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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第三部 闇の皇子と焔色(ほむらいろ)の罠
109/124

第8章―2

 義母上の葬儀から二日後のことだった。

 僕はいつものように仕事を終え、ルキアを寝かしつけようと、彼を抱いたまま寝台に横になる。

 夏の嵐が近付いているようで、窓を閉め切っていたから、部屋は少し蒸していた。湯に入れた後だというのに、ルキアの腕はもう汗で少しべたついている。赤い髪は少し湿って、額に張り付いていた。

「ばーぱーぱー」

 お腹の上に乗せたルキアは、楽しげに唇を震わせながら何か言っている。――パパ? 僕の事を言ってるのかな? レグルスがスピカに昔そう呼ばれていたと言っていたのを思い出し、頬がゆるんだ。

 ぺちぺちと顔を叩かれる。小さく引っかかれて、爪が伸びていることに気がついた。

 僕は一度起き上がり、机に向かう。椅子に腰かけ引き出しから小さなハサミを取り出すと、ルキアの小さな手を握り、薄い爪を慎重に切っていく。小さく半透明の爪が机の上に並んでいく。


「皇子、少しよろしいでしょうか」

 扉がたたかれ、イェッドの声がした。

「どうした?」

 僕がハサミを置き、声をかけると、イェッドは遠慮せずに扉を大きく開けて入室してくる。ルキアが少しおびえたように僕に身を寄せた。人見知りとは少し違う反応。ルキアは未だにイェッドには慣れてくれない。彼には全くと言っていいほど愛想がないからかもしれない。

「嫌な噂を聞きまして。お耳に入れて置いた方がよろしいかと」

「何?」

「シャヒーニ様の遺品が整理されているのですが、……昔の日記が発見されました」

「それは――」

 事件の後、部屋を捜索したけれどどうしても見つからなかったものだった。最近ものは見つかったけれど、大した事はかかれていなくて、過去のものはどうしても見つからなかった。

「どうも、彼女の実家が圧力をかけて、その存在を伏せて置いたようなのです。近衛隊が暇を出された侍女に金を握らせたら漏らしたそうで。あなたの母君の事件のことも触れられていて、12年前の殺人事件については一気に解決に向かっています。そちらについていは、後ほど正式な報告があがってくると思います。……しかし――リゲル様について、引いてはあなたの立場が揺らぐような事が書かれていたようで……」

「母上の? ……僕の立場?」

 嫌な予感が急に浮かぶ。それは、以前感じた禁忌の味をしていた。

 ――まさか

 イェッドはひどく畏まっていた。彼は何かそれを信じる根拠を持っているように感じられた。

『いつの時代も……同じ事が繰り返される』

 ――僕がルキアの髪の色を報告したときに父が呟いたのは、その名ではなかったか。

「あなたが、帝の子供ではないのではないか。――レグルスの子供ではないか、日記にはそう書かれていました」

 僕は生唾を飲み込むのがやっとだった。口の中が一気に干上がる。

「もちろん、それが彼女の嫉妬から生まれたものだとは否定できません」

 イェッドは僕の目を見ないままに続ける。

「ただ、そういう噂が広がることは、いろんな意味でまずい」

「単なる憶測だ。父上は認めない」

「帝は……そうですね。リゲル様を疑うようなことは決してなさらないでしょう。しかし、公になれば確実に調査は入ります。そして、疑わしきものは、最初から認めない方が楽なのですよ」

 僕はルキアを抱いたままに手を組んで、その上に頭を乗せる。ルキアはきょとんと僕を見上げた。ひどい頭痛が始まるような気がしていた。

「そして、ジョイアにはミルザ様がいます」

 イェッドがそう言うのが膜の掛かったような耳にやっと届く。

 皇子の身分が危うい。そのことよりも重大なことがあった。

「――スピカ」

「……そうです。『姉弟』での婚姻は認められない。この辺りのどんな国でも」

 レグルス、違うんだろう? だって、君は――

 彼がルキアを抱くときの顔に浮かんでいたのは、心からの祝福の笑みだった。

 そう思いこもうとする僕の頭には、笑顔の裏の厳しい彼の言葉があった。彼はいつだって僕にあきらめさせようとしていなかったか?

「レグルスは、認めませんでしたよね、最後まであなた達のことを」

 心に冷たいものを押しつけられた。でも、それは――

「ちがうに決まっている。だって最初からそう分かっているのに言わないなんて事があるわけがない」

「確証がなかっただけかもしれません。それに彼がその想いを口に出すことはないのですよ。一生。言えば命がないのですから。黙っていれば分からないのであれば、自分の身可愛さに黙っているかもしれません」

「あり得ない。レグルスはそんな奴じゃない」

 彼がスピカが不幸になるようなことを見逃すわけがなかった。

「まあ……私もそう思います。彼の表面だけ見ていれば」

「表面?」

「私は彼がどこで生まれたのかも知りません。誰に聞いてもそれは分からない。髪の色から北方の出身か、と想像するくらいしかできないのです。親がいるかも知らない、兄弟も。――彼は絶対に過去を語らない。……そういう人間が腹の中で何を考えているか……いくらつきあいが長くても、想像などできませんよ」

 イェッドは珍しく悲しげに眉を寄せていた。

「とにかく、レグルスは、リゲル様が嫁がれてひどく荒れていました。そして、それはラナによって抑えられたかに思えました。……でも、リゲル様が亡くなった時、彼は妻子があるにも関わらず、『無茶』をした。――私が知っているのはそれだけです。だから、まったくあり得ない話ではない、そう判断しました」

「無茶?」

「それは、帝に直接お聞きになるとよいでしょう」

「……父上に……?」

 一瞬にして曇った僕の顔を見てイェッドは不思議そうにする。当然かもしれない。今僕と父は表面上は仲良くできているはずだから。――あのことは、ごく一部の人間しか知らないのだから。

 扉から出ていくイェッドの背中をじっと見つめた。沈黙が広がり部屋の空気が重みを増す。

 それまでおとなしくしていたルキアが僕の服をぎゅっとつかんで不安そうに顔を歪ませる。そのスピカによく似た唇の形を見てふと思った。


 ――万が一このままスピカが戻らなくて、この子がスピカそっくりに育ったら、僕は――父と同じ事をしないでいられるのか?


 心の中をじっとのぞき込む。ルキアがゆっくりと姿を変え、やがてスピカのように微笑んだ。そしてその笑顔が歪んだかと思うと、昔の僕の顔で彼は泣き叫ぶ。

 気をゆるませれば今にもどこか別の世界に転がり落ちそうになる。ルキアの柔らかい小さな手が闇の中白く光り、僕を辛うじてこちら側につなぎ止めていた。

 大きく息をついた。こわばっていた身体が緩み、椅子に沈み込む。

 目線を下ろすと、ルキアは安心したような顔で眠りについていた。


 いくら考えても、答えなど出せるわけがなかった。

 想像の中の僕は、僕であって僕ではない。ルキアが可愛い。大事にしたい。今なら父と同じ過ちを犯さない自信はあるけれど、一年後、二年後、――十年後、自分がどうなっているかなんて、予想もつかないのだ。

 だからと言ってもう目を逸らすことはできなかった。

 見たくないことを見ずに済ますこともできる。実際僕はずっとそうしてきた。だからこそのこの事態なんだと思う。いろんなことから逃げていたつけが回ってきたのだ。

 僕は、もうどんなに怖くても、逃げるわけにいかなかった。

 ――本当に欲しいものをこの手に掴むためには。


 *


 スピカが、僕の姉かもしれない。


 その夜僕は眠れなかった。

 僕は夜中必死で否定の材料を探し続けた。

 昔、ジョイアでは腹違いの兄妹での婚姻は認められていた。しかし、皇室内で血の濃さを重んじて血族での婚姻が繰り返し行われたことで奇形が増え、寿命が縮まり、それは禁忌となった。幼い頃歴史の本から学んだその史実は――もう100年以上前の事だ。


 浅い眠りの中、夢を見た。

 緩い朝の光の中、僕はゆりかごの中で遊ぶルキアをじっと見つめる。ルキアはその茶色の瞳で僕を見ているのになぜか僕の呼びかけに反応しない。おかしいと思って観察すると、その瞳には光が宿っていなかった。

 驚いて抱き上げると、身体が妙に軽い。足の長さと手の長さが右と左で大きく違う。細く、ぐったりと伸び切ったそれはまるで壊れた人形のよう。どうして――寝る前までは、元気に床を這い回っていたのに……!


 息苦しさから飛び起きて、ゆりかごにしがみつく。毛布を剥いでルキアを見る。

 彼は寝かしつけた時と同じ顔で、柔らかい寝息を立てて眠っていた。僕は床に這いつくばる。いくら抑えても嗚咽が止まらなかった。


 ――怖い。怖いよ、スピカ、……レグルス、――母上!


 * * *


「これはあの男の復讐なのかもしれない」


 翌日、僕が父に対面したとき、父は憔悴した様子で椅子に腰掛けていた。人払いした部屋には僕と父の二人。こんな状況、もう何回も繰り返したはずなのに、未だに少し手が震えた。

 僕が何を聞きに来たのか、父は予め知っているようだった。僕がレグルスの名を出すその前に、父は、彼の事を自ら語り出した。

「復讐……ですか?」

 余りにレグルスにそぐわないその言葉に僕は一瞬呆然とした。昨夜見た夢のせいで、僕もかなり消耗しているようで、父の言葉にすぐに反応できない。

「あの男から私は……リゲルを取り上げた。私は彼女に夢中だった。取り上げた――そのことさえ長い間私は気がつかなかった。しかし……私はあるとき・・・・リゲルの心は手に入れられなかったことに気がついた。彼女の心には最期まであの男の影が潜んでいた」

 大きなため息が部屋に響きわたる。

「私は確かに、お前が私の子ではないのではと心のどこかで疑っていた。しかしそう認めることはリゲルを愛していない証拠のように感じた。あの男に何か負けているような気がしてな」

 僕は何も言わなかった。言えなかった。

 まさか自分の子でないと思っていたから? だからあんな事を? それはもしかして――自分を裏切った母とレグルスへの腹いせ?

 父は僕の責めるような視線にも言い訳をしなかった。褐色の瞳は、詰ってくれと言っているような気がした。

 真っ黒な疑惑に飲み込まれそうになっていたけれど、父のその真っ直ぐな目を見てはっとする。

『すまなかった』

 父は、既に謝っている。僕が責めれば、何度でも謝るだろう。あの時の目を思い出す。そして母がまだいたときの穏やかな父の笑顔を思い出し、ルキアの笑顔を思い浮かべた。そうだ。僕なら――ルキアを腹いせに使おうなどとは思わない。


 父は懺悔を続けた。ずっと誰かに、――おそらくは僕に、伝えたかったのだろう。

「今だから言う。おまえがあの娘スピカを所望したときに、私の心には影が生まれた。私はリゲルの心を独り占めしていたあの男の大事なものを奪いたかったのだ。しかし今考えると、お前の伴侶としてあのスピカという娘を皇室に入れることは……逆に彼の皇室への復讐だったのかもしれない。愛した女を権力で奪われた、彼の復讐だ」

 父は三たび『復讐』と繰り返す。その響きには恐れが混じっていた。

 母を奪われたことの復讐? そのために自分の息子かもしれない僕に可愛がっていた娘を嫁がせた?

 レグルスがそんな事、するわけが無い。父は何か勘違いをしているようにしか思えない。

「僕には、そうは思えません。そのためにスピカを犠牲にするなんて」

「……しかし今、お前の血を引かないかもしれない皇子だけを残して彼女はお前の元を去ったではないか。あの男と一緒にな」

 頬を張られたような衝撃に息が止まる。

「なぜそれを……」

 僕は父にルキアの血筋についてはっきりと言った事は無かったし、スピカの失踪についても告げていなかったのに。知っているのはあのときにアルフォンスス家にいた人間と叔母だけだった。

「見くびるな。私が誰だか忘れたわけではあるまい。お前がいくら隠そうと、私には私の情報網があるのだ」

 イェッドのことがちらりと頭をよぎる。

「イェッドではないぞ」

 僕の心を読んだかのように父は否定した。

「あれは人の言うことなどまるで聞かないからな。使うなど考えようとも思わない」

 ああ、確かに。……イェッドの普段の様子を思い浮かべて、すぐに納得した。

「情報源はどうでもいいだろう。問題は、真相を知るものがもうあの男しかいないという事だ。今はとにかく、あの娘とあの男の行方を追うのだ。お前の身の証しをたてるためにはあの男が、ルキアの身の証しをたてるためにはあの娘が。どちらが欠けてもまずい。手は打っているのか」

「はい。すでに側近の二人に使いを頼んでいます」

 ミアーとループス、すでに頼める人間はあの二人しかいなかった。

「――シトゥラか」

「はい」

 ともかく情報が欲しかった。僕の無茶な願いを、レグルスの部下である二人は聞き入れ、危険を冒して国境を越えてくれた。

「返事は」

「未だ」

「あてはあるのか」

「一人だけ協力を頼めそうな人物に心当たりがあります」

 僕があの国との間に持つ線は一つ。ルティの従姉――メイサ。唯一利害の一致するあの女性ならば、もしかしたら協力してくれるかもしれない。


「ともかく、あの男を早く見つけるのだ。……お前の聞きたい事は、私も聞きたいからな」

 父はレグルスと母の間の事を自らの口で語る事をしないようだった。ここまで来て憶測でものを語りたくないのだろう。

 僕はその気持ちが何となく分かったからただ静かに頷いた。――僕だって、真実しか聞きたくない。

 父は厳しい表情のままだった。

「それまで時間を稼ぐ必要もあるな。シャヒーニの日記はほぼ確実に表に出る。メサルチムを始めアトリア家はミルザを立てて巻き返しを狙うだろうからな。そして、調べが入る場所は――おそらくアルフォンスス家だ」

「アルフォンスス?」

 あの家にまだ何かあるというのだろうか。僕は今は僕のものとなった古い屋敷に想いを馳せた。

 ――母上が育った、あの家に?

「……リゲルはお前の母親だ。それだけは間違いない」

 いつの間にか父はその顔に穏やかな、少し寂しげな笑みを浮かべていた。それは随分昔に見た、妙に懐かしい顔だった。

「シャヒーニが残したものがお前を滅ぼそうとするならば――リゲルがきっとお前を守ってくれるはずだ」


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