シキ 12【完】
――憎かった…己の汚さを見せ付けられているようで。
――羨ましかった…光を掴み取るまで、諦めなかったその強さが。
はくはくと、小さな子供の口が震える吐息を吐きながら動く。
まるで打ち上げられた魚のように苦しげなその姿に、しかしリュウキは眉すらぴくりとも動かさなかった。
ず、と僅かに肉を引きながら、光の刃が子供の胸から引き抜かれる。
異常なほどにゆっくりと引きずり出された刀身は、リュウキの手に確かな感触を伝えているはずなのに、不思議なほどに綺麗なままだ。
見れば、子供の傷口からは血の一滴すら零れてはいなかった。
代わりにあるのは、縦長にぽっかりと空いた黒い空間のみ。
――ば…か、な。
呆然と、子供が己の胸を見つめる。
小さな手から滑り落ちた黒い剣は、地面に触れる前に幻のように消えた。
リュウキが大きく一歩後退し、普段の癖なのだろう、無意識にサーベルを横に払ってそのまま下段に剣を構える。
子供の手から武器は消えたものの、彼女の金の瞳には未だ警戒の色が浮かんでいた。
――なぜ、なぜ…りゅうき、竜姫よ。
「何故、か。…残念だが、貴様には一生解らないだろうな。」
わずかに細めた目は冷ややかに子供を見つめている。
くしゃり、と子供の顔が歪んだ。
――わたしは死なぬ。
「……。」
――わたしは、死ねぬ。
まるで泣いているような表情の子供の眼は乾いたままだったが、リュウキには頬を伝う涙が見えた気がした。
絶望を孕んだ声が、それぞれの頭に響く。
不意に、子供の姿に違和を感じ、小さな身体に視線を巡らせれば、子供の手足の末端が、ぼろぼろと崩れていくのが見えた。
リュウキの金の瞳がわずかに細まる。
――嗚呼、いやだ、いやだ。
――また、わたしはあそこに還るのか。
ゆっくりと、音もなく崩れていく小さな手で己の身を抱きしめながら、子供がゆるゆると頭をふっていた。
その瞳は赤いままだったが、絶望に見開いた眼からは先ほどまでの怒りが消え去り、今はただただ恐怖を宿している。
――独りは、いやだ。
――独りは、いやだ。
まるで迷子のように、子供が繰り返し呟く。
揺れる眼が、縋るようにリュウキを見つめていた。
ぼろり、ぼろりと子供の腕と脚が崩れる。
既に形を失くした小さな足が、リュウキへ一歩、また一歩と近づいた。
同じく殆ど形の無い腕も、動作に合わせてゆっくりと彼女へ伸ばされる。
――りゅうき、竜姫……おねがい、お前も…。
「駄目だ。」
子供の手を遮るように、リュウキの前に立ったのは、真っ白な剣を構えたシキだ。
「こいつはヒリュウで、俺たちと共に生きる。」
光の中で。
そう告げた瞬間、子供の眼がかっと見開いた。
――いやだ!!リュウキ!お前はわたしと!!
緩慢だった子供の動きが、最後の足掻きとばかりに勢いを増し、崩れ行く身体を勢いのままシキの背後のリュウキへと向けた。
「渡さない。こいつは、俺と、生きる!!」
叫びとともに、シキがぐっと腰を沈めて、襲い掛かる子供の腹に渾身の一閃を浴びせた。
大地が、まるで焔のように揺らめいていた。
それは決して禍々しいものではなく、見るものに生命の息吹を思わせるように強く、激しく様々な色を持って揺らめいている。
それらを守るように囲むのは、白い波が幾筋もたゆたう海原と、母の吐息のように温かな風。
それは世界の縮図、人が知るには大きすぎる箱庭の姿だった。
すうっと一筋の涙が頬を伝う感触に眉を寄せながら、無意識に目元を拭いつつリュウキは意識を浮上させた。
ぼんやりと霞む視界には、光を背にしたいくつかの影が、己を覗き込むように囲んでいる。
「リュウキ!」
「大丈夫ですか?どこか痛むところは?」
まだぼんやりと視界は霞んでいたが、聞き覚えがありすぎるその声に、リュウキは僅かに苦笑を浮かべた。
初めに声をかけたのがシキ。その次がコウリだ。
「あぁ、大丈夫。少し頭が重いくらいだ。」
痛むまでは無いが、まるで鉛にでもなったかのように頭が重い。
数度瞬きを繰り返したリュウキは、支えるように己の額に手を当てながら、ゆっくりと身を起こした。
どうやら己は寝台の上にいるようだ。
出した声は僅かに掠れ、普段よりも幾分低いものだった。
「リュウキぃっ!!」
どん、と不意に彼女の身体に小さな衝撃が走る。
高い声とともにリュウキの身体に飛びついた温もりは、渾身の力をこめて抱きしめてきた。
揺れた視界に、ふわりと金の髪が舞う。
「姫…。」
「馬鹿リュウキ!!私に内緒でこんな危ないことをして!!三日も眠り続けていたのよ!?」
翡翠の瞳にたっぷりと涙をためたシャルシュが、リュウキの身体にしがみついたまま見上げてくる。
三日という彼女の言葉に呆然としながらも、相当心配をかけてしまったらしいシャルシュの細い身体をそっと抱きしめた。
「申し訳ありません、ご心配おかけしました。」
「ホントよ!!もう心の臓が捻じ切れそうなほど心配したわ!!」
王女らしからぬ過激な表現に、リュウキがぱちぱちと目を瞬かせる。
先ほどまで霞んでいた視界も、既に慣れてきたのか、普段どおりに明るく晴れ渡っていた。
「おい、シャル、そこらへんにしておけ。リュウキが引いている。」
リュウキの代わりに言葉をかけたのはシンだ。彼はシキとコウリの後ろで呆れたようにため息を吐いている。
因みに、リュウキにしがみついたままのシャルシュは、ドレスが皺になるのも構わず寝台に乗り上げていた。
兄の声に反応したシャルシュが物凄い勢いで彼らを振り返る。
金糸のような髪がふわりと舞った。
「お兄様方もお兄様方ですわ!!私には一言も教えてくださらないなんて!!私が偶々リュウキに会いに来なかったら、また何も言わずに解決なさるつもりだったのでしょう!?」
きんきんと金属のように響く声には、なかなかの攻撃力がある。
重ねて、掌中の珠のように可愛がっている妹の泣く寸前の表情を武器にした責めは、兄二人とその乳兄弟にとっては数少ない苦手なものの一つだった。
「…兄上が余計な口を挟むからですよ。」
ぼそりと恨めしげに呟いたのはシキだ。
しかし、その呟きを聞き逃すようなシャルシュではない。
ぎ、と翡翠の瞳がシキへと向けられた。
「小兄様も小兄様です!リュウキを助けに行かれたのに、先に己一人で帰ってこられるとは何事ですか!?」
「うっ…あっ…いや、それはだな…。いや、だって俺は一緒に戻ったもんだと思ったんだぞ!?」
突然己一人に向けられた矛先に、シキが慌てて身をそらす。
「言い訳は見苦しゅうございます!!」
「いや、あのな…。」
「大体、小兄様は何事も雑すぎるのでございます!!何でもかんでも本能や勢いで片付けようとするのはお止め下さいませ!!詰めが甘すぎます!!」
「ぅ…あ………め、面目ない。」
己よりも遥かに若く、小柄な妹に叱られ身を小さくする様子に、耐え切れないようにリュウキが小さく噴出した。
それを皮切りに、シンとコウリも堪えきれないように肩を震わせ笑い始める。
いつもの、風景だった。
「姫君、それくらいに。シキは確かに私を助けてくれました。」
幾分柔らかなリュウキの声が、シャルシュの声を沈める。
見上げれば、リュウキの顔にはシャルシュが今まで見たことがないような温かい笑顔が浮かんでいた。
シャルシュが僅かに目を見開いて固まる。
「リュウキ…。」
感極まったように呟いたのはシキだ。
思わず無意識に手を伸ばした。
が、はっと肩を揺らして我に返ったシャルシュに、素早く叩き落されてしまった。
「シャル…お前な。」
「気安く触らないでくださいませ。」
にべもなくはっきりと告げられた言葉に、シキががっくりと項垂れると、途端に周囲からどっと笑う声が上がった。
「結局子供はどうなったんだ?」
渡された水を口に含みながら一息吐いたリュウキが口を開くと、それにつられたようにそれぞれの目線が彼女に集まった。
リュウキが目覚めたとき、既に傍らにあったはずの子供の姿は無かったのだ。
「貴女が目覚める三日前のことですが……シキ様が目覚めたほんの少し前に、まるで幻のように消えてしまいました。」
代表して口を開いたのはコウリである。
彼が言うには、そのときコウリ自身とロウが居合わせたので、子供が目覚めて人知れず室を出たということはなく、本当に“消えた”らしいのだ。
「それについては、シロから大体の説明は聞きました。」
その言葉に些か驚いたリュウキが、僅かに室内を見回せば、普段人見知りが激しくリュウキ以外とは口すら利かない相棒――シロが窓のあたりでとぐろを巻いていた。
おそらく寝たふりをしているのだろう、ぴくりとも動かない真珠色の騰蛇にリュウキが小さく息を吐き苦笑を浮かべる。
「彼が言うには、あの子供は元々過去の存在。管理者を退け、絆を断ち切ったことで、止まっていた時間が流れ込み、身体が朽ちてしまったのだそうです。」
「私は結局、リュウタを救えなかったのか。」
少しだけ項垂れるように視線を落としたリュウキの顔に、自嘲の笑みが浮かんだ。
「リュウタ?子供の名前ですか?」
「あぁ。彼の過去を見た。リュウタも私と同じ、異なる世界の者だった。」
なるほど、とコウリが呟く。
苦しげに顔を歪めるリュウキに小さく息を吐くと、彼は苦笑を浮かべて言葉を続けた。
「そうそう、シロはこうも言ってましたよ。彼、リュウタの魂は管理者の支配を逃れ、輪廻の輪へ戻ったのだ、と。」
その言葉にはっとリュウキが顔を上げる。
見れば、コウリの顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「これは私の主観ですが、貴女は充分、彼の魂を救ったと思いますよ。」
「私もそう思うぞ。というか、リュウキ、お前はあれこれと抱え込みすぎなのだ。人一人ができる事など、そう多くはないのだぞ?」
王であるこの私でさえ、できないことの方が多い。
そう続けたのはシンだった。
見回せば、それぞれが柔らかな笑顔を浮かべてリュウキを見ている。
心がじんわりと温もりを感じると共に、どこかむず痒いような気恥ずかしさもあってリュウキは小さく身じろいだ。
くるり、と視線を巡らせる。
と、不意に視界が僅かに陰り、リュウキの頭に心地よい重みがかかった。
何かと見上げれば、先ほどの笑顔のまま彼女の頭に手を伸ばすシキの姿。
「お前は一人じゃない。言っただろ?俺たちが守る。」
するりとシキの大きな手がリュウキの髪を優しく撫でる。
少しだけ赤みの差した頬に、シキが目を細めた。
「……おかえり、リュウキ。」
彼らしくもない柔らかな声に応えるのは少し恥ずかしかったけれど、リュウキは戸惑うことなく、シキと同じ柔らかな笑顔を浮かべてそれに応えた。
「で。どうでもいいですけど、それは抜け駆けと言うのですよシキ様。」
ふんわりと二人を包んでいた柔らかな空気を引き裂いたのは、先ほどとは打って変わって冷たいコウリの声である。
明らかに本気で腹を立てている声に、シキの肩がびくりと揺れた。
「先ほどから大目に見ていれば……兄であり王である私を差し置いて、少し調子に乗りすぎているのではあるまいか?」
容赦なく向けられる冷気に振り向けずに無言でいると、更にシンが追い討ちをかけてきた。
シキの額に、じわりと嫌な汗が浮かぶ。
「小兄様ったら、まさか己の失態を忘れたわけではございませんわよね?もう少し反省の色をお見せになったら?」
何故か妹まで口を出す始末である。
これにはシキも何か言い返そうと勢いよく振り向いた、が。
「……っ!」
己を見つめる三対の目の冷たさに一瞬怯む。
特に身の危険を覚えるのは、見た目だけは柔らかな色を持つコウリの目だ。
しかし、ここで怯んではせっかくの苦心が水の泡である。
何せ、意識の中とはいえ直接的ではないにしろ、リュウキに思いを伝えたし、彼女だって満更でもなさそうだったのだ。
リュウキ自身に拒まれるならともかく、家族とはいえ第三者に阻まれてはたまったものではない。
シキはごくりと喉を鳴らすと、小さく息を吸い込んだ。
「ぬ、抜け駆けは謝る、し、詰めが甘かったのも認める。」
微妙に声がひっくり返っている。
「兄上にも、コウリにも悪いが……俺はリュウキがす…」
「失礼いたします!!」
ばん、と扉を開けて入ってきたのはリュウキ付きの文官のギィと、術師隊隊長のロウである。
二人とも無礼は承知なのか、入ってきた途端に扉の前で跪いた。
「陛下、突然の無礼をお許しください。リュウキ様がお目覚めになられたと聞き、いても立ってもいられず…。」
「構わぬ、そなたはリュウキと常に共にあるゆえ心配も人一倍だろう。」
「ありがとうございます!」
「良い、許す。我らに構わず、傍に寄ってリュウキを見舞ってやれ。」
がばりと顔を上げたギィが、感極まったように深々と頭を下げると、恐縮したように身を縮めながらも、素早く立ち上がってリュウキの傍へと駆け寄った。
彼の後にはロウも続いている。
言葉だけ聞けば寛大な王の言葉だが、ギィとロウ以外の成り行きを見ていた人間には性格の悪さを前面に押し出した笑顔でにたりと笑う王の陰が見えた。
リュウキも、さすがにあからさまな態度に全てを察して苦笑を浮かべていたが、今は心配をかけた部下に意識を向けている。
ここ数年分の勇気を振り絞り、一世一代の告白を潰されたシキはといえば、口を開いたまま呆然と目を瞬かせていた。
「では、色々と話もあるでしょうし、私たちがいてはゆっくりできないでしょうから、一先ず退散しましょうか。」
にっこりと笑顔で言い放ったのはコウリである。
「えっ…そんな、申し訳ないです。」
「いいのですよ、ロウ。さ、行きますよ王。」
「そうだな、おいシキ行くぞ。」
「えっ…。」
「何をしてらっしゃるの?さっさと出てくださいまし、小兄様。」
邪魔ですわ、とこれまた綺麗な笑みを浮かべたシャルシュがにべもなく言い放つ。
「そうそう、リュウキ。例の管理者についてですが…。」
「あ?あぁ。」
「シロによれば、取り敢えず手出しはできなくなったということです。歪みに付いては、ロウが中心に対策を練っていきますので、そのお話もしてはいかがでしょう?」
「そうか、わかった。ロウ、よろしく頼む。」
「えぇ、お安い御用です。」
「では、私たちは少し会議があるので執務室に戻ります。」
コウリの言葉に、リュウキと彼女を囲む二人が深々と頭を下げる。
それと同時に、コウリの背後でシンとシャルシュが、焦ったようにリュウキのもとへ戻ろうとしたシキの腕を両側からがっちりと掴んでいた。
「では、行きましょうか。」
「あぁ。」
「えぇ。」
「ちょ…待っ…。」
「往生際が悪いですわよ。」
「お前はこれから俺と執務室で会議だ。」
シャルシュとシンが、シキの腕を掴んだまま歩き始めた。
その後をコウリが追う。
「もちろん、シャルシュ様もご参加ください。」
「えぇ、よろこんで。」
にっこりと笑い合う宰相と妹のやり取りに、シキが大きくため息をついた。
全てを奪われ、孤独に剣を振るい続けていたあの頃。
もう手に入らぬものと背をそむけながらも、心の底ではいつも望んでいた温もり。
それが今、何の変哲もない日常として、己が身を包んでいる。
夢から覚める前、己が見た景色は、おそらく今の大陸の姿なのだろう。
己も、己の家族も、確かにそこで生きているのだ。
リュウキは小さく息を吐くと、大きめの窓から見える、まるで己の心を映したかのような雲一つない空を見上げて、この国で得た大切な者を思い、そっと目を閉じた。
やっと完結です。
最後の方は更新に時間がかかってしまって申し訳ありませんでした。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!