? あれ以降ルティは変わったわ。シトゥラとはやり方を変えて、継承権争いでも一滴の血も流さなかった」

「え? でも他の継承権を持つ者を潰したって、王が……」

「潰すって言っても、ねえ。まあ、多少あくどい手は使ってたみたいだけれど、命までとるような事はしなかった。周りが驚くほど丸くなってる。そのせいでお祖母さまとはぎくしゃくしちゃってるけどね」

 メイサは大きな目を少しだけ潤ませていた。それはとても優しい顔で、あたしはこの人が本当にルティの事が好きなんだって――やっと分かった。

「あなたの事だって、そう。どうしても欲しかったから策は随分練ったみたいだけど――。結局あなたはあなたの意志であの皇子様の元を離れたのでしょう? それは本当にルティのせいだったの?」

「でも……」

 あたしはルキアの事を考える。ルキアの父親は――彼なのだ。

「最初の子供の事? あなたの皇子様は髪が赤くてもいいって言ってくれたんでしょう? なんとかしてくれるって言ったのでしょう? それを信じなかったのは一体誰? 所詮そのくらいの気持ちだったって事じゃない。付け入る隙を与える方が悪いわ」

 メイサの言う通りだった。あたしは今の状況を誰かのせいにしてしまいたいみたいだった。全部、シリウスを信じきれなかったあたしが招いた事なのに。ルティが何をしようとも、あたしがシリウスを信じていれば、こんな事にはならなかったというのに。あまりに情けなくて胸が軋む。小さな布があたしの目尻をそっと拭った。

「子供がもし居なくなってしまったら……あなた、またさっきみたいに死のうとするのでしょう? あなたを死なせたくないから、あなたが大事だから、恋敵の男の子供でも大事にしようとしている。それってあの皇子様と似ていないかしら? ――愛し方が分からないだけで、愛そうとしていない訳ではないの。愛された事のない人間は、どうやって愛していいかなんて分からないのよ」

 メイサは苦しそうに眉を寄せながら、それでも必死であたしに訴える。

  ――確かにそうだった。ルティは、あたしを大事にしようとしていた。不器用でもあたしを喜ばせようとしていた。エラセドの部屋に置かれたきれいな服や、たくさんの花、豪華な食事。気づいてはいたけれど、見ないようにしていた。きっと今まで彼の周りに居た女の人たちはそれで喜んでいたのだと思う。でもそれをあたしは受け取るわけにはいかなかったから。いくら拒絶されようと、あたしが想うのはシリウスだけだったから。

 それにしても……。どうやらあたしはこのメイサという女性を好ましく思っているみたいだった。――ルティにはこの人が居るじゃない。こんなに想ってくれて、理解してくれる女の人が。

「彼には――あなたが居る。あなたがルティを――」

 メイサはあたしが言うことを察していた。

「昔はね、そんな夢も見たわ。だからあなたに嫉妬もした。……でも結局私たちは従姉弟なのよ――しかも、私は産まれて来てはいけなかったの。ただでさえシトゥラは血縁で婚姻を繰り返してるのに――私と彼じゃ血が近過ぎるの。どうしようもないのよ」

 産まれて来てはいけなかった? その不穏な響きが気になりながらも否定する。

「あたしにだって、血の繋がりはあるわ」

「あなたには新しいジョイアの血――レグルスの血が流れている。そしてルティには陛下の。母親が従姉くらいなら問題ない――でも私は……」

 そこまで言ってメイサは立ち上がる。そしてガラスで出来た小さな窓を開いた。夕日が直に部屋に入り込み、オレンジ色の線を引いて行く。冷たい新鮮な空気が流れ込み、額に浮かんだ汗を乾かす。

「おしゃべりが過ぎたわね。――何か食べられそう? とにかく今はお腹の子供のためにも元気になってもらわないと」

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