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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第三部 闇の皇子と焔色(ほむらいろ)の罠
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第10章―2

 暖かい湯気が鼻先を撫でた。落ち着くようにとシュルマがいれてくれた香草の入ったお茶。以前嗅いだ事のあるような甘い香りだった。ミアーだったかな、このお茶をいれてくれたのは。

 ようやく心が凪ぐ。膝の上のルキアは医師の到着を待てずに泣き疲れて眠ってしまっていた。緊張が解けてつられるように瞼が重くなる。


「皇子、お待たせしました」

 イェッドが二人の女性を連れて入室して来る。あれ――?

 女性の一人に見覚えがあって目が覚めた。確か彼女は……

「あなたは――」

「ああ、お久しぶりでございます」

 彼女は、僕とスピカがこのオリオーヌに<新婚旅行>に来ていた時に世話になった医師だった。つまり、スピカの妊娠を告げた医師。

 彼女が専門なのかなと思ってルキアを抱いて向き直ろうとすると、後ろにいたもう一人の女性が進みでた。随分年配の、冷たい雰囲気を漂わせた女性だった。

「皇子殿下にはお初にお目にかかりますが――ルキア様……でしたね――には、お久しぶりでございます。大きくなられて」

「……ええと?」

 僕が説明を求めると、女性が冷たい表情を少しだけ和らげる。そうしてルキアの様子を伺うと寝台に寝かせてくださいと指示した。ルキアを寝かせて少し寝台から離れると、女性は深く礼をした。

「私がルキア様の出産に立ち会った産婆でございます。オルガと申します。そして後ろの娘はフィリス、私の助手です」

「助手って――母さん! 失礼な!」

 フィリスと呼ばれた医師がムッとした様子で文句を言う。

「母さん?」

 話についていけずにぽかんとする。観察すると、同色の茶色の髪、茶色の瞳。た、確かに外見も雰囲気も似ている。……親子で医師なのか、すごいな。

「半人前のくせに文句を言うでないよ。あぁ――陛下にも皇子殿下にもいつも息子がお世話になっておりまして。特に毎年火祭りの際には手が足りずに無理を言って休ませていただいて……」

「息子? 火祭り? 休み?」

 って――誰の事? 辺りを見回しても思い当たるような人間がいない。息子ってことは男ってことで。そしてこの髪と目の色は。――まさかだけど……

 伺うような視線の先でまさかと思っていたその彼が口を開く。

「母さん――早く診察を」

 イェッドが冷たい声で促す。――母さん!?

「お前がついておきながら、まったくどういうことだい――」

 ぶつぶつ独り言を言いながらオルガは眠ったままのルキアの腹を触る。

 そして胸の音を聞き、喉を見て、ようやく頷いた。

「大丈夫です。すぐに吐かせたのが良かったようです。万が一残っていてもあとは自然に体外に出て行くでしょう。――一応利尿を促す薬を出しておきますが」

「あ、ありがとう……」

 とりあえずほっとしてようやくそれだけ言えたけれど、混乱は収まらない。えっと……この場で聞いていいのか分からないけれど、やっぱり気になる。

「――か、家族なの?」

 オルガが表情を変えずに頷く。

「代々ツクルトゥルスで医院をやっております。家族全員、皆医師なのですよ」

 隣からフィリスがやはり淡々とした口調で口を挟んだ。

「母は産婆でもありますが、小児専門の医師でもあります。私は、専門を持たずに幅広く――典型的な町医者です。そして弟は――」

「弟?」

 ああ……もう駄目だ。この一番態度が大きいこの男が弟? それに、専門とか言われても――

 そこで、唐突に疑問が湧いた。そういえば、僕はイェッドの専門、それどころか他の私的な事など全く知らなかった。辛うじてオリオーヌ出身だという事を知っているくらいだ。彼が語ろうとしなかったし、宮の他の人間に聞いても大した事を知らなかった。ただ、父が「あいつは使えない」という言葉とは裏腹に信用しているという事くらいしか――。

  ――イェッドは僕に出会う前、一体どこで何をしていたんだろう。なぜ、父のことをあんなに良く知っているのだろう。宮にいたはずなのに、宮付きの医師のはずなのに、僕は彼に会ったことはない。たとえ病気にかかったとしても別の医師が診てくれた。じゃあイェッドは誰の――?


 混乱する僕に、フィリスの続きを引き取って口を開いたイェッドの言葉は追い打ちをかけた。

「――心の病を専門に」



 * * *



「どういうことだ」

 ルキアをオルガに任せ、僕とイェッドは別室にいた。テーブルを挟みソファに向かい合って腰掛けると、その茶色の瞳をじっと見つめた。いつも通りどこか冷めたまなざしのまま彼は口を開く。

「私は二年前から――いえ、もう三年前になりますね――、ずっと陛下の心の病を見守ってきました」

 さっきイェッドが告げた言葉から何となく想像していたから、その言葉はすんなりと胸に染み込んでいった。三年前――確かにあのときの父は病魔に冒されているという状態に近かった気がする。――母への妄執と言う、病魔に。

「陛下はあなたを見てリゲル様を思い出していらした。それが仕方がないくらいにあなたはリゲル様によく似ていらした。――思い出すだけなら良かったのです。でも、間違えてしまわれた。そして……あなたを傷つけてしまったことで逆にご自分が深く傷つかれてしまった。ご自身を見失われるくらいに」

 体の力が抜ける。ただ呆然と呟いた。

「…………知っていたのか」

 気まずそうにイェッドは首を横に振った。

「陛下は決して口になさりませんでしたから、確信は持てませんでした。ただ、あなたと陛下の間に何かあったことは少し想像力があれば分かります。――今、あなたの言葉でやはりと思いました」

 そう言ってイェッドはテーブルの上のカップを手にし、口にする。

 かまをかけられたことへの怒りよりも、知られていたという衝撃のほうが大きかった。僕は何も言えず黙っていた。


「……三年前、最初にお目にかかったとき、私は陛下がすぐにでも命を絶ってしまわれるのではないか――そんな風にも思いました」

「でも」

 僕にはそんな風に思えなかった。あの時の父の目には母への妄執しかなかった。――そんな絶望など映していなかった。

「あなたを見る度に、今はもう手に入らない愛しい女性を思い出すのです。私の目から見ても、あの頃のあなたはリゲル様の生き写しのようでした。しかもただでさえ誰もがあなたの瞳の前では、冷静になれない。リゲル様を愛されていらっしゃる陛下ならば余計にでしょう。どれだけ苦しまれた事か」

 僕は再び黙り込む。イェッドが僕の前で父の擁護をするのが不可解で堪らなかった。言われている事は分かるし、許そうとも努力している。ただ、僕の前であの行為を肯定するような真似だけはしないで欲しかった。それは僕の傷を膿ませてしまう。

 俯くと、目の前にある冷めた紅茶が僕の闇色の瞳を映し出した。乾いた傷が再び熱を持つ気がして、僕は軽い吐き気を覚える。

 そんな僕に向かってイェッドは語り続ける。今日の彼は、まるで別人のように饒舌だった。いや、別人というよりは――この顔は……

「なぜ私がこんな話をしているのか不思議でしょう。不愉快でしょう。しかし――あなたの傷は受けた暴力に寄るものではないはず。あなたの傷は――父親に愛されていないと心の奥深くで信じ込んでいる、そういう傷です。だから、許そうとしても許せない。だからこそ分かっていただきたかった。――あなたは、愛されているのですよ。なぜなら、私が宮に出仕した時――最初に頼まれたのは……あなたの事だったのですから」

「――僕の?」

 愛されている――その言葉に、頭の芯が痺れた。

「あの頃、陛下がまともにまつりごとを行う事が出来ず、国が傾きかけていました。だから陛下からお話を頂いたとき、私は陛下の心の傷を癒すために呼び出されたのだと思っていました。しかし、陛下は私が出仕するなり一番にあなたの事を頼まれた ――息子を守ってくれと、傷を癒してやってくれと。――私は断りました。第一に私の仕事は陛下を救い、国を救う事でした。そのつもりでお話を引き受けたのです。妃が出しゃばり始め、貴族が私腹を肥やし始めた――国の状況を考えても遠回りをしている余裕はありませんでした。それにあの頃のあなたを見る限りでは、傷を癒すのは『時』だと思いましたから。あなたは固い殻に閉じこもっていらした。何もかもを拒絶していらした。だから私はあなたの身はレグルスに任せ、私は陛下の傷を癒す事に専念しました。その間、幸か不幸か……あなたはスピカ様を得た。あなたを包み、傷を癒してくれる女性を。そして――あなたの傷はスピカ様によってずいぶんと癒やされた――しかしこのままでは……」

 ――また、同じ事が繰り返されてしまう――――ようやくそこに話が繋がった。

 まだ痺れたままの頭でぼんやりと考える。彼が危惧している事は、やはり僕の思った通りのことだった。――僕がいつか父と同じ過ちを繰り返すと。

「あなたと陛下の決定的な違いは――まだ完全に望みが絶たれていない事。あなたがまだスピカ様を完全には失っていない事です。だからこそ、私は、あなたがどんな形であれ、彼女を失う事だけは阻止する義務があるのです」

 俯いた顔を起こすと、イェッドは茶色の瞳で僕を真剣に見つめていた。――そうだ、この顔は、側近としての顔ではない。僕は思い出す。たまに見せる彼の別の顔。


「――あなたの『主治医』として」


 *


 思えばずっとそうだったのかもしれない。最初に父がイェッドを僕の教育係につけた時から、なんだか不自然な距離感を感じていたけれど、医師と考えると不思議と納得できた。

 必要な時に必要なだけ。それは薬と同じで。常用しないようにと――僕の心が必要とした時だけに彼は親身になってくれていた。

「あなたが傷を癒して戻って来られて、陛下の病状は随分と快方されたのです。その姿を見る事で己を取り戻されていました。だから私も陛下の命令に従う事が出来ました。そして陛下はあなたがより強くなる事を望まれていらっしゃる」

 だから、か。父の治療のためにも、イェッドは僕の傍にいる。僕が自分の足で立つ事が出来るようにと、手助けをしてくれている。そして――僕が父のようにならないようにと、厳しい助言を与えてくれていた。

 僕が倒れる事は国が倒れる事。だから彼は僕を甘やかさない。気まぐれとも思えるような形でこっそりと道は示してくれるけれど、手は貸さない。それは僕のためにならないから。誰かが手伝ってしまえば、僕はいつまでも子供もままだから。


 そしてそんな彼を僕の元に送ったのは父の意志だ。

「僕は父に感謝してるよ」

 自然と言葉が溢れた。それは本心だった。

「でも僕が父を完全に許す事は、きっと一生無いと思う」

 あの事は消す事が出来ないから。

 イェッドは少し躊躇った後、口を開く。おそらくは誰もが疑問に思っている事だった。

「ずっと不思議でした。あなたは……スピカ様に頼まないのですね。記憶を消してくれと」

「……」

「スピカ様に記憶を消してもらえば、全ては無に戻り、あなたが恐れるものはなくなったのに」

「……できなかったんだ」

 僕はスピカがこの闇を消したがっているのを知っていた。それをさせなかったのは、もともとはスピカにその記憶を見せたくないからだった。でもそれだけじゃない。

 記憶が消えるという事は父を許すという事と同じではない。むしろ逆だ。記憶を消してしまうことは、一生父を許さないという事だ。その選択自体を捨ててしまうという事だ。僕たちの間に出来た溝は埋まる事がなくなってしまう。

 それに、僕の記憶を消してもらったとして――父はどうする? 父もスピカに記憶を消してもらって、自分のやった事を忘れてしまう? そうして僕たちは元通りに仲の良い親子に本当になれる?

 ……もしそういう事をするような父であれば、逆に僕はここまで苦しまなかったと思う。父を苦い想いごと切り捨ててしまっていたと思う。

 きっと、父は僕の記憶を消したとしても、自分の記憶は消さないだろう。そして父は僕を見る度にもう二度と許される事のない罪に苦しむのだ。僕の知る父はそういう人間だった。

 そんな状況が今より良いとは僕にはとても思えなかった。僕自身が納得いかなかった。

 それが父の償いになるとは僕には思えない。父は本当は僕に許して欲しいはずだった。しかし僕が許す事が出来ない事を知っている。父は許されようとは思っていない。許して欲しいけれど、許されてはいけないと矛盾する想いを抱え続けている。

 これからも父の方から歩み寄る事は決してないだろう。父はそうすれば僕が怯えるのを知っているから、遠くでそっと見守りながら、待っているのだ。僕が一歩でもこちらに向かって歩いてくれれば良いと。


『あなたは愛されているのですよ』


 分かっている。本当はイェッドに言われなくても分かっていた。だけど怖かった。もしも愛されていないと思うと怖かった。

 だから――――僕はこの闇を抱え続ける。抱えた上で、足を踏み出したかった。



「僕は、今のままでいい。今のままだから、――僕なんだ」


 そう言ってしまって、大きく深呼吸をした。息を吐き切ったとき、胸が僅かに軽くなる。――ようやく一歩前に進めた気がしていた。

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