第五十三話 赫き瞳との邂逅
アイザックは丁字路の向こう側に聳える吸血鬼狩りの協会を指す。
装飾に乏しい白い石積みの建物であるのに、みすぼらしさを感じさせないのはそれだけ手入れが行き届いている証拠である。また、教会の下部組織というだけあって、落ち着いた色合いの粘板岩の屋根の上には、大きな十字架が掲げられていた。
間口は広く、出入りの扉も広めに作られているため、民間人に対して広く開かれていると感じられる点は、エリシュカは好感が持てた。
「協会は二十四時間誰かしら待機しているんだよ。夜、何か起きた時に駆け込む場所は必要だろう?」
フローリアンの言葉に、そうね、とエリシュカは頷く。
フローリアンの言う夜間の有事とは、吸血鬼関連のみに的を絞ったものではないだろう。その規模の大小はともかく、自警団のような役割も果たしているに違いない。
フローリアンは扉に近づくと、取っ手を軽く押してエリシュカに道を譲る。
彼に促されるままにエリシュカが中に足を踏み入れると、エントランスは意外と整然としていた。依頼者のための椅子がそこかしこに置かれており、端には談笑のための区画も設けられている。
特にエリシュカの目を引いたのが、中央に設えられたコの字型の受付机と、慌ただしく応対する三名の女性の姿だ。一人は依頼者と思しき男に対応しており、残る二人は吸血鬼狩りに何らかの説明をしているようだった。
「──もう質問はございませんか? それではよろしくお願い致しますね」
受付係は笑顔で吸血鬼狩りを送り出すと、出入り口付近で佇むエリシュカに気付き、にこりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ、ご依頼でしょうか? こちらでご用件をお伺い致します」
「あ、その、私は……」
流石に自ら“使徒”だと名乗る勇気はなく、エリシュカは困ったように背後のヴィタリーを振り返る。
「ああ、大丈夫だ。彼女は協会長の客だ。すまんが、協会長を呼んできて貰えるか?」
協会長が自ら出迎えるような大層な人間はそう多くない。受付係の華やかな笑顔の中に、一滴の緊張が滴り落ちる。それは波紋のように全身に広がって、一瞬強く強張った。
「──お呼びいたします。椅子におかけになってお待ちくださいませ」
だが、今回ばかりは積み重ねた経験がものを言う。受付係はたおやかな笑みを再び貼り付けると、設えられた革張りの椅子を手で示した。丁寧に頭を下げて辞去し、協会長を呼び出しに奥に伸びる通路へと向かう。
だが、エリシュカは椅子に座ろうとはしなかった。受付係の小さくなった後ろ姿を見送ったまま、一切動こうとしない。
「あれ、エリシュカさん? どうし──」
「……なんだかなァ……気色の悪い気配がするなァ!」
エリシュカ──いや、“御使い”アレスが吼える。
耳を疑ったのは傍にいたヴィタリーやフローリアン、アイザックだけではない。たまたま居合わせた吸血鬼狩りや依頼者たちまでもが何事かと振り返った。
アレスは有象無象に興味はないとばかりに、発した言葉の意味すら説明もせずに走り出す。姿勢をやや低くし、行き交う吸血鬼狩りたちの脇をうまくすり抜けるのは美しくも野生の獣のようであった。
「ほう。中々いい動きだ」
アイザックは感心したように指を顎で擦った。
「言ってる場合か! ちょっ……、お待ちください……!」
ヴィタリーの制止虚しく、アレスは天井すれすれの高さまで跳躍すると身体を捻りながら受付係──ではなく、彼女と入れ違いで奥の扉からエントランスに入ってきた黒髪の男に蹴りを食らわせる。
不意の襲撃だったはずだが、男は視線を向けることすらなく片手でアレスの蹴りを防いでみせた。
蹴撃を受けた男の腕からみし、と骨が軋む音がしたが、彼は眉一つ動かすことはなかった。それどころか、まるで虫でも払うように腕を振るい、いとも容易くアレスの身体を押し返したのである。
押し返されたアレスは空中で身体を一回転させて体勢を整えると、猫のようにしなやかに、四肢を使って着地した。
アレスは床に手をついて立ち上がるが、その顔は不快など軽く通り越して嫌悪に歪んでいる。
「おいおォい、冗談だろォ……? 何で吸血鬼が協会にいやがる? いや、それよりも……吸血鬼を手引きした大馬鹿野郎はどこのどいつだァ?!」
アレスは憤怒した。
吸血鬼狩りは吸血鬼に対抗できる数少ない人類であり、その狩人の集う本拠地は民草にとって最後の砦──ある意味での聖域でなければならない。
だが、蓋を開けてみればどうだ。吸血鬼が協会の中を我が物顔で闊歩し、注意を向ける者が誰一人としていないという壊滅的に危機感の欠けた状況である。
アレスは呆気に取られた周囲を威嚇しながらも、再び黒髪の男に挑もうと距離を詰める。
しかし、あわや一触即発かと思われたその時、ヴィタリーが何とかアレスに追い付き、その細腕を掴んで押し留めた。
「お待ちください! この男は──ロイは敵じゃありませんから!」
「離せ! 何を言うかと思えば、何だそのお粗末な言い訳は?! 吸血鬼は敵に決まってんだろォが?!」
黒髪の男はヴィタリーとアレスの小競り合いには全く興味はないようで、腕に付いた埃を手で払っている。そのまま立ち去ろうとした瞬間、エントランスの一角でげらげらと下品な笑い声が上がった。
「……手前の女かぁ? 職場に情婦なんぞ連れて来るもんじゃねぇぞぉ」
「よくもまぁ、あんなじゃじゃ馬を乗りこなしてるな? 余程具合がいいのか? 次、俺にも貸してくれよ」
ロイの赫い瞳が剣呑な光を帯び始める。冷え固まった血液のように濁りきった赫色を、軽蔑も露わに下品な同輩達に向けた。
「……馬鹿馬鹿しい」
「……あ?」
「女と見ると元々低い知能がこうも低下するのか。己が低俗だと喧伝するのは勝手だが、あけすけな話にあんな子どもを巻き込んで悦に浸るな。自虐だとしても、悪趣味が過ぎる」
「……この野郎!」
ロイの言葉は吸血鬼狩りたちの自尊心をいたく傷つけたらしい。ロイを取り囲もうと言うのか、じわじわと距離を詰め、その包囲網を狭めていく。流石に吸血鬼狩り同士の揉め事となれば看過出来ず、フローリアンとアイザックが仲裁に乗り出そうとした。
その時──
「何の騒ぎだ」
かつん、と硬い木の擦れ合う音と共に上背のある女が大股で駆け寄って来た。
短く刈り込んだ鴇色の髪と海松色の目を持つ女だった。この国では珍しい褐色の肌には歴戦の傷跡が刻まれている。
女は男が着るような白い襯衣と黒の脚衣という出で立ちだ。そしてその左脚は一本の細い木棒──義足である。歳の頃は四十を少し過ぎたくらいだろうか。
彼女が現れるとそれまで気炎を上げていた柄の悪い吸血鬼狩りたちは、気勢が削がれたかのように消沈した。
「ベロニカ協会長……」
ヴィタリーがほっとしたようにその名を呼ぶ。
ベロニカはヴィタリーとアレスの有様を確認した後、最も平静であるロイを見た。
「……ロイよ、何があった?」
「何も」
ロイは面倒事に巻き込まれそうな気配を察知し、口を閉ざす。そして、足早にその場から立ち去ってしまった。事の顛末には毛ほども興味がないのだろう。
「全く、アイツは! 聴取もろくに出来んな!」
ベロニカはロイの態度に呆れながらもヴィタリーとアレスに近付いた。膝関節を固定する留め具を緩めると、ぎこちない動きで床に片膝を付き、アレスに向かって頭を垂れる。
「尊き方自ら足をお運び頂いたというのに、とんだことに巻き込んでしまい申し訳ございません」
アレスはその謝罪を当然という態度で受け入れる。
だが、困惑したのは何も知らぬ吸血鬼狩りたちだ。組織の首に頭を下げさせたアレスを見て、見る見る内に顔が真っ青に染まっていく。
「ベロニカ協会長……このアマ……いや、この方は、一体?」
ベロニカは未だに膝すら折らない部下を厳しい顔で振り返る。
「この方はエリシュカ・ルプ。今顕現されている“御使い”、アレス様の使徒だよ。まさかお前たち、この方に失礼なことはしてないだろうね?!」
「み、“御使い”……?」
「あの……伝説の……?」
一拍遅れて、アレスを情婦だのじゃじゃ馬だのと散々嘲笑った吸血鬼狩りたちは、恥も外聞も捨てて床に額を擦り付ける。
「し、し、知らぬこととは言え……しし、失礼を……! ど、どうか、お許しを……!」
今にもアレスの脚に縋り付いて命乞いをし始める勢いである。
そんな彼らに、アレスは麗しく微笑みかけた。
「──腹ァ掻っ捌いて死ね」




