第1章―10 都へ
「そうか……こいつが」
レグルスは怒りを隠せない様子で、気絶したままのマルフィクを睨みつけた。
「今すぐ刺し殺したいぐらいだが……その黒幕を突き止めるまでは待った方がいいか」
「物騒だなあ……あたし結局お尻触られただけよ? ……ああ、でも気持ち悪かった……」
話を聞くと、数日前から僕のいないところでスピカはそういうことをされていたようだった。
スピカはいろいろ思い出したようで、顔をしかめる。
「でも僕がもし戻らなかったら……」
スピカはきょとんとして僕を見ている。
あ。そうか、知らないのか……。
僕は思わず口をつぐみ、レグルスを見て小声で言った。
「ねえ、あまりに知らないと危ないんじゃないかな……叔母にでも頼んだら?」
「……既に頼んだが、断られた。あの桃色の雰囲気で、『そういうのは恋人に教えてもらうのが一番よ』だと」
僕は何も言えずにため息をついた。
マルフィクを牢に連れて行くと、僕らはレグルスの部屋で相談を始めた。
「でも、こういうヤツがいるということは、ここももう危ないということだ。早急に手を打たないと」
「そうだね……」
皆一様に考え込んだけれど、ふとスピカが顔を上げて言った。
「ねえ、要はその黒幕を捕まえればいいんでしょう? それなら、都でさっきのメリディオナリスってやつを当たってみたらいいんじゃない?」
「そうだな。せっかくつかんだ尻尾だ。宮の方も調査が行き詰まっているみたいだからな……。スピカ、お前、力を使ってみるか? シリウスのために」
「もちろん。そのつもりよ」
スピカは嬉しそうに答えた。
「……そのメリディオナリスのところに潜入する、って作戦か。じゃあ、僕も行く」
僕がそう言うと、二人は仰天して同時に叫んだ。
「だめよ!」「だめだ!」
「どうせ、変装して潜入するんだろう? 情報を聞き出すには男だと警戒される。スピカだって女の格好で行くつもりだろ? それだったら、僕の方が適任だ。……女装は得意なんだから」
「あたしは、単純に力を使うつもりなのよ?触ったら終わり。すぐ済むわ」
スピカは当惑した表情を浮かべて、僕を説得しようとする。
「すぐじゃないだろう。触ったときにその黒幕のことを考えていないといけないんだから。さっきは、僕がいたから、うまく読めたんだろう? 君が一人で誘導するより二人の方が成功する確率は高いよ。……それに簡単に言うけど触るってそんなに簡単じゃないはずだろ。危ないよ」
「あなたは、自分の命を狙っているやつらのところに飛び込むといっているんですよ? 分かっていますか?」
レグルスが僕に言い聞かせるように言った。
「やつらは僕を男だと思っている。それに僕の外見は、皇宮の深くを出入りできる、ごく一部の人間しか知らないんだ。黒髪、黒い目の男、それだけの特徴で探しているはずだ。鬘をつけて、女に化けてれば、疑わないはずだ」
僕は必死で食い下がった。
スピカがそんな危険なところに一人で飛び込むのを黙って見ているのはごめんだった。
さっきのようなスピカの顔を見るのはもう嫌だったのだ。
「こんなこと、さっさと解決したいんだ」
そうすれば、スピカが危険を冒して騎士を続けなくてもすむ。
そう思いながらスピカを見ると、スピカが何か言いたげな顔をして僕を見ていた。
「どうした?」
「ううん。やっぱり、シリウスは元の場所に帰りたいんだなと思って」
そう言われて、はじめて、僕は自分が少しも都に帰りたくないことに気が付いた。
出来ればずっとこのオリオーヌに居たかった。
しかし、それも皇太子である僕には無理な話だった。
「……僕は、皇太子だからね、一応」
「一応じゃないわよ……。そうよね。早く帰って民のために仕事をしないとね」
スピカはなんだか寂しそうに見えた。
その顔を見ていると、僕はなんとなく落ち着かなくなり、考えるより先に口から言葉が溢れていた。
「……戻っても、一緒に居てくれる?」
「え?」
スピカは一瞬何を言われたのか分からないといった表情をしたが、直後、顔を上気させて、僕の両手を握った。
「ホントに!? いいの?」
僕はぎょっとして、思わず手を引っ込めた。
「突然触らないでくれよ!」
さすがに、覚悟していない状態でそれを突然やられると困る。
スピカはしゅんとして行き場を失った手を後ろで組んだ。
「ごめんなさい……」
「……いいよ。ごめん、きつく言い過ぎた……」
「シリウス、それってどういう意味ですか?」
冷たい声に振り返ると、レグルスが勘ぐるような視線を僕に投げ掛ける。瞳には鋭い光が浮かんでいて、僕は心がひやりとした。
僕はぐっと手を握る。ちゃんと分かってる。でもスピカの前で口に出すのは、勇気がいった。
「……僕の『側近として』これからもレグルスと一緒に仕えてほしいってことだ。……無事に戻れたらの話だけどね」
僕はスピカの顔を見ることが出来なかった。なぜだかとても後ろめたい気分だった。
「分かったわ」
透明な声に、僕が目線をそちらに向けると、スピカは静かに微笑んでいた。
そうして、僕の前に跪き、頭を足れた。
「一生お側でお仕えいたします。あなたの信頼に応えます。……セイリオス・ウル・ジョイア殿下」
その緑灰色の瞳に見つめられ、僕は息が詰まった。
「――覚えていたんだ。僕の名前。あんな昔の事なのに」
かすれた声でようやく言うと、スピカは立ち上がって僕を見つめた。
「当然でしょう? あなたから貰った大事な宝物だもの。あの時から、あなたの側であなたを守りたいと思ってた。だから……嬉しいの」
そうして彼女は花が開くように微笑むと、元気な声で僕を励ます。
「絶対に、犯人を見つけましょうね! あなたが皇太子として、堂々と宮で過ごせるように」
結局僕はレグルスの説得にも応じず、スピカとともに潜入作戦に加わる事になった。
レグルスも結局は、スピカ一人を潜入させる事に不安があったようで、渋々ながら折れたのだった。
「メリディオナリスというのは、都の郊外に住む下級貴族でした。屋敷の侍女に金を掴ませてしばらく暇乞いをさせています。その代わりの侍女として潜入していただきます」
レグルスは、いったん言葉を切ると、僕を見て言った。
「あなたは喉を痛めていることにします。まともにその声で話されたら一発でばれますから」
僕は確かにそうだと思ったので、黙ってうなずく。
「問題は……。そのメリディオナリスという奴は、ひどく好色な男で。そのせいか、侍女も喜んで暇乞いを出して……。二人の身が心配なのです」
レグルスが心配そうに僕を見る。僕は思わず怯みかけたが、そんな事を聞いてしまっては、よけいにスピカだけを行かせる訳にいかなかった。
「……分かった。逆にそれを利用してさっさと聞く事を聞いてくるよ」
ここはスピカより僕の出番なのかもしれない、僕はそう思った。
「いざとなったら、どんな手を使ってでも逃れて下さいよ。……それでは、都へ出発しましょう。覚悟はいいですか」
都へ。もとより『僕』の居場所なんて無かったあの場所へ。……でもこれからはスピカが側に居てくれる。
あの暗く冷たい場所も、彼女が居てくれるだけで、明るく照らされるような気がしていた。