第十六話 ゆるせない
ヴィスコル城の書斎は主塔の一階、北側の一角に、ひっそりと鎮座する。
その室内は天井まで届こうかという巨大な書架で埋め尽くされており、比較的新しい歴史書から軍事、兵法関係の稀覯本までもが整然と並んでいる。まさに、歴代辺境伯の智謀の粋を集めた至高の空間である。
これらの書物を陽射しから守るために、採光窓は分厚いカーテンで覆われており、昼間でも蝋燭の灯火を必要とするほど薄暗い。しかし、幽玄の影に沈む家具はどれも単なる骨董とは一線を画すものばかりであった。
アルフレートは部屋の中央に置かれた黒檀の書斎机に向き直っていた。彼は引き出しから短い棒状の濃赤色の蝋を取り出し、丸底の匙に入れて蝋燭の灯火に翳す。
やがて、とろとろと溶け出した蝋を封筒の口に垂らすと、アルフレートは懐から懐中時計の装飾品を取り出した。細く長い鎖の先にはカタルジュ家の印章が取り付けられている。
水晶から切り出したそれを、アルフレートは溶けた封蝋の上に慎重に置いた。
冷えて固まった頃に印章を剥がすと、封蝋にはカタルジュ家を示す獅子と剣の紋様が刻まれていた。
一仕事を終えた瞬間、不意にアルフレートの鼻腔を湿った森のような匂いが擽り、彼は苦々しい気持ちで筆を置いた。これは──亡き父イゴールが生前好んでいた葉巻の残滓だった。
──身罷られて一年が経つというのに、まだ父の痕跡がこんなにも色濃く残っている。
新緑の瑞々しさと清涼感のある香りが熏り始めた途端、掘り返されたばかりの土の苦いにおいが存在を主張し始める。この苦みこそが後に引くような重い余韻と複雑な調和を生むのだ。
アルフレートの記憶の中のイゴールは紫煙と共にこの香りをまるで鎧のように纏い、真摯に仕事に打ち込んでいた。幼いアルフレートはこれこそが男のあるべき姿であると疑わなかった。
「……まだ、これほどまでに遠い……」
アルフレートは今日まで父の頼もしい背に追い付きたいと、がむしゃらに走り続けて来たつもりだ。
だが、現実はどうだ。よりによって吸血鬼の関与が疑わしい事件が起こってしまった。全盛期のイゴールならば、こんな醜態は晒さなかっただろう。
そればかりではない。一人の男としてもアルフレートは父に劣る。
イゴールが亡き妻を偲び、再婚もせずに生涯愛し抜いたのと同じくらい、オフェリアを愛し抜くことが出来なかった。愛していると嘯きながら、夫として共に歩むことすら叶わなかったのだから。
不意に、控えめに戸を叩く音がした。アルフレートが入室を許可すると、セザールが静かに書斎へと入ってきた。
アルフレートは物言いたげに眉を寄せる。構うなと散々言い含めたはずのセザールの左手に、軽く摘めるサンドイッチとティーポット、そして白磁のカップを載せた銀盆があったせいだ。
「……全く。どちらが主人か分からんな」
「恐れ入ります。旦那様に健やかに過ごして頂くために、僭越ながらご用意致しました。料理長も特別心を込めてお作りしたので是非に、と。……私だけでなく皆の総意であると思って頂ければ」
セザールにそうまで言われて、アルフレートも折れないわけにはいかない。
アルフレートが苦笑しながら「分かった」と言うと、セザールは机の端にそっと銀盆を置いた。
「命令に背いた罰として、小休止に付き合え」
「心得ております」
セザールは慣れた手付きでティーポットの紅茶を白磁のカップに注ぎ入れる。
赤みも香りも強い紅茶だ。アルフレートは、サンドイッチに挟んだ薫製肉の塩気や野菜に良く合うようにセザールが選んだものだとすぐに理解した。
やがて、アルフレートの前に紅茶で満たされたカップが置かれた。その瞬間、白い湯気と共に香気がふわりと漂い、葉巻の残り香がそっと掻き消したのである。
それはほんの一瞬のことだった。しかしその瞬間、アルフレートは確かにイゴールと彼から引き継いだ重圧から解き放たれた気がした。
「……お前たちの心遣いには感謝する」
アルフレートはそう言って差し出された紅茶を飲む。
セザールはその光景を見守りながら、ふと微笑んだ。
「先ほどのエリシュカ様のお心遣いもそのように受け取って差し上げていたら、エリシュカ様もお喜びになられたと存じますよ」
「まさか、私を責めているのか?」
「とんでもないことでございます。ただ、アルフレート様とエリシュカ様は二人きりのご兄妹様であらせられる。歩み寄っても遠慮される仲というのも、なかなか寂しいものではないか……と思いまして」
アルフレートはため息を吐く。
「結婚適齢期を迎え、いつ婚約の打診があるかもしれない妹に甘えられるわけがないだろう」
実際のところエリシュカはとても美しい娘である。それでいて、美しさを鼻に掛けることもなく、女主人に相応しい器量も持ち合わせている。
そんな彼女を射止めれば辺境伯家の後ろ盾までもが手に入るのだ。男どもが放っておくはずがない。
幸か不幸か、エリシュカはまだ喪中の只中であり、本格的な求婚が始まるのはどれほど早くても半年後の事だ。
しかし、アルフレートにとってその程度の猶予は誤差の範囲でしかない。遅かれ早かれ、エリシュカはアルフレートのもとを去る。
「……あの子は優しすぎる。お前も見ただろう? オフェリアを失って悲しみに沈んでいるのはエリシュカも同じだ。だが、あの子は自分の悲しみを癒すことなど後回しにして私に寄り添おうとした」
セザールは頷きつつも、その表情は晴れない。確かにエリシュカの持つ優しさは美徳だが、それも過ぎれば痛々しいのだ。
「私が打ちひしがれている姿を見せれば尚更、私に気を遣ってしまうだろう。それこそ、この先良い縁談が持ち上がっても、私よりも先に結婚するわけにはいかないと言って断りかねないほどだ。……私は妹の足を引っ張りたくはない」
「……意地を張るのも結構ですが、エリシュカ様とご家族として過ごせる時間が残り少ないとお考えなら、尚更お互いに心の裡を明らかにして接するべきでは?」
アルフレートは虚を突かれたように、ぽかんと口を開けた。しかし、すぐに口元を引き締め、眉間に皺を寄せる。
「……意地を張っている……か。否定はしない。妹にはいつだって強く頼りになる兄だと思っていて欲しいものだ」
「……しかし、エリシュカ様はご自分の力では旦那様のお役に立てないと思い込んだが最後、サヴィエ伯爵辺りの後妻になると言い出しかねません」
アルフレートはあからさまに表情を歪め、嫌悪感を示した。
サヴィエ伯爵というのはカタルジュ辺境伯家と比肩するほどの大貴族だ。穀倉地帯や森川といった資源を所有するカタルジュと同じく、多数の大鉱山を所有する富豪でもある。
しかし、サヴィエは既に齢四十を超えた壮年の男だ。エリシュカとの年の差は親子ほどに離れている上、身持ちが悪いことで有名である。
初婚のエリシュカをそのような男の元へ嫁がせる道理など、あるはずがない。
「ぞっとしない仮定の話をするな。……私がそのような結婚を許すとでも?」
「まさか。しかし、今の旦那様の態度のままではお嬢様がそのような選択をしかねないと案じたまでのことです」
アルフレートは更に深くなった眉間の皺を指で解しながら溜め息を吐く。
「…………エリシュカに対しては、善処することとしよう」
「お嬢様もお喜びになることと存じます」
アルフレートは涼し気なセザールの笑みを小憎らしく思いながらも、どこか肩肘の力が抜けたような気分で、先ほど書き終えたばかりの二通の書簡をセザールに手渡す。
「書簡を送ってくれ。それから、食後に出掛けるつもりだ。馬車の手配も頼む」
「どちらへ?」
「街へ行く。被害状況や治安について確認したい」
セザールは恭しく一礼して書斎を立ち去る。
部屋に一人残されたアルフレートは立ち上がり、分厚いカーテンをめくり、窓を開け放った。
昨日の涙雨が嘘のように、空は果てまで鮮やかな澄んだ蒼が広がっていた。
麗らかな陽射しがヴィスコル城を囲む新緑の森の縁をきらきらと白く輝かせている。
アルフレートは、その光景を確かに美しいと思った。しかし、その刹那、オフェリアを失い焦土と化したアルフレートの心に、憎しみは白魔のごとく降り募った。
「──ゆるせない」
アルフレート自身もぎょっとするような冷えた声が零れ落ちた。
だが、憎悪は止まない。
「──この世界が憎い」
オフェリアを失ってアルフレートの時間は止まってしまったというのに、当たり前のように朝がやって来るこの世界が憎い。
美しい娘を化け物に変える呪いも、化け物の存在を許してしまった世界も──全て壊れてしまえばいいのだ。
「──官憲が、ラザレスク家の人間が、憎い……!」
彼らはオフェリアが不義を犯したという偏見という人間の尊厳を貶め、その死を穢した。
友であるエドワードさえ、その憎悪からは逃れられない。
「だが、何より許せないのは──」
ラザレスク子爵の放言を一瞬でも信じ、エドワードの指示に従ってオフェリアを吸血鬼として葬ることに反対しなかった男が、アルフレートの目の前にいる。
アルフレートは自身の姿をそっくり映し取った窓に爪を立てた。叶うならば、今すぐに己の心の臓を抉り出してやりたかった。
「貴様だ、アルフレート・カタルジュ……今すぐ殺してやりたいほどに憎い──」
エリシュカだけは権威や植え付けられた猜疑心に屈することなくオフェリアに対する中傷と戦っていたというのに、愚かにもアルフレートはその声を封じてしまった。
そして、誰よりも真摯にオフェリアの清廉さを信じるべきだったのに、辺境伯という立場を言い訳にして思考を、信頼を放棄したのだ。
そのことは──本当に、本当に悔やんでも悔やみきれない。
だが、どのような償いも今更彼女の心を慰めることは出来ない。ならば、せめて──
「オフェリア……私が必ず君の真実を見つけてみせる。……例えどんな手を使っても、だ」
ぽつりと呟いたアルフレートの瞳は以前と変わらず澄んだ空の色をしていたが、奥底には泥のような汚濁を湛え始めていた。




