第10章 過去の隠し場所―1
「あー、バーパー」
「いたっ、痛いよ、――ルキア!」
ガブリと腕に噛み付かれて思わず悲鳴を上げる。
袖を捲って噛まれた場所を確認すると、小さな歯形。うわ、これ、痣になるよ絶対!
「皇子、またですか?」
シュルマが後ろから心配そうな声を上げた。「冷やされます?」
「いいや……もう慣れたし」
噛まれた場所をさすりながら見下ろすと、腕の中でちょこんと座ったルキアはニコニコ笑っている。その口元から上下に小さな白い歯が見える。下の前歯は二本、もうしっかりと生えている。上の歯はついこの間ちらりと顔を見せ始めたばかりだった。荷物を漁って小さな魚の形のおもちゃを渡すと、嬉しそうに今度はそれを噛みだした。
「生え始めは痒いのかもしれませんね」
イェッドがルキアをじっと観察する。「それか、噛むこと自体が楽しいのでしょう。――なんでも口に入れますから、十分に注意して下さいよ」
僕は頷くと窓を開ける。流れ込む風に誘われて外を見ると、順調に育った稲で辺り一面が緑色の海となっている。夏のオリオーヌ特有の風景が広がっていた。
水田の上で冷やされた風は、都に比べて随分冷たく、爽やかだった。
「やっぱり、北部は涼しいわねぇ」
南部育ちのシュルマとサディラがのんびりと景色を眺めながらオリオーヌの緑を愛でている。その隣でイェッドがこっそりとイザルをあやしているのが目に入り、見て見ぬ振りをする。そのいつもとは違う旅の風景にふと懐かしさを感じ、昔こんなにぎやかな旅があったなと思い出した。
あれは――もう一年以上前、か。僕とスピカとレグルスと叔母でツクルトゥルスから皇都まで戻ったことを思い出す。今思えばあの時はもうスピカのお腹にはルキアが居たのだろうけど。今度は逆の行程だ。目的地はツクルトゥルス。――苦い思い出の詰まったアルフォンスス家だ。
馬車の中には僕、ルキア、シュルマ、サディラ、イザル、イェッドの六人。
普段は馬を使うから、馬車での移動自体あまりない。その数少ない移動ではいつもスピカが一緒だった。新婚旅行では二人きり、この間の火祭りではルキアが増えて三人で。たあい無い、でも幸せな会話がそこにはあった。
あの火祭りからひと月。ハリスで発生した暴動は落ち着きを見せ、ようやくオリオーヌ州は本来の穏やかな姿を取り戻した。
暴動のきっかけは祭りの夜の小さな喧嘩だったらしい。もともとアウストラリスの人間はジョイアに良い感情を持っていない。その上難民生活は心を荒ませる。あのとき、だれかがその悪感情に火をつけた。一気に燃え上がった炎は燃え尽き、いつしか雨に冷やされ、怒りをはらんだ集団はもとの疲れた難民に戻り、牙は抜け落ちた。
幸いアルフォンスス家には大した被害も無く、庭の植え込みが一部壊れたのみ。秘密裏に確認すると、すぐにでも僕たちを受け入れる準備は整った。
義母上の日記が表に出ると同時に、僕とルキアは皇都を離れた。今はまだ詮索されるのはまずい。僕は自身の身の証を立てる材料を何も持たなかったから。その上、離宮にまで調査が入ってルキアの髪の色が問題になってはもう収拾がつかない気がした。
今のところ沈黙しているヴェスタ卿が、万が一髪の色を言いふらしても、赤みがかった髪は父に似たのだと通すつもりだった。でもあの赤い髪を直に見られたら、一目で違うことが分かる。確実にあいつの子だと疑われる。今の段階ではそれは絶対に避けたかった。だから人目を避けるためにも都を離れるのが安全だと思った。
今回の旅は、表向きハリスの暴動に関する調査という名目で、ついでにスピカを迎えにいくということになっている。
――姿の見えない皇太子妃のことも、疑いを抱く輩が増えていたのだ。なぜ子供を放って里帰りをしたままなのだと、直接ではないけれど含みを持たせて問いかける人間も居た。確かにもう誤摩化すにしてもギリギリだと僕も思った。着実に決着をつける時が迫っていた。それなのに、スピカに関しても、レグルスに関しても、どちらの情報も僕の耳には入って来なかった。アウストラリスに潜入したミアーとループスから未だ良い返事が来ない。メイサと連絡を取ろうにも、シトゥラ、いや、アウストラリス全体で今は警戒態勢をしいていて、付け入る隙がないということらしい。下手に動くと捕えられそうだと。彼らからの書簡には、お役に立てずに申し訳ないという文面が毎回、小さく綴られていた。
今の僕は逃げるしかなかった。逃げて時間を稼ぐしか無かった。
そして、逃げながらでもしなければいけないのは、自分の身の証を立てること。僕が倒れれば、その瞬間にすべてを失うこととなるのだから。
レグルスがいない今、母上の過去を探るしか無い。――母の過去はこのツクルトゥルスにある。
「ばーばーばー」
ルキアが楽しげにおしゃべりをしている。もう少しでルキアは九ヶ月。ルキアは先日椅子の足に掴まって立ち、僕に向かって誇らしげに笑いかけた。体の成長にも驚くけれど、心の成長も著しい感じがする。この頃は少しずつだけれど意味のある言葉も出て来ているような気がしていた。
「ルキア? 何て言ってるの?」
「きっとお父様って言われているのですよ」
シュルマが微笑ましいといった感じでニコニコしている。
「『早くパパに会いたいね』って、そう――」
直後シュルマがはっとしたように言葉を飲み込む。
僕はゆっくりとシュルマに振り向く。
「続けて」
「――スピカ様が……お腹を撫でられながら、……よく言われてましたから」
気まずそうにシュルマが呟く。横からサディラがシュルマを冷たく睨んでいた。
「いいんだ、サディラ。――シュルマ、もっと聞かせてくれるかい? 僕、その時期のこと、知りたいんだ」
僕の知ってるのはようやくお腹が膨らみかけたくらいの彼女だけ。少しだけ膨らんだお腹を撫でると、スピカは太っただけみたいって、恥ずかしがっていたっけ――。
本当は、もっとお腹の大きくなった彼女を、傍で見ていたかった。そしてお腹に頬を寄せてスピカと二人で赤ちゃんに話しかけたりしたかった。
次があるってそう思って、その時期を一緒に過ごすことを諦めたけれど、次があるなんてどうして思えたりしたんだろう。
叶わなかった暖かな光景を思い浮かべ、少しの間、目を閉じる。
そして、感傷的になりかけた自分を叱る。――『次』を手に入れるために僕は頑張ってるんだろう?
ふと目を開けると、シュルマは少し落ち込んだように項垂れている。彼女もスピカのことを思い出すのが辛いのかもしれない。困ったように髪を弄って、そして急にはっとしたように顔を上げた。
「あ、そういえば――スピカ様、日記をつけられていたような」
「え?」
「ああ、私も書かれているのを見たことが」
イェッドが淡々と口を挟む。
「うーん、しばらく見かけませんねぇ……どこに仕舞われたのでしょうね」
シュルマは目を泳がせる。
「処分したかな。それか――持っていったのかも」
その可能性が一番高い気がした。
「いえ、それは無いと思いますよ。結構立派な冊子でしたから、捨てられたら誰か気づきますし、持っていくには重過ぎますし。探したら出て来るかもしれません。探してみます!」
シュルマは急に顔を輝かせて張り切りだす。
複雑だった。見てみたい気もしたけれど――怖い気もした。そこからまた僕の知らない彼女が飛び出してくるんじゃないかって。
でも僕は見つからないだろうと思った。だって――僕だったら、絶対みられたくない。日記っていうのは、皆隠し場所を真剣に考えるものだと思う。あれは、人に見せるために付けるんじゃなくて、自分が後で読み返すためだけに付けているものな気がする。少なくとも僕はそうだ。
自分が日記を置いている場所を思い浮かべて、僕は小さくため息をついた。――まあ、あまり期待せずに待っておこう、そう思いながら、ルキアの丸い頬をそっと撫でた。
*
最後の書類を整え、机の引き出しに仕舞うと僕はほっと息をついた。他の荷物はシュルマ達に任せておいたものの、仕事に関するものだけはそうはいかなかった。
窓を開けても部屋は少々蒸し暑く、いつしか髪が汗で湿る。不快さに耐えられず髪を後ろで縛り、頭を振って首筋に空気を通す。机の上に置いてあった冷めた茶でのどを潤しながらソファに沈み込んだ。
テーブルの上に置いてある一輪の花に夕日が当たり、その色を赤く染めている。床にはステンドグラスから差し込む光の花々。黄色いはずのその花は、今は赤く染められていた。見ていると胸が焼かれるのを感じて、目を逸らす。
ひと月ぶりにやって来たこの部屋は、当たり前のように何も変わっていなかった。ただ温度と色が違うだけで。部屋を変えてもらった方が良いかもしれない。そんなことを考える。
扉が開き、イェッドが顔をのぞかせる。彼も荷物の整理を終えたようだった。
「――それでは、何から始めますか」
彼は僕の傍に寄って口を開くなり、すぐに本題に入る。僕に時間がないことは彼にもよく分かっているようだ。もう日は暮れかけているけれど、今日のうちに出来ることはして置きたい。
「そうだな……とりあえず、昔のアルフォンススのことを知っている人間を探さないと」
母方の祖父母は随分昔に他界したとだけ聞いていた。だから昔のことを一番良く知る人間は叔母だけなのだけれど、その叔母にとって義母の日記の内容は寝耳に水だったようだ。母に対してもレグルスに対してもひどい侮辱だと怒り狂っていた。そして今は父とともに宮で時間を稼いで、僕が母とレグルスの潔白を証明するのを待ってくれている。
「……陛下は、あなたに何も語られなかったのですね」
ぽつりとイェッドは言う。僕は父との対面を思い出す。
「ああ。憶測では語りたくないようだった」
「そうですか。まあ……どこかで予想はしていましたが」
「予想?」
イェッドからそんなことを言われると妙に混乱した。この男は良くも悪くも僕や父に全く興味がないと、いつも一歩離れた場所に立ち、決して寄り添うことはないと、そう思っていたから。たまに助けてくれるのもほとんど気まぐれだし。こうして僕に付き合ってくれることも……単に仕事だからだと。
不思議に思う僕の前でイェッドは少し悲しげに続けた。
「あの方は、堂々とされていらっしゃる様で、その裏では色々なことに引け目を感じていらっしゃるのです……リゲル様のこと、レグルスのこと。それから――」
イェッドはそこで言葉を飲み込み、僕の視線を僅かに外す。それとともに話の筋も逸らした。
「あなたがスピカ様に出会う前に妃を娶っていなくて良かったと、それだけは心から思います。万が一そうであれば――スピカ様はリゲル様と同じ目に遭われたでしょうから」
「……どういう意味だ?」
イェッドの言いたいことが見えなくて僕は戸惑う。なぜか今日、彼は妙に回りくどい言い方をしている気がした。
「シャヒーニ妃を見ていれば分かるでしょう。あの方のされたことは許されないことです。しかし――気持ちがわからないわけではない。愛する人間が手に入ったかと思うと他の人間に奪われる――今のあなたになら理解できるのでは?」
僕は答えられない。確かに奪われ方は違ったとしても……愛する人間が自分の元を去り、別の人間のものになったということに変わりなかった。まさに今自分が置かれている立場。痛いほどに気持ちはわかった。僕は――――ルティが憎い。その腕の中の少女を思うと、殺したくなるほどに。
ふと……スピカを母、僕を父、ルティをレグルス、そしてルキアを――。置き換えると、別のものが見えて来た。イェッドが言いたいのはひょっとして――その可能性なのだろうか。
「似すぎています。あなたと陛下の愛され方は。彼女さえいれば良いと、周りが見えなくなってしまわれる。このままあなたがスピカ様を失えば――また国が傾くのではないかと、同じことが繰り返されるのではと……そんな不安さえ湧きます」
国が傾く? イェッドは一体何を知っている? 僕が問おうとした時だった。
「キャーーー、ルキア様!!!! だ、誰か!!!!」
シュルマの声だった。
僕ははっとして顔を上げ、イェッドとしっかりと目が合った。
「ルキア!? どうした!!??」
慌てて立ち上がると扉にぶつかるようにして廊下に出る。
――ルキアが、何を? よく眠っていたから、荷物を片付ける間だけと思って、隣の部屋でそのまま寝かせて来たのだ。物音で起こすのが可哀想だったし……でも、一体何が? ベッドから落ちないようにとわざわざ床に籠を置いて寝かせて来たというのに……。周りにも危険なものは何もなかったはず。
隣の部屋に飛び込むと、シュルマが真っ青な顔でルキアの背中をさすっている。腕の中できょとんとするルキアとシュルマの悲愴な顔の差異がひどくて混乱した。
「――どうしたんだ!?」
遅れて飛び込んで来たイェッドが、蒼白になる僕を押しのけると医師の顔でシュルマに問う。
「どうしたというのです、落ち着いて説明しなさい!」
「こ、これを……ルキア様が!」
シュルマの手を覗き込むと、そこには丸い、まるで団子のような――
「何、これ? 食べ物?」
イェッドが奪うようにそれを手にするとにおいを嗅ぎ確かめる。
「――害虫の駆除薬です! シュルマ! 水を!」
火が着いたように慌てて飛び出していくシュルマの背中を呆然と見つめながら、僕は尋ねた。
「駆除薬だって!? ――どうしてそんなもの!」
「部屋の端に置いてあったようです……カーテンの影になっていて……気が付かなくて」
サディラが真っ青な顔で床に崩れ落ちている。イザルがその腕の中でただならぬ雰囲気を恐れてむずがりだした。
「水です!」
イェッドがシュルマからコップに入った水を受け取ると、ルキアに強引に飲ませる。ルキアの口から大量に水が溢れる。ルキアは水が気管に入った様でむせて泣き出した。
イェッドは構わずにルキアの口に人差し指を突っ込む。ルキアが大きく嘔吐き、飲ませた水と小さな固まりがドロドロに溶けた食べ物とともに床の上に落ちる。
イェッドがその固まりと薬を見比べ、ようやく表情を少し和らげて、額の汗を拭う。
「…………おそらく………これで大丈夫だと思いますが…………」
僕はその言葉にようやく息をすることを思い出した。
力が抜けて床に座り込み、瞑目する。
もし……イェッドがいなかったら――僕は――
「――皇子、申し訳ありませんでした。申し訳――」
声に目を開けると、シュルマとサディラが床にひれ伏していた。耳にイザルの喚き声が飛び込んで来る。音さえ消えていたことにようやく気が付いた。どうやらしばらくずっと彼女達は謝り続けていたようだった。やめてくれ。謝られたら勘違いしてしまう。悪いのは誰かなんて――分かり切ってるじゃないか……!
「やめてくれ――それより、イェッド……医師を」
イェッドは頷く。彼も医師だけれど――確か乳児は専門外のはず。それに、ここには薬などは常備薬しか置いていない。彼は言われずとも心得ていて、すでに侍従を呼んでいたようだ。駆け込んで来た侍従に例の薬を握らせながら彼は言付ける。
「この家に行って――を呼んで来てくれ。あと、これも一緒に届けてくれ。至急だ」
そしてイェッドはひれ伏す二人の女性に向かって静かに命令する。
「顔を上げて。――皇子に何か気付けを」
「は、はい」
腰が抜けて立てなかった。腕だけでルキアを求めると、イェッドがそっと腕の中にルキアを滑りこませる。ルキアは泣き続けていたけれど、僕に抱かれてようやく泣き声を納めた。小さな手が僕の指を力強く握る。
「ごめん、ごめんよ……ルキア」
柔らかい赤い髪に顔を埋めて呻く。出てくる声に涙が混じるけれど、もう気にしていられなかった。