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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第三部 闇の皇子と焔色(ほむらいろ)の罠
106/124

第6章―2

 ――シリウス、愛してるわ――

 何度も、何度も囁かれた。僕は、心の底から幸せだと、そう思った。


 *


 瞼の裏が赤い。どうやら……もう日が昇ってずいぶん経つらしい。頭が妙にぼんやりする。けれど心の中では、すぐに愛しい妻の顔がはっきりと像を結んだ。


 ――寝坊した、か。

 あんなに充足した気分で眠ったのは久しぶりだったかも。一年ぶり? 昨夜の自分の所行に苦笑いしながら、寝ぼけ眼のまま、指に巻き付いた長い長い髪の毛をそっとたぐり寄せる。抱き寄せて、その可愛らしい唇にキスをしたかった。せっかくの旅だし、もう一度夜を作って続きをしてもいいかもしれない。

 ――あれ?

 髪はあまりにも軽かった。その、あまりの手応えのなさに、ふっと嫌な予感が胸をよぎり、一気に飛び起きる。


 スピカのために入れてもらったばかりの硝子窓から、様々に着色された光が斜めに差し込んで、絨毯の色を変えている。

 朝、二人で見たら綺麗だろうな、昨日見たときはそんな事を思わず考えた、その光。今、僕はそれを一人で見つめていた。昨夜の熱が嘘のようにしんと冷える部屋には、ほかに人の気配はない。

 あれは……まさか夢だった? でもそれじゃあ、この髪は。

 昨夜のスピカは……いつもと違った。彼女は僕を夢中にさせた。そして彼女も僕に夢中になっているように見えた。そんな事ははじめてで、……だから、僕は、彼女が僕の気持ちを受け入れてくれたんだって、喜んでた。でも――どうしてだろう。どこか彼女は悲しそうだった。それが不安で、彼女が消えないようにその髪の毛を指に絡めて眠りに落ちたはず。

 手の中の髪の毛を親指でなぞる。艶やかなその手触りは確かにスピカの髪の毛に間違いない。

 改めて見るのが怖かった。

 息を呑み込むと、確かめるように視線を手元に移す。視線と同時に手を持ち上げ、光に翳す。

 視線の先には、蜂蜜色の髪が一束、綺麗に切り取られて・・・・・・僕の指に絡まっていた。

 すっぱりと切れたその切り口が、光の刃となって僕の目を突き刺す。

 僕の束縛を断ち切るような乱暴なその方法に、目がくらみ、血の気が引く。


 レグルスの言葉が急激に胸に沸き上がる。予言めいていた、あの言葉。

『もし、スピカが自分の意志であなたの元を離れた時は……もう追わないでいただきたい』


 スピカが自分の意志で僕の元を離れる? そんな訳無い。だって、彼女が出て行く理由はもう無いし、第一、昨日のあれは一体なんなんだ!

 必死で否定しつつ、僕は服を纏うと、大声で人を呼ぶ。誰でもいいから、早く――

 彼女がここにいない事は髪の毛を見れば明らかだった。でも、彼女は、攫われたのかもしれない。

 それはほとんど願望だった。それならば追う事が出来るから。そんな可能性はほとんど無い事を僕は自分で知っていた。屋敷の警備は僕が手配した。しかも彼女の隣には僕が居た。

 目の端に赤いものがちらつき、はっとする。一瞬、一滴の血かと思えたそれは、手紙を封した赤いろう。血の涙のようだ。誘われて手に取る。震えそうになる手で、そっと開く。

『探さないで』

 たった一言だけ記されたその言葉に、僕の息が止まった。


 部屋の扉が乱暴に叩かれる。返事も出来ないでいると、扉が強引に開かれる。現れたのはここに居るはずの無い側近だった。

「皇子!」

「イェッド……? どうしてここに」

 麻痺したままの頭で考える。彼は休みを取っていて、今回は同行しなかったはずで……

「祭りには毎年参加していると言ったでしょう。それより――すぐに逃げる準備を!」

「逃げる……?」

「暴動です! 昨日報告を上げたはずです。届いているでしょう? 早く出発しないと、ここも危ないのです。――そう言えば、スピカ様は?」

 彼は僕の寝乱れた姿と、空っぽのベッドに目をやる。

「スピカは……いない」

「どういう事です!」

「……どういうことなんだろう。僕が知りたいんだ」

 泣きたいのに、なぜか笑ってしまった。僕はどうしていいか分からなかった。誰か、誰か、たすけて――

「レグルスも居ないのですか?」

「さあ」

 僕はその場にゆっくりとしゃがみ込む。膝を抱えて、顔を伏せる。その名は聞きたくない。

 イェッドは忌々しげに舌打ちすると、僕の手から手紙を奪い取る。そして目を通して、その茶色の瞳を見開いた。

「これは――――」


「皇子!」

 シュルマが泣き止まない子を抱いたまま、部屋に飛び込んで来る。

「ルキア……?」

 あぁ、ルキアが居る。じゃあ、スピカは居るはず。だって、彼女がルキアを置いて行くわけが無い。これはたちの悪い冗談なんだ。

「あー! んまんまぁ! ああー!」

 ――ほら、スピカ。ルキアが泣いてるよ。お母さんって呼んでるよ。いつもみたいに、飛んでおいでよ。

 祈るようにルキアを見つめる。ひょっとしたら今のは口に出ていたのかもしれない。シュルマが僕を哀れむような目で見つめていた。

「皇子……申し訳ありません。私、気がつかなかった……昨日お話ししたのに、彼女がおかしいって気がつかなかった!」

 彼女が持つ手紙は僕の持っていた手紙と同じ紙に書かれていた。

 目の前に差し出された手紙には、スピカの字で僕に宛てた手紙よりも少し長い文章が綴ってあった。


『シュルマへ

 突然の勝手なお願いでごめんなさい。貴方だからお願いするの。シリウスとルキアをお願い。今までありがとう』


「これは、一体どういうことでしょうね。シュルマ、レグルスは?」

 イェッドが淡々とそう言う。

「……それが。スピカ様がいらっしゃらないのをお伝えしようと、探したのですが」

「居ないのですね?」

 もうどうでも良かった。

 彼女は居ない。僕の気持ちは届かなかったということ。昨日の彼女の言葉は、あの態度さえ、全部嘘だった。騙されて喜んでいた僕が馬鹿みたいだ。

「皇子」

 イェッドの声が耳を通り抜ける。ルキアの泣き声だけが耳鳴りのように響く。

「皇子! ぼうっとしている場合ですか!」

「……」

 イェッドが僕の腕を掴んで引っ張り上げる。ムッとして顔を上げると、そこには真剣な瞳があった。

「スピカ様が、危ない」

「え?」

 危ない? 

「すぐに、ヴェスタ卿を」

 イェッドが騒ぎを気にしてやって来た侍女に声をかける。廊下にバタバタと足音が響く。

「父が……何か?」

 シュルマが母親めいた仕草でルキアの背を撫でながら怯えた声を出す。イェッドはシュルマに向き合って問うた。

「あなたのお母様の髪の色を教えて下さい」

 突然の質問に僕もシュルマもきょとんとした。どうしてそんな事を聞くのか分からなかった。

「え? ええっと」

「もしかして、赤、ではないですか?」

「な、なぜお分かりなのです!?」

 赤、という言葉にようやく耳が反応した。

「――どういうことだ?」

 イェッドは僕をじっと見つめると、淡々と説明する。

「ずっと考えていたのです。オルバースの娘があなたの妃の座を手に入れるにはどうすればいいのかと。こちらで乳母と対面すると聞いて、思いついたのです。でも今の今まで確証が持てなかった。

 シュルマはずっとスピカ様付きの侍女ですよね。宮から離れて、ルキア様の出産にも立ち会っています。今、ヴェスタ卿がルキア様の後見に付き、ルキア様の乳母にシュルマの姉が充てられ、スピカ様が姿をくらましました。ルキア様の髪の色は赤。そして――シュルマの母の髪が赤。となると……周りはどう思われるでしょうね」


 力が抜けた。


「……妃の座を丸々乗っ取られたってことか」

 言ったとたん、全身に汗が噴き出した。有り得ない。――あの肥った狸は、いったい何枚上手なんだ。

「え?」

 シュルマがきょとんとしている。この娘がこうして野心を持たないから、逆に油断してしまった。そこまで計算していたのか。

「巧妙な罠ですね。皇子は侍女に手を出さない。妃の座は空きそうにない。しかし、すぐ下を見ればルキア様というとてもいい材料が落ちていたというわけです。養子、までは考えつく方が多かった様ですが……」

「あの……私、申し訳ありません、分からないのですが」

 シュルマが心底不思議そうに尋ねた。僕は静かに説明する。怒りで声が少し震えてしまっていた。

「つまり、がルキアを産んだというように、仕立て上げられたという事だよ。僕がスピカではなく、君に子を産ませたと。そしてスピカはそれを苦に、宮を出て行った――そういう筋書きなのかな、ヴェスタ卿」

 目を見開くシュルマの隣には、いつの間にかヴェスタ卿が立っていた。その顔には相変わらず人の良さそうな笑顔が浮かんでいる。

「仕立てるなど……私は心から皇子とルキア様のお力になりたいと思ってやったのです。第一、この案の半分はそのスピカ様が提案された事ですよ。彼女が宮を出て行く事を条件に、私は後見を引き受けました。全部貴方のためだというのに、そんなひどい言いようをされずともよろしいではないですか」

「スピカをどうした」

 その名が僕の胸を抉る。

 スピカが提案だと? 一瞬疑ったけれど、妙に納得している自分がいた。

 シュルマの母の手紙には……何も書かれていなかったという。きっと、彼女はその髪の色を見て、すぐにこの道を見いだしたのだろう。犠牲になるのは彼女だけ。なんて、――なんて彼女らしい方法なんだろう。

 ルキアのため、僕のため。確かにこの方法ならば、ルキアは後ろ盾を得られて、何の問題も無く安全な立場を手に入れる。貴族の娘の産んだ子供として、堂々と生きて行ける。そして僕も、シュルマを妃に迎えて……強力な後ろ盾を得られる。

 シュルマだから。友人だから、スピカはその立場を手放し、預けたのだ。そして、当の本人は、それを知らないままに、今も呆然としていた。

「父様……本当なの? スピカ様は?」

「様などと付けずとも良い。お前はもうすでにルキア様の母親、つまり皇子の妃なのだから」

「なにを――」

 その言い草に僕は腹を立てる。

「昨日ご報告いたしましたでしょう。後見を引き受けた事を、発表しましたと」

「――――!」

 そう言えば、そうだ。昨日という事は、もう今朝には公になってしまっている。追い込まれている事に気がつき、ぞっとした。

「どちらがましでしょうか。平民出の妃が浮気をして、どこの馬の骨とも知らぬ男の子供を産んだというのと、皇子が侍女と浮気をして孕ませたというのと。私は、断然外聞が良い状況を提供させていただいたと思っておりますよ?」

 しばしの沈黙。部屋は静まり返り、胸の動機の音がひどくうるさく感じた。

「――スピカをどうした」

 僕はもう一度問うた。

「おやおや、逃げられたというのに、諦めの悪い……」

「言え」

 僕は睨みつける。

「祭りの行商人に金を握らせて任せました。彼女の行きたいところへ連れて行ってやれと。大丈夫です、あの近衛隊長が付いておりますからね」

 僕の中では答がほとんど出ていた。飛び出しそうな胸を押さえて、目をシュルマに向ける。そして静かに最後の確認をした。

「シュルマ、君、スピカの力の事、誰かに話したりした?」

 もし、はいと言ったなら、その腕の中にはルキアを預けられない。シュルマは僕の目をしっかり見て、答えた。その目には、僕と同じ色の怒りが浮かんでいた。

「いいえ、皇子」

「――イェッド!!」

 直後、僕は叫んだ。喉が裂けるかと思った。彼は頷いて出て行く。


 さっきふと気になったこと。シュルマの母の手紙は白紙だった。〈白紙〉、つまり普通の人間には読めないはずの手紙だ。それは、オルバースがスピカの力を知っているという事? もしそうだとしたら、なぜ? シュルマが話していないなら……誰も知らないはずの、その情報をどこから――?

 それから、今朝ハリスでの暴動が起こった。昨日イェッドが報告して来たのは何だったか。アウストラリスからの不法入国者が集まり不穏な動きを見せていると。そして、今朝の突然の暴動。ハリスの騎士団は、彼らを取り押さえるだろう。そしてジョイアは、過去に習う。暴動に抗議してアウストラリスとの国交を一時閉じる・・・

 その二つ事実の交わる先は、ある一人の男を指し示していた。

 これは、僕に対する宣戦布告だ。

 なぜ気がつかなかった。『塩』だ。岩塩、それはアウストラリスの主要輸出品。そして、交易の拠点は、オルバース。


「スピカを売ったな」

 この男はどこまで強欲なんだ。妃の地位だけでなく、彼女を騙し、利用して、アウストラリスとも繋がった。

「さて、何の事やら」

 男はとぼける事に慣れているようだった。

「僕は、お前を許さない。絶対に尻尾を掴んでやる」

 奥歯を噛み締めると鉄の味がした。目の前の狸はふん、と鼻で笑う。

「それが花嫁の父に対する態度でしょうか」

「誰が父だ! 僕がそう呼ぶのは父上とレグルスだけだ!」

 そうだ。レグルスは僕に対していくら厳しくても、馬鹿みたいに誠実だった。僕が義父上ちちうえと呼ぶなら、それはレグルスでしかない。

「……ふん、あの曰く付き・・・・の騎士団長ですか。……彼がいいと言われるのであれば、よろしいのですよ、私は。後見を降りさせていただいても」

 ヴェスタ卿は含みのある声でにんまりと笑う。弱みを握った気で居るのだろう。そちらがそのつもりなら、僕にだって意地も覚悟もある。

「分かった。降りてもらおう」

 僕は、男の目を真っ直ぐに見据えて言う。彼の目が泳ぐ。

「……お子様の髪の事はどう説明されるので? もう隠し立てできませんよ?」

 ヴェスタ卿の顔からはじめて余裕が消えた。笑みが消え、酷薄そうなその顔は、誰か別の人間のようだった。

「髪が赤かろうが、ルキアは僕とスピカの子供だよ。スピカの母は、髪が赤いんだから、おかしな事じゃない。――それを証明できればいいんだろう?」

 そうだ。最初から僕はそうしていれば良かったんだ。

 ――シトゥラ。彼女はあの家の娘だ。その縁を断ち切ってるから、こんな事になる。

 色々な事に決着を付けずに居たのがいけなかった。事実を確かめるのが怖くて、逃げていたのがいけなかったのだ。

 いくら誤摩化しても彼女は、あの家の一員なんだ。そこを認めないから全てが歪む。

 僕は縁を繋いでみせる。そして、その上でスピカを、取り戻す。

「誕生日まで、時間がありませんぞ」

「五ヶ月もある」

 握りしめた手を開く。そこには金色の髪の束が変わらず煌めいていた。僕は再びそれを強く握りしめる。

 ――愛してる

 彼女の言葉は真実だった。僕にはそれだけで十分だった。

 スピカ。僕は、諦めだけは、人一倍悪いんだ。

「――僕は、欲しいものは全部、この手に掴んでみせる」

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