麦わら帽子の向こう側で
夢の中で僕は少女に麦わら帽子を渡す。大事な家族に貰った大事な麦わら帽子を……大事な彼女に。
そんな夢を見ていた僕に、母親からメッセージが届いた。
実家へかえってくるように。
ただそれだけの、帰省を促すだけのメッセージだったはずが……。
思いがけない彼女との邂逅と共に、僕は否が応にも過去に置いてきた因縁へと引き戻されるのだった。
・性癖『メスガキ』
・お題『麦わら帽子』
「ホント、アンタってざぁこ」
クスクスと嗤う声。
妙に赤い唇から覗く鋭い八重歯。
ひらりと揺れる白いワンピースから覗く真っ白でまっすぐな二本の足。
あの子の小さな手に握られた真新しい麦わら帽子。
僕のものだったはずのそれをかぶって、彼女は満面の笑みを浮かべた。
それがとても嬉しくて……僕も笑った。
なのに……彼女がどんどん遠ざかっていく。
『ねぇ、かえして。かえしてよ』
幼い僕のものらしき声を無視して、あの子はどんどん遠ざかる。
夏の田舎道に揺れる陽炎に遮られて。
どんどんと遠ざかる。
『ねぇ……。かえしてよ……』
僕の声だと思っていたモノは、いつの間にか全然違う声になっていた。
たくさんの人の声が重なって……男女の区別も年齢の区別もつかない。
ただ一言を繰り返していた。何度も何度も……。
『返して』
「……あちぃ……」
枕元に置いてあったスマホの小さな振動で目を覚ます。
単身者用のワンルームは熱気に溢れていた。
「やべぇ……。死ぬ……」
慌てて身体を起こせば、エアコンが僕の存在に気付いたように冷風を吐き出し始めた。
チラリとスマホに視線を落とせば、まだ朝といっていい時間だった。
それなのに窓の外はすでに明るいを通り越して、目に痛いほどの光に満ちている。
「今日も暑そうだな……」
すでに熱中症警戒アラートも出てるだろう。
パコンとまぬけな音を立てて開く冷蔵庫から、ペットボトルの水を取り出す。
パキリと蓋をひねってペットボトルを口にすれば、冷たい水が喉を滑り落ちていった。
……そう言えば、あの家の井戸水は夏でもよく冷えていたな。
夢の続きで思い出したのは、昔家族で住んでいた田舎の家。
田畑と山と森しかない。最寄りのコンビニまで車で十分はかかる田舎だったけど。
それでも家族が一緒だった。
父も、母も、祖母もいた。
今はもういない彼らの笑顔が、そっと脳裏をかすめていった。
そして……。
夢に出てきた彼女の姿も。
田舎の子にしては珍しい色彩を持った女の子だった。
加齢によるものとは違う見事な艶を放つ白髪と、綺麗な琥珀色の瞳。
黙っていればビスクドールみたいに可愛い子だったけど……。
いかんせんその言動がいただけなかった。
常にこちらを小馬鹿にしたような態度。
何処で覚えたのか、僕のことは雑魚呼ばわり。
子分扱いならまだマシで。
僕のことなど眼中にも入ってなかったと思う。
『ホント、アンタってざぁこ』
嘲るような彼女の口調が耳の奥にこだまする。
それを追い出すように首を振っていると……。
ピピピピピッ!
「っ!? ……なんだ、アラームか……。はいはい起きてますよー」
スマホに手を伸ばしてアラームを止める。
必要もないのに、スマホに言い訳のような言葉をかけていた。
一人暮らしになって長くなると、独り言も増える一方だ。
「さて……今日も頑張りますかねぇ」
パタパタと狭い部屋を動き回り、僕は何かに押されるようにして自宅を飛び出す。
アラーム以外の音で目を覚ましたことに気付いたのは、仕事場についてからだった。
■ ■ ■
「そいや、今朝のって……」
一仕事終えた昼休み。
コンビニで買った昼食を手に自席へと戻る。
そこでやっとスマホの存在を思い出した。
特に連絡を取る相手もいないため、もっぱら情報収集と目覚まし時計代わりに使ってるお高い板。
真っ黒な画面で見上げるソレに触れると、何件か通知が届いていた。
「……そっか、今日は僕の誕生日か……」
どこぞの店のアプリが僕の二十歳の誕生日を知らせてくれていた。
それが客を寄せるための企業施策だとしても、なんとなく嬉しく思ってしまうのは僕の今の環境のせいだろうか。
その店以外にも、いくつかのアプリが僕の誕生日を祝ってくれていた。
そして……。
「ん……? 母さんから……?」
滅多に見ないメッセージアプリのアイコンに、少しだけ動揺してしまう。
誰も僕に注目してるわけもないのに、思わずきょろきょろと辺りを見回してしまった。
もちろん誰も僕に注意を払わない。
職場の人たちは各々の休憩時間を楽しんでいた。
打ち合わせスペースで集まってお喋りしてる女性社員。
スマホの動画か何かを見てるのか、熱心な視線を下に向けながらパンに噛り付いてる先輩社員。
すでに食事を終えたのか、デスクに突っ伏してつかの間の睡眠を得ている同僚。
誰も彼も、僕を見ていない。
それにどこかほっとして、僕はメッセージアプリのアイコンをタップした。
差出人は母親。
まっさらな画面に表示された内容に、僕は少しだけ驚きの声をあげた。
そんな僕の声に気付いたのか、動画を見てた先輩が僕のほうを見る。
何でもないと小さく首を振って曖昧な笑みを返せば、先輩は自分のスマホへと視線を戻していった。
それに倣うように僕も自らのスマホに視線を落とす。
『そろそろお祭りの時期です。一度実家にかえってきてください』
シンプルな文言のはずなのに、どこか胸がざわつく。
ドキドキと鼓動を早める心臓を、服の上から抑えつけるようにして、僕は返事を考える。
帰る? 帰るって……どこに?
それに……母さんは……実家は……。……あれ?
……あぁ、いや違う。
そうじゃない。
帰らなきゃ……。
家に……。
帰らなきゃ……。
無意識に伸ばした指が、スマホの上を滑っていく。
そして……。
『今週末にはかえります』
気が付けばそう返していた。
あっという間に既読がつくも、相手からのリアクションが返ってくることはなかった。
■ ■ ■
「ふぅ……。暑い……」
電車の中の冷たい空気に押し出されるようにして降り立ったホーム。
まるでタイムスリップでもしたかのような木造の駅舎では、そこだけ切って貼りつけたような自動改札だけが僕を出迎えてくれた。
駅舎を出れば相変わらず何もなかった。
どこまでも見渡せそうな青い空。
遠くに連なる稜線。
沸き上がるにもくもくと膨らんでいる白い雲。
遮るものなどない駅前の広場には、ゆらゆらと陽炎が揺蕩っていた。
「……さて、歩くしかないかぁ」
リュックサックを背負い直し、駅舎の影から出ようとした瞬間。
「あいっかわらず辛気臭い顔してるねぇ。ね? おにぃさん?」
「っ?! ……君は……?」
古ぼけた麦わら帽子をかぶった女の子が、夏の日差しを浴びて立っていた。
「なぁにぃ? どこ見てんの? おにぃさんのえっち。ホント……ざぁこ。だから……かえってきちゃったんだよねぇ」
嘲るように嗤う少女は、夢で見たあの子とまるで同じ人物に見えた。
だけどそれは可笑しい。可笑しいはずだ。
だって、僕がここで彼女と遊んでいたのは、僕が小学校に上がる前のことだ。
僕と同い年くらいに見えた彼女は、きっと僕と同い年くらいの大人になってないと可笑しい。
なのに僕は……。
「……僕は実家にかえるけど、君は……?」
「んふふぅ。おにぃさんが迷子にならないように、一緒にいってあげる」
僕のほうに伸ばされた手を無意識に繋ぐ。
折れてしまいそうに細い指は、この暑さのせいかどこかひんやりとしていた。
■ ■ ■
「……ふぅ」
額の汗を拭いながら見上げた先には、古ぼけた田舎によくある平屋の一軒家。
座敷童がいるとかいないとかで、田舎ではそれなりに裕福な家。だった。
それが僕の実家だった。
田舎独特の鍵をかけない文化は健在なようで、玄関の引き戸は呆気なく開いた。
どこか埃っぽい廊下を進んでいく。
「……母さん? ……またご近所さんのとこにおしゃべりに行ってるのかな?」
人気のない家をくるりと一周すれば、家人の不在は明らかだった。
「……困ったな? 僕、今日帰るって伝えたんだけどな?」
キッチンというには烏滸がましい、台所というほうがピッタリの場所に足を踏み入れる。
静かな静寂が耳を刺した。
蛇口をひねっても、水が出る気配はない。何か黒い汚れがついたままのシンクはカラカラに乾いていた。
「……あぁ、そっか。こっちは井戸だっけ……」
実家に帰らなくなって久しいせいか、どうも勝手がわからない。
誰も見てないというのに、頭を掻きながら静まり返った台所を後にした。
縁台から井戸のある庭に出ようとして気づく。
「あれ? サンダルがない……」
いつもそこに在った、古めかしい木のサンダルが何処にもなかった。
ただ何か黒い汚れが残されているだけだ。……さっき台所で見た汚れと同じ汚れのような気がするのは気のせいだろうか?
「……母さん、また庭から出てご近所さん家に行ったのかな?」
やれやれと首を振りながら玄関へと向かった。
僕が履いてきたスニーカーだけがぽつんと土間に佇んでいる。
そして土間にも……飛沫が飛んだような黒い汚れが残っていた。
スニーカーをつっかけるようにして玄関から庭へと回る。
夏という季節のせいか、あちらこちらで雑草が猛威を振るっていた。
力強く空を目指す雑草を踏みしめて井戸へと向かうと、井戸の蓋が半開きになっていた。
「……あんだけ口うるさく僕に注意してたくせに……」
父親の怒声を思い出しながら、井戸の蓋に手をかける。
ガタリと音を立てて蓋を外せば、井戸の奥からふわりとかび臭い空気が沸き上がってきた。
埃をかぶっていた井戸に取り付けてあるモーターの電源を入れても、うんともすんとも言わない。
「おいおいマジか……」
どうやら僕は実家で水の一杯にもありつけないらしい。
さすがに釣瓶は撤去されているので、人力で水を汲むこともできやしない。
「まぁ、まだリュックにあるか……」
あえて行きとは違った場所を歩く。ザクザクと力強く。
僕が行き来した井戸への道は、荒れた庭の中で一本の線のようになり、雑草が屍のように倒れ伏していた。
「ばあちゃんも、父さんも、母さんも……遅いな?」
家の外でうるさいほどに鳴いていた蝉しぐれが虫の声に変わった頃。
僕は薄暗い実家で独り言ちていた。
何せ家族が誰も帰ってこない。
僕は家族に呼ばれたから帰省したんじゃなかったのか?
……そもそも僕の家族は……。
実家は……。
飛び散る真っ赤な……。
「あ、れ……?」
無視できない疑問がチラリと頭に過った瞬間。
懐中電灯代わりにしてたスマホがぶるりと震えた。
「……あ、母さんからか」
『じゅんびがととのいました』
短く用件だけを告げるメッセージ。
「……どこでなんの準備だよ」
首を傾げていると、スマホが次々にメッセージの到着を告げる。
『早くきてください』
『ここにきてください』
『いそいで』
『いそいで』
『いそいで』
両親だけでなく、祖母からも次々と届くメッセージ。
チラチラと画面が瞬く勢いで、メッセージが届く。
「そんなせっつかなくても……いいのにな」
ぼそりと呟いてから、おもむろに立ち上がる。
尻についた埃を払って、その場から歩き出す。
ギシリギシリと音を立てる廊下を進んでいく。
ときおりぽっかりと口を開いている穴を避けながら。
ところどころに飛んでいる液体が飛び散った跡を避けながら。
「さて……。……うん?」
薄闇に呑み込まれた玄関に、小さな人影があった。
「あ……れ?」
「いっちゃうの?」
麦わら帽子をかぶりながら俯いてるせいか、少女の声はどこかくぐもって聞こえた。
だけど、不安そうに、苛立たし気に揺れる口調は、明らかに僕を責めていた。
「うん……呼ばれたからね……」
「そっかぁ……。ホントおにぃさんて……ざぁこ」
嘲るような声色だけど、ポタリと土間を濡らす雫に、僕は気付かないふりをした。
「……一緒にいく」
伸ばされた手は、相変わらず冷たかった。
■ ■ ■
「ふぅ……こ……の……道って……こんなにきつかったっけ?」
昼間の暑さの名残は僅かなはずなのに、僕の額を滝のような汗が流れていく。
生い茂った雑草は、ウチの庭の比じゃなくて。
かき分けるように進む獣道は、まさに獣の、獣だけの通り道だった。
「あはは♡ もう疲れちゃったの〜? よわよわだね〜」
先を行く少女が僕を煽る。
坂道のせいか、さっきまで見下ろしていたはずの彼女が僕を見下ろしている。
スキップでもしそうな軽快な足取りで前を行く彼女は、汗一つかいていないように見えた。
そんな彼女からすれば、汗を滴らせ荒い息を吐きながら山道を登る僕はよわよわなんだろう。
彼女の言葉を甘んじて受け入れながら、僕は前へ前へと歩みを進めていく。
まるで何かに導かれているかのように……。
「ねぇ? おにぃさん?」
「……なんだい?」
ふわふわとワンピースの裾を揺らしながら歩く彼女が、視線を前に向けながら口を開いた。
「どうしてこれをくれたの?」
彼女が指差すのは古ぼけた麦わら帽子。
前を行く彼女にそれをあげた記憶は無いが、遥か昔に同じような帽子を彼女によく似た少女にあげたのは事実だった。
お気に入りだった麦わら帽子。
まだ健在だった両親から贈られたもの。
それをかぶってはしゃぐ僕を見ている、父の、母の、祖母の柔らかな眼差し。
とても大事だった。
だから……。
「暑そうだったから……」
僕の口をついたのは、そんなありきたりな台詞だった。
もっと何かあったはずだ。
そう気づいたのは、目の前の彼女に不満げな視線で睨まれたからだった。
「ホント、おにぃさんって……ざぁこ♡」
「えっと、なんかごめんね?」
口先だけの謝罪を受け入れてくれたのか、彼女はずんずんと前へ進む。進んでいく。
だけどそろそろ終着地点だ。
「……ねぇ、」
「ん?」
ふと立ち止まった少女の華奢な身体にぶつかりそうになって歩みを止めた。
俯いてるせいか、彼女の被る麦わら帽子がずり落ちそうになる。
そっと手を伸ばして麦わら帽子に触れれば、指先にカサリと乾いた感触が伝わった。
「……あたしが……ぜったい……」
「え? 何かな?」
小さく呟いた彼女の言葉が僕の耳に届く前に、ざわりと空気が騒めいた。
ぽつ……ぽつ……と小さな明かりがそこかしこから集まってくる。
折れそうに細い少女の腕を引き寄せて、自分の背中に庇った。
「……ホント、おにぃさんて……そーいうとこー」
苦笑交じりの言葉に疑問を呈する前に、目の前の茂みがざわりと割れた。
「……母さん……」
「……まってたヨ……」
何故か白装束に身を包んでいる母親が、僕の顔を見てにたりと笑った。
母親の手に持ってる松明が、ゆらゆら揺れて母親の顔に不気味な陰影を残す。
「ホら……コっちダよ……」
手招く母親に誘われるようにして、僕は茂みへと足を踏み入れた。
その後ろから、ため息を吐きながら少女が続く。
がさりがさりと、いくつもの茂みを抜け、下草を踏み分けてたどり着いたのは、小さな広場だった。
木々に周囲を囲まれ、その場所だけ不自然に空いている。
小さく見えたのは……周囲に母親と同じ白装束を着た村人たちが隙間なく立っているせいだった。
そして広場のほぼ中央には、僕の顔ほどもある石がいくつも置かれていた。
まるでミステリーサークルとかみたいだな……と思っていた僕の背を誰かが突き飛ばした。
「わっ……」
たたらを踏んだ僕の足が、等間隔に円を描くように並べていた石に触れる。
コツリとした感触が草の汁に汚れたスニーカー越しに伝わってきた。
「何を……」
僕を突き飛ばした人間の顔を見てやろうと振り向いてみれば、そこにいたのは……死んだはずの父親だった。
「……え? ……あれ?」
ぐるぐると記憶が巡る。
色々な情報の断片が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
なんとか情報の断片を摘まみ上げてみれば、この状況で一番あり得ない話だった。
「あ……れ? 僕の……両親は……家族は……」
すでに死んでいる。
そうだ。そのはずだ。
だから僕はここを離れ、慣れない都会で一人暮らしなんてものをしていたはずだ。
高卒でなんとか滑り込んだ会社は、それなりに居心地が良かった。
先輩たちも、若くして天涯孤独となった僕をなんだかんだと構ってくれて……。
贅沢できるわけじゃないが、人並みの生活を送って……いたはずだ……。
「なん……で……?」
「どうしたノ? ドウしたの……?」
「ドうかシたのカい? ホら……アトすこしだかラ……」
四方八方から伸びてくる手。
松明だと思っていた明かりがチラチラ揺れて、森の木々に影を落とす。
その影は……人の形をしてなかった。
「ひっ?!」
僕へと伸ばされた父親のガワを被ったモノの腕を弾く。
ぐんにゃりとした感触が伝わってきて、僕は怖気に包まれた。
とても……人間に触れた時の感触ではなかったから。
「なん……なんで……っ!?」
四方八方から次々と伸びてきた黒い影が僕を逃がさないと言わんばかりに締め付ける。
黒い影の出所は、円状に並べられた石の中だった。
そこから何本も何本も黒い影が伸びている。
気が付けば足先は空を掻いていて、とても逃げられそうにない。
「やめ……っ?! やめてくれ……っ!」
助けを求めても……無駄だって理解っている。
しばらく前に廃村になったんだ。そんな村の近くにある山の中なんて、人が通るはずもない。
当たり前だ。まともな誰かがいるわけがない。
そう……。
生きてる人間は誰も……。
「ひぃ?! やめろ……! やめてくれっ!!」
足掻いても足掻いても、黒い拘束から逃れられない。
それどころかますます締め付けはきつくなっていく。
首元に回された腕だったモノ……今は太い触手にしか見えない。
それが僕の首にぐいぐいとめり込んで息が詰まる。
「か……っ、はっ……!」
喘ぐように上を見ても、森の木々に遮られ、僅かな夜空しか見えなかった。
飛行機の影すら通らない。
ここは……そんな場所だった。
「やめ……っ!」
霞みがかってきた意識が、なんとか残っていた聴力が僅かな物音を拾った。
木々の騒めきに紛れるようにして近づいてくるその音は……。
何か大きな存在が身体を引き摺って動く音だった。
「ヌしさまだ……ヌシさまのオでまシだ……」
黒い影たちが口々に喜びの声をあげる。
いや、これは声なんだろうか?
さっきまで村人を模していたはずの影は、すでに人の形を成していなかった。
そんな訳の分からないものがその登場を喜ぶ存在がまともであるはずもなく……。
「……ひぃ?!」
森の木々を掻き分け……いや、あれは木自体がその存在を避けていた。
のっそりと現れた真っ黒い塊。
まるで肉塊のようなソレは、何本もの触手に覆われていた。
「ひぃぃぃ!!」
情けない悲鳴が上がる。
じわりと股間を濡らし、太ももを滑り落ちていくぬるい感触が、まるで別の世界の出来事のようだ。
それだけ目の前の存在は、今の状況は現実とかけ離れていた。
「い……いやだ……いやだいやだいやだ……」
僕を拘束する触手たちが、まるで自分たちの親玉に捧げるように僕の身体を黒い肉塊の前に差し出す。
どんなに足掻いても空を蹴るだけだ。
にたり……。
目の前の肉塊に横一文字に切れ目が入っていく。
それが笑みだと、僕という存在があることへの喜びだと気付いてしまえば、恐怖は頂点に達した。
「あ……あ……」
もうまともな言葉すら出ない。
震える身体からどんどんと力が抜けていく。
だけどそれは、僕にとって悪手でしかない。
抵抗を止めた僕の身体は、肉塊のいい獲物だった。
真一文字に裂けた部分が徐々に広がっていく。
その内側もまるでブラックホールみたいに真っ暗だったけど、僕は気付いてしまった。
目の前の化け物は僕を体内に取り込むために、その咢を開いたのだと。
「あ……あぁ————!! 死にたくないっ! 死にたくないっ! 僕は……っ!」
ぐっと目を見開いて、心のままに叫んだ……その瞬間。
「ほんとおにぃさんて……ざぁこ♡」
まばゆい光が目の前の化け物を一閃した。
「あ……」
僕と化け物の間に立つのは、見事な白髪のツインテールを揺らす少女。
古ぼけた麦わら帽子は今、彼女のうなじを守るような位置に在った。
「おにぃさん、よわよわすぎぃ~。だからこんなヤツに掴まっちゃうんだよ~? ほんとざぁこざぁこ」
非現実的なこの状況で、少女に罵られる。
そんなあり得ない状況なのに、彼女の罵りだけが僕を現実へと繋ぎ止めた。
「あ……あ……っ!? あぶないっ!」
少女に退けられたことに怒りを持ったのか、化け物が少女へとその矛先を変えたらしい。
うねうねと伸びる真っ黒な触手が、彼女を捕らえようと伸ばされた。
にもかかわらず。
彼女の身体に巻き付こうとした黒い触手は、まるで熱した鉄板に触れたようにじゅうと音を立てて消えていく。
「あはぁ! ざぁこざぁこ♡ 人を喰わねばその身を保てない存在が! あたしに触れるわけないでしょ!」
少女の手から放たれた光が、化け物を焼いていく。
耳をつんざくような咆哮をあげ、化け物がのたうち回る。
だけど容赦なく、手加減なしに、完膚なきまでに少女は光を放ち続けた。
そして……。
「あ……」
化け物が消え去ったと同時に僕を拘束していた触手も消え、僕は呆気なく地面へ投げ出された。
そして森の木々の隙間から朝日が伸びてきて、僕と彼女を照らしていく。
「あ……りが……とう……」
気付けば感謝を口にしていた。
彼女がいなければ、僕はあの化け物に喰われていたんだろう。
どんなに現実味のない出来事だろうと、その危険が僕の身に迫っていたことは確かで……。
「ホント……おにぃさんよわよわぁ。あんな雑魚に目をつけられるなんてほんとざぁこ♡」
嘲るような口調なのに、少女の顔にはどこか満足げな笑みが浮かんでいる。
「でも……なんで僕を……」
助けてくれたんだろう?
素朴な疑問は、少女の細い指先によって阻まれた。
僕の唇に触れる彼女の指はどこか冷たくて……生を感じなかった。
「んふふ。もう……戻ってきちゃダメだよ? おにぃさん?」
ひらりと後ろに飛んだ彼女との間に距離ができる。
うなじの辺りに流していた麦わら帽子を目深にかぶると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
それは昔見た……彼女と同じ笑顔だった。
気が付けば僕は……荒れ果てた家屋の中に倒れていた。
見覚えのあるリュックが隣に置いてある。
ここは間違いなく……もう誰も住んでいない僕の実家だった。
崩れかけた縁台から外をくるりと見回しても、人の気配はない。
それはそうだ。
この辺り一帯が廃村になった村なんだから。
この村は……世間の速度に取り残された村だった。
山に住むナニカに生贄を捧げる風習が、ひっそりと残ってるような村だった。
そんな辛気臭い村に見切りをつけて、若者はどんどん去っていった。
そして生活の立ちいかなくなった村人たちは……僕に目をつけたのだ。
座敷童に守られていると言われている家で生まれた僕に。
僕を山に住むナニカに捧げれば、全てうまくいくと盲目的に信じて……。
だから両親たちは僕を逃がした。逃がそうとした。
それに気づいた村人たちは……両親を、祖母を手にかけた。
血塗れになった母親の逃げて! という叫びに突き動かされるようにして、僕は逃げ出したのだ。
この村から。
死にゆく両親から。
僕を都合のいい生贄としか見てない村人から。
僕を……守ってくれていた彼女から……。
なのに今回、呼び戻されてしまったのは、山のナニカのせいか、村人たちの妄執か。
僕が逃げてからあっという間にこの村は廃村への道を辿ったはずなのに……。
ぶるりと背筋を冷たいものが走る。
ゆらりと頭を一つ振って、僕はリュックを背負った。
「……助けてくれて……ありがとう……」
家の敷地を出てから、崩れかけた実家に一つ頭を下げる。
返事はなかった。
だから僕は……背を向けて歩き出す。
クスクスと人を小馬鹿にしたような笑い声が……聞こえた気がした。





