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夏に咲く花~突然TSした俺、実は男嫌いだったあの子と両想いになりました!?~

県立提江洲(ていえす)高校、2年8組。

櫻井真琴(さくらい まこと)は、どこにでもいる恋に悩める男子高校生。


想う相手は学年のマドンナ・藍原沙羅(あいはら さら)。

彼女が文化祭の企画に向けてアイロン台の買い出しを頼まれたことをきっかけに、真琴は何とか距離を詰めようと試みる。


そこそこ鍛えてる体で、男を見せるんだ!

そう意気込む真琴だったが、買い出しの当日。


なんと、真琴の体は華奢な女の子のものへと変わってしまっていた!!

真琴の切なる恋路は、いったいどーなっちゃうの!??


・性癖:『TS』

・お題:『あさがお』

「……は」


 朝起きた瞬間、違和感があった。

 毎朝ちょっと悩まされる部分の空白感と、なんか慣れない重みと。

 見下ろしたときの何だか見慣れない膨らみと、それから思わず漏れた声が妙に高いような気がしたことと。


 積み重なった違和感に突き動かされるように洗面所まで直行した俺の前にいたのは、見たことのない女の子だった。

 いやいや、いやいや。


「……は?」


 瞬きをすると、鏡の女の子も瞬きをして。

 

「は……?」


 顔を触ってみれば、鏡の女の子も顔を触って。


「はあぁ?」


 思い切ってパジャマを脱いでみれば……うわっ、童貞の俺には刺激でしかない光景!


「はああああああ!!???」


 よく晴れ渡った空に見下ろされる、どこにでもあるような平々凡々な夏の日。

 これまた平々凡々な少年だったはずの俺こと櫻井(さくらい)真琴(まこと)は。


 どういうわけか、突然女の子になっていた。

 よりにもよって、憧れの子と出かける日に。



 いや、待て。

 落ち着け、いや落ち着けないよ。


 俺の名前は櫻井真琴、県立堤江洲(ていえす)高校の2年8組に在籍している、どこにでもいる図書委員の帰宅部・年齢イコール彼女いない歴の、恋に悩める少年。

 今は夏休み、夏真っ盛りの夏休み。

 だけど今日は文化祭の出し物であるエクストリーム・アイロニング喫茶の準備として、業務用アイロン台の買い出しに行くことになっている。普段の俺ならこういうとき、目立たないように去年同様アイロン磨きに徹するのだが、今年は藍原(あいはら)さんが買い出し係を頼まれていたので、俺もすかさず立候補したのだ。


 藍原(あいはら)沙羅(さら)さん。

 クラスメイトで、たぶん学年のマドンナ。

 放送委員として昼休みに綺麗な声を響かせているほか、うちの高校をタブロイド部──通称ゴシッ部(ぶ)強豪校として全国に知らしめた立役者でもある。1年の終わりには部長に任命されたらしいが、それも納得だよな!


 で、俺もそんな藍原さんにぞっこんラブなわけで。

 入学してすぐ、その可愛らしい顔立ちと鈴を転がすような自己紹介の声とで、俺はすぐに藍原さんに惚れてしまった。

 春風にさらりと揺れるココアブラウンの髪に、小柄ながら堂々とした佇まいにも、もう一発でコロリだ。隣の席になった俺に『よろしくね♪』なんて優しく笑いかけて、更にその後も1学期の間ずっと気安く接してくれていたのも、当時も非モテ街道まっしぐらな俺が参る理由としては十分すぎたりして(まあ夏休み明けの席替えで離れてからはぷっつり途絶えたが)。

 俺の高校生活は、藍原さんのお蔭で毎日がバラ色だったと言ってもいい。


 だからといってこれといったアプローチをできるわけでもなく1年半が経ったわけだが、同じクラスになって、更に誰もやりたがりそうにない業務用アイロン台の買い出しなんて引き受けてる姿を見たらさ……!


 やるしかないだろ!

 ここで男、見せるっきゃないだろ!

 幸い、学校にテロリストが突入してきてもいいように毎日筋トレは欠かしてないから、アイロン台くらいなら100や200……は言いすぎにしても、まぁそれなりの数持てるし!


 ……と、そんな風に気合いを入れていた日に。


「なんでそんな日に女の子になるわけ!?? つーか女の子になるって何!?? 意味わからんのだが!?? はぁぁ?? What the f××k???」

「おいおい朝からどうし」


 あ、やべ。

 洗面所で騒いでいたら、親父が起きてきた。

 ついでに固まった。


 うーわ、どうしよう。

 親父からしたら今の俺、なんかいきなり家にいる見知らぬ女の子じゃん。やべぇ、これは非常事態だわ。どうするよ、俺!?


「あー、えっと、あの、お、俺……」

「──ァス」

「え?」

「Uh……Marvelous」

「はあ?」


 なんか親父が自室に駆け上がって……ん、下りてきた? てか何だその女物の服の数々は!??


「真琴~! 父さんにはわかるぞ、わかるぞ父さんには! 真琴だな、真琴だよな!!?」

「え、あっ、えっと、まぁそうだけど、」


 やだ、この親父暑苦しい。


「うんうんやっぱりなぁ~! 正直普段から母さん譲りの顔立ちしてると思ってたけど、何だ何だ、なんでいきなり女の子になったりしてるんだ! 若い頃の母さんそっくりだなぁ~べろべろべろべろっ」

「うわっ、やめろよ気持ち悪い! 舐めるなっ、ベロしまえっ! 俺息子! 息子だから!!」

「……っと、すまんすまん。そうだったな、あんまり母さんそっくりだったから、ついな」


 ちょっぴり寂しそうな親父。

 親父が、俺の物心つく前に死んでしまった母の面影を俺に見ていることは普通に知っているが……ていうか。


「母さんに似てたとしても舐めないだろ」

「舐めるけど?」

「舐めるの?」

「うん」

「そ、そう……」


 いろんな夫婦がいるもんな。

 それを自分の親に言いたくなかったけど。 

 ていうか、写真で見ているだけで記憶にないからこそ美化されていた母のイメージが、微妙に損なわれた気がするんだけど……!?


「と、そんなことはよくてな」

「てか親父の度量凄いな、息子がいきなり女の子になってるんだぞ?」

「長い人生だからなぁ……、そんなこともあるだろ」

「ある!?」


 と、そんなことはよくて。

「何だよ、その服?」


 親父の腕には、男ふたり暮らしの家には似つかわしくない女物の──しかもコスプレ用とかじゃなくてちゃんと外に着ていけるような洋服がズラリと掛かっている。

 何故持っていたのかを問うのは勇気がなかったけど、まさか……。


「何って、真琴が着ていく服だよ。今日はデートの日だったろ? せっかくだから可愛くキメていっちゃえ☆」

「でっ……!? でデDeデートちゃうわ! 文化祭の! 買い出しだから!!」

「ん~? でも真琴、昨日だってご飯よそいながら歌ってたじゃないか、明日は初デート~、とか?」

「ひえぇぇ声に出てた!??」


 もう完敗である。

 しかも親父と言い合っているうちに家を出る時間になってるし!


 仕方ないから今日は適当に親父の選んだ服から、比較的動きやすいものを見繕って慌てて着替える。てか出てけ! 女の子になってなくても、年頃の息子が着替えてたら一旦部屋出てけ!


「だってせっかく母さんそっくりになった真琴のこと、フィルムに収めときたいし……」

「撮ってんの!? 誰かに見られたら捕まるよ!??」


 俺、ロリコン盗撮犯の息子とか嫌だよ!!

 それこそ藍原さんに顔向けできなくなる!!

 しかも撮られてるの俺だし!??


「ほらほら、遅れちゃうぞ☆」

「ニヤニヤすんな! カメラしまえー! いってきます!!」

「うんうん、いってらっしゃい」


 ニヤニヤしっぱなしの親父に見送られながら、俺は藍原さんと待ち合わせていた高校の最寄駅へと向かったのだった。



   ○ ○ ○ ○ ○ 


「はぁ、はぁっ、はぁ……っ、けほっ、」


 くそっ、いつもの俺のつもりで時間の見積もりしてたから、女の子の体になったときのことを計算に入れてなくて……うぇ、思ったより、ごほっ、消耗しちまった!

 いつもより小さな歩幅で苦労しながらもどうにか改札を通り抜けて、階段を駆け下りる。エレベーター? 混んでて無理!


 駅の階段下、売店の前に置かれたベンチで腰掛けている藍原さんの姿が見えた。うーん、やっぱり可愛い!


「お、お待たせ、藍原さん……!」

 正直まともに会話するのなんて1年の1学期以来だ、緊張とここまでの疲れでどうにかなりそうだったが、勇気を振り絞って声をかけてみれば。


「……、え、誰?」

「……あ」


 そうだった!!

 俺、今女の子になってるんだった!!!


「あっ、えっ、と、あわわわわ……」


 ど、どうしよう!

 女の子になったときの挨拶とか考えてないんだけど!??


「え、えっ、えっと……お、わ、わた、わたし、……あの、さ、櫻井真琴の……妹、で! えっと、ま、まこ……、まこって、言います」

「まこちゃん……?」

「お、おr……お兄ちゃんは、か、風邪ひいちゃったみたいで……! それで、わたしが来ることになりました……」

「ふーん……まぁ、いっか」


 予定外の事態にも花のように笑う藍原さん……素敵だぁ。


「今日はよろしくね、まこちゃん♪」

「は、はわわわわわわっ!?」


 てっ、て手teTeテthè手!!

 手を!!

 握られた!??


「こんな可愛い子と一緒だったら、私も買い出し頑張れそう! まこちゃんには悪いけど、ふふっ、お兄さんには感謝かも……なんて☆」


 夏の日差しも忘れてしまう、花のような笑顔。

 この気持ち……まさしくきゅん♡です!


「それじゃ、いこ!」

「うん、あ、は、はい!」


 わぁ……手を……引かれてる!?

 俺、女の子になってよかった!!


 そんなこんなで買い出しは終わり、アイロン台を教室に運び込んだあと、ふたりきりの教室。すっかり汗だくになってしまった俺に、藍原さんがラムネを買ってくれた。いつも校内の自販機で見かけても大した感慨もなかったラムネだったが、くぅ~っ、藍原さんからの手渡しだと思うと染みる!


 なんか、幸せ……!

 ちょっと……!

 幸せだなぁ!??


「まこちゃんお疲れさま! まこちゃん、私より小さいのに凄い力持ちで感心しちゃった! 大丈夫、無理してない? こんなに細い腕で、あんなに頑張ってくれたんだね……ごめんね、お姉さん頼りなかったね」


 はわぁぁっ!?

 藍原さんの手がっ、俺の腕に!??

 すべすべ……滑らか……はわわわわっ!


「べ、別に平気ですよ! あ、藍原さんみたいに、その……か、ka呵cu'か可愛い子……にっ、お、重いの持たせたく……な、なかったんで!」

「むぅ~」


 え、何その反応!?

 あっ、俺『可愛い』とか言った、今!?

 そのせいか、俺なんかが『可愛い』なんて言ったらそれただのセクハラじゃんね!

 うわぁやっちゃった~~~!

 せっかく藍原さんとお近づきになれるチャンスだったのに! やっちゃったぁぁぁぁ!


「あわわ、あの、あのあのおれじゃなくてわたし、し、失礼なことをぉぉぁぁぁ??」


 謝ろうとしたとき。

 何が起きたと思う?

 きっと、誰も想像つかないことだ。


 俺、櫻井真琴。

 今の名前は櫻井まこ。

 なんと、藍原さんに抱き締められてます。

 は?

 これ童貞卒業では?


「ぉあ……ぉぉ、おおおおお、おあおおおあ、」

「まこちゃんだって、『可愛い子』なんだよ?」

「ひゃいぃ!??」


 吐息を吹きかけるように、囁く声。

 全身を奇妙な痺れが駆け巡り、思わず声が漏れる。ちょっと前まではせっかくの可愛らしい洋服に俺の汗がついてしまうとか気にしていたけど、もうそれどころじゃない。


 心臓が早鐘を打ち、それ以外の世界が異常なまでに遅く感じられる。

 わぁ、わぁ、わぁ……ァ……!


「ふふっ……、泣いちゃった♪」


 いやいや、藍原さん。

 泣くなって方が無理ってもんだぜ、これは!?

 

 温かいし、柔らかいし、なんかいい匂いするし、触れた髪はさらさらしてて、何故かくっついている頬の、たまに頬擦りしてくる親父とかいつも遊ぶ友人たちと本当に同じ種類の生き物なのかと疑いたくなるほどのしっとりとした肌感、それに耳をくすぐる優しくて、愛らしくめ、それからちょっとだけ──これは俺の気のせいかもしれないが、ほんのちょっとだけ色っぽい囁き声。


 もうさァッ、無理だよ!

 こんなのいっぺんに味わっちゃったらさァッ!


「よしよし……まこちゃんは可愛くて頑張りやさんで、いい子だね~♪」

「うえっ、えっ、えっ」


 これは……夢?

 そうだ、夢だ。

 それか、たぶん何かの理由で死んだんだ。

 じゃなきゃこんなことになってないって。

 あー、そっかー、俺死んじゃったのかー。

 走馬灯ってやつなのかな、これ?

 そっか、だったらちょっとくらい願望……言ってもよかったりすんのかな。

 いや、どうかな。

 わかんねぇなぁ、こればっかりは。


「ねぇ、まこちゃん」

「は、はぅ、はい!?」


 俺のうなじを撫でながら、藍原さんが囁く。

 うわぁ、うわぁ。

 お互いの胸がくっ付いてるから、もう俺の心臓がドクドクいってるのは明らかに伝わってるわけで……っ、それで、それでそのあのあぅあぅあぅ!


「今日の作業って、私たちの分はこれで終わりなんだよね~。まこちゃんさえよかったら、なんだけど……お礼させてくれない?」

「お、お礼ie?」


 な、なんかなんかなんか!

 表情と相まって何だか何だかとってもすごく甚だしく半端なくやんごとない度合いで!!

 いかがわしい雰囲気が……え、えぇ、えぇ~えぇ~えぇぇっ!?


 まさかまさかまさかまさかね~~~~



「まさか、だった……」


 童貞の前に処女……卒業しちゃった……。

 藍原さん、肉食系だったのか?

 恐ろしくスムーズな流れ……俺本人でさえ、見逃しちゃったね。


「やっぱり可愛かったね、まこちゃん♪」

「ぇ……と、あ、はい……」


 藍原さんの自宅、なんとなく芳醇な香りがあったような気のする部屋には今、湿気た匂いが立ち込めている。


 ベッドで上体を起こす藍原さんの上気した艶かしい笑顔を、今にも途切れそうな倦怠感に包まれながら見上げる。

 妄想すら烏滸(おこ)がましく感じていた、藍原さんの生まれたままの姿。今朝自分自身が女の子になって多少の免疫がついていなかったら、目の当たりにしただけで卒倒していたかも知れない。


 ただ呆然と、さっきまでの出来事を反芻(はんすう)する。まるで現実味がなくて、だけど全然収まりそうにない甘い痺れと、窓を叩く夕立の音が、現実を突きつける。


 頬杖をついて、満足げに俺を見る藍原さん。

 今さっきまで彼女とセッ、セッ……行為をしていたという実感が次第次第に込み上げてくるのと同時に、ある事実が胸を占めていく。


 藍原さんって、こういうこと慣れてるんだな。

 少なくとも、初めてじゃないんだな。


 何だろう、この気持ち。

 別に俺だって性欲がないわけじゃないし、だから同い年の藍原さんにだって性欲があるのは不思議じゃない。まして、藍原さんって間違いなくモテるだろうから、経験のひとつやふたつあってもおかしくなんかないってのに。

 何だろう、苦しいなあ。


「汗かいちゃったから、何か飲み物飲もっか。ハーブティーでいい? 最近ハマってるんだ♪」


 家着だろうか、少しだぼついたシャツに袖を通した藍原さんが、部屋の外へと出ていく。置いていかれるような感覚がして手を伸ばそうとしたが、何となく気が引けた。


「あー……」

 訳もなく、声が出る。


 だってなんだか、だって、だってなんだもん。

 喜びや快感が一切ないかというとそうではない。

 むしろヤバい、ほぼイキかけました。

 嘘、何度となくイッた。


 けど、さ。

 やっぱり……なんつーか。

 俺ずっと好きだったんだよなぁ。

 ……キツいなぁ。


 思わずポツリと呟いた後、「おまたせ」とどこか弾んだ声で藍原さんが戻ってきた。お盆に乗せられていたのは、ハーブティーと聞いてイメージしていたようなカップではなくて、麦茶でも入れて氷を浮かせていそうなガラスのコップ。

 悔しいことに、何となく失恋気分を味わった後もどこか親しみみたいなものを感じさせてくれるのが、藍原さんだった。


 どことなくオレンジっぽい爽やかな香りがするハーブティーを飲んでいると、テーブル越しに向かい合っていた藍原さんが、クスッと笑う。


「やっぱりまこちゃんって、お兄さんに似てるよね」

「え、似てる……って、ど、どの辺が」


 やべえ!

 もしかして、俺戻ってきてる!?

 男に戻ってきてる!??


「ふふ、見た目じゃなくってね?」

 あ、違ったみたい。


「まこちゃん知ってる? まこちゃんのお兄さん……、まこちゃんのことは『まこちゃん』って呼んでるから、あっちは『櫻井くん』でいっか。櫻井くんってね、私のこと好きみたいなんだよね。去年から同じクラスなんだけど、すっごい視線感じてて」


 げげっ!

 バレてないと思ってたのに!


「あぅぅ、その……すみません」

「? なんでまこちゃんが……ううん、それでね、たまに私がそっちを見ると、『別に見てませんでしたけど?』みたいな顔してそっぽ向くの。なんかそれが面白くてね、そういうとこが可愛かったんだよね~」

「あ……ソ、ソスカ……」


 チラ見がバレてて恥ずかしいやら、「まこ」ではなく俺のことを可愛いと言われて照れ臭いやら、いやそれで喜ぶのは男としてどうなん?という戸惑いやら……俺の情緒上々、はたまたすぐさまダウンフォール……もうしっちゃかめっちゃかだ!


「なんでまこちゃんがそんな照れてるの~? そういうとこも可愛い♪」

「あぃぃえぇぇ!??」


 徐々ににじり寄ってきているのはわかっていたけど、一気に距離を詰められて、いとも容易く抱きつかれてしまった。

 わぁ、柔らかい、しっとりしてる、体温がある、あわわわわ、わわわわわわ……!


 ついさっきまで直(じか)に触れ合っていたはずの温もりに、相も変わらずドギマギしてしまう。


「だから、心配になっちゃうなぁ~。今日1日一緒にいて思ったけど、まこちゃんって男からの視線にずいぶん無防備じゃない?」

 この髪の毛みたいに──そう呟きながら髪を撫でる手のただならぬ艶かしさに、思わず背筋(せすじ)が震える。ごめんねと囁く声でまた俺が震えたのは、どこに訴えたらいいだろう。


 もうこの人、清楚なのにエロすぎ罪で訴えます!

 理由はもちろんおわかり、……ん?


「で、す……ね?」

 ふと、藍原さんの表情が先程までの可憐でありながらも妖艶さを隠しきれていなかったものではないことに気付く。


「ねぇ、まこちゃん。まこちゃんはもしかしたら、そうだね……周りが櫻井くんみたいな人ばっかりだったら実感湧かないかも知れないけど。男の人ってね、信じちゃいけないんだなって思う日がきっと来ると思うの」


 おいおいおいおい!

 流れ変わったぞ、何か!?


 場の流れを読めなさすぎて小学校の通信簿に『本に書かれた文字よりもっと人の機微を読める子になりましょう』だなんて書かれ、烈火のごとくキレた親父が当時の担任教師に鬼電した過去を持つ俺ですらわかるくらい、さっきまでのピロートークじみた甘い空気は霧散していた。


 何てこった……!

 「なんか幸せ」とか「ちょっと幸せ」とか感じる瞬間(とき)こそ幸せの始まりなんじゃなかったのかよ!??


 藍原さんは、俺の体をあちこち触りながら続ける。


「1年の……去年の夏なんだけどね。セパタクロー部とゴシッ部の合同合宿で私、……ああ、言いたくないなぁ。でも、ちゃんと教えてあげるね。人を無警戒に信じるのは危ないんだって、……だから、ね?」


 耳を塞がないで、ちゃんと聞いて?

 その声に、抗えるわけもなかった。


   ○ ○ ○ ○ ○


「これで、おしまい。ふふっ、ごめんね」

「……はぁ、……っ、うぅ、ぐずっ、」


 何度、耳を塞ごうとしたかわからない。

 それでも、藍原さんは絶対に許してくれなかった。


 藍原さんの口から語られたことは……思い出したくもない。脳内で反芻することすら、吐き気が込み上げてきそうだった。

 だから話の内容よりも、話に併せるように──去年の彼女がされたことをなぞるように、藍原さんの手が俺の体を這い回った感触だけを、どうにか覚えるようにして。


 そうやって、なんとか耐えた。

 そんなの、きっと藍原さんはお見通しだったのだろう。声を震わせ、時に涙すら滲ませながら彼女自身のトラウマを俺に聞かせ終えて。


「まこちゃんは、素直で純粋で、…………可愛いね。私の辛(つら)い話聞いてるのに、ふふっ、何回も泣きながらイッちゃって♪」

 その言葉に、俺のそんな不誠実さを責める意図があるとは、はっきりと言い切れないけれど。

 それでも俺としては、後ろめたさしかないわけで。


「ご、ごめんなさ、」

「謝らないで?」


 だからこそ。

 責められこそすれ、優しく抱き締められるなんて思ってもみなかった。


 安堵と、情けなさと。

 自分の不甲斐なさと。

 胸の苦しい気持ちと。


 全部が、一気に俺の目から溢れ出す。


「っく、ひぐっ、うぅっ、わぁ……ァ……!」

「くすくす、また泣いちゃった♪ なんでまこちゃんが泣くかな~」

「……っ、だって、……だって、ずっと、おれ、ぅ、……知らなくて……っ、自分が情けないっていうか……っ! うぇ、えぅぅぇ、」


 本当に、情けない。

 藍原さんが恐ろしい目に遭っていたことなんて知らず、それどころかそのトラウマから男を避けていた光景を、『所詮は俺だもんな、席替えしたら用済みさ』なんて拗ねた心持ちで見つめていたわけだ。

 なんて体たらく。

 なんて情けない話だろう。


 俺ってやつは……!

 そう自分を叱咤してみせても、俺は漫画やアニメの主人公ではない──今を生きる、ただの帰宅部高校生だ。

 だが、それでも!


「なんか、私の分まで泣いてくれてるみたい」


 そう言って抱き締められる感触が温かくて、けどそんなのも塗り潰されるくらいに心が痛くて、そうやって泣くことしかできない自分が、ひどく情けなくて。

 決して彼女の分だなんて思い上がれもしない、ただ自分自身の悔恨と悲しさから、俺はひたすらに泣き続けた……。


 やがて、涙がどうにか止まり、呼吸も落ち着いてきた頃。

 夕立は止み、暮れ泥(なず)む空は、夏の雨上がり特有のどこか毒々しい赤一色に彩られていた。

 赤くなった世界で、マンションの玄関まで見送りに来てくれた藍原さんが俺に囁く。


「人工呼吸、楽しかったね♪」

「……あぅぅ、」


 呼吸の落ち着かない俺に『人工呼吸』と称して藍原さんが何をしたか……なんて、敢えてここで語るまでもないだろう。お蔭で涙は止まったが、呼吸が落ち着くまでには更に時間を要したのだった。


「それじゃまこちゃん、気を付けて帰ってね。私は親が帰るまでに部屋片しとかないと」

「あの……っ!」


 可憐な笑顔。

 昨日までなら、ただその笑顔に恋い焦がれるだけだったが、今は。


「ん?」

 知ってしまった。

 彼女の可憐な佇まいは、きっとずっと、意図して作られたものなんだと。彼女が、自分を苛む傷のせいで身に付けざるを得なかった対処法なのだと。

 今はもう、知ってしまったから。


 だから。

「おrわ、わたしに何か! できること……ないですか!? あの、あの……藍原さんの、ため……に……なんて、烏滸がましいかも、だけど……あの、」

「ありがとう、まこちゃん。その気持ちだけで嬉しいな」


 我ながら情けないが、今日だけで何度となく抱き締められたというのに、やっぱりその抱擁だけで言葉が掻き消える。

 伝わってくる平静な鼓動からは、その感じ入ったような声が作り物だとわかるのに。

 勝手に、俺は満たされてしまう。


「嬉しいから、何もしないで。それが、私のお願い」

「え、」

「私のために、まこちゃんはそのままでいて? 優しくて可愛くて素直で、純粋なまこちゃんのままでいて。そうしてさえくれたら、私は大丈夫だから」


 ハナから期待されていないのだろう。

 余計なことはするなと釘を刺された。


「まこちゃんはね、たまにこういう風に私と会ってくれたらいいよ。そうしたら……私は何回でも、まこちゃんのこと好きになってあげられるから」


 愛しいものを愛撫するような囁き声。

 艶やかな声すらも、彼女は胸を騒がせずに発せてしまうようだった。


「……はい」

 察してしまった彼女の心に傷ついても。

 俺の心は、痛むのと同じ高鳴ってしまう。

 嫌になるくらい単純で、御しがたい。


 もどこを見たらいいのかわからなくて、ふと目を逸らした先では。

 そこの子どもが育てているのだろうか、朝顔の蔓(つる)が支柱を折らんばかりに絡み付いているのが見えた。


 生温い風が吹き抜ける、雨上がりの夕暮れ。

 夏は、まだ終わりそうになかった。

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