第10章―3
ベッドで静かに眠るルキアの隣に寝そべると、その柔らかい頬にそっとキスをした。長い長い睫毛が燭台の炎に金色に輝く。
その寝顔は――スピカにとても良く似ていた。
驚くほど穏やかな気持ちで眺めていられた。ルキア――この子は、僕の大事な息子だ。かけがえのない僕とスピカの宝物だった。
自分に言い聞かせるのではなく、何の無理もなく、自然とそう思えた。
無事で良かった――――
今、心に残る想いは、ただそれだけだった。
後をシュルマとサディラに任せ、僕は部屋を出ると、暗い廊下を少し急ぎ足で進む。
燭台の明かりが灯ったままの応接間ではイェッド、オルガ、フィリスの三人が静かに茶を飲んでいた。その気負いの何もない寛いだ空気は家族そのもの。味わった事のない雰囲気を少し羨ましく思う。
後をイェッドに任せて帰ろうとする彼女達を僕は引き止めた。イェッドは僕の疲れを見て取り、明日にすれば良いと言っていたけれど、せっかくだから少し話を聞きたかった。あんな事があったとしても、僕たちに時間がない事に変わりがないのだから。
彼らは、――特にオルガはずっとツクルトゥルスで医院をやっている。だからもしかしたら昔の母の事を何か知っているのではと思ったのだ。
「待たせた」
「どうでしたか」
「よく寝ていたよ。もう大丈夫かな?」
僕の問いかけにオルガが答える。
「中毒症状が出ませんでしたし、おそらく後は自然と出て行くでしょう。明日また様子を伺いに参ります」
ほっとして椅子に座る。そして直ぐに本題に入った。
「――オルガは母が出産するとき、立ち会っていないのかな」
僕の産まれた時の事はおそらく無理だとは思っていたけれど、念のため聞いてみた。
「……ええ。お妃様は皇都で出産されましたから。宮には宮の産婆がおります。私が診るのはツクルトゥルスの妊婦と幼児だけです」
「そうか……オルガは妊婦と幼児しか診察しないのか……じゃあ、母上の事は……」
さっきそれが専門って言ってたか。となると、母が診察を受けたとは思えない。診てもらったとしてもまだ子供の頃。待ってもらったのに無駄だったかもしれないと少しがっかりする僕にオルガは意外な答えを返した。
「リゲル様? それならば一度だけ診察をした事がありますが」
「え? でも」
「――『花火』ですよ」
花火? きょとんとする僕に、オルガは少し笑顔を見せた。
「あれは何年前でしたかね……花火が暴発して、街中が騒ぎになって大変だったのですよ」
聞いた事のない話だった。
「それって僕が産まれる前の事?」
「そうですね。確か――そうだ、ああ、花火が『火祭り』の時だけにと決められたのがあの後すぐでしたから……ええと……あれはそうですね、まだ皇子がお生まれになっていなかったという事は……」
オルガがしばらく指折り数えたり、フィリスに何かぼそぼそと尋ねたりしていたけれど、やがて答えた。
「十七年前……ですね」
期待していなかった分、衝撃が大きかった。手に汗が滲む。思わず身を乗り出す。
「――もうちょっと詳しく聞かせてくれる?」
オルガは頷くと天井に目を泳がせながらぽつり、ぽつりと語り始めた。
「昔は花火も年に何回か打ち上げられていたのです。しかし、あの騒ぎがあってから『火祭り』の時だけと定められました。医師にとってはありがたい話でしたがね。花火が上がるごとにあの事を思い出してヒヤヒヤするのは嫌でしたから」
オルガはイェッドをちらりと見ると補足する。
「毎年火祭りのときにイェッドを借りるのは、そのためですよ。万が一何かあった時に人手が足りないと悲惨な事になりますから。あの時は本当に大変でした。ただの産婆だった私も、あの時を境に真面目に医学を勉強しましたからね」
「ただの産婆?」
「ええ。昔は私はお産だけを扱っていて。あのときはちょうどリゲル様が里帰りをされていらして……リゲル様は花火がお好きだったようですね。よく時期を合わせて帰って来られていました。陛下もハリスへの視察をその時期に合わせられていて……あまりに分かりやすかったので覚えております」
オルガが少し呆れたように息をつく。ええと、なんだかその公私混同すれすれの行動、凄まじく身に覚えがあるんだけど。自分の事を呆れられている様でひどく気まずい。
思わずちらりとイェッドを見ると、彼はもの言いたげに僕を見つめていた。その目が言っている。――さすが親子、血は争えない。
僕は慌てて目を逸らすと、話も逸らした。
「それで?」
「ああ、脱線してしまいましたね。……リゲル様がその時に怪我をされたのです。大きな事故でしたから、患者が街中溢れていて、医院からあぶれた患者が私のところにも回って来ていました。と言ってもそんなにひどいものではありませんでしたが……一緒に居た護衛の騎士が随分と慌ていて」
一瞬何か、嫌なものが耳に張り付いた気がした。
オルガは僕の様子に気が付かないまま、何か思い出したようにひっそりと笑う。
「そうそう、リゲル様は全身びしょぬれで運び込まれて来たのですよ。火傷は手の甲の軽いものだったというのにね。付き添いのその男は手当をしてようやく落ち着いてくれたけれど……まるで新妻を思う夫みたいで。まあ、それはそうですね、大事な妃に何かあればクビが飛びます」
「母さん……そのとき、陛下は?」
イェッドが青い顔をしていた。彼も初めて聞く話だったようだ。
「お話ではお仕事でハリスにいらしたようで」
「その……護衛の騎士って……」
――その先を聞いてはいけない! 耳元で誰かが叫んでいるような気がした。でも口が勝手に動いていた。
父が母に疑いを持つ理由。『囲って閉じ込めて、始終監視していなければ』父のその言葉を不自然に思ったのだ。宮に居ればその状態なのだから。監視できないのは……宮から出た時だけ。父はどこかで母から目を離している。まさか、それが――
「あまり良くは覚えてませんね。オリオーヌの騎士団の制服を着ていましたから、騎士団の一員でしょう。あとはとにかく必死ということしか」
「……手当の後、母上はどうされた?」
「騎士に付き添われて屋敷に戻られましたよ」
「その話は誰かに話したのか? 父上に?」
「え、ええ。翌日再診に伺ったのですが、その時に陛下にだけお話しいたしました」
僕はイェッドと顔を見合わせた。身の証を立てようとここに来て、僕が掴もうとしている証拠は、逆に僕を窮地に追い込むものなのかもしれない。
「季節は……いつ頃の事だったかって分かる?」
少し声が震えた。僕は瞬時に計算していた。僕が産まれたのは夏の終わり。そして一番聞きたくない答えがオルガの口から漏れた。
「――冬でしたね。火傷より風邪の心配をした覚えがあります」
頭の中がひどくごちゃごちゃしていた。
今の話を聞いて僕が出した結論は憶測でしかない。大体その騎士がレグルスだったという証拠もない。オルガが言うようにただの護衛が自分の首の心配をしていただけかもしれない。いや、――そうに決まっている。
大体、父がレグルスと母の事を知っているならば護衛につけたりするわけがない。あれ? でもそもそも当時父はレグルスと母の事を知っていたのか――? 父は何と言っていた? イェッドは?
頭を抱えてしまった僕を見かねて、イェッドがひとまずオルガ達を帰した。
心配そうに僕を見つめながら彼女達が去ると、僕は頭を整理しながら口を開く。
「イェッドは17年前何をしていたんだ?」
なぜその事件を知らないのか――本当は知っていて黙っていた?
確かイェッドは、『レグルスが駆け出しの頃ハリスの騎士団に居た』はずで、『レグルスが母のために地位を手に入れようとしていた』ということを知っている。この事件の事を知っていても不思議じゃないはずなのに。
何もかも疑いたいような気分だった。
「私はその頃はハリスで軍医見習いをしていました。花火の暴発――確かに聞いた事はありますが、母が言うほど大きな事故ではなかったような気がします。当時の勤務体系などさすがに覚えていませんが、言われてみれば街で催し物のある時は騎士団から応援を出します。レグルスは副隊長でしたから、仕切っていてもおかしくはない。まさかそんな事があっていたとは……しかし……うむ……?」
イェッドは記憶を探り不可解そうな顔をする。
「たしか、あの時レグルスは――」
「何?」
17年前のことだからそんなに簡単に思い出せないのだろう。イェッドは天井の模様をじっと見つめていた。
ハラハラしながら待つ僕の前で彼が口を開きかけた時だった。
「ギャーーーー!」
隣室から大きな声が上がる。
「ルキア」
とっさに僕とイェッドは立ち上がる。確認もせずに扉を開けるとルキアが必死で乳を飲んでいるところだった。
僕は言葉を失い、立ち尽くす。
「あら」
「――ご、ごめん!」
慌てて扉を閉め、そのまま扉に背を預ける。
頭をガシガシと掻く。ハハ……と乾いた笑いが口から漏れる。なんだか立っていられなくてその場にしゃがみ込んで膝に顔を伏せた。
一瞬、サディラがスピカに見えてしまった。
穏やかなその母の顔。――スピカが戻って来て、ルキアにお乳をあげているように見えてしまった。
サディラが声を上げるまでの間、本当に一瞬のことだったのに。鋭い刃で斬りつけられたようだった。慌てて思考を切り替えようとする。でも全然うまく行かなかった。
頭に血が上ったせいか、軽く目眩を感じた。大きく深呼吸をして心臓を落ち着かせていると、しばらく後に遠慮がちに音が響く。
小さく扉を開けると、シュルマが申し訳なさそうな顔で佇んでいた。
「ルキア様はお腹が空かれた様で……お見苦しかったでしょう、申し訳ありません」
どうやらシュルマは僕がサディラの胸を見て慌てていると思ったようだった。
「そ、そう、よかった。……サディラに謝っておいてくれる?」
必死で表情を取り繕う。ルキアの無事を確かめに部屋に入った、その事さえ忘れかけていた。親としてどうなんだろうと、情けなくなる。
熱を持つ頭を働かせようとこめかみを軽く揉んだ。
「食欲があるということならば、まずもう大丈夫ですね」
イェッドが横から口を挟む。同じものを見たはずなのに、動揺する僕が馬鹿みたいに彼は冷静だった。まあ、彼は医師だから当たり前と言えば当たり前。
「それより――皇子、顔色が悪いですよ。ルキア様よりあなたの方が心配です。今日はもう何も考えずにお休みください」
「え、でも――あんな中途半端なままじゃ眠れない!」
重要な話の途中だった事を思い出す。縋るように見上げると、冷たい色をした目が僕の胸の内を見透かすように見つめていた。彼は医師の顔で僕を諭す。
「それでは薬を出しておきます。調査は始まったばかりでしょう。あなたは今日相当な無理をされていらっしゃる。倒れてしまわれては元も子もありませんよ。〈主治医〉の言う事は黙ってお聞きください」
半ば強引に話を切り上げられる。そしてその晩、彼は僕が何を問おうと答えてくれる事はなかった。
*
翌朝は雨が降っていた。そのせいか夏だというのに、朝方冷え込んだ。昨日無理に飲まされた薬のせいか、それとも体を冷やしたせいか妙に怠い。熱はないみたいだけれど。
でも――なんだろう、不調を訴える体の割には、ごちゃごちゃだった頭が妙にすっきりしている。回復した頭で思い返すと、確かにイェッドの言う通りだった。僕は知らないうちに無理をしていた。特にスピカの幻を見たあとは――壊れる寸前だった。
大きく息を吐くと、ゆりかごを覗く。
静かに寝息を立てて眠るルキアは、夜中に一度おむつが濡れて起きただけで、後はよく眠れていたようだった。
そういえば、もう夜中に起きる事も少ない。ループスに色々子育ての苦労話を聞いていて構えていたけれど、夜泣きもしないし、病気もしない。よく食べるし、よく寝る。抱いていなくても大人しくニコニコ一人で遊んでいる。きっとこの子は普通より育てやすいんだろうと思う。
スピカが出て行って一番寂しいのはルキアのはずなのに。彼女がいたときより聞き分けの良いこの子に僕は随分と助けられている。
ルキアが僕のためにいい子でいてくれているような気がして。そういうところはお母さんにそっくりだな――そんな風に考えて、昨日ついた傷が再び開くのが分かった。
身支度を整え、朝食をとっていると、シュルマが慌てた様子で駆け込んで来る。
「あ、あの! 皇子、おはようございます。――お食事中申し訳ありませんが――」
「ああ、おはよう。何?」
「とりあえず客室全ての駆除薬を撤去いたしました」
「ありがとう」
昨晩頼んでおいたのだ。またあんなことが起こるのはごめんだし。夜も遅かったから悩んだけれど、シュルマは張り切って引き受けてくれた。でもそんなに急いで報告するほどの事でもない。
僕は不思議に思いながら小さく頷くと、隣の小さな椅子に座らせたルキアに柔らかく煮た野菜を食べさせる。顔を輝かせて口を開ける様子はひどく可愛らしい。その様子から体はもう大丈夫だと思えた。
シュルマの気配が報告が終わっても去らないので、もう一度顔を上げると、彼女は驚くほど輝いた顔をしていた。その表情に僕も驚く。
「どうした?」
「駆除薬を探している時に見つかったんです」
「何が?」
シュルマは後ろ手に持っていた一冊の冊子を僕の目の前に差し出した。
「――スピカ様の日記です」
その冊子は茶色の上質な皮が表紙に貼ってある丈夫そうなものだった。指二本分ほどの厚さで、持つとずっしりと重かった。そしてそれは縫い付けられた丈夫な紐によって固く戒められていた。
少し迷ったけれど、結局それを開かずにテーブルの上に置く。
「読まれないのですか?」
「……うん」
読むのなら……スピカの隣で読みたい。日記を見るなりそう思った。隣にいたら、読ませてくれないかもしれないけれど。
急に、故人を偲ぶみたいな、そんな真似に思えてしまったのだ。これを読んでしまえば、もう彼女がもう二度と僕の元に戻って来ない気がした。そんなのは気のせいに決まっているんだけれど、なぜか気が進まなかった。
「スピカが怒るかもしれないから」
そう分かりやすい理由を言って誤摩化すと、シュルマは急にそう思い当たったらしく「それはそうですね」と納得してくれたようだった。
朝食後イェッドを探したけれど、彼は僕に黙って出かけたまま姿が見えない。僕は話をはぐらかされたままで、ルキアが居るために外出も出来ず、悶々としていた。
そんな中、オルガが一人慌てた様子で訪ねて来た。
外は雨が降り続いている様で、長い服の裾が雨に色を変えている。少し湿ってしまったのか、白いものがたくさん混じった茶色の髪が、かさを減らして頭に張り付いている。彼女は部屋の入り口で手に持った荷物をシュルマに預けると深々と礼をした。
「お加減はいかがですか」
僕は床に転がっておもちゃを噛んでいるルキアを横目で見ながら言った。
「もう大丈夫そうだよ。それよりイェッドを知らない?」
「ええ、朝一番で実家に帰ってきてすぐに出かけていきました。それで慌てて出て来たのですが……。申し訳ありません、役に立たない息子で。いつもクビになるんではないかとハラハラしているのですが……末の子なもので少々甘やかしてしまって……親でも言う事を聞かせられないのです」
オルガが呆れたような、そしてどこか諦めたような顔をして謝った。僕はイェッドは母よりも強いのかとある意味感心した。確かにそれならば誰も彼を上手く使う事は出来ないのだろう。
オルガはルキアを見ると、冷たい表情を消し、微笑みながら近づいた。そしてきょとんと見上げるルキアを抱き上げ、ふわふわの赤い髪を撫でる。さすがにオルガは子供の扱いには慣れていて、ルキアも大人しく抱かれていた。
ルキアが違う腕に慣れた頃に、オルガは腕の中でルキアを仰向けにすると、そっとお腹を触って注意深く様子を探る。ルキアは別段痛がったり苦しんだりする事もなく、ニコニコとオルガを見つめていた。
オルガはしばしそうやってルキアの様子を見ていたけれど、やがて診察を終え、そして感慨深そうにため息をついた。
「それにしても……お祖母様によく似ていらっしゃる」
「え?」
お祖母さまって、母上? ……っていうか、なんで僕でなくて母上?
不思議に思ってオルガを見つめると、オルガは首を振って僕の言いたい事を否定した。
「いえ、リゲル様の事ではなく、スピカ様のお母様です。確か、お名前は――」
オルガを信じられない気持ちで見つめて、その先を遮る。
「ラナ」
「ああ、そうそう。ラナ――そんな名でしたか。スピカ様を取り上げたのは私ですよ。長くやっておりますから二世代出産に立ち会うというのも珍しくはないのですが、なんというか、お二人は本当によく似てらしたので……時が戻ったかのように感じましたね」
「……」
オルガはずっとツクルトゥルスで産婆をやっていたのだ。当然の事だったのに、なぜか昨日は思いつかなかった。何か問いたかったけれど、声が張り付いて出て来ない。胸が激しく鳴りだして汗が噴き出す。僕はソファに座り込むと置いてあった茶をひからびた喉に流し込んだ。――この話を聞き逃すな――頭の隅で何かが僕に訴えていた。
オルガは固まってしまった僕を慰めるように語り始める。
「お二人とも安産でしたが、さすがにスピカ様の方が大変でした。半日以上かかりましたね。――あの日はとてもいいお天気で。夕焼けがとても綺麗でした」
夜が明けているとは思えない薄暗い部屋。耳を澄ますと窓を小さく打つ雨音が聞こえた。オルガは窓に反射する燭台の光を見やって呟く。
「そうですね、このお部屋でしたか……窓が変わっていらっしゃるので分かりませんでした。陣痛が始まったと知らせを頂きまして駆けつけたのですが、開いた窓から差し込む夕日が、スピカ様の髪の毛を真っ赤に染めて――その時17年前を思い出しました」
そこでオルガは僕を見た。
「――続きをお聞きになりたいですか? 聞きたくないと言われるのであれば、もう私は帰ります。医院での診療時間も迫っていますし」
それを聞いて、この状況を作ったのはイェッドなのでは? という思いが頭の隅を擦った。彼は、僕にオルガの話を聞けと言ってるのではないか――?
「……聞かせてくれ」
聞きたいけれど聞きたくなかった。ずっと聞かずに来ていた、ルキアの誕生にまつわる話。普通の夫婦ならば、その時の事をゆっくりと思い出して幸せに浸るはずだった。でも僕とスピカの間でその話が出る事はなかった。――傷が、広がる気がして、話題に出来なかった。
「…… スピカ様はずっとあなたの名を呼ばれていました。普通は母親が付き添うものですが、いらっしゃらないものですから、ヴェガ様が手を差し出すと強く握られて、――それから縋るようにあなたのお名前を。お顔が似ていらっしゃるから安心されたのかもしれませんね。もしあなたがいらっしゃったら、産屋に入れてあげたいくらいでしたよ……まぁ、皇子のためには待っていただいた方がよろしかったでしょうけれど。妻の様子を見に産屋に入って卒倒して倒れられる男性を何人も見てきましたから」
ふぅとため息をつくとオルガは僕を見る。耳の奥で彼女が名を読んでいる気がして、胸がひどく痛んだ。息を静かに吐き出して痛みをこらえると、僕は次に当然出てくるだろう話を体を固めて待った。
「髪が赤かったことで皆驚きました。でもよくある話ですし、私は何と思わなかったのですよ」
「よくある――?」
「ええ。特に髪の色など大人になるにつれて変わるものですのに。大騒ぎする夫婦が多すぎて……。そういえば、スピカ様が産まれた時もラナさんがひどく驚いていましたね」
「え? なんで?」
スピカの髪と目の色はレグルスそのもののはずなのに。
「まず、自分に全く似ていないと。それから――――にも」
え――?
あまりに唐突すぎて一瞬何の事か分からない。聞き間違えかと思った。なんでその言葉が今ここで出てくるのか全くわからなかった。
「……え、それって本当の話? っていうか――」
信じられなくて声が裏返りそうになった。体の中を這い上がる何か熱いものがあった。そうだ、さっきオルガは気になることを言っていた。あれは――そういうこと?
目を丸くする僕を見てオルガははっとした様子になる。つい口を滑らせた――といった様子で慌てて口に手を当てる。そして彼女の顔には似合わない誤摩化すような笑みを浮かべ言い訳した。
「ああ、これは内緒の話でした。夫にも言っていないから黙っておいてと頼まれたのに。……でも彼女ももう亡くなっているのですし、時効でしょうか?」
「じゃあ――」
僕は予想を裏付けるためにどうしても聞いておかなければいけない事を尋ねる。渋るオルガから思った通りの答を貰うと、話を打ち切って彼女を帰す。シュルマに頼んでイェッドを探す。頼みたい事がたくさんあったのだ。
――もし本当にそうなら――。確かめるためには、アウストラリスに行くしかなかった。
そして彼の人に聞くのだ。当時、何があったのかを。