第5章 火祭り―1
ルキアの後見が決まってから、スピカは何か吹っ切れたように急に元気になった。今まで以上かもしれない。妙に張り切って、昼間は頼んでいた仕事をみっちりこなして、夜は僕のところに〈ルキアが起きるまでの間〉だけ、居てくれる。依然、その部分だけは変化がなく、というか、ルキアと離れたくなさそうなそぶりは前よりひどくなったかもしれない。顔には出さないけれど、あまり乗り気じゃないのは触れればすぐに分かってしまう。
でも、子の居る人間に聞くと、よくある話だそうで。護衛のループスは既婚者で5歳になる娘がいる。僕の様子に思うところがあったのか、剣の稽古の合間にこっそり昔の事を話してくれた。彼の話によると、とにかく、ルキアがある程度育って、夜中起きないようになるまでは僕は我慢しないといけないみたいだった。でも、ルキアももう産まれて七ヶ月。あと半年も待たずに済むはずで――
ふと視界の端で金色の髪がなびいた。
その煌めきに気を取られて顔を向けると、スピカが下ろしていた髪を器用に纏めているところだった。腕の中のルキアがぐずぐずと鼻を鳴らしている。お腹が空いたのだろう。待ちきれないように小さな足を突っ張ってスピカに乗り上がっている。「あぅー、んまぁー」そう訴えながら、左手は服を握りしめて、右手でぺちぺちと首の辺りを叩いていた。前はただ泣くだけだったのに、随分主張の方法が変わったな。
僕がそんな風に観察する目の前で、彼女は僕を気にせずにルキアにお乳をあげだした。眩しくて、ふいと目をそらす。……どうもこの光景は毒だ。見ていると自分が何か悪い事をしてる気分になる。
窓を少し開けると、水が張られた田がどこまでも広がっているのが目に映った。まるで鏡面のよう。山並みと森がくっきりと映しこまれて、吸込まれそうな異世界が広がる。
僕たちはオリオーヌへ向かって馬車を走らせていた。彼の地で行われる祭りに行くためだ。去年は仕事の都合がつかなくて行けなかったけれど、今年こそはと、張り切っていた。彼女が毎年楽しみにしていた祭り。幼い頃だけでなく、僕のところに来るまでずっと、毎年欠かさず行っていたと叔母から聞いた。
僕は、彼女の本物の笑顔が見たかった。
スピカはいつも笑っていた。でも時折見せる寂しげな表情が僕は気になって仕方なかった。万事がうまく行っている。もう心配する事は何も無いはずなのに、なぜか彼女はどこか遠くを見つめて小さくため息をつく。どうかしたのかって尋ねても、彼女は作ったようなきれいな笑顔でごまかしてしまう。隠し事? そんな風に疑ってしまうけれど、彼女は頑固で、口を割らない。彼女が隠してる事が一体どんなことなのか、いくつか予想を立ててみるものの、どれもピンと来なかった。
オリオーヌの祭りは、毎年初夏、稲の苗を植える頃に行う。この土地はたくさんの米を生産する穀倉地帯だ。稲が育つためには、夏に雨が降らないのも、降りすぎるのもどちらも困る。だからその地に住む神に、豊穣を願うのだ。
母もこの祭りが好きだったのだろう、この時期に理由を付けては里帰りをしていた。幼いころから、僕はこの祭りがとても苦手で、いつもいやがってた覚えしかない。
火が怖かったのだ。祭りに火は付き物。今ならそう思えるけれど、幼い僕には闇の中の不安定な揺らめきと熱がとても怖かった。
しかもこの祭りのメインは――
「楽しみね」
スピカが胸をしまいながらにこやかに話しかけてきて、僕は思い出から立ち返る。スピカはルキアを抱き直すと、その柔らかそうな頬を指でつんとつつく。ルキアがそれを喜んできゃっと嬉しそうな声を上げ、足をばたつかせた。
つられたようにくすくすとスピカは笑う。
「花火……まだ苦手?」
「そんなわけないよ」
僕はむっとしていう。
オリオーヌの祭りの最後は、大量の花火が締めくくる。僕は昔それが怖かった。彼女もそれを覚えているらしい。
「昔より改良されててね」
「そ、そうなんだ」
「シリウスが最後に見た時より三倍くらい大きな花火が上がるのよ!」
「……」
僕が黙り込むと、スピカが目元をゆるめる。視線を下ろすとルキアもニコニコとしていた。あ、僕の事を笑ってる。
「変わらないのね、大きな音が怖いのって」
「別に怖くはないよ、嫌いなだけだ」
ぷいと顔を背ける。音は別に怖くなくなった。だけど――花火といえば聞こえも見栄えもいいけれど、僕はあの華やかさの陰で使われている力がどうしても怖かった。
花火に使われている火薬。あれは、武器となる。東方の国では火薬はすでに武器としての開発が始められ、このジョイアでもひっそりと研究が進められていた。表向き花火の研究をしている事になっているけれど、実際は違う。研究の成果が、この祭りの花火だという事は、おそらくほとんどの国民は知らない。
まだ先の話だと思っていた。でも花火がそれだけ大きくなるということは、研究が進んでいるということにほかならなかった。
いつか、剣や弓でなく、新しい技術を使った侵略が始まる。それは、僕の治世で起こるのかもしれなかった。
僕は、スピカをこっそり見やる。――ルティが、スピカを欲しがる理由……か。
彼は国の為にスピカが欲しいと言った。侵略するため、そして、侵略されないため。――国が豊かになるため。
あの国は心を読むシトゥラの血を利用して、過去、ジョイアに何度も攻め入った。国力は断然ジョイアが上だというのに、情報戦で負けて、危ういところまで攻め入られた。ジョイアは間者に甘くはなかったけれど、シトゥラを知らなかったから、砦の構造から戦略までだだ漏れだったのだと思う。そして、未だ、ジョイアはその力の存在を知らない。万が一スピカがアウストラリスに奪われてその力を発揮したら、はじめてジョイアは彼女の価値を知るのだろう。
そして僕を責めるのだ。なぜ、その力を隠していた、と。
僕は――彼女の力を利用すればいい。いや、皇子の立場ならば彼女の価値を知らしめ、利用しなければいけない。彼女が傍に居る事は、正妃で居る事は、国にとって最良なのだと。そう言えば、誰も『武器』としての彼女を手放せと言わないだろう。でもそれでは、僕はルティと同じだ。彼女が国を背負うことが明らかになれば、取り巻くものはもっと大きくなり、命の危険はさらに増す。
それに――シトゥラのような家が作られる可能性だって否定できない。いや、今の貴族のスピカに対する態度を見ていると、その可能性の方が大きいかもしれない。僕からスピカを取り上げて、彼女に多くの子を産ませ、間者に仕立てる。彼女だけを利用するのではなく、きっと将来ルキアも巻き込まれるだろう。その『血』を『資源』として、大量に増やすのだ。現にアウストラリスはずっとそうやって来た。ジョイアもきっと、そうする。
今までその可能性は考えなかった。彼女にはずっと黙っていてもらうつもりだったし、考える必要はないと思っていた。だから、思いついた考えに思わず身震いした。どう考えても、彼女の力の事は言えない。言ったとたんに、貴族全員が敵となる気がした。
スピカが何を隠しているか知らないけれど、もし――彼女が自分の力の事を言い出してしまったら……それがひどく心配だった。賢い彼女だから、自分の持っているものの価値は知っているはずだ。ルキアも利用される事が分かっていてそんな事言い出すとは思えないけれど……、万が一がある。気を付けていないと。
僕は知っていた。ルキアの安全と引き換えならば、彼女が何も恐れない事を。
*
僕たちは例によってアルフォンスス家に滞在する事となっていた。去年、祭りに一緒に行けなかったから、僕は今年は結構前からいろいろと予定を立てていた。この別荘は僕の所有となっていたため、僕が手入れをしなければいけないのだけれど、古い屋敷だけあって傷みもひどく、今年の始めに、改修工事を入れていた。そして、ついでに頼んでおいた事もあった。
部屋の扉を開けたとたん、スピカが顔を輝かせる。
「うわぁ! 綺麗!」
窓から色とりどりの光が注いでいた。黄色の花の絵が色硝子で描かれたそれは、ステンドグラスと言うらしい。滅多に手に入らない特注品だった。
ジョイアでは硝子の原料が生産されないため、それらの製品は全て輸入品なのだ。美しいけれど作りが脆いため、宮でも南向きの部屋にしか使っていない。
少しでもスピカが喜んでくれたらいいなと思っていた。
だから、彼女が顔を輝かせているのを見て、ほっとした。こんなに喜んでくれるのなら、離宮にも入れてあげたいな。
「よかった」
ひっそり呟くと、スピカがこちらを振り向いてにっこり笑う。「ありがとう、シリウス」
その笑顔に目を細めながら口を開く。
「元気が無いみたいだから」
一瞬スピカが怯んだような顔をしたのを僕は見逃さなかった。馬車の中でも彼女はひたすら明るく振る舞おうとしていた。ちょっと不自然なくらいに。
「……あたしは、元気よ?」
また、誤摩化そうとしてる。本当に頑固なんだから。……こういう時こそ甘えて欲しいのにな。僕はため息をつくと、ソファに沈み込んだ。スピカはルキアを抱っこしたまま、目の前のソファに座る。ルキアはきょとんとした表情で窓から差し込む光を見つめていた。赤い髪は輝きを増し、茶色の瞳は光を反射してキラキラとして、すごく綺麗だった。
「ヴェスタ卿はもう着いてるのかな?」
僕が扉の傍に控えていたシュルマに尋ねると、彼女は少し目を伏せて頷いた。
「半刻ほど前に到着しております」
「じゃあ、夕食を一緒にと伝えてくれるかい? あぁ、夜は祭りに行くから、少し早めになるよ」
「分かりました」
シュルマが一礼して部屋を出て行く。
「なんだか……固くないか? 彼女」
以前はもっとくだけた感じがしてたんだけどな。僕がそう言うと、スピカが目を丸くする。
「シリウスが他の女の子の事気にかけるのって、はじめて聞いたかもしれない」
「いや、別に気にかけてなんか無い」
そんな言い方されると、妙に焦る。でもスピカは別に妬いてるとかそういうわけでもないみたいで、僕は慌てる必要は全くなかった。信用されてるんだろうけど、それはそれで寂しい。
「……シュルマは素敵な人よ。頼りがいがあって、気が利いて」
「分かってるよ。君の大事な友人だ」
僕がそう言うと、スピカは少し困ったように笑う。彼女がどうしてそんな表情をするのか分からず、途方に暮れた。僕は何かまずい事を言ったのだろうか。気になったけれど、どう尋ねて良いか分からず、言葉を探していると、扉が音を立てる。顔を見せたのはまたもやシュルマだった。
「殿下、スピカ様、姉がご挨拶をしたいと申しておりますが、よろしいでしょうか」
「え、夕食のときじゃ駄目かな?」
「夕食には姉は参りませんので……」
「ああ」
彼女がルキアをちらりと見たのを見て察する。
「そうだった。……僕は今からで構わないけど、スピカは?」
スピカが大丈夫だと頷くと、シュルマはやはり硬い表情のまま扉の向こうに消えた。
「随分気前がいいよね。ヴェスタ卿は。――乳母をつけてくれるなんて」
ルキアの後見が決まったあと、彼らが提案して来たのだ。ルキアの件で何度か会合を持った際、シュルマの姉が半年前に出産していたと話題に出た。僕が興味を持つと、乳母は必要ないかと提案して来た。スピカのルキアへの執着を考えると、嫌がるかなと思ったんだけど、彼女は驚くほどあっさりと承諾した。もっと仕事に打ち込みたいし、見てくれる人がシュルマのお姉さんなら安心だと。確かにルキアも動きが多くなって、少しも目が離せないから、僕はそんなものかと納得していた。
そして、――今回の旅はその顔合わせも兼ねる事となっていた。ヴェスタ卿は前々からオルバースの祭りに興味を持っていたらしく、ついでに、という事になったのだ。
スピカが、ルキアをあやしながら、少し寂しそうに笑うのを見て不安になった。やっぱり無理してるんじゃないか?
「やっぱり、嫌? 嫌なら今からでも断れるんだよ? 仕事だって別に無理してしなくてもいいんだ」
「ううん、大丈夫。だって、貴族出身のお妃だと、乳母が育てるのでしょう。そうじゃないと妃の務めがお留守になっちゃうものね。――そう考えると、今まであたしの手で育てられた事が幸運だったんだと思うの……だから大丈夫」
彼女が大丈夫と二回も呟くのを聞いて、やっぱり無理してるんだなって思った。取り上げられるような気分になっていても不思議じゃない。
「ルキアは、僕たちの息子だよ。君の好きな時に好きなだけ会える。心配する事は無いよ」
力まないように言ったつもりだったけど、少しそれは不自然に響いた。
「――うん」
スピカが顔を上げる。彼女は柔らかく微笑んでいた。でも、緑灰色の瞳がごめんなさい、と言っている気がして、僕はそれ以上彼女を見ていられなかった。