体験版 前編
何か、特別なキッカケがあった訳ではない。
普通に生きてきたつもりだ。人並みに生きて、善き人であった父の背を見て育ち、その思いを挫かれぬまま、今の今まで時が流れていただけのこと。
ただ、それでも何か一つ。ソレを志したキッカケ、と呼べるものがあるとすれば。
「将来の夢かぁ……。浩介は何にするの?」
隣の席に座る、幼馴染みの少女の問いに、「あー」と間を持たせながら考える。
「消防士か警察官。自衛隊でもいいかもしれない」
「そっか! お父さんが警察さんだもんね。やっぱり、憧れたりするものなのかな?」
無邪気に笑って、訊ねてくる。
いつもなら、一度の首肯で終わっていた話。
けれども、この時の俺は何故か、その続きまで口にした。
「確かに親父の影響はあるかもしれないけど」
父の背中の影響は、確かにある。警察官の仕事が何なのか、実際に現場を見たことはないけれど。世のため人のためにと働く父のようになりたいと、思ったことはあった。
「けど、それ以上になりたいんだ。正義の味方ってやつに」
最近は、テレビの中ですら聞くことは少ない言葉だ。
正しいことを為して、悪事を許さず、人を守る。そういったことを当たり前に行える、ヒーローみたいな人。
「正義の味方? よく分からないけど、格好いいね! なれるよ、浩介なら」
私が保証する、などとご機嫌になって、少女は俺の頭を撫でようとしてくる。
それをやんわりと退けながら、俺も小さく笑顔を返した。
これは、何でもない一日の昼下がり。
胸の内に秘めた願いを、初めて口に出した瞬間だった。
「……ぐ」
懐かしい夢の後に、意識が現実に帰ってくる。
眼前に広がっていたのは、瓦礫の山。それを見た瞬間に、背中に亀裂が走った。
うめき声を上げながら、痛みがあった箇所に触れる。
……血は出ていないし、実際に背中が割れている訳でもない。ただ、打ち付けた痛みが残っているだけだった。
逆の腕で、床を擦るように何かを探す。
棒状のモノに触れ、それを素早く掴んだ。
「浩介!」
「……悪い、奈月」
痛みを堪えて周囲を警戒し、明るい茶髪の少女に返事する。
彼女こそが、先ほどの夢にも出て来ていた幼馴染。真野川 奈月であった。
……周囲に怪物の気配はない。床に医療用の薬やガーゼが散乱しており、よく見ると、部屋のレイアウトに確かな見覚えがある。
ここは、俺が通っている学校の保健室だ。気を失う直前まで学校の一階に居たのだから、当然といえば当然か。
視界に入る範囲だけでも、身に纏っていた制服はボロボロで、手には折れた警棒が握られていた。
奈月が持ってきてくれたのか、意地でも離さなかったのかは分からないが、無いよりはマシだと思いたい。
部屋のドアと窓を交互に見る。窓には瓦礫が積み重なっていて通行不能だったが、ドアは逆に半壊した状態で倒れており、いつでも通れるようになっていた。
尤も、廊下の瓦礫を乗り越えて移動する必要があるが。
足に力を入れる。背中のそれほどでは無いものの、相応の痛みが駆け巡った。
無視して立ち上がる。こんなところで、待ち続けている訳にはいかない。
「様子を見てくる。奈月はここで待ってろ」
「駄目だって! まだ外に怪物が居るかもしれないんだよ!? それに、浩介だって怪我してるじゃん!」
奈月が声を潜めつつも、焦ったように俺の腕を掴んで引き留めた。
それをやんわりと退けようと、相手の手首を掴む。
「駄目だ。ここだって安全かは分からない。生き埋めになる可能性だってある」
部屋が崩れるか否かの判断は、俺には出来ない。
ここで生き埋めになる可能性と、外で怪物に殺される可能性。どちらが上かも分からない。
だから、一旦様子を見てくる。そもそも外に出られるかどうかを調べなければ、その後の判断だって出来はしない。
それに、何より。
「他にもまだ、どこかで生きて、倒れてる人が居るかもしれない。だったら助けないと」
集団で固まって、避難しているならそれが良い。
けど、中には俺たちのように、はぐれてしまった人も居るかもしれない。
そういう人たちを放ってはおけない。それが分不相応な願いだとしても、俺はまだあの夢を棄てていないのだから。
「……変わらないね、浩介は」
「ごめんな、奈月」
「なんで謝るの。駄目だよ、悪くも無いのに謝っちゃ」
奈月の腕を離そうとしても、彼女の手の力が緩まる気配はない。
彼女は俺の腕を引いたまま、ドアへ一歩踏み出した。
「私も行くよ。ここが崩れるかもしれないなら、浩介に着いてった方がいいから」
その瞳は、確たる意志に満ちていた。こうなると、どうやっても聞かないことを知っている。
「……わかったよ。もし怪物が出たら、俺が食い止めるから、奈月は逃げろ。いいな?」
「それはその時の状況によるかなぁ」
不安を誤魔化すような、わざとらしい笑み。それでも確かに奈月は笑顔を見せたので、俺も同じように、微笑み返した。
それは、数ヶ月前のこと。
『この世界でゲームを行う』
世界中に響き渡った、『神』を名乗る何者か。
その声を皮切りに、世界中で怪物が出てくるようになった。
最初は誰かの悪戯かとも思った。
しかし、SNSでほぼ同時刻に『神』の声を聞いたような呟きが広がっていたり、同じく世界中の学者や宗教家が反応を示したりしたことがあった。このため、この声そのものは本物であると、皆理解している。
そして、同じようなタイミングで、街がいくつか壊滅した。
目撃証言によると、それは狼や蝙蝠などの動物の形をした何か。或いは、ゴブリンやスライムのようなファンタジー的な生命体が引き起こしたものらしい。
同じくSNSなどを通じて広がった被害は、最初は合成写真と思われていたものの、徐々に真実であることが証されていった。
……俺たちが今置かれている状況も、この怪物たちが原因である。
起こったことは至極単純だ。授業中に、爆音と共に怪物が現れ、校舎を破壊した。それだけのことだった。
落ちてくる瓦礫から奈月を庇った俺は、瓦礫に巻き込まれ意識を失い、今に至る。
神の目的は何なのか。どうすればこの異常を終わらせることが出来るのか。それについては『神』が表明した、異端者という存在が鍵を握っている……らしい。
『神』の快楽のためにある、異端者同士の殺し合い。
つまり、異端者を全員殺すことが出来れば、この地獄は幕を閉じる筈だと。
しかし、肝心の異端者がどこにいるのか、どうやって判別すればいいかは、何も分かっていない。
「天使、悪魔、閻魔、魔王、敗者、騎士、聖女……」
異端者はこのように、『神』からはコードネームのようなもので呼ばれていた。
これらの発言は、ネット上でまとめられており、虚偽も含まれるであろうが、およそ20人分の名前が連ねられていた。
「……異端者さんの名前だね」
「ああ。彼らが居なくなれば、この地獄だって終わる……って、皆思ってる。思ってないと、やってられないんだ」
「浩介は、異端者さんが悪い人だって思ってる?」
そう訊ねてくる奈月は、少し不安そうな様子だった。
彼女はとても優しいから、異端者に同情しているのかもしれない。
「悪いか悪くないかでいえば、悪くないと思う。もちろん人によるけど、何もしてないなら悪人じゃない。けど、それとこれは話が別だ。異端者が消えて、皆が守られるっていうのなら――」
「浩介」
俺の言葉を、奈月が遮った。先ほどの不安そうな表情から一点。今度は少し怒ったように、口を尖らせている。
「物騒なことは言っちゃ駄目。正義の味方は、あくまで皆を守るために動かないと」
「……でも、俺じゃ怪物はどうにも出来ない。世界中どころか、目の前の友達すら、守れない」
「うーん、そればっかりは確かに、仕方ないよね。……でもね?」
廊下から出て、玄関の前に出る。
二人で辺りを見回して、目の届く範囲では安全であることを確認した。
「私は、浩介に助けられたよ。身体じゃなくて、心の話」
「……」
「誰かと一緒なだけで、救われる人も居るんだってこと。……独りは寂しいからね」
こちらに顔を一切向けず、しおらしく呟いた。それは、彼女にしては珍しい声色で、どんな返事をしていいか迷ってしまう。
「……ありがとう、奈月」
「どうしたしまして! さーてっと。……外から人の声が聞こえるね? 行ってみる?」
今度はしっかりとこちらを見て、眩くばかりの笑顔を向けてくる。
そのまま奈月は俺の手を引いて、外へと向かう。俺の答えなど、もう知っているかのように。
「わかったって。奈月は下がっててくれよ、危ないから」
外に怪物が居るかもしれない。だったら、怪物が居ないことが分かった校舎側の方が安全だ。
そう思った俺は、奈月の先を歩き始めた。
世界の外から、世界を眺める。
世界の内から、世界が壊れる。
それは無限に生まれる魔物の為か?
半分は、正しいだろう。無限の災厄により、この崩壊は加速した。
では、残りの半分はどうか。
……確かに、原因は私であるとも。私が居なければ、彼らは生まれなかったと断言出来る。
だが、事実彼らは存在する。
彼らが生きている限り、世界の崩壊は避けられない。何故ならば――。
『おっと、そろそろ佳境か? ああ、良い催しだな。■■同士の潰し合いなどと』
いくつかの異端者が消えた。
そろそろ、力を使いこなす者が現れ始めた頃だ。
……このまま続けば、何事もなく戦いは幕を閉じるだろう。
『では次だ。先天と後天、どちらが濃いか見物だな』
標的を七つ、定める。
これより象るは七つの罪。
怪物ではない、生きとし生ける人々に根差す、果てなき欲望。
さあ、続けよう。
このゲームを、簡単に終わらせてなるものか。
校庭に出ると、30人ほどの人たちが身を寄せ合っていた。
空は快晴。崩れた校舎に居るよりも、空の下にいる方が心持ち安心出来るのだろう。
俺たちが砂利を踏む音と同時に、全ての視線がこちらへ向いた。
一瞬の警戒と、安堵。彼らが示したのはそれだった。
「……全員ではない、みたいだな」
思わず、口から零れた。
ここは学校、快晴の空、まだ、真昼の学校に、30人しか人が居ないなどと。
「浩介、大丈夫?」
「大丈夫だ。気にしないでくれ」
考えるより先に、口が動く。
事実の筈だ。
俺は何も失っていない。五体満足だ、奈月も居る、無事な人だって居る、目の前で何か失ったわけでもない。
「大丈夫だ」
何か言い聞かせるようだった。自分でも分かるほどその声は震えていて、背筋には冷たい汗が伝っていた。
それは、『きっと死んでしまった人たち』へ馳せた思いなどでは決してない。
何か、嫌な未来が来るような。何か、悪いモノに見られているような。
……足を進める直前、人混みの中の一人が叫んだ。
彼は俺たちの方を指差している。声には、声量に見合う焦りが含まれていた。
「――後ろだ、井刈!」
「……っ、あァ!!」
足を踏みしめ、重心を後ろに。
繋いでいた手を強引に引いて、放り投げる程の勢いで、奈月を前方に逃がした。
その運動の反作用で、俺の身体が後方へ――警告が為された方へ、何かがあるはずの方向へ押し出される。
やっと、視線を向ける。それは確かに、俺と奈月が出てきた校舎の方角だった。
そこに、危険がありはしていなかったはずだ。ましてや、教室一つに収まり切らない程の大きさにもなる、三つ首の狼など――――。
「ふ、ざけ……」
その怪物は、声一つ上げることはなかった。
丸太のような左前足を、軽く上げ、横に薙ぐ。
ただそれだけの単調な動作が、尋常ならざる質量から放たれる。
走って避けられる距離ではない。
身体で受けられる衝撃ではない。
そもそも今の俺は体勢を崩している。そのような対処を試みようとすることさえ不可能だ。
それでも、何かしなければならないと、俺は握り込んだ警
「ギ」
思考さえも追い付かず、意識は暗転した。
……永遠に近い時間が流れていたような、一瞬たりとも時間なんて経っていないような。
上手く眠れなかった時のような不快感と同時に、俺は意識を取り戻した。
顔を上げると、黒板が目に入る。おおよそ普段通りの、学校で授業を受けている時と同じ視界が広がっていた。
ぼうっとした頭で、辺りを見回す。
……杜撰な掃除で、綺麗になりきってはいない窓。部屋の後方には、前方のものより二回りほど小さい黒板に、チラシが多数貼られていた。
「……教室、か」
外側の窓からは、眩い日射しが差し込んでいる。
教室の内に伸びている影は、窓枠のものと、俺が座っている席、および俺自身のものしかない。
この教室では、席一つだけが取り残されている。
文化祭の準備の時も思っていたが、こう見ると教室も結構広いものだ。
「教室!?」
そこで初めて、今俺が置かれている状況を思い出した。
突然怪物が現れて、学校が破壊されたこと。
意識を取り戻した後、奈月と共に校庭へ出たこと。
そして、三つ首の狼に薙ぎ払われたこと。
そうなったにも関わらず、壊れたはずの教室に、居座っていること。
「皆は、奈月はどうな――ぐえ!?」
ドアを開けて廊下へ出ようとすると、何かに顔面をぶつけ、そのまま後ろへ倒れた。
急いで起き上がり、教室のドアを超えようと――失敗。見えない壁に、阻まれているようだった。
「なんだ、これ」
まるで、教室の壁がそのまま続いているかのような手触りだった。けれど、目の前には確かに廊下があるし、廊下の窓越しに木々が揺れているところまでが見えていた。
そのまま五秒ほど後。落ち着いてしまった気分を害するように、背後から声が掛けられた。
無機質な癖に何かを見下しているようなその声は、驚きよりも大きな不快感を伴って、俺にその存在を知覚させる。
『落ち着いたな? 井刈浩介』
「……誰だ、お前?」
その男は、白いカッターシャツの上に、黒い学ランを羽織っていた。学ランのボタンやホックを一切止めず、ただ袖を通しているだけの着こなしは、少しヤンチャな学生を思わせる。
だが、それは服だけに焦点を当てた時の話。
まず注目せざるを得なかったのは、その姿の輪郭だ。
……当然、人間の形である。すらりとした長身で、モデルのような体型であることは、何となく分かる。
けれども、そのシルエットは絶えずノイズ掛かっており、正確に姿を見ることは叶わない。
表情も同じく。黒い髪であることと、瞳がある位置に金色の光がうっすらと覗かせる程度であった。
ただ、声が。
全てを見下したような。
悲劇を嘲笑うかのような。
来るべき未来を見通しているかのような。
そんな 、威圧感さえ感じさせる不快な声が、俺の脳に染み入ってくる。
『好きなように呼ぶといい。一度『神』を名乗りはしたが、貴様が私を識別出来るなら、それで構わん』
「……神? まさか、お前」
神という名乗りには、聞き覚えがある。
数ヶ月前に、『ゲーム』と称して世界に怪物を解き放った、正体不明の声。
そう理解した時には、既に俺の腕は相手の胸ぐらを掴もうと伸ばされていた。
頭に熱が籠る。怒りが脳天から空へ突き抜けそうな勢いだった。
けれど、掴んだ手は空を切る。
ただ一歩、相手が下がっただけ。それだけのことに、また怒りが沸き上がる。
「お前のせいで……!」
『自覚はあるか? 無いか? どちらでもいい』
腕を振りかぶり、殴り掛かる。渾身の一撃は空をなぞり、身体が前へと倒れそうになった。
『お前に、異端たらしめる力をやろう』
「黙ってろ!」
腰を落とし、タックルを仕掛ける。捨て身の一撃は相手をすり抜け、勢いのままに机へ突っ込んだ。
『その為に、だ。貴様には選択をしてもらう。その必要がある』
椅子を掴んで、立ち上がりながら反転。勢いに任せて投げようとする。
「浩介?」
「な――!?」
聞き慣れた声が、耳に触れた。
振り切る前に椅子を放し、腕を止める。椅子は彼女からも奴からも離れた場所へ飛んでいき、けたたましい音を立てて転がった。
「……奈月、なんで」
『ああ、そこに居るのは人形だ。触れはするが、意思は持たない。そら、あちらにも居るだろう?』
『神』を睨み付けつつ、奴が指差した方へ視線を向ける。
教室の廊下側には、30人もの生徒や教師が佇んでいた。
「なんの、つもりだよ」
『状況を説明してやる。今、外の世界ではケルベロス――三つ首の魔獣が、その少女と30人の人間を捕らえている。このままお前が何もしない場合、ケルベロスは全員を殺す』
教室を見渡す。
淡々と語る『神』、こちらを不安げに見つめる奈月、恐怖に怯えている30人。
……察して、歯を食い縛る。頭を巡る血が沸騰して、どうにかなってしまいそうだ。
「テメェ……!」
『ああ、察しの通りだとも。お前にやる選択肢は三つだ』
指を一本立てて、奈月へ向ける。俺の背に隠れるよう誘導したが、彼女は一歩も動かない。
『一つ。少女を殺して力を手に入れ、魔獣を倒す』
指を二本立てて、集団へ向ける。彼らは総じて俺を見つめており、『神』のことなど認識していないようだった。
『二つ。多数を殺して力を手に入れ、魔獣を倒す』
指を三本立てて、俺へと向ける。ノイズ越しに、嘲笑う声が頭に刷り込まれた。
『三つ。両方を見殺しにし、何も手にしないままここを離れる』
好きなモノを選ぶといい。
そう言い残して、『神』は教室から姿を消した。
取り残されたのは、俺と奈月を含めた32人。
そして……いつの間にか目の前に落ちていた、竹刀ほどの長さの両刃の剣が一振り。
「……殺、す?」
誰を? 一番に『神』を思い浮かべたが、奴はもうこの場に居ない。居ないモノを殺すことは出来ないし、出来たとしても魔獣が消えるかなど分からない。
緊張により呼吸を止め、手元に残った殺人道具に視線を向ける。刃に手を触れると、指が切れて血が滲んだ。
「……奈月」
返事はない。『神』が言うには、ここに居る皆は人形らしい。
柄を握って、持ち上げる。見た目よりも重かったが、俺が扱える程度の重量だった。
体育の授業で習った竹刀の構え方を参考に、剣を構える。
身体の軸に合うように剣を正面に構えると、刃がこちらを向いていることを改めて認識した。
仮に。
このまま剣をこちら側へ倒したなら、或いは。
脳裏に過ったその考えを、無意味なものと切り捨てる。
俺が死んだところで、あの魔獣が消える訳ではない。
俺がやらなければならないのは、奈月か皆どちらかの人形を殺して、奴の言う力とやらを手に入れること。
その思惑さえ奴に利用されているのだとしても、俺はそれを得なければならない。
「楽観視は、しない」
人形だから殺しても大丈夫、とは考えない。
何らかの仕組みでこの人形と彼女たちは繋がっていて、どちらかを殺せば実際の彼女たちも死んでしまうと、俺にとっての嫌な未来を予め考えておく。
その上で、奈月と皆を見比べる。
仮にどちらかを捨てて、どちらかを救うことが出来るとすれば――――。
「……クソッ」
悪態を吐きながら、俺は剣を振り上げた。
井刈浩介が気を失ってから、数分。
彼を吹き飛ばした三つ首の魔獣――ケルベロスは、眼下の人間たちを一人も逃がさぬよう注意を払っている。
視線で威圧し、腕で遮り、散り散りになりそうならば、一瞬だけ炎の壁で周囲を塞ぐ。それだけのことで人々は逃げ出す意欲さえ失せたようで、また身を寄せ合うだけの集団へと成り下がった。
浩介と連れ添っていた少女は、彼に何度も呼び掛け続けている。呼吸があることまでは確かめたが、彼の意識は閉ざされたままだった。
元々校庭にいた人々は、誰一人逃げられないまま、身を寄せ合っている。逃げようとした者も居たが、その全てがケルベロスにより阻まれていた。今はもう、誰一人として逃げ出す気力を持ち合わせていない。
『……』
ふと、ケルベロスが浩介へと視線を向けた。
自動で位置を調整する監視カメラのような、無機質で無感情な、動きと視線。
魔獣は首から先しか動いておらず、身に纏う気配は一切変化が無い。
しかし、誰もが恐怖の視線を魔獣へ向けている。当然、誰もが魔獣の動きに気付いていた。
けれど、動くことが出来たのは、奈月一人だった。
「だ、駄目、だから……!」
掠れた声で、浩介とケルベロスの間に立って、腕を広げる。
足は震えていたが、それでも無理矢理立たせていた。
『……?』
ここで初めて、ケルベロスが首を傾げるような動きをした。
その動きは最小限で、この場の誰も、それが疑問から来たものだとは気付かない。
――なぜ、この少女は彼を庇うのか。
与えられた思考力を活用し、結論を導き出す。出た解は単純明快。信頼と無知だ。
理解が及べば、もう用は無い。
自身の役目を阻害するものではなかった彼女の行動に、ケルベロスは意識を割くことさえ辞めた。
再びケルベロスの視線が、浩介へ向く。
同時、浩介の体が、ぴくりと震えた。
「……っ、う。……はっ!!」
呻き声の直後、目を見開いて、がばりと起き上がる。
呼吸を荒くして自身の掌を見つめると、安心したように大きく息を吐き出した。
「……ここ、は」
何かを拭うような動作。掌を袖に擦り付け、周囲を見渡す。
浩介の意識は、真っ先にケルベロスへと向けられた。
教室ほどの大きさの巨大な肉体に、全身から放つ威圧感。そして何より、一度腕を振るわれた衝撃を、彼の身体は覚えている。
「……お前」
『貴方は』
浩介が立ち上がる。その時、はじめてケルベロスが言葉を紡いだ。
全員の頭蓋に響く、機械的な音声。それは会話の為の言葉というより、一方的なアナウンスのようだった。
『どちらを選びましたか?』
「……」
――どちらを選んだか。
その言葉の意味を、浩介だけが理解していた。彼は質問には答えずに、険しい顔で周囲を見渡す。
彼の瞳に映ったのは、30人の人々と、幼馴染みである奈月。
両者が誰一人欠けていないことを何度も確認しながらも、彼は飛び退くように距離を取った。
「……浩介? どうしたの?」
「……。おい、化物」
困惑する奈月の声に、瞳を震わせる。僅かな時間ではあったが、彼は明らかに動揺していた。
浩介はぎゅうっと瞼を閉じて、ケルベロスを睨みながら口を開く。出来るだけ、彼女を意識の外へ追いやっているようだった。
「約束はどうなった」
『……それについては、直ぐに分かりますよ。貴方が手にするは、人の身に余る願いの力』
「……ぐ、ぅ」
淡々と喋る魔獣とは裏腹に、浩介には焦りが募っていく。無口は呻き声へと変わり、額からは冷や汗。手は段々と震えはじめ、今では殆ど痙攣しているようだった。
『もちろんタダではありません。我が主の条件通りに、貴方は目覚めた。契約はここに成されるでしょう』
「……あ、ぁぁあ!! に、逃げ……!」
足を滑らせて、その場へ倒れ込む。一目でわざとだと判る奇行だった。
『貴方の名は――――』
「……っ! 逃げてくれ、奈月!!」
「え……え?」
奈月が目を白黒させている間に、それは眼前に迫っていた。
土煙が大きく舞い上がる。大地を踏みしめた浩介が、人ならざる力で飛び出した証左だった。
瞬きの間に、彼の腕が奈月へ伸ばされる。余りの気迫に、尻餅をつきそうになった。
奈月が尻餅をつくより速く、浩介の右手が奈月の首へと添えられる。
「浩――」
首に伝わる感触が、痛みへと変化する。視界がぐるりと回り、背中へ衝撃。肺の空気が全て吐き出された。
「……な、で」
「……っ! ……ギ、アァ!」
浩介の瞳が血走っている。獣のような言葉しか吐けなくなった彼は、右手を奈月の首から離そうと、左手で右手親指を掴んでいる。
それだけだった。
左手でどれだけ力を込めても、右手の拘束は一向に剥がれない。
悲鳴も、懺悔も、悪態すらも、口から出てくることはない。
体勢は、奈月を押し倒して首を掴んだまま離れない。
ただ、じわじわと右手の握力が上がってきている。
奈月の喉からは呻き声すら消え、骨が軋む音だけが響いていた。
骨を潰すほどの勢いで、右手が握り込まれる。
ミシミシと、命を絶っていく感覚が染み渡る。
奈月はもう気を失っている。それでもまだ、止まらない。
――――井刈浩介は、真野川奈月を殺害した。
今、この状況の話ではない。彼が気絶している間に起こった、夢の中での出来事だ。
理由としては単純で、「1人を殺す方が、30人を殺し切るより早かった」からだった。命の重さを測れなかった一般人は、その数のみで、命の重さを比較した。
命の価値を裁定し、己にとって大切なモノよりも、大衆にとって価値のあるモノを優先する。
それは一つの正しさであり、頭から否定されるものではない。
……しかし。命の価値は、個人が定められるものではない。
彼は決めた。決めてしまった。自身の欲を圧し殺し、価値があると信じたものを取ってしまった。
それは紛れもなく――。
『貴方の名は【傲慢】ですよ。異端者、井刈浩介』
骨が砕けた。少女だったモノが鳴らす音だった。
……新たに生まれた異端者は、自分が殺めた亡骸を見つめている。変わり果てた、見るに堪えない姿。この惨状を、自分が引き起こした。
「……ああ」
何と言えば良いか分からなかった。今の殺害は操られていたものだったが、彼女を切り捨てたのは確かに自分自身だったからだ。
「あぁぁぁああああ!!」
掌を見つめる。手の皺が見えないほど、そこは赤黒い血液に塗れていた。
……幻覚だ。それが凶器だったなどと分からぬ程に、彼の掌は他者と変わらない見た目をしている。
「クソ! ……クソォ!」
何に対しての慟哭か、彼自身分からなかった。
……殺したのは自分だ。この手が、それを覚えている。一生消えることはない、消してはいけない呪い。
『さて』
地面を殴り付ける浩介を、冷めた視線で見下ろす。
それにも飽きたのか、視線は固まっている人々へ。
『もう生かしておく理由はありません。殺しましょう』
「……に、逃げろーー!!」
ケルベロスが一歩踏み出す。
自分たちの死を察知した人々は、一目散に逃げ出した。
恐怖での延命ももう限界。何もしなくても殺されることを、今ようやく理解したのだ。
――しかし、遅い、
ケルベロスは一拍待ってから、足を曲げて腰を落とす。
それは強者故の余裕であり、魔獣が唯一持つ嗜虐心の現れだった。
主の使命は達しました。
まず一人、踏み潰して殺しましょう。次は胴を噛み千切り、その次は炎で足を焼きましょう。
目標を見定めて、四つの脚で大地を蹴る。
風を切り裂く速度で、巨体が人間へと迫っていった。
魔獣が遅れて飛び出したのは、強者の余裕であり、嗜虐心の現れであり――――。
「――【傲慢】」
異端を侮る慢心からだった。




