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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第三部 闇の皇子と焔色(ほむらいろ)の罠
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第9章 籠の鳥―1


 大きく開かれた窓から、乾いた大地が見えた。

 城壁の向こうは、低い木々がまばらに生える褐色の土地。吹きすさぶ風に黄土が舞い上がり青い空で小さな渦を巻いていた。

 目線を下ろすと街並が見えた。城壁から王宮まで一本の大きな通りがあり、その周りに四角く白い石で出来た屋根が平らな建物が建ち並ぶ。多くの家が木造で、屋根が尖っているジョイアとは大きく風景が異なった。きっと風土のせい。雨が少ない、そして暑さ寒さの厳しい土地ならではの形なのだと思った。

 王宮から離れるにつれ、建物が古く、みずぼらしくなって行くのが分かる。きっと貧しい人たちが住んでるのだ。そういうところだけはジョイアと共通だった。

 埃っぽい熱い風が部屋の中に吹き込み、あたしの髪を舞い上がらせる。耳元で押さえると耳たぶに硬い感触。思わず指先で弄る。丸く小さい艶やかな手触りに胸がぎゅっと縮む。


『つけてあげる』

 低く暖かい声が蘇る。

 あの夜、あたしの空っぽの耳たぶが気に入らなかった彼は、自らの耳からその黒い耳飾りを外して、あたしの耳につけてくれた。

『明日になったら、今日僕があげたのを付けてくれよ? それまで貸しててあげるから。そしたら忘れないだろう?』

 彼は気軽にそう言った。でもその明日は来なかった。

 記憶を消したら元に戻そうって思ってたけれど、結局外すどころじゃなくなってそのままになってしまった。

 ここ、エラセドに落ち着いて、鏡を初めて見てようやく思い出したのだ。


 鏡はアウストラリスの特産品。もともとアウストラリス内でも高価なそれは、ジョイアではひどく貴重なもので、ほとんど無かったから、こんなに沢山の鏡を見るの初めてだった。この王宮には力の象徴とでも言うかのように、驚くほどたくさん鏡が置いてあった。

 あたしは部屋の一角に堂々と構える鏡を見やる。そして最初それを見た時の事を思い出して大きくため息をついた。

 姿全部を映してしまえるような大きな鏡など、産まれて初めて見て、その中に映る自分にも驚いた。

 鏡の中のあたしは、色は違うけれど、思い出の中の母さんそっくりで。髪が赤くて、目が茶色ならば、自分でも母さんだと見間違えそうだった。


 立ち上がり鏡の前に立つ。金色の髪はようやく腰に届くくらいまで伸びていた。食べ物とか色々気を使って散々苦労して伸ばした髪はジョイアの娘としてはそれでもまだ短い。その上あたしが切り取ったせいで一部だけ変な風に短かった。緑色の瞳には灰が混じって濁っている。肌は青白い。生気がない人形のような少女がそこにはいた。

 髪を耳にかけると、耳たぶに一点染みのような円が浮かび上がる。シリウスの耳飾り――彼には似合っていたけれどあたしが付けるとそこだけ色が異常に濃く見えて全く似合わなかった。まるで虫に食われたみたい。扱いに悩んで、結局荷物に入れ忘れてひっそりと屋敷に残して来た二つの耳飾りを思い浮かべる。

 シリウスに貰ったものは全部持って行きたかった。でもぎりぎりまで迷ってしまった。魔除けならば、ルキアには付けてあげたかったのだ。でも彼がそれを見て何か思い出すかもと思って。――こんなことになるなら付けてあげても良かった。

 幸いルティにはこの耳飾りはまだ見つかっていない。見つかったら取り上げられるような気がして、あたしはいつも髪で耳を隠していた。


 エラセドに来て半月。すぐにでも結婚させられるかと思っていたけれど、なぜか話は進んでいなかった。ルティは始終どこか不機嫌だった。穏やかな表情で隠してはいるけれど、時折茶色の瞳が鋭く苛ついたような光を放つ事があった。詳しくは知らない。でもどうやら誰かがあたしを気に入らない、そういう事らしい。

 あたしは高い塔の中に囲われて、部屋に固く閉じ込められていた。塔は見下ろした地にいる人が豆粒のように見えるくらいに高かった。落ちたら確実に死に至る高さだった。昔あたしが脱走した事をルティはしっかり覚えていて、どこにも抜け道など見当たらなかった。

 外部とのつながりはルティだけ。


 そして彼は、待っている。


「まだ降りてくる気にならないか?」

 部屋に響いた声に扉を振り返ると、いつの間にかルティがいた。

「『その気』になれば、それ、外してあげるのに」

 彼はそういいながら、あたしの足下を見つめる。あたしの右足首には、細い鎖が巻かれていた。窓が駄目ならと唯一の出口――扉からの脱走を試みたせいだった。ルティがやってくるのを待ち構えて外に出ようとしたけれど、あっという間に捕まってしまった。

 彼は言う。自ら自分の隣に立つ気になれば、枷を外し、檻から出してやると。そしてあたしがそんな気になる事は絶対にない。

「じれったいな。手順を飛ばしていいならすぐにそうするのに」

 彼はそう言いながら、あたしを後ろから抱き寄せる。

「そういうのは他の女性とすればいいでしょう。――聞いたわよ、あんた、もうお妃は別にいるじゃない」

 近づいて来る唇に、あたしは思い切り顔を背けた。キスされるのが吐き気がするほど嫌だった。

 ルティの周りにはすでに多くの女の人がいる。その話はエラセドに来たとたん瞬く間にあたしの耳に届いた。

「妬いてるのか? 妾だろ? ――君を捕まえたから全部暇を出したよ。君一人って約束だっただろ? だから俺は今独身だ」

「妬くわけ無いでしょ! なんてひどいことしてるのよ――」

 あたしが望むのは――もちろんルティにではなくシリウスにだけれど――そう言う意味ではない。彼はあたしに『君一人だと約束できる』と言ったその後に簡単に女性と関係を持っている。清算すればいいと思ってるの? 誠意の見せ方がシリウスと全然違うことに愕然とする。

「もともと身体だけの関係だったし。愛着なんて無い」

 猫を捨てたというほどの罪悪感も無い様子に背筋が冷える。あたしに対する執着との温度差が怖かった。

「……最低ね」

 やっとそれだけ言えた。どう言っても伝わらない感じがした。

 ふと彼の手があたしの胸に触れ始める。

 大きな手を引きはがそうとあたしが無駄な抵抗を試みると、ルティは背中で軽く笑った。

「まあ、実は待つのも結構楽しい。焦らされるのも新鮮だ」

「待つって……どこが!」

 ルティは構わず胸を掴むと、小さく息をつく。

「はやく『女』に戻らないかな……この見かけと違う固い胸、さすがに萎えるしさ。女の子は柔らかくあるべきだろう?」

 その露骨な言葉にさすがに顔が赤らむ。

「あいつってこれで平気だったわけ? なんて言うか、借り物って感じで、俺は嫌なんだけど。あ、あいつお子様だからそっちの方が良かったのかもな」

 ルティはげんなりした様子であたしを手放した。

「――う、うるさいのよっ!」

 あたしは胸を押さえながらルティを睨む。涼しい顔をしたルティにと比べると滑稽なくらいに顔が熱い。こいつって、やっぱりデリカシーってものがかけらも無い。なんでこんな事普通の顔して言えるのかしら。シリウスだったら思ってても絶対言えないような事。


 でも内心ほっとした。


 ルティがそれ以上の行為をしないのは、あたしの身体のせい。

 例によって、……月のものが来るのを待ってるのだ。シリウスの妃として過ごしていたのは明らかだし、万が一子が出来ていたらいけないから、という理由らしい。医師に診察はされたけれど、今の段階ではまだ何とも言えないと言われた。

 ルキアがシリウスの子でも構わないって言ってたくせに、今さら何をって思うけれど、疑いが無いに超した事は無いのだろう。あたしにとっても猶予がある事自体はありがたかった。

 お乳をあげてる間は月のものが来ないらしく、あたしの身体はまだ子を産める状態には戻っていないみたいだった。でも、ルキアから離れて、もう半月。断乳して最初数日は胸は熱を持ってがちがちに固くなって、痛くて眠れないくらいに張っていたけれど、治まって来てしまった。胸はまだ固さを残す。でも次第にもとの柔らかさを取り戻しつつあった。

 もうそろそろ、危ないのかもしれない。あたしは身体が戻らないようにと、祈るしか出来なかった。


「王子」

 扉の向こうから遠慮がちな声が上がる。

「ああ、分かっている」

 ルティは鬱陶しそうに赤い髪をかきあげると、あたしの足下にかがみ込む。そして体に張り付く長い服の裾を少し上げると、その大きな手で足首に触れた。

「な、何?」

「親父が会いたいってさ」

 細い鎖が絡まってなかなか外れない。じゃらじゃらという重い音だけが部屋に響き渡る。

 彼は忌々しげに舌打ちしながらも、あたしの足に傷がつかないように丁寧に鍵を外している。そうしながら念を押した。

「――逃げるなよ」

「……」

「逃げれば、分かってるだろう? この間は見逃したけれど、今度は許さない」

 部屋までも冷やす氷のような声に身体が固まる。

 ――忘れているわけではない。父の事は。

 あたしは、エラセドに着いた後、何も出来ない事に焦り、少しでも情報が欲しくて力を使った。そして、食事の乗ったトレイから入って来た侍従たちの言葉が、あたしを動かさずにはいられなかった。


 二人の侍女があたしの食事を配膳しながらおしゃべりをしていた。

 トレイに乗せられる料理が目に入る。アウストラリスの北、山を越えた遠い『海』で穫れる大きな魚などは、あたしもこの王宮に来て初めて口にした。塩漬けにして保存されたものはジョイアでも滅多に口にする事が無い。稲作に適さないこの土地では珍しく、米を使った料理も多く乗せられていた。この国の貧しさは王宮には関係のない話のようだった。

 時折、彼女達がこっそりとつまみ食いをしている。その細い腕から、おそらく彼女達は普段、あたしに与えられる食事と全く違うものを食べているのだと思われた。


 『また処刑ですって』

 『ああ、ジョイアの間者でしょう?』

 『それなら仕方ないわね、私たちの国に害をもたらすのだし、国のため犠牲になってもらわないと――』


 この国の人は、ジョイアの人間に対して、悪感情を持っている。それは昔シトゥラに捕われた時に何となく感じていた。ルティの行動からもそれは見て取れる。

 国から植え付けられたものなのかもしれない。細い国交を続けていた間に、誤解が生まれてしまったのかもしれない。それはジョイアの国民がアウストラリスの国民に抱く感情とは異なり、あたしはひどく気まずかった。

 青過ぎる隣国の土地への羨望、それは妬みへと姿を変えている。

 ジョイア自体に罪があるわけではない。だけど、その差は同じ人として生まれて来て、あまりに眩し過ぎる。

 もしあたしがシトゥラでずっと育っていたら――同じように考えるようになったのかもしれない。欲しいものを得るために、利用できるものは全て利用しようと思うようになったかもしれない。


 そして彼女達の話は続く。――父については、そういった悪感情だけがつきまとっているわけではなかった。あたしは、初めて、この国で自分たちがどんな風に見られているのかを知った。


 『ルティリクス様がお連れになった女性、あの方はシトゥラのラナ様の忘れ形見だそうよ』

 『まあ、ラナ様って、次期当主になられるはずだった? あの誘拐されて行方知れずの?』

 『そうなの。ラナ様がジョイアの男に拐されて、どれだけ国が困窮したかを思うと――』

 『ほんとうに、あれから国は貧しくなるばかりで』

 『そうそう、その男、今シトゥラに捉えられているそうよ? どうして早く処刑してしまわないのか謎だわ』

 『まだ利用価値があるという事なのじゃないの?』

 『でも、もうシトゥラは欲しいものを取り戻されたのだし――時間の問題なのかしら。お二人のご結婚と同時に――、なんてこともあるかもしれないわね』


 侍女達はそんな恐ろしい話を、仕事の合間に、まるでただの世間話のようにしていたのだ。彼女達は始終笑顔だった。同じ血が通う人間の命を取ろうという話を、ごく平然と話していた。

 罪人は――人ではないのだ。

 思い出す。

 ジョイアで罪人の扱いがどれだけひどかったか。

 あたしは殺人事件の犯人として牢に捉えられたときに、その現状を見たはずだった。

 生臭い水、固く黴の生えかけたパン。部屋の隅に汚水の溜るじめじめとした部屋。湿った黴臭い毛布――

 それらはシリウスが皇太子となった後、随分改善されたのだけれど、予算の捻出に彼は頭を悩ませていた。罪人の待遇を上げるために税を取るというのは、世論がなかなか許さない。結局は彼のために用意された予算をそちらに回すように手配していた。

 あの裕福なジョイアでさえ、そんな現状なのだ。貧しいアウストラリスでの父の扱いを考えると――一日でも早く助けないと大変な事になると思った。


「父は――元気なの」

 あたしは問う。縋るように足下の赤い髪の頭を見つめる。

「ん? あぁ……どうだろうね。死んだと言う話は聞かないけど」

 彼は何の興味も持たない感じでそう言った。怒りで頭が煮える。声が震える。

「もし――父が死んだら、あたしも死ぬから」

「じゃあ、死んだとしても内緒にしておくよ」

 必死の脅しを軽く躱されてあたしは身動きが取れなくなる。

 あたしは父が生きていると聞けば、何としても抜け出して助けに行きたいと願うし、死んだと言われればここにいる理由を無くして――おそらく自ら命を絶つ。どちらの情報を貰ってもルティから逃げようとする。だから彼は父に関する情報を一切与えない。生きてるとも死んでるとも教えてくれない。分からなければ動きがとれない。彼はそうして、一筋の希望という鎖をつけて、この籠の中で、あたしを一生飼うつもりなのだ。

 彼は知ってる。あたしが父を捨てない限り、ここに留まり続けるしか無い事を。

 あたしがいつまでも彼を拒めば、そのうち彼は父の命をちらつかせる。そのときは、父の命がもう無かったとしても、あたしはきっと彼を拒む事は出来ない。

 左手をぎゅっと握りしめる。ここに来て、なんて――使えない力。

「悔しいだろう? 君は――俺の心は読めない」

 あたしの心を見透かすようにルティは笑った。

「それにもう、君には他の誰も触れさせないから――レグルスのことは教えてあげないよ」

 カチリと鍵が外れ、ルティはあたしをそっと抱き上げた。金色の髪が風に煽られる。見上げると茶色の瞳が甘く輝いていた。

 唇が触れる。端正な顔が押し付けられる。そして、吐き気のするような熱を残して、離れる。あたしは、彼のする事を、目を開いたままじっと見つめていた。――こんなの、キスじゃないんだから。シリウスがしてくれた事と同じなんて、絶対認めないんだから。


 ルティは濡れた唇をゆがめて、にやりと不敵に笑う。


「それじゃあ、行こうか――俺のお姫様」


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