第4章―3
「――……?」
イェッドがふと後ろを振り向き、僕はつられてそちらを見る。
「どうかした?」
「いえ……何か猫の鳴き声のような」
「猫?」
首を傾げ、耳を澄ます。でも何も聞こえなかった。当たり前か。まず宮に鳥以外の動物が入り込む事は難しい。
「……まあ、空耳でしょう。それより、相談があるのでしょう?」
僕はすぐに頷く。そして部屋に急いだ。
重い音を立てて部屋の扉が閉まるのを見て、僕は切り出した。
「前言ってただろう? ……出産後の女性が繊細だとか」
「ああ……やっぱり、とうとうスピカ様に拒まれたんですね?」
イェッドは納得するように頷く。顔には笑みさえ見えた。――その、妙に力強い『やっぱり』ってなんだ。
「おそらく、貴方の居場所にお子様が居座られてしまって、皇子は居場所がなくなったのでしょう?」
「…………」
あまりに的確に表現されて、落ち込むどころか感心してしまった。
「……なんでわかる?」
「以前からスピカ様はその傾向が強いと、ご自分でも懸念されていらしたではないですか」
まぁ、そうなんだけど。でも、実際ここまでとは思いもしなかった。あれだけの事を乗り越えて来て、彼女に全く男と思われていないなど、どうして考えられるだろう。
イェッドはほう、と息をつく。
「――良かったですね」
「はぁ?」
思わず変な声が出た。――な、なにが!?
「このままだと、あなたはいつまでもスピカ様の子供の位置に甘んじなければならなかったのでしょう? 脱出できて良かったではないですか。一歩前進です」
あまりに前向きな意見に僕は唖然とした。何か聞き違えたんじゃないかと、疑うように尋ねる。
「いい方向に進んでいると?」
「まぁ……それは今後のあなた次第でしょうけれど。スピカ様があなたを守る対象としてではなく、本来のあなたとして見られて、どう思われるか、でしょう。……私はさっきのは割と感心いたしましたが」
「え?」
扉の前で石像のようにじっとしていたイェッドが脳裏に浮かぶ。
さっきの聞いてたのか? まるで興味なさそうな顔をしてたくせに。
「お受けになるかと思いました。少し聞けばそんなに悪い話ではなかったので。あちらも色々策を練ってる様でしたが……よく頭が回られましたね」
僕は頷く。一瞬その手があったかと思った。でも――それでは駄目だ。彼らが言う平和などまやかしだ。彼らは、牙を隠していた。スピカが妃でなくなれば、ルキアが皇子でなくなれば。僕から離れて宮を出た瞬間に、彼女達の命は無くなるだろう。僕の全てを握る女性と、僕の血を引く子供を、彼らが黙って置いておくはずが無かった。
僕はルキアに名を与えた。あのとき、もう他の道はほとんど途絶えてしまっているのだ。惑わされてはいけない。もう逃げ道はないのだから。
「明日……オルバースの対面がまだ残っている」
自分に言い聞かせるように呟くと、イェッドが小さく息をつく。
「期待は出来ませんよ。彼らにとってルキア様の後見など何の利益も無いのですから、どんな条件を出されるか分かりません。パイオン卿のように分かりやすい条件を出して来るとまだいいのですけれどね。
それにしても……あなたがそこまでこだわるのは――どうしてです。シェリア様ではなくとも、まだ正式に妃を娶れば間に合うかもしれない。こんな事になった今、貴方が新しく妃を娶っても、誰もあなたを責めませんよ? スピカ様も、レグルスでさえ」
僕はじっとテーブルの上の冊子を見つめた。そして呟く。
「僕は……僕は許されたいんじゃない。これ以上誰も傷つけたくないだけなんだ。妃を娶っても皆僕を許すかもしれない。でも、スピカもルキアもレグルスも傷つく。……それだけじゃない。新しく娶った妃の事をきっと僕は愛せない。――僕は義母上のことを忘れてはいない」
父上に愛されず、妄執に取り付かれたあの女。未だ目覚めない彼女は、今どんな夢を見ているのだろう。
「シェリア達はあんな事言ってたけれど、――愛が欲しくないなんて、嘘だと思うよ。誰だって、愛されたいはずだ」
それを忘れたら、悲劇は、また起こる。
*
……結局相談にならなかったな。その割に、わりと励まされたような気もするけど。
僕はそんな事を思いながら、机の上の書類と向き合っていた。昼間渡してもらった、ハリスとオルバースの調査書。じっと眺めていると、何かが気になった。――一体なんだ?
記憶の引き出しを開けて、情報をとり出すけれど、なかなか欲しいものが出て来ず、焦れる。
どちらも相変わらず不法入国が絶えない。アウストラリス側はそれに対応するだけの余裕が無い。彼の国の、特に首都周辺の水不足は一年でかなり深刻化しているようだった。――水不足? やはり引っかかる。水の他に何か不足しているものがなかったか……?
そう思って資料を取り出そうとした時だった。
引き出しから同時にメモがひらひらと舞い落ちた。
「うわ」
床のあちこちに舞い散る紙を慌てて拾い集める。
――結構溜っちゃったな……。あれ? 僕、今何かしようとしてたんだけど……。だめだ、どうも集中力がなくなってる。
ため息をつくと紙を束にして机の端に置いた。そして引き出しの奥に隠しておいた綺麗な表紙の冊子を取り出す。それは――こっそりつけていた日記だった。自分の事ではなく、ルキアの成長記録。もうかれこれ三冊目だ。
スピカが話してくれた変化や、自分で見つけた変化。気づくたびにメモをして、溜めておいた。離宮で誰かに見つかるのが恥ずかしくて、清書は本宮の自室でこっそりやっていた。
先週の分まできっちりつけてある。今日は機嫌が良かったとか悪かったとか、夜泣きをしたとかそう言う些細な事が大半だったけれど、熱が出て心配した事とか、はじめて寝返りをしたときのこととか、その時の誇らしげな顔とか、歯が生えたこととか、スピカがおっぱいを噛まれて痛がっていた事とか……本当にいろんな事がごちゃ混ぜで綴ってあった。
ルキアの世話はスピカがほとんどしていて、僕は何も出来なかった。父親の役割など、今のところ無に等しい。だからせめて僕はこうして記録をつける事で、ルキアの父親になろうとしていたのかもしれない。
今週の分……清書しないとな。そう思って、いつものように冊子を開いたけれど、筆が途中で止まる。耳にスピカの声が張り付いて、それ以上進められなかった。気がつくと文字の上に水滴が落ちていた。文字がじわじわと溶けて、黒いだけの染みになっていく。
まるで僕の心のようだ、そう思った。
* * *
離宮には夕方を待たずに帰った。途中ルキアが泣き出したのでひやりとしたけれど、あらかじめ門番を買収していたため、結局は事無きを得た。
山道に揺れる輿の中、ルキアは振動が逆に気持ちがよかったのか、すやすやと眠っている。本当に良く眠って手のかからない子。
あたしはルキアの頭にすっぽりと被せていた帽子を外す。赤い髪が蒸れてぺっとりと小さな頭に張り付いているのをそっと梳く。そうしながら目の前の侍女を横目でちらりと見た。
シュルマは馬車の中で、妙に青白い顔をしていた。宮で、誰かに何か呼び出されて、帰ってきてから様子が少し変だった。あたしのことを怒ってるっていうのとはちょっと違うようで、心配だった。けれど、シリウスの件であたし達の間には見えない壁が出来たみたいで、声をかけるのが躊躇われた。
ひどい、って思ってるんだろうな……。あたしだって、さっきの自分を思い返すと、そう思う。自分は何もしていないくせに、シリウスだけを責めて。――自分じゃないみたいだった。
でも、ルキアが絡むとどうしても、だめ。いくら軽蔑されようと、嫌われようと、ルキアを守れるのは、あたしだけ。その為には手段を選べない。非難はいくらでもうけるつもりだった。
明日、シリウスが戻って来たら、お願いしよう。――ルキアを守りたい。シリウスも守りたい。両方は無理だと思っていた。でも出来る方法があるのなら選びたい。だから、あたしを捨てて。
彼は約束にこだわってる。あたしの望みを伝えよう。そうすれば、きっと、彼は楽になる。今は辛くても、きっと幸せになれる。
夢中で考えていると、あぁ、昔こんな事があったかもしれない、そう思い出した。
あれは、あたしがシリウスの記憶を消さないように、シトゥラの訓練を受けたいと言ったときだ。彼はあたしが犠牲になることを恐れて、大事な約束を持ち出した。とっても大切な切り札をあたしにくれた。
ルキアに名をくれたのも、同じ理由。自分の子だと確信も持てないというのに、彼は優しいから。
そうやってあたしが傷つくくらいならと、彼は自分を傷つける事をを選んでしまう。
この先も、きっと、ずっと。
「スピカ……ちょっといいかしら」
声に顔を上げると、シュルマがじっとあたしを見ていた。その表情は、何かを恐れるかのよう。あたしは不思議に思う。詰られるかもって構えていたのはあたしの方なのに。
「これを」
彼女が差し出したのは一通の手紙。シュルマがずっと握りしめていたせいで、それはぐしゃぐしゃに皺が寄っていた。
「私の、母、から。……あなたの力を使って見て欲しいの」
シュルマの声は震えていた。
あたしはそれを手に取り、彼女の言うように、それを『見た』。そして、瞼の裏に広がった色に驚いて、目を見開いた。
* * *
「スピカ!」
僕は足の泥を払う暇さえも持て余し、結局片足は馬から下りたままという状態で部屋に飛び込む。
「シリウス? どうしたの? 慌てて」
スピカがそう言いつつ、埃だらけの僕を見て顔をしかめた。ルキアが居るのに、と不満そう。だけど構っていられない。
「――ルキアの後見が決まったんだ!」
「え?」
きょとんとした顔だった。それがひどくもどかしい。自然声が大きくなる。
「今日会った貴族がね、ちょっと条件は付けられたけど、……ルキアの後見を快諾してくれたんだ!」
「…………」
その表情がさきほどのまま固まっている。
「――嬉しくないの?」
なんだか顔に影が出来ている気がして、驚く。見た事の無い、なんだか不自然な表情。びっくりしすぎちゃったのか?
「え、えっと、どういうこと――?」
彼女はようやくそう尋ねる。
「今まで通り、君は妃のまま。ルキアは皇子のままという事だよ。一歳の誕生日にも間に合った」
僕は微笑んだ。
「ヴェ、ヴェスタ卿は、ルキアの髪の事は知っているの?」
目を見開いたままスピカが尋ねる。そっか、それを心配して――
「知っている。条件を聞いたあとに、打ち明けたよ。さすがに話さないわけにいかないから。君の母親の事を話したら、ちゃんと納得してくれたよ。そしてね、すごくいい事を聞いたんだ。子供の頃赤毛でも、年を取ると色が変わったりするんだって! 父上に似たんだろうって!」
僕は浮かれたまま、彼女を抱きしめる。抱きしめずにはいられなかった。
「でも……そんなことしても、何か、利益があるのかしら」
彼女は僕の腕の中で囁くように言う。その体が少し震えているような気がして、僕は腕を緩めた。覗き込んだ顔に恐怖が浮かんでいない事に安心する。
確かに僕も最初疑った。だから条件を貰って、安心した。きっとスピカも聞けば納得すると思う。
「オルバースでは、交易が盛んだろう? 今、情勢が不安定だから、流通が滞って困っているらしいんだ。だから、関税を一時少し下げてくれと。それなら、やろうと思ってたから、ちょうどいいんだ」
確かに調べてみると、塩が値上がりしていた。塩はほとんどが輸入品で、生活必需品。流通が滞るのはひどく頭の痛い問題だった。
「それに、シュルマがスピカに良くしてもらっているからって」
多分それが一番大きいんじゃないかな。やって来たヴェスタ卿を見てそんな風に思った。シュルマに良く似た、人好きのする顔。大きな笑い声。下がった眉尻。見ていて安心できた。きっとスピカの事をシュルマから聞いて、それで、力を貸す気になったんだと思う。
そう思ったとき、ふと、何かが心の隅をかすめた。あれ――? でも、それを打ち消すように、唐突にスピカが呟いた。
「――ありがとう、シリウス」
腕の中の彼女は、涙ぐんでいた。僕がその泣き顔に慌てると、スピカも慌てたように俯いて、付け足した。「ごめんなさい、あたし、……嬉しくて」
涙声が胸に染み込み、そこだけ焼け付くように熱くなった。
「うん……僕も嬉しい。ずっと粘っていて良かった」
金の髪に頬を埋めると柔らかいいい香りがした。――彼女を手放さなくて済む。そんな想いとともに息を大きく吸込んだ。
彼女は僕の腕の中で固まったまま身じろぎもしなかった。昔みたいに腕を背に回す事も無く、口づけをせがむ事も無い。どうやら、その瞳が潤んでいるのは、涙のせいだけみたいだった。僕は多少気分を萎ませながら、彼女を解放する。……そんなに、簡単に何もかもうまく行くはずはない、か。
「おやすみ」
そう言うと、スピカが今度こそ本気で訝しげな顔をして僕を見上げた。僕が昂ってるのは彼女も分かっているはず。そのままベッドに連れて行かれると思っていたのかもしれない。あの話を僕が聞いたなど、思いもしないんだろうな。
思い出して、心の中を風が通り抜けるのを感じる。でも――いいんだ。これでスピカの心の負担が少しは軽くなる。いつか、きっと前の彼女に戻ってくれる。僕はそう信じることにしていた。