第10章―4
イェッドはなかなか見つからなかった。
もう夕刻になり、降り止まない雨のせいで外は暗くなりかけていた。街中を探してもらったというのに、彼の影は見つからなかった。
僕は痺れを切らしてシュルマにルキアを頼むと自分で探しに出かける事に決めた。髪を束ねると帽子の中に突っ込み、腰に剣を佩く。少し悩んだけれど結局矢筒を背に背負い、弓に弦を張る。一週間ほど引いていないのだけれど、左右に軽く引き分けると腕と背中の筋肉がすぐにその緊張感を思い出した。剣を持ったときよりもやはり、馴染む。
防水された厚手の上着を被る。
「――お待ちください!」追いすがるシュルマを振り返ると、腕の中にはルキアがいない。驚いて見ると、シュルマは既に出かける準備をすませていた。
「ルキア様は姉に預けて参りました。――どうしてもと言われるのであれば、私をお連れください」
僕は去年の事を思い出す。そうだった。彼女は見かけより随分腕が立つのだ。言っても聞きそうになくて仕方なく頷く。入り口に居た侍従に屋敷の警備を固めるように言付けると、弓を被るようにして体に沿わせる。屋敷の入り口に出来た水たまりを大きく飛び越える。
町中に居ないというのであれば、心当たりが、一つだけあった。限られた人物しか知らない、その場所。
僕とシュルマは林の中の獣道を駆ける。足下が悪い。伸び放題の長い草や蔦に足が取られる。水たまりでは泥が跳ね、頬に張り付くけれど、それは大粒の雨ですぐに流されていく。
やがて突然のように視界が灰色に開ける。ツクルトゥルスの広い大地は一面夏の野草に覆われていた。小さな花々は雨に打たれその花を閉じ、項垂れている。
色彩を欠いたその場所は、思い出を欠片も残していない。僕の知っている緑の輝きは雨で黒く塗りつぶされていたけれど、今はそれがありがたい。感傷に浸る暇はない。
一点、ぽつんと暖かい色が見えた。目を凝らすとそれは僕が向かおうとしていたその場所。小高い丘の上に石の影が二つ。その脇にある大きな木の下に炎の色がある。人影は――二つ。小柄だけれど、線が固い。男のようだった。そして――どちらも僕の知っているイェッドの形とは大きく異なった。
――イェッドじゃ、無い? じゃあ、あれは一体?
直感が耳元で囁いた。
『あれは、敵だ』
体に緊張が走る。僕はシュルマに指示を与え後ろに下がらせる。弓を手に取ると、矢をつがえ、草の影に隠れる。
アルフォンスス家は警備を固めている。ならば証拠を求めてこの街に潜入している、僕を邪魔だと思っている人間はどう動くか。僕ならば、次に『ここ』を狙う。
草の影で膝をつくと、右膝を立てる。そうして弓をそっと打ち起こすと、じわりと背中を割る。きり、と弦が伸びる音が雨の隙間を縫って耳へと届く。左手の親指の付け根と弓の交わる場所には松明に照らされた足の影が飛び込んだ。
ここは、僕とスピカの思い出の場所。――こんな風に汚されるのはまっぴらだ!
親指を押し込むとヒュンと風を切って矢が放たれる。
遠くで固い音が上がる。「ひっ」という小さな悲鳴も同時に上がり、影が強ばるのが分かった。様子を伺うと狙い通り――矢は足下に刺さっている。そして、その身のこなしを見る限りは――
「誰だ!!」
木の影に置かれていた松明が取り上げられるのが分かる。彼らの目が慣れる前にと、僕はすぐさまもう一つ矢をつがえると、今度は狙いを少し上に変えた。
ギリと引き絞ると、息を腹に落とす。――今すぐ、そこから、去れ!
放たれた矢がぽつんと灯っていた松明の明かりをその腕から連れ去った。さすがに先の一矢が外れたのは威嚇だと分かった様で、今度こそ人影は飛び上がる。そして悲鳴を上げながら一目散にその場を駆け出した。僕はその場に伏せると足音が目の前を去るのをじっと待った。
直後ドサッという重たい音。僕はそれを聞くと腰に佩いた剣を抜く。
「ひぃぃ……」
シュルマが蔦を使って作った即席の罠に足を取られた二人組を、僕とシュルマが挟み込む。
「――誰に頼まれた?」
「い、いえ、わしらはっ」
見下ろした男達はそのなりから街の人間だと思えた。若干言葉に北部の訛りもある。僕が剣を突きつけている間にシュルマが手早く男達を蔦で縛り上げた。
「墓荒らしは大罪だよ? しかも前后妃の墓だと分かっていたんだろう?」
「えぇえ!?」
僕は半ば呆れてため息をつく。この分じゃ、つついても大した情報は出て来ないだろう。
シュルマと二人で、男達を木の幹にくくりつける。そしてシュルマに見張りを頼むと一人小高い丘の上へと歩き出した。
丘を登り終えると、雨で冷えた体をさすりながら木の下へと移動した。そしてまだ辛うじて燃えていた松明を拾い上げ、木を見上げる。
「逃がしてしまわれたのですか」
「……居ると思ってたよ」
聞き覚えのある声にいろんな意味でほっとした。やっぱり。此処しかないと思っていた。――彼は実践には向かないから、尾行するつもりで黙って見ていたのだろう。
イェッドがそろそろと太い枝から身を下ろすのを手伝う。地上に降り立ったイェッドは安心したように大きく息をつく。
「この木が丈夫で良かったですよ」
「昔からあるからね」
僕は木を見上げる。この木も随分と大きくなったと思う。母上が居なくなったあの時も、僕を見守ってくれていた。
「しかも葉が大きいのであまり濡れずにすみました」
確かにずぶ濡れで泥だらけの僕が滑稽なくらい、イェッドはまともな恰好をしていた。
「……彼らは土地の人間だった。誰かに頼まれたのかな」
武装していないのがすぐに分かった。彼らは単なる墓荒らしだ。おそらく何も知らせずに荒らさせておいて、その成果を奪うつもりだったのだろう。
「おそらくここに宝が埋まってるとでも教えたのでしょう。あとで吐かせます」
僕は頷く。イェッドが意外そうに眉を上げると、ちらりとシュルマがいる場所を見下ろした。
「見逃せとおっしゃるかと思いました」
「……僕はそこまで甘くないよ。自分のやった罪くらいは償わせる。――ともかく、ここが無事で良かった」
見下ろした場所には二つの小さな墓。
母の墓と、ラナの墓が少し間隔をあけて据えてあった。
ここは――僕とスピカが将来を誓い合った、大切な思い出の場所だった。
「……完全に無事とは言えませんが……。申し訳ありません。一人で止めるは無謀かと思いまして」
イェッドが珍しく謝る。その視線の先を見て頷く。墓石が外され、ぽっかりと暗い穴が開いていた。これが母の墓でなければ逃げ出したくなるような闇の色。
「いいんだ。向き不向きってものがあるだろう? ……イェッドもここが危ないって気づいたんだ」
「ええ。朝から張っていました。見張りをつけるにしても……この場所は特殊でしたから、あまり仰々しく警備するのは逆に危険かと思いまして」
確かに、この場所を知っているのはごく僅かな貴族だけ。狙ったというだけで自然犯人の顔は割れてくる。だからこそ墓荒らしを装ったのだろう。
――さて、何が出てくる事やら。
僕は何人かの顔を思い浮かべながら苦笑いする。さすがに、この行為は許す事は出来ない。それなりに覚悟してもらわないと。
そして外された墓石をイェッドと二人で元通りに戻そうとして、中にあったものに目が止まった。棺の上には、母が愛用していたのだろう、古くなったドレスや宝石類、それから色あせ埃をかぶった造花達。それらに埋もれるようにしてぽつんと置かれているものがあった。何かに誘われるように取り出して、雨を避けるため木の下へ移動する。時が経ち脆くなった戒めが、触れたとたんにぽろりと外れた。それはまるで――この時を待って居たかのようで。
恐る恐る広げる。燃え尽きようとしている松明の僅かな明かりを頼りにそこにある文字を追う。
「これ……」
つられてイェッドも後ろから覗き込んだ。
「これは――」
『シャヒーニが残したものがお前を滅ぼそうとするならば――リゲルがきっとお前を守ってくれるはずだ』
父の声が耳に蘇る。僕は手の中の冊子をパタンと閉じると、その古い皮で出来た背表紙を手のひらでそっと撫でた。
沸き上がる感情が抑えきれず、口から熱い息となって漏れ出る。視界が僅かに白く曇る。
これがどんな結末をもたらすかはまだ分からないけれど……どうやら決着がつきそうだ。そんな予感がした。
体に震えが走る。誤摩化すように僕は頭を振って無理に笑みを浮かべた。
そしてふと思う。――僕はこのところ、随分とこれに縁があるらしい。
それは母の日記だった。
*
屋敷に戻ると有無を言わせず湯殿に放り込まれた。ほとんど湯にも浸からずに泥を流しただけですぐに出ようとしたけれど、入り口で見張っていたシュルマに説教されて、結局体が温まるまで出してもらえなかった。
例の墓荒らし達は結局オリオーヌの騎士団に引き取ってもらった。僕が湯殿に行っている間にイェッドが書類をまとめて一緒に引き渡したそうだ。
「重要な証拠品ですから、大切に保管してもらいましょう」という言葉に僕は頷く。確かにこの際屋敷より牢に突っ込んでおいた方が彼らにとっても僕たちにとっても安全だった。ハリスの牢は堅固だし、男達の口を封じようとする輩がこの屋敷に現れるのは好ましくない。ここにはルキアが居るのだから。
その後、イェッドに僕の立てた仮説を聞いてもらうと、彼も「その可能性は高いかもしれません」とおおむね見解は一致した。そして僕が頼み事をすると、彼は「急がなければいけませんね」と頷いてすぐに仕事にかかってくれた。
食事を取れと促されたけれど、食欲が全く湧かず、僕はスープだけを流し込むと、すぐに部屋に戻った。
部屋ではルキアがイザルと共に床の絨毯の上で転がって遊んでいる。ルキアは鞠を叩いて転がして、興味深そうに見つめた後、急に思いついたように追い始める。そして追いついたかと思うとそれをぎゅっと掴んで、がぶりと噛み付く。
「ただいま」
そっと声をかけると、ルキアが僕に気づいてにっこりと笑った。そして鞠を追うのと同じ顔でこちらに這って来る。僕の足下に辿り着くと服の裾を掴んでぐいっと立ち上がった。上目遣いの茶色の瞳が満足げに輝く。
「すごいな、ルキア。上手だよ」
「あぅー」
声をかけると満足げに唸った。僕は笑って彼を抱き上げると背を撫でる。
サディラに留守の間の礼を言うと、彼女は少し微笑んでイザルを抱いて退出していく。
僕はルキアを抱いたまま机に向かうと、机の上にぽつんと置いてある冊子をじっと眺めた。ルキアが手を伸ばすのを「だめだよ」とそっとたしなめる。
「おばあちゃんの日記だよ」
そう言うと「ばーばーばー」まるで分かっているような反応が返って来て、僕はくすりと笑った。張りつめた空気が少しだけ緩む。
表紙をめくる。燭台の光が僅かな風にゆらりと揺れた。
静かに息をして文字を追う。最初の頁の日付は晩秋だった。
『今日お食事のときに、「冬の花火の季節になったな」と陛下がおっしゃって。
このところ忙しかったから、気晴らしにゆっくりしておいでって陛下は言われていたけれど、陛下は一体どうなさるおつもりなのかしら。毎回ハリスでのお仕事の時期を合わせて下さって……。もう子供ではないのだし、一人で参れますのに。お忙しい身なのに申し訳ないわ。
申し訳ないと言えば……もう嫁いで二年も経つというのに……。あぁ、だめね。深く考えすぎてはいけないとセフォネに言われたばかりだわ。
今日はもう寝ましょう。寝不足は美容の敵だもの!
―*―*―*―
陛下ったらなんで怒っていらっしゃったのかしら。私、変な事申し上げてしまった?
「一人で参れますから、陛下はご無理をなさらずに。こんな風に陛下が無理をされるのであれば、花火は諦めますわ」と申し上げただけなのに……むっつりと怒ってしまわれて。「そなたは私の心が少しも分かっていない」などとおっしゃって。
……それは分かりませんわよ。私は陛下ではありませんもの。ただ……お疲れの陛下を見ているのは私も辛いのですもの。私の道楽に付き合わせる訳にはいきませんわ。宮には味方も少ないですし、一人で寂しがっているのを心配されていらっしゃるのかもしれません。けれど……少しずつですけれど皆様と仲良く出来て来ていると思うのです。確かにお父様やお母様、ヴェガにも会いたいです。でも……私はそんな事くらいではめげませんわ。妃になるときにしっかりと覚悟して参りましたし、陛下が良くして下さるだけで私は十分幸せですのに。分かっていらっしゃらないのは陛下の方です!
―*―*―*―
朝方ツクルトゥルスに到着しました。「中止にいたします」と申し上げたら、強引に連れ出されてしまったのです。
諦めていたから……本当は嬉しいのですけれど……。陛下の顔色がどうしても悪く見えてしまうのです。陛下はアルフォンススに私を届けるなりハリスへと向かわれてしまいました。「遅くなるけれど今日中に戻るから」と言われてましたけれど、花火をご一緒しないのならば何のためにこちらにいらしたのか分かりませんわ!
―*―*―*―
今日はとても驚いた事がありました。花火が暴発して、それもとてもびっくりしたのですけれど、もっとびっくりしたのが、二年ぶりに会ったあの人。警護の責任者だと言われていたけれど、出世なさったみたいで嬉しかった。……何も変わりませんでしたわ。無口で不器用で。とても懐かしかった。
嫁ぐときには本当に色々ありました。あれはとても苦しかったけれど、でもそれももう良い思い出です。
あのひと、結婚されたのですって。そして今度お父さんになるのですって。わたくし、羨ましかったわ、そのラナという名の奥さんが。
ああ、わたくしも、早く子供が欲しい。愛するあのひとの子供が。
―*―*―*―
昨日の朝、起きたら陛下が私を覗き込んでおられて、とても驚きました。
火傷は大した事なかったのに、ひどい顔色で。心配させてしまって本当に申し訳なかったわ。
私、寝言を言っていたのですって。どんな夢を見ていたのかは思い出せないのですけれど、陛下が「愛するあの人の子供が欲しい、と言っていた」と真面目な顔で言われて……私、顔から火が出るかと思いましたわ。昨日の日記、読まれてしまったかと思ったくらい。日記は隠してありますし、陛下がそんな事をされる訳はないのですけれど。
……私、陛下に嘘を申し上げてしまって……。レグルスの事をなぜか気にされるのですもの、とっさにそんな方知りませんって。だって……初恋の人だというのは本当ですし、どう伝えても誤解を招きそうだったのですもの。
でも陛下はどうやらレグルスから昔の知り合いだってお聞きしていたみたいで。すぐに嘘がバレてしまったわ。「レグルスは昔の知り合いです」と渋々白状しましたら「その者の名は呼ぶのだな」などど拗ねてしまわれて。私、努力はしているのです。でもいざ口に出そうとするとどうしても恐れ多くて……。シド様とお呼びするのが精一杯ですのに「シドと呼んでくれ」などと……。ああ、こうして書くのも恐れ多いですわ。
ああ、日記が今日になってしまったのは、陛下が名を呼ぶまで離してくれなかったのです。なぜだか怒っていらっしゃるみたいで……一体どうされたのかしら。嘘をついたのは悪かったとは思いますけれど、知り合いだと言っているのにそこまで怒る事でしょうか。怒っていらっしゃるの? とお聞きしても「怒ってなどいない」とおっしゃるばかりで。
……そういえば「そなたは幸せか」と何度か聞かれましたけれど、あれはどういう意味だったのでしょう。幸せに決まっていますわ!
とにかく。私……疲れました。やはり二度寝しましょう。
―*―*―*―
やはり陛下はあれから少しおかしいような気がします。何か思い悩まれていらっしゃる様で。宮に戻っても閨に呼んでいただけなくなりました。もちろん渡っても来られません。前は毎日のようにお会いできていたのに。私、何か陛下の気に障るようなことをしてしまったのでしょうか?
今陛下は……シャヒーニ様のところなのかしら。仕方がない事ですけれど、分かっていて宮にやって来たはずなのですけれど……考えると憂鬱です。陛下は私だけの陛下ではないのです。我慢しないと。
―*―*―*―
しばらく日記を付ける事が出来ませんでした。
気分が優れなくて筆を持つ事が出来なかったのです。でも。今日はどうしても書きたい事があって。
私、赤ちゃんを授かったみたいなのです。本当に嬉しい! どれだけこの時を待った事でしょう!
陛下にお知らせしないと。喜んで下さるかしら? ああ落ち着かない。そうだわ、今から行ってきましょう!
―*―*―*―
陛下はあまりお喜びにはなりませんでした。お仕事の邪魔をしてしまったからかしら。こういう事をしているから私、いつまでも子供扱いされてしまうのかもしれませんわ。歳が五つ下だからといっても、もう私も18ですのに。もう子供ではありません。しっかりしないと呆れられてしまうわ!
あれから少し落ち込んでしまって、セフォネにお話を聞いてもらったのですけれど、「陛下も複雑なのですよ」と、よく分からない説明をされてしまいました。
私には分かりません。これだけ待った宝物を喜んでいただけないなんて。
でも――いまだ子がいらっしゃらないのは……ひょっとして、陛下はお子を望まれてなかったのかしら……
』
まだ日記は続いていたけれど、そこまで読んで一度日記から目を上げた。書かれていた内容は予想していたよりも遥かに重要なことだった。
読み進めるうちに縛り付けられていた鎖がじわり、解けていくのを感じた。僕とスピカを繋ぐ線は――途切れなかった。ルキアが〈僕とスピカの子供〉でも、それには何の問題もない。
「……よかった……」
僕はルキアをぎゅっと抱きしめるとその赤い髪に顔を埋める。そして安心すると同時に父の心中を想った。これでは、父が苦労するはずだ。日記の中で母が父への疑問を綴る度に、もどかしくてたまらなかった。この人は多分、スピカと同じくらい――いや、もしかしたらそれ以上かも――『たち』が悪い。
父はきっと誤解して――僕がスピカに聞けなかったのと同じように母に聞くことが出来なかったのだと思う。母が死ぬまで聞けずに悩み続けて、母が死んで真実を知る事が出来なくなり、そして未だに悩んでいる。
父の気持ちが僕にはよく分かる。――聞く事で、疑っている事を気づかれたくないのだ。それを知られるのが何よりも怖いのだ。
父は言った。疑っている事が「リゲルを愛していない証拠のように感じた」と。だから、君を信じてると、自分にも彼女にもいい聞かせ続けている。まるで愛の言葉のように。そんな父が今の自分と重なりすぎて苦しくなる。
僕は胸の痛みを吐き出すと、日記にもう一度目を落とす。当たり前と言えば当たり前なのだけれど、母も昔は少女だったんだと実感する。18の頃の母が微笑ましすぎて、そしてその悩みが――こんな事母に向かっては相応しくないけれど――あまりにも愛らしくて、ひどく気恥ずかしかった。
これは僕の知っている母の顔とは違う顔だ。一瞬そう思ったけれど、すぐに否定した。いや、――違うか。僕は急に幼い頃の事を思い出す。母が僕に語りかけてくれた言葉や、その時の表情を。父の事を話すとき、母の顔はまるで少女のように華やいでいなかったか? ――そう、この日記のように。
父がこれを読んでいないのは明らかだった。だって読めば分かるだろう? この中に綴られている想いが一体誰に向けられているのか。
父がそれを知らないのがひどく哀れに思えた。父の不器用さや母の鈍さが切なかった。
――父上。母上は決してあなたを裏切ったりしてません。僕は、まぎれもなくあなたの子供です。
早く伝えてあげたい、心からそう思った。