第5章―3
夕食時に先に食卓についていたヴェスタ卿は、先日見せたおおらかな笑顔で僕らを迎えた。この笑顔の裏に潜んでいる思惑はいったい――僕は、作り物の笑顔を浮かべながら、彼の様子を伺った。
彼は立ち上がると大きな体の割りに、優雅な礼をした。
「皇子殿下、本日はお招きいただきありがとうございます。それから、妃殿下、お目にかかれて光栄でございます」
「このたびは、息子の事で、世話になります。本当にありがとうございました。これから、よろしくお願いします」
スピカが僕の隣で口を開く。その言葉にも表情にも心がこもっているように感じた。
早速前菜が運ばれて、一時その場には穏やかな沈黙が漂う。
僕は、考え過ぎなのだろうか。目の前のヴェスタ卿の笑顔はつくりものに見えないし、過ぎ行く穏やかな時間に身を任せていると、シュルマの感じている恐怖など、嘘のように感じられた。
彼らがルキアの後見を引き受ける事で、今まで以上に得をする、何かがあるという事なのだろうか。僕は前菜のハムとフルーツのサラダを口に運びつつ、状況を整理する。
ルキアの後見を務め、僕が塩の関税に口利きをする。それだけで十分な取引になると思っていた。すでに彼の商売は安定を取り戻したそうで、国内の物流自体も元の状態を取り戻しつつある。それ以上に何かを求めるとしたら、やはり娘を妃にというのが分かりやすいんだけど……。まず、ヴェスタ卿は特に僕に娘を嫁がせようとしていない。そぶりさえ見せない。僕の身近にシュルマを置いておいて、何も言わないという事は、そんなつもりは無いという事だと僕は思っていた。大体僕がスピカ以外に手を出さない事は、シュルマが十分知っているはず。本宮に居る時に侍女として潜り込んだ娘が、夜伽を申し込んで来た事もあったけれど(部屋に戻ったらベッドで娘がまっていたなんてことはざらだった)、全て追い出した。僕がその手は食わない事は貴族中に伝わっていると思う。だから……分からない。
気になるのは、白紙の手紙。差出人であるヴェスタ卿の夫人は今回同行していないから、その〈内容〉を知るのは、この場ではスピカだけ、か。
目の前ではヴェスタ卿がルキアの後見について、時期も迫った事だし各貴族に報告しておきましたとニコニコしていた。それは、聞いていた話だし、ありがたいはずの報告なのに、なんだか心が重かった。
なんでこんな気分になるのか分からず、ため息をつく。とりあえず皿の上のハムを口に運ぶ。添えられたフルーツと一緒に食べるものだとは知ってるけれど、僕はあまりその食べ方が好きではない。それにしても……これ、塩辛い。
「いや、このハムは絶品ですな……」
ヴェスタ卿が頷きながらぺろりと平らげた。彼はハムもフルーツも一度に纏めて口に運んでいた。あぁ、なるほど、あんな風に食べればちょうど良いのだろう。
「私は塩にはうるさいのですよ」
ヴェスタ卿はそう言いつつ、堂々とおかわりを頼んでいた。
「うむ、本当にこれは美味い」
僕は半分呆れて苦笑いをする。こういうおおらかさは南部の人間の特徴だ。彼は僕の二倍ほど体重がありそうなのだけれど、それはこの食欲のせいのようだった。
「気に入ってくれて嬉しいよ」
僕はそう言いながら隣のスピカを見る。彼女は僕の視線に気がつくと、食事の手を止めて僕を見る。
「ルキアは?」
「隣室でシュルマとサディラに預かってもらってる。お乳もね、ちゃんと飲んでくれたのよ」
少しだけ寂しそうにスピカはそう言った。その顔から影が消えないのが気になって、僕は慰めの言葉を口に出す。
「良かったね。でも……ルキアの母親は君だから。ルキアはやっぱり君が一番なんだよ」
「う、ん。――あ」
一瞬スピカの顔が歪んだように見えた。スピカの手からナイフが滑り落ちる。くるくると回りながらナイフは床に落ち、カチャンと堅い音を立てる。
「……ごめんなさい。落としちゃったわ」
スピカの小さな声が響き、はっとして彼女を見ると、その顔には、少し申し訳なさそうな、でもいつもの笑顔が浮かんでいた。
*
夜風が緩く束ねたスピカの髪を靡かせた。遠くで何かがはじけるような激しい音が聞こえる。祭りはもう始まっているようだった。
僕は深く帽子を被る。街の民と同じような服を纏っていたけれど、髪だけは隠しようがないから。同じように街娘の恰好をしたスピカの手を取って、道を歩く。後ろにはミアーとループス。彼らは警備の人間と同じような恰好をして、僕たちと少しだけ距離を置いてついて来ていた。
ルキアはスピカの背におぶわれている。家で留守番をさせようと思っていたけれど、スピカが泣きそうな顔をしていたので、連れて行く事にした。それに、僕もシュルマの話を聞いていて、どことなく不安だったから。そのかわり、前方目に見える距離には、人垣の中、レグルスの金色の頭がぽつんと飛び出している。
二人きりでのデートなど望んではいなかったけれど、親同伴というのは……さすがに悲しいものがある。
広場に続く道の両脇にはたくさんの出店が賑わっている。国内からだけでなく、海外からも特別に許可を得た行商人が集まり、様々な商品を店先に並べている。珍しい色の果物、手の込んだ刺繍の入った織物、美しい色をした石、オリオーヌのような田舎では滅多に見る事無い品々だった。人々が群がって物珍しそうに物色している。
僕の脇を子供達が駆けて行く。手に駄菓子を握りしめて、高い声で興奮した声を上げている。道行く大人達も、手に食べ物を持ったり、酒を持ったり。一所に集まって楽しげに笑い声を上げる男達。頭に花を飾り軽やかに踊る女達。皆、祭りを心から楽しんでいるようだった。
広場に向かうに連れて破裂音が大きくなる。ルキアがびっくりして目をきょろきょろさせたかと思うと、一気に泣き出した。彼女は背からルキアを下ろすと、傍にあった木製の長椅子に腰掛けながら前に抱き直す。背を撫でられて、泣き声は小さくなった。
僕も隣に腰掛けると空いている方のスピカの右手を握った。スピカの指先はひんやりと冷たかった。ぎゅっと握ると、彼女もそっと握り返してくれる。彼女はいつだって僕の欲しがるものをくれようとしてる。
そうだ、今日は僕が彼女の欲しがるものをあげたかったから、ここに連れて来たんだ。
あの笑顔の仮面を外したい。仮面の裏の泣き顔を、本物の笑顔に変えてあげたい。それには……やっぱりシュルマが言う通り、僕はもっと全力で彼女に気持ちを伝えないといけないんだろう。
レグルスが近づいて来たかと思うと、手に持った川魚の串焼きを差し出した。国の北部でしか味わえない、清流の魚だった。
「毒味はしてあります」
こっそり言って、僕とスピカに手渡す。香ばしい香りが鼻をくすぐる。普段食べないものを普段食べない場所で。こういうのって、祭りの醍醐味だと思う。
「お祭りでこれ食べるのを、いつも楽しみにしてるの」
スピカが嬉しそうに微笑んだ。
温かった風は少しずつ冷え、湿って重みを増していた。
串焼きを食べ終わる頃、目の前で一斉に花火が上がり始める。祭りの終わりは近い。全部無事に火が着けば、今年は豊作だという。着火が進む。空で轟音が上がる。僕は街の民と同じように、無事に火祭りが終わる事を願った。
スピカの瞳の中で花火が煌めいていた。彼女は今だけは、昔に還って純粋に祭りを楽しんでいるかに見えた。
「スピカ」
「なあに?」
「――誕生日、おめでとう。17歳だね」
「――――あっ」
彼女はすっかり忘れていたようだった。僕は胸のポケットから包みを出す。
「開けてみて」
スピカが戸惑いながらも包みを開くと、耳飾りが二つ現れる。緑、赤、それぞれ色の違う同じ形の耳飾り。
この間あげた首飾りは、紐が大好きなルキアが引っ張るため、スピカは身に付けなくなっていた。でも無事にルキアが産まれたんだから、あれの役目はちゃんと終わっている。今年は邪魔にならないものをと考えた。
「おそろいにしようかと思って」
僕は自分の耳につけている小さな耳飾りを指す。幼い頃からずっとつけている黒い石の耳飾り。意味を知らなかったけれど、魔除けの意味があると聞き、スピカとルキアにも同じものを作ってあげたくなった。色は、それぞれの瞳の色に合わせている。
「こういうのもいいだろう?」
僕たちは家族だから。そう思いながら彼女の手を強く握り直す。
スピカは急に顔を伏せて、頷く。
「ありがとう、シリウス」
やがてその小さな口から溢れた声には涙が混じっていた。あぁ……失敗かな。僕がそう思ってこっそりため息をつこうとしたとたん、彼女が顔を上げた。
彼女が泣きながら笑っていた。
「あたし、……嬉しいの。ずっと、一生、大事にするわ」
「大げさだよ。僕は――そんなに大層なものを君にあげてないよ」
来年はもっといいものをあげるよ、そう僕は笑ったけど、彼女は首を振る。
「貴方から貰ったものは何だって嬉しい。――全部大事にしたいの」
僕が望んだ通りに仮面が外れていた。その瞳が強い光を宿していた。今渡した緑色の石のように、強く輝くその瞳をみて、――何か、嫌な予感がした。
「……スピカ――?」
「――あ! シリウス! ほら!」
彼女は涙を拭うと空に上がり始めた花火を指差す。直後、ひと際大きな爆音が辺りに鳴り響き、ルキアが驚いて再び泣き始める。その隣で、僕は夜空に溶ける火花をじっと見つめていた。