対峙 9
「……何か、御用ですか?」
凍りついてしまいそうなほどに冷たい声で、テアは見知らぬ生徒にそう問いかけた。
シューレ音楽学院で授業が再開されてから、既に一週間ほどが経過している。
テアはちょうどエンジュのレッスンのために講義棟から練習棟へ向かうところで、講義棟の階段を静かに下りていた。
その時。
不意に後ろに不穏な気配を感じて、直感のままに振り向けば、そこには一人の女子生徒が、今にもテアの背中に触れそうな形で、腕を中途半端に伸ばし、立っていた。
どうやらテアを階段の上から突き落とそうとしたらしい。ちょうど人がいない時だ。とんと背中を突いてすぐに逃げれば、ばれないとでも思ったのだろう。
相手の驚愕の表情に、テアはそんな都合を読み取る。
けれどテアが振り向くと同時に伸ばした手は、その生徒が中途半端に伸ばしていた腕を強く掴み、逃れることを許さなかった。
「い、いえ、あの、私……」
テアの酷薄な表情に、目の前の相手は怯えたように後ずさろうとする。
その様子に、テアは相手の腕を離した。
突然掴まれていた力が消えて、相手の生徒は後ろに倒れそうになる。
相手はそのまますぐにでも逃げ出したい気持ちだったが、テアの瞳にはそれを許さない力があって、彼女をその場に縛り付けていた。
「何もないのなら、いいのですが。気をつけて下さい。こんな階段の上でぶつかるようなことがあっては危ないですから」
「は、は、は、はい……!」
こくこくと頷く生徒。テアはもう相手が自分を害することはないと、すぐに踵を返してまた階段を下り始めた。
レッスンの時間が迫っていたので、先ほどよりも足を速く動かして。
講義棟を出て、テアは外の穏やかな空気を感じ、気持ちを落ちつけるように深く呼吸をした。
先ほどのことは、半ば八つ当たりだった、と少々反省する。
沈静化していたテアへの嫌がらせだが、ここに来て何故か直接的な行為が増えてきていた。
昨日も講義棟から出るところで、上から汚れた水が降ってきたのだ。
何とか頭からかぶることは避けられたが、スカートが少し汚れて、ローゼに隠すのに四苦八苦する羽目になった。
それが本当にテアを狙ったものであったかは分からない。もしかしたら、うっかりした間違いで、謝罪するのも気が引けたのかもしれない。だが、タイミングが良すぎた。テアは前期の授業の関係でいつもその時間にその場所を通っていたから、狙うのは簡単だったはずなのだ。
他にも、テアは毎日のように図書館に通い、大体同じ席に座っている。先日も常と同じように書物に目を通していたら、すぐ傍の窓ガラスが外から割られるという事態があった。司書には風で物が飛んできたようだと話したが、実際にそこまで風が強かったかというとそうではないし、そんな偶然そうあるものではない。幸いにして怪我はなかったが、おそらく狙われたのだろうと思っていた。
これで寮がローゼと相室でなかったら、あてがわれた自室などしっちゃかめっちゃかにされていたかもしれない。今のところ、誰しも「クンストの剣」であるローゼに表だって反抗を示したいなどと思わないらしく、寮での生活は安泰だったが。
――けれど、どうして今、また?
歩きながら、テアはそのことを考える。入学当初と比べれば随分と嫌がらせはなくなってきていたのに、ここにきてまた度を超すようになってきたというのが不可解だった。
エッダが年末テアを襲った理由と同じものを持って、他の生徒も動いているのだろうか。
もしくは、考えたくないことだが、再びエッダが裏で動いているということも、考えられないわけではない。
だが、前回の失敗で彼女はこちらに弱みがある。彼女の犯したことをいつでもディルクに暴露できるという切り札を、こちらは持っている。万が一エッダが背後にいて、それがこちらの知るところとなれば、彼女にとって最悪のこととなるだろう。こちらとしてもあまり想定したくない事態ではあるが、その危険をわざわざ犯そうとするだろうか。
先ほどの生徒に、誰かに唆されでもしたのかと、聞いてみれば良かっただろうか、とテアは少しばかり後悔を覚えた。ささいな嫌がらせならばいくらでも無視できるが、さすがに怪我を負うようなものが何度も続くのは困る。試験に集中しきれないというのもあるが、何よりこれ以上周りに心配をかけたくないし、巻き込みたくもない。早い内に原因を究明して解決してしまいたいが、どうしたものか。
テアはひとつ、溜め息を吐き。
――それともこれは……、許されない想いを抱えてしまった罰なのだろうか――
そんなことまで思って、テアはきつく唇を結んだ。
そんな馬鹿なこと、と分かっている。
ただ今はどうしても、この感情をネガティブに捉えてしまっていて――。
テアはそれ以上考えまいとするように、練習棟の階段を駆け上がり、練習予定の部屋のドアを開けた。
そこには既にエンジュが来ていて、いつぞやのように床でごろごろしている。
彼は寝転がったまま「よう」と軽く挨拶すると、反動をつけて上半身を起こした。
そうしたエンジュの動作を見る度に、テアは猫を思い出す。
「すみません、遅くなりました」
「別にそんなに待ってねーし、まだチャイムも鳴ってねーんだから謝んなよ」
エンジュはどこか呆れたように笑い、立ち上がると軽く服についた埃を払った。
「ま、でも早速レッスン始めるか。試験までそんなに余裕があるわけじゃねーしな」
「はい」
テアは頷き、ピアノの前に座る。
試験の課題曲である「亜麻色の髪の乙女」をどう弾くのか。エンジュが出した課題に対し、テアは課題が出された次の日までに、答えを用意することができていた。
「まず一度、弾いてみろ」
エンジュは言う。課題が出された翌日も、エンジュはそう告げた。
そしてテアは、鍵盤に指を落として。
きらきらと、輝くような音を紡いだのだ。
脳裏に描いたのは、とても眩くて、力に満ちた存在。
煌めくその存在を見つけて、近付きたいと思う。
けれど、それに躊躇い、足踏みしてしまう……。
不用意に近付けば、その存在の輝きを損なってしまうのではないかと、恐れて……。
迷って、悩んで、そして決めるのだ。
このまま、遠くからその美しい輝きを見つめているだけでも、いいと。
あの明るい笑顔が在ってくれるだけで、いいのだと。
そうして、零れるような輝きは、この手には触れることなく、けれどいつまでもきらきらと瞬き続けるのだ……。
テアが長くはない演奏を終えて、静かにエンジュを見上げると、彼は苦笑して、こう言った。
『お前ってやっぱ……、そっちに思い切っちまうのな』
テアの頭に手を伸ばして撫でながら、何事かをエンジュは呟き。
『……まあいいか。とりあえず試験はそれでいこう』
師は、テアの演奏を認める発言をした。
だからテアは、試験に向けて、こうと決めた表現にさらに磨きをかけていく。
エンジュの指導を受け、練習を重ねて。
けれど、エンジュが言ったように「思い切った」わけではないのだ。
多分エンジュも本当にそうであると思っているわけではないだろうし、テアもそれを自覚していた。
まだ、迷いはある。確実に、この胸に、強くある。
覚悟を決めるのは、簡単ではなかった。
彼から――ディルクから遠ざかることを、まだ自分は選びきれていないのだ。
その感情の揺れが、演奏にも影響して、何度もエンジュに同じ箇所で注意を受けている。
毎日のようにレッスンは行われているが、今日もエンジュの指摘は耳に痛かった。
何度も何度も繰り返し弾き続けて、そうこうしているうちにあっという間にレッスンの時間は過ぎてしまう。
レッスンの終わりを告げるチャイムが鳴ると、エンジュは重い溜め息を吐いて、テアも俯いたまま顔を上げられなくなってしまった。
「あのな、テア」
「はい」
「俺、明日から急な仕事でこっち来られなくなるんだわ」
「え……っ」
テアは驚いて顔を上げる。冗談かと思ったが、エンジュは至極真面目な顔をしていた。
「試験の一週間前には戻ってくるんだが、それまで自主練でいいか? どっかから臨時教師呼んでもいいけど、下手にいじると余計悪くなりそうだし」
余計、という言葉にテアの肩は下がった。
「俺のこと待つんなら、他の教科の勉強時間にあててもいいしさ。一応、これまで通り練習室は俺の名前で予約しとくから」
「は、い……」
テアはまた悄然とした。試験も差し迫り、練習がなかなか思うようにいっていない時に、師もいなくなるということに、不安になる。
「大丈夫だって。色々演奏には駄目出ししてるけど、試験に落ちて留年とかってことには絶対ならねえから。そのレベルは余裕でクリアしてるし。ちゃんと試験前には戻ってくるからさ」
「はい……」
エンジュにしては優しくそう告げるが、不安はそう簡単になくならない。
それでも頷くしか術を知らず首肯するテアに、エンジュは苦笑して腕を伸ばすと、その頭をいささか乱暴に撫でた。
「先生……」
「お前ってさ、」
複雑な表情で見上げてくるテアに、エンジュは言った。
「こういう時、冗談でも、わがまま言わねえのな」
「わがまま、ですか?」
「そ。お前が必死こいて試験が心配だからずっといてくれって頼んできたら、俺も多少仕事ほっぽってもいいかなーって気分になるかもしれないのにさ」
「……なりますか?」
「ま、ならんだろうけどさ」
疑わしげに首を傾げると、エンジュは簡単にそう返す。
その返答にますます肩を落としたテアに、エンジュは笑った。
「俺が言いたいのはさ、お前の場合、もちっとわがままになってもいいんじゃねえかなってことだよ」
「はあ……」
ぴんと来ない様子のテアに、エンジュは続ける。
「わがままでいいから、もっと自分の気持ちに素直になれよ。そうしたい、と思ったらそうすればいい。お前はただでさえ遠慮がち過ぎるんだから、多少羽目外したって誰も文句言わねえよ。何でも簡単に諦め過ぎんな」
「でも、先生は……、例えば私がそうしても、行くんですよね?」
「ほら、そうやって最初から諦める。そりゃ行くけどさ、お前が本当に縋ってきて、それを無碍にするほどは鬼畜じゃねえぞ、俺は」
本当だろうかと疑念を持ちつつも、どこか促すようなエンジュの視線に、テアは口を開こうとして――。
できなかった。
「……ほい、タイムオーバっと」
エンジュは持ち上げた自分の鞄で、軽く触れるくらいの力でテアの頭を叩いた。
「悪いな、俺はあんまり気が長くないんだよ」
叩かれたところに手で触れながらテアがエンジュを見つめると、少しだけ可笑しそうにエンジュは笑って、それからふと真顔になる。
「そういやさ、お前、最近ディルクと練習したりとか、会ったりしてんの?」
「え……」
その問いに、テアは一瞬口ごもった。
「いえ、最近は選挙の関係でディルクはお忙しいようで……。私も、試験勉強で図書館や練習室に籠りがちですし……。ディルクに何かご用事でも?」
「うんにゃ。ちょっと聞いただけ。……しかしまあ、なるほどねえ……」
小さく呟いて、一瞬だけ思案するような色を見せたエンジュだが、次の瞬間にはにかっと笑っていた。
「んじゃ、そろそろ時間だから行くな。仕事終わって戻ってきたら、連絡してすぐにレッスン再開すっから。またそん時にな」
「はい。お気をつけて……」
「おう。お前も根つめて体調崩さんようにしろな」
「はい」
素直に頷いたテアを背に、エンジュは練習室を出て行く。
「……犬も食わない、ってやつのような気もせんでもないし、これ以上俺がつつくこともないよな」
振り向くことなく廊下を真っ直ぐ行く彼は、こう、ぼそりと呟いた。
「ま、帰ってきた時なんか変わってりゃ面白いんだけどなー」
そんな薄情な師がいなくなって、たったひとり、静かになった練習室で、ピアノの譜面台に置かれた楽譜を見つめ、テアは途方に暮れた表情になる。
――今日は……、もう帰ろう、か……。
普段であればしばらく残って練習していくのだが、テアにしては大変珍しく、気が乗らない、という心境だった。
試験が迫っている時だ。何度でも練習を重ねるべきで、そうすれば多少はマシになるかもしれない。
けれど今は、ただこのままがむしゃらに弾き続けても演奏が良い方向に変わるとは思えず、気分も重くて、腕が持ち上がらなかった。
テアはのろのろと立ちあがると、楽譜や筆記具を鞄にしまい、練習室を出ていく。
自然と重い溜め息を吐いてしまって、ますます気分が暗くなった。
――わがまま、か……。
行かないでください、と言えば良かったのだろうか。
そうすれば、まだ安心していられたのだろうか。
だが、本当に口に出して、それを叶えようとするならば、エンジュにもその仕事の関係者にも迷惑をかけることになっただろうし、それを見ればきっと後悔するのだ。
テアは先ほどエンジュに叩かれた額の辺りに触れながら、昔のことを思い出した。
――お母さん……。
彼の人にも、『いかないで』と、ずっと言いたかった。でも、言えなかった。言えば困らせてしまう、それが分かっていた。だから嫌だった。
けれど、今でも、言えるものならば言いたいと思う。
『いかないで、戻ってきて……』
それで、母が本当にずっと隣に居続けてくれるなら、いくらでもそう言っただろう。
でも現実はそうではなくて。
言葉に出しても、本当にそれが叶うわけではない。
だから、そう、簡単に諦めてしまう。
諦めることができなければ、期待し続けてしまえば、叶わなかった時に傷つく。
それがただ、怖いだけなのかもしれない。
何よりも、やはり。
わがままを言った時に、相手から迷惑だと思われるのが。困らせて、嫌われてしまうのが。
怖い。
わがままを言わないのは。言えないのは。本当はただ、臆病なだけなのだ。困らせたくないと、相手のことを考えている振りで、ただ自分が傷つきたくないだけ。
ちゃんと、分かっている。
一方で、時々のわがまま、ささいなそれは、嬉しいものだということも、知っている。
それは、相手に必要とされている、ということだから。
だが、いずれにしろ――言えるわけがない。
――ずっと側にいて欲しい、なんて……。
そうやって物思いにふけりながら、練習棟を出、寮へ向かって歩いていたテアは、ふと立ち止まった。
遠目にディルクの姿を見つけてしまったのだ。
その隣には、エッダの姿がある。
二人は並んで、どうやら泉の館に向かっているらしい。
おそらく生徒会選挙の関係だろう。学期が再開してから、生徒会選挙の活動は活発に行われていて、エッダが役員に立候補したことを当然テアも知っていた。
そして、彼女がそれに関して助言を求めているのか、現生徒会長であるディルクと彼女が二人で並び立つところを、テアは何度も目撃していた。
――嫉妬、か……。
胸に燻る感情を隠すように、テアは両手でぎゅっと鞄を抱えた。
学院祭の時も、二人を見る度に感じていた感情。
それは、エッダがフォン・オイレンベルクだから、それだけではなかったのだと、今更になってテアは気付いていた。
あまりにも、並び立つにふさわしい二人に見えるから。
だから嫌だったのだ。
『もちっとわがままになってもいいんじゃねえか』
エンジュの言葉が脳裏に響いて、テアは遠ざかっていく二人の背中を見つめながら、心の中だけでそっとわがままを呟いた。
――彼女の隣じゃない、私を見て、私だけを、見て……。
微笑んで。名前を呼んで。寄り添っていて、ほしい……。
そんなわがまま――言えるわけがない。
許されない。
だから、やはり……。
離れるしか、ないのだろう。
そう、思うのに、目を逸らしたい一方で、いつまでもディルクの背を目で追ってしまう。
この気持ちを自覚してから、どうすれば踏ん切りがつくのか、そればかりを考えていた。
何度でも、母に問いかけた。
――どうやって父と離れる決心をつけたのか、と。
テアを守るために、父を守るために、旅立ちを決意した母の強さが欲しかった。
全てのことに決着がつくまでは、近付き過ぎてはならないと、分かっていて。
守りたいと、強く、強く思うのに。
誰よりも側に在りたいと、同時に願ってしまう。
そんな風に想ってしまう気持ちを、捨ててしまいたかった。
その弱さを、振り切りたかった。
そうでなければ、手を、伸ばしそうになってしまう。
"パートナー"としての距離をこえて、踏み出してしまう。
――この気持ちも、簡単に諦められるものだったら、良かったのに……。
もう見えなくなってしまった背中を、見つめて。
それでも、この距離こそが正しいのだと、テアは自身に言い聞かせた。
簡単に諦めきれなくても。
諦めたふりは、できるから。
遠ざかるように目をそらして、テアは再び歩き出した。




