第三十一話 悪逆の花嫁、虚妄の華燭
──欲しい。
──見返りを求める愛ではなく、全てを差し出すような"あの方"の愛が。
──だが、その愛は私に向けられることはない。永劫に。そう、永劫にだ。
──何故? 私は誰よりも"あの方"に愛されるべき存在なのに。
──手に入らないのならば、奪うまでだ。私にはそれが許される。
──何を犠牲にしようとも、"あの方"の愛を手に入れる。
──だが。
──だが、まだその時ではない。
──先ずは忌まわしい"毒婦"を屠り、"あの方"にご満足頂かなければ!
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星屑が華燭のようにぎらぎらと瞬いていた。宵の空に未だ月影はなく、鈍い闇が春の空気を黒く凝らせている。
アルフレートは湯浴みと着替えを済ませて、自室の掃き出し窓から外の様子を窺っているところであった。
アルフレートは危うさを孕む闇から目を逸らし、徐に寝台脇机へと向かう。一番上の抽斗を開けて取り出したのは、最新式の武骨な回転式拳銃であった。
アルフレートは慣れた手付きで弾倉を横に滑らせ、薬室を確認する。
六つある薬室の内、五つに弾丸が装填されており、撃鉄の下の薬室だけが空の状態だった。これは落下などの衝撃で銃が暴発するのを防ぐための措置である。
「……果たして、化け物相手にこんなものが通用するかは甚だ疑問だが、な」
アルフレートは溜め息を吐いて弾倉を元の場所に戻す。
化け物がエリシュカの命を狙っていると知った今、アルフレートが引き金を引くことを躊躇う理由などない。刺し違えてでもエリシュカを──領民を守る覚悟もある。
だが──とアルフレートは思う。あり得ないと思っていても、幻想を見てしまうのだ。もしも吸血鬼が彼女だったなら、と。
オフェリアが不貞を疑ったアルフレートを怨み、殺しに来たとしたら──果たして自分は彼女を撃てるだろうか。
「……いや。迷うな、躊躇うな。エリシュカを守るためならば、私は──」
撃てるという言葉は遂に紡がれることはなかった。
忸怩たる思いでアルフレートが歯噛みした、その瞬間である。
「──ねぇ、開けてくださらない?」
一瞬にして、周囲の空気が凍った。
それは部屋の中で発されたものではない。部屋の外、窓越しに呟かれたと思われる、くぐもった女の声だった。
だが、それはあり得ないことだ。
アルフレートの自室はヴィスコル城の三階にある。掃き出し窓の外は露台となっており、およそ非力な女性がよじ登れる場所ではない。
衝撃の余り、アルフレートは咄嗟に顔を上げることが出来なかった。ただ、息を潜めてゆっくりと銃の引き金を引いた。
弾倉が回転し、銃身に弾丸の装填された薬室が合わさる。再び引き金を引けば、今度こそ銃弾は発射されるだろう。
しかし、アルフレートは引き金からそっと指を外した。
標的に構えて、発砲する寸前までは決して人さし指を引き金に触れさせてはならないからだ。軍人になった瞬間から、死ぬ程叩き込まれた動きだった。
「ねぇ、開けてちょうだい? 愛しいあなた」
その言葉を聞いた瞬間、アルフレートは痛々しく顔を歪めて銃口を窓の外へと向けた。
硝子を隔てた闇の向こうに、白銀色の髪の女が佇んでいる。
白いウェディングドレスを身に纏う、美しい女だった。紅の刷かれた唇は弦を張った弓のように口角が上がる。馥郁とした香りがこちらまで匂い立って来ないのが不思議なほどに頬は上気し、紫電の瞳が熱っぽくアルフレートを見つめていた。
「オフェリア……」
アルフレートの手が震え始めた。そうなると、引き金に人差し指を添えることすら難しく、白皙の額にじわじわと汗が滲む。
「どうして開けて下さらないの? 中に入れて頂戴。私と婚礼の儀を挙げて下さるのでしょう?」
女の紫の瞳がうるうると揺れ、物憂げに瞼を伏せる。華奢な肩の丸みといい、白い目元に薄く影を落とす長い睫毛といい──アルフレートの目の前に現れた臈長けた女は男の庇護欲を煽る全てを持っているように見える。
──私が愛したオフェリアはそんな女性ではなかった。
怒りのあまり、頭がぐらぐらと煮えた。
かつて傷付いたエリシュカを救ったオフェリアは知識と優しさ──なにより逆境に屈さぬ強さを持った女性だ。泣いて男に媚びる女ではない。
「巫山戯るな……オフェリアを騙る偽物の分際で」
「……アルフレート様……何を仰るの……? 私は……」
「これ以上彼女を穢すつもりなら──今すぐにでもその顔に風穴を開けてやる」
女はぴくりと柳眉を寄せる。女の目から情欲の熱っぽさが引いて、強い困惑が露わになった。
「どうしてそんなに冷たいことを仰るの……? 酷いわ……」
「お前が本物のオフェリアならば、その窓を開けることくらい容易いはずだ。生前、何度もこの城に足を運んでいるのだから。……それとも私が扉を開けなければ入れないか?」
アルフレートが挑発しても、女は泣くばかりで動こうとはしない。この時点で、オフェリアとそっくりな顔をしていても全くの別人だと自白したようなものだった。
──このまま朝まで籠城……いや。それでは徒に被害を増やすだけだ。
既にアルフレートの手の震えは止まっている。引き金に人差し指を掛けた、その時だった。
女は恍惚の表情でアルフレートに微笑みかける。
「……その目、とっても素敵ね。あの女に向けていた、甘く蕩けるような瞳も私好みだったけれど」
「何……?」
「ふふ、私達、既に一度出会っているのよ。街の大聖堂の前を歩いていたでしょう? 尤も、あなたはあの女に夢中だったし、覚えていらっしゃらないかしら」
まぁ、とオフェリアによく似た女はいやらしく口角を歪めた。
「今の私の姿はあの時とは異なっているから、気付かなくても仕方がないわ。……ねぇ、アルフレート様。あなたはこの外見が好きなのでしょう?」
女は胸に手を添えて、その場で優雅にくるりと回ってみせる。
アルフレートから見て、女は爪先から頭、それこそ後ろ姿に至るまで完璧にオフェリアを模倣していた。
あんなにも逢いたいと願っていた顔が、今目の前にある。そのはずなのに、いざオフェリアと同じ顔を前にしても掻き立てられるのは愛情ではなく憎悪ばかりだった。
「どうかしら? この姿を得るために、美しい女たちを少しずつ、何人も喰らったのよ。そして、ようやくあなた好みの女になったの。これだけ努力したのだから、褒めて頂けるわよね?」
吸血鬼は人間の血を飲むことで美しさを保ったり、怪物としての能力を強化するのは周知の事実だ。
しかも、とりわけ古い時代の、純粋な吸血鬼は血袋のような姿で生まれ、人間を喰らうことでその姿を模倣するらしい。それは人が好む見た目を獲得することで人間の警戒を解き、より血液を摂取しやすくするための進化だと言われている。
今、女はアルフレートの好みの外見になるために女を喰らったと宣い、自分の努力を讃えてほしいのだと無邪気に笑った。
その悪辣さにアルフレートは吐き気すら覚えた。
「私好みの顔になるため……? 馬鹿な……そんな下らないことのために、女性達を襲ったのか……?! 命を何だと思っているんだ?!」
アルフレートの激昂を目の当たりにした女は、唇を尖らせ表情を曇らせる。その有様に、アルフレートは腹の底に怒りと冷酷さが芽生えるのを感じていた。
──本気で、私が喜ぶとでも思っていたのか。
この女には人が当たり前に持つ倫理観など存在しないのだ。改めて、アルフレートは吸血鬼は人と相容れない化け物なのだと認識した。
「……どうして怒るの? あの女たちは誰よりも美しいからこそ、私の糧に選ばれるという栄誉に与ったのよ? きっと私の役に立つことが出来て、光栄に思っているはずだわ」
「やめろ! これ以上被害者を愚弄するのは許さん! 女性はお前の欲望を満たすために使っていい存在ではない!」
女はアルフレートの怒りの奈辺がついぞ分からなかったらしく、困ったようにアルフレートを見つめ返すばかりである。
そこには、まるで頑迷な子供を見つめる母親のような寛大ささえ見え隠れしていた。
「……もう、仕方のない方ね。私の本意ではないけれど、もう一度言うわ。私をお部屋に入れてくださいな、旦那様」
女の瞳孔が稲妻のように縦に裂ける。その言霊はアルフレートの耳と脳を揺らし、思考停止へと至らしめた。
アルフレートは脱力し、銃をその場に取り落とす。幸い銃の暴発は免れたものの、もはやアルフレートには身を守る術が無い。
にも関わらず、アルフレートはまるで神の啓示を脳髄に刻み込まれたように、ふらふらと窓に──女に近寄っていく。そっと掃き出し窓をゆっくりと開け放った瞬間、夜風が白皙の頬を撫でた。




