第二十八話「変なお父さん」(エピローグ)
転生して、八ヶ月が経った。
朝が来た。
いつもと同じ朝だった。
でも、少しだけ違っていた。
何が違うのか、うまく言葉にならなかった。
ただ、少しだけ違っていた。
朝食の席。
エルザがシオンを抱いていた。
アリスが隣に座っていた。
「今日も地図を持ってきているのか」
「……はい」
「食事中は」
「気になることがあるので」
「後にしなさい」
「はい」
アリスが地図を置いた。
でも、ちらちらと見ていた。
エルザが、それを見て、少し笑った。
シオンが、エルザの指を握った。
力強い握り方だった。
……いつもの朝だ。
転生して、八ヶ月。
これが、いつもの朝になった。
午前の執務。
パラネスが書類を持ってきた。
「陛下、ラザミア女王からの書状が届いております」
「……何と書いてあった」
パラネスが書状を広げた。
「妹がお世話になりました。
感謝いたします。
いずれ機会があれば。
ラザミア」
俺は少し黙った。
……短い。
短いのに、なぜか背筋が冷えた。
「……パラネス」
「はい」
「これは、どう受け取るべきだ」
「笑顔の裏に刃がある、とお思いください」
「……そんなにか」
「ミーテラスの女王です。短い書状ほど、注意が必要です」
「……分かった」
……いずれ機会があれば。
その一言だけで、十分だった。
この人は、来る。
いつか、必ず来る。
「記録に残せ」
「……御意」
パラネスが出ていった。
俺は窓の外を見た。
王宮の庭。
その端で、ジークがアリスに剣術を教えていた。
アリスが、真剣な顔で構えていた。
ジークが、何かを言った。
アリスが、頷いた。
また構えた。
……この子は、本当に飽きないな。
午後の授業。
アリスが地図を広げていた。
新しい書き込みが、また増えていた。
「また増えたな」
「はい。気になることがあって」
「……何が気になった」
「ラザミア女王のことです」
「……なぜ」
「書状が届いたと聞いたので」
「パラネスから聞いたのか」
「はい。お父様の顔が少し難しかったので」
俺は少し固まった。
「顔で分かるのか」
「……だいたい」
……この子に、俺の顔は読まれている。
「ラザミアについて、何が分かった?」
「ミーテラスは、大陸の東にあります」
「ああ」
「……アルタミスのどの国より広く強い国」
「エルマの地からも、近い」
俺は少し黙った。
「……エルマの地か」
「はい。緩衝地帯です。アソセス、ガレス、ラインベルトの三国が接する場所」
「君の叔母が、そこに関心を持っているとしたら」
アリスが地図を指差した。
「大陸全体のバランスを、見ているかもしれません」
「……なぜそう思う」
「お母様から、叔母様のことを少し聞きました」
「……何を聞いた」
「怖い人だけど、優しい人だと」
「……そうか」
「全部、計算している人だとも」
「お前は、会ってみたいか」
アリスが少し考えた。
「……まだ早いと思います」
「……なぜ」
「もう少し、勉強してからの方がいい気がします」
「……何が足りない」
アリスが少し俯いた。
「……うまく言えないですけど」
「言ってみなさい」
「……人間のことが、まだよく分かりません」
「人間のこと?」
「地図は分かります。外交も、少し分かります」
「……でも」
アリスが地図を見た。
「なぜ人は、損をすると分かっていても、戦うのかが分かりません」
「なぜ、分かっていても怒るのかが分かりません」
「なぜ、正しいと分かっていても、できないことがあるのかが分かりません」
俺は少し黙った。
……この子は。
自分が分からないことを、ちゃんと言えるようになっている。
「……それは」
「はい」
「俺も、分からない」
アリスが少し驚いた顔をした。
「お父様も、ですか」
「ああ」
「ずっと、分からないままですか」
「……たぶん、一生分からない部分がある」
アリスが少し考えた。
「でも、お父様は人を見ています」
「……そうかな」
「……分からなくても、見ている」
「それしかできないからな」
アリスが、少し口の端を動かした。
「それでいいと思います」
「……そうか」
「……はい」
授業が終わった。
アリスが立ち上がった。
「……お父様」
「なんだ」
「一つ、聞いていいですか」
「ああ」
「……お父様は、ここにいますか?」
「どういう意味だ?」
「……十年後も、ここにいますか?」
以前も聞かれた問いだった。
「分からない」と答えた問いだった。
今も、分からない。
転生したまま、ここにいるのか。
目が覚めたら子供部屋の天井なのか。
分からない。
「……分からない」
「……そうですか」
アリスが少し俯いた。
「……でも」
「はい」
「いてほしいです」
「……分かった」
「約束してください」
「……難しい約束だ」
「でも、してください」
「……努力する」
アリスが、少し間を置いた。
「努力する、ですか」
「今の俺には、それしか言えない」
「……正直ですね」
「そうだな」
アリスが、また少し口の端を動かした。
「……分かりました」
「それで満足か」
「……満足ではないですが」
「……信じます」
扉が閉まった。
俺は一人、執務室に残った。
……信じます。
アリスが。
そう言った。
窓の外に、夕日が差し込んでいた。
その夜。
アリスは日記を書いた。
「今日の授業で、ラザミアの話をした」
「お父様も、人間のことは分からないと言った」
「でも、見ていると言った」
「……それでいいと思った」
ペンが止まった。
「お父様に、十年後もここにいるかと聞いた」
「分からないと言った」
「努力すると言った」
「信じますと言った」
「本当に信じているかどうかは、分からない」
「でも」
アリスは少し考えた。
「信じたいと思った」
「それは本物だと思う」
最後の一行を書いた。
「……お父様は、変なお父さんだ」
書いてから、少し考えた。
もう一行、書いた。
「……でも」
「……うちのお父さんで、よかった」
日記を閉じた。
燭台の火を吹き消した。
暗闇の中で、目を閉じた。
隣の部屋で、シオンが小さな寝息を立てていた。
その音が、聞こえた。
廊下で、ジークが持ち場に戻る足音がした。
その音も、聞こえた。
遠くで、エルザが祈りを捧げている気配がした。
(……みんな、ここにいる)
アリスは、目を閉じたまま、思った。
(……それだけで、十分だ)
そのまま、眠りについた。
俺は、執務室で書類を眺めていた。
夜だった。
書類の山は、相変わらず高かった。
でも、以前ほど気が重くなかった。
懐に手を入れた。
エルザの書き置きが、まだそこにあった。
丁寧に折り畳まれた、一枚の紙。
「本当は、行きたくない気持ちもあります」
という文字が、少し乱れていた。
……エルザ。
今日は、ちゃんと眠れているか。
書き置きを、また丁寧に折り畳んだ。
懐に戻した。
窓の外に、月が出ていた。
……お母さん。
心の中だけで、呼んだ。
……元気でいてくれ。
俺は、ここにいる。
しばらく、月を見ていた。
田中ひろしだった頃の記憶が、少し浮かんだ。
子供部屋の天井。
ゲーム機の電源ランプ。
扉の向こうの、軽い足音。
「ひろし、ご飯よ」
……ありがとう。
心の中だけで、言った。
届かないと分かっていても。
届いてほしいと思いながら。
月が、静かに輝いていた。
書類に、向かった。
……ゲームより、大事なものがあった。
だから。
もう少し、ここにいる。
夜が、深くなっていった。
廊下で、ジークが静かに立っていた。
隣の部屋で、シオンが眠っていた。
少し離れた部屋で、アリスが眠っていた。
もう少し離れた部屋で、エルザが祈りを捧げていた。
全員が、ここにいた。
了




