第6章 君らしいやり方で―1
大人向け表現があります。ご注意ください。
もう、決めた事だった。これしか方法は無かった。なのに――どうして、今になって、こんなに迷うんだろう。
*
廊下は静まり返っている。燭台の火が僅かに流れ込むすきま風に揺れ、あたしの影を揺らした。
ルキアはシュルマに預けて来た。そう申し出たら、彼女はすごく嬉しそうに、今度こそ、戻って来ちゃ駄目よって、笑いながら送り出してくれた。
あたしは、大きく深呼吸をすると、シリウスの部屋の扉を叩く。
シリウスは、眠ってしまっているかもしれない。その時は、その時だったけれど……どうしても最後に顔を見たかった。あの瞳を見たかった。
あたしは、彼の想いを誤解してた。男の人が女の人と同じわけが無いのに、ルキアに対する気持ちが同じじゃないといけないって思い込んでた。同じだけ愛して欲しいって、願っていた。愛し方が違うだけで、彼はちゃんとルキアを愛していたというのに、あたしはそれに気がつかなかった。
でも……ほっとした。ルキアは彼の元にいれば、幸せになれる。――たとえあたしがいなくても。
サディラのお乳もちゃんと飲んでくれた。シュルマも居る。今だって、ルキアはシュルマに抱かれてすやすや眠っている。――だから、大丈夫。別れる覚悟は二月前からしていたから。今日だって一日中一緒に居て、いい思い出も貰った。
……シュルマとはもっとちゃんと話したかったな。彼女の母の手紙でしか教えてもらってなかったから、ずっと気まずかったし、……ちゃんと話して、謝りたかった。どれだけ辛かっただろう、あたしの侍女をするなんて。
『シュルマは皇子をずっとお慕いしていた』って、手紙に映るシュルマの母は言っていた。
あたしはすごく驚いたんだけど、すぐに納得した。そうよね、シリウスに想いを寄せる女性がたくさん居るのは当たり前。シュルマはずっと、宮でシリウスを見つめて来たのだろう。あたしは彼を大事にしなかった。どれだけ悔しかっただろうと思う。それなのにあんなに良くしてくれるなんて。あんな風に笑顔で接してくれるなんて。あたしには出来ないことが出来る彼女だもの、あたしよりずっと彼にふさわしい。
ごめんね。
今夜までは許してね。これで最後だから。明日から、彼の隣は貴方の場所だから。
変わらず扉は沈黙していて、あたしは悩む。鍵を借りて来ようかしらと、踵を返したとたん、後ろで扉が開きシリウスが顔を出した。その目が赤い。
「……スピカ!?」
「ごめんね、起こしちゃったかしら?」
「いや、……ちょっと仕事してて、居眠りしてたから、ちょうど良かったんだ」
頭を掻きながら、彼はちょっと焦った様子を見せる。
「仕事? こんな遅くまで?」
「う、ん。さっき匿名で持ち込まれた報告書があって……それより」
彼は言いにくそうに口ごもる。彼の目はあたしの空っぽの腕を気にしてる。
「あ、の……さ。何か用かな?」
その目が何か期待している。それが分かってあたしは笑った。今部屋に入っちゃうと、一言も話が出来ないかもしれない。あたしはひとまず提案した。
「星を見ましょう。昔みたいに。きっと今日は綺麗に見えると思うの」
こっそりと屋根裏部屋に忍び込む。部屋は小さく狭かった。昔は広く感じていたのに、もうシリウスは屈まないと天井で頭を打ってしまう。
昔はかくれんぼの絶好の隠れ場所だった。室内でのかくれんぼは大抵シリウスの方が有利だった。闇に溶けて見つからなくて、見つけてもらえないシリウスが最後には泣きながら自分から現れた。
あたしが思い出してくすりと笑うと、シリウスも同じ事を思い出していたらしい。少しムッとした顔をしてあたしを睨む。
あたしは笑ったまま窓を大きく開ける。
目の前に星空が現れて、久々のその光景に息を呑んだ。星が降って来ていた。
窓際に並んで腰掛ける。
「やっぱり、綺麗。空気が違うのかしらね」
「――君の星」
シリウスがひと際明るく輝く星を指差して言った。この季節の一番星。
「……そうね」
この土地ならではの、産まれた季節に縁のものから名を取る風習。同じ星の名前でもシリウスとは違って安易な付け方だ。父の事だ、あまり考えずに空を見上げて、あっという間に名をつけたのだと思う。
シリウスの冷たい手があたしの手に触れる。
「スピカ」
その心細そうな声に彼を振り返ると、シリウスは真剣な色をした瞳であたしをじっと見つめていた。
「僕に隠している事があるだろう?」
「ないわ」
即答する。ひょっとしたら、シュルマから何か聞いたのかもしれない。でも、あたしが黙っていればそれは明らかにならない。最後まで、隠し通すつもりだった。いいの。明日になれば、彼は何も気にならなくなるのだから。
「僕は、そんなに頼りない? 僕には、君を守る力は無いのかな」
彼はまだ疑っている。
「違うわ。そんなこと無いの。誤解はしないで。本当に、何も無いんだから」
「でも、君はなんだか変だ。一人で頑張ってるように見えるよ。ねぇ、スピカ。もう大丈夫なんだよ。僕がなんとかする。絶対に君もルキアも幸せにしてみせる。だから、君は――――」
「ありがとう、シリウス」
あたしはそう言うと彼の口を塞ぐ。
おしゃべりをしすぎた。これ以上、会話は要らない。彼は聡いから、どこからかヒントを見つけてしまう。今は、明日の朝までは、――悟られちゃいけない。
彼はキスに応えようとしない。まだ何かを気にしてる。あたしはもう一押ししようと、彼の首に腕を回す。彼が断る事の出来ない果実で誘う。
「――部屋に行きましょう」
その長い指に自分の指を絡ませる。そっと彼の心に忍び込む。最後は、彼の嬉しそうな顔が見たい。だから彼が求めるあたしを、精一杯演じよう。そして、彼の心を開いて、彼の中のあたしを全部手に入れて、その記憶ごと、彼の元を去るのだ。
* * *
「シ、リウス」
名と一緒にとてつもなく熱い息が溢れる。そして漏れ出た声も自分のものとは思えない甘い声。
駄目。演じてられない。
演じているうちに、演技は演技でなくなっていた。いままでと、何が違うの。熱い。夜に火をつけたのはあたし? それとも彼?
「スピカ」
このひとは、だれ。
「スピカ、愛してる」
この男は、だれ。あたしは、こんなの、知らない。あたしの知ってるシリウスは、こんな――
黒い長い髪があたしの胸の上で踊る。彼が身じろぎするたびに、体の中の熱が膨らむ。焦れる。もっと、もっと、あたしに触れて。あたしを奪って。
――ああ、だめよ。あたし、彼の記憶を手に入れなきゃいけないのに。
夢中になりかけてることに気がついて、慌てて力を使おうとするけど、彼の心の中は、あたしの過去ではなく、今しか映していなかった。
『愛してる』
久々に覗いた彼の心の中は、その気持ちで溢れていた。いくらかき分けても、それ以外の気持ちを見つける事が出来なかった。どこまで潜り込んでも消したい記憶に辿り着けない。あたしはそれでもその気持ち一つ一つを消しながら、記憶を探す。でもそれはすぐにまた芽吹き、広がってしまう。逆に捉えられて、その中で溺れそうになる。
奪えない。どうしても全部は奪えない。奪えなかったら、シリウスは――
焦燥感が高まる。それは、力を使えない事の焦りなのか、それとも、もっと別の何かなのか。
「あ――――!」
突然体の中の熱が花火のようにはじけた。体が痺れ、頭の中が真っ白になる。小さな叫び声が自分の口から飛び出したのを知り、頬が熱くなった。
「スピカ――――ごめん。僕、抑えが効かない――――君を壊しそうだ」
シリウスはどうしようもないという風に眉を寄せる。
『君がいないと、生きていけない』
彼の全身が、触れ合う全ての場所が、あたしにそう訴えていた。
あたしへの想いは、刻印のように彼の体に焼き付いていた。あたし、これを本当に消せるの? 急激に不安になる。
でもやらなければいけない。
後戻りが出来ない事はもう分かっていた。シリウスとルキアを同時に救うにはこれしかなかったから。ルキアはまだ幼すぎて別れの辛さは分からない。でもシリウスはそうはいかないから、……なんとか傷を小さくしてあげたかった。
心が矛盾した想いを叫ぶ。忘れて。でも――忘れないで。涙を必死で飲み込む。誤摩化すようにシリウスの首に腕を回した。泣き顔を見られたくなかった。
遠くでルキアの泣き声が聞こえた気がしたけれど、構わずに続きをせがんだ。彼の望む通りに背にしがみついて甘える。
――ごめんね、悪いお母さんだね。もうちょっとだけ、待ってね。今日だけは、お父さんを優先したいの。
彼の瞳を見つめる。もう泣き声も、――シリウスの声以外、他のどんな音も聞こえなかった。
あたしはいつの間にか思い出していた。一年前の、あたしを。
「あなたになら、壊されても、いい」
今になってこんな気持ちを思い知るのなら、――いっそのこと、本当に壊れてしまいたかった。