停滞(11)
暑いですね。
今回もよろしくお願いします。
夜の9時半を回った時間に入る武術道場は、建物の古さと人気の無さとが相まって、それは不気味と呼べる静けさだった。
それでもつい先般まで、ここで道場生が汗を流していたのだろう。多数の体温が作っただろう湿り気と匂いが、今も空気に濃く溶けていた。そして広い。
道場の入り口付近の照明二つだけが点灯しており、その灯りの下で、あの芝山美波が俺たち2人の到着を待っていたようだ。彼女はまだ白い道着姿だった。長い黒髪を一か所で束ねたその凛とした気品は、どうにも言葉に表しようがなかった。最高峰の者だけが纏うことができる輝き。俗っぽく言えば、そんな表現になるだろうか。
(じゃあ30分後に)
そう言ってラーメン屋を出た俺たちだったが、実際は20分強の時間で柔心会の本部道場に到着した。けっして空いている訳ではなかった片道3車線の幹線道路を、ミカの運転する赤い車は、他の車の間を滑るように走った。この間、助手席に乗っていた俺が危険を感じることは一度もなかった。ハンドル操作にも車間距離の取り方にも、まだまだ十分なゆとりがあった。熟練の運転技術に裏付けされた自信が為せる業だった。
幹線道路を逸れてから、時速60キロを超える速度でまだ数分の走行を要した頃、比較的平坦だった道は、いつしか緩い上り傾斜を持ち始めていた。
いよいよ道路を照らす外灯の数が減ったとき、深く濃い闇の中に、その厳かな建造物は出現した。長い歴史のある柔心会本部道場である。
「遅い時間にごめんね」
ミカの芝山美波に対しての第一声がそれである。
よそよそしさを感じる言葉ではなかった。それも当然のことで、この2人は実の姉妹なのである。では逆に仲の良い姉妹に見えるかと言えば、決してそうとも言えない。互いが互いの顔色を探るような微妙な距離が二人の間に感じられる。何をもってそう感じているのかと問われれば、なかなかに答え難い。敢えて言うなら、二人の眼と口元にどこか軽い強張りがあることだろうか。
俺の顔を見た時に、一瞬だけ芝山美波はやや表情を崩し、軽く会釈をよこした。それは飽くまで一瞬だった。俺も軽く会釈を返した。
「要件は?」
芝山美波の言葉は飽くまで端的だった。
またジャイアン退治がどうのこうの、そんな要領を得ないそんなミカの説明が続くことを危惧した俺だったが、そこは杞憂に終わった。
「九州のY社って会社に知ってる人いないかしら?」
「それを訊いてどうするつもり?」
(こっちのジュンさんがね・・・)
ごく簡潔に俺の紹介をしたあと、ミカが言葉を続ける。
「このジュンさんがY社の人と仕事の話がしたいんだって」
(その内容と理由は?)
このとき俺が懸念したのはその質問である。Y社と手を組み、T社の目論む談合を阻止したい。平たく言えばそういうことなのだが、この業界の事情を知らない人間に、そのニュアンスを伝えるのは容易ではない。まして業界の裏の部分だ。
ミカと芝山美波がしばし見つめ合っている。お互いが目を逸らさない。5秒。10秒。若干の緊張。とっ、くるりと芝山美波が体の向きを変える。たったそれだけの挙動に、まるで豹が歩くかの様なしなやかさが感じられた。
(付いておいで)
俺たちに向けた背中だけで、芝山美波がそう語った。俺たちは続く。
通されたのは広い道場の隅に位置した簡易な事務所のような部屋。面積でいえば6畳くらいか。
人の背丈くらいの本棚が一つ。部屋の隅に机が一つ。その机に一台のノート型パソコンが置かれている。これを芝山美波が開く。
オペレーションシステムが立ち上がるまでの30秒程度の沈黙の時間が、やたらと長く感じられた。
ぼぅと液晶のバックライトが怪しい灯りを灯す。芝山美波がパスワードを入力する。武術家の手らしからぬ細く長い指だ。やや間を置いて表形式のファイルが画面いっぱいに表示された。
「九州の何県?」
視線をパソコンの画面に向けたまま、芝山美波が問う。ちらりとミカが俺の方を向く。
「福岡です」
俺が小さく答える。芝山美波が再び指を動かす。芝山美波は柔心会の会員名簿が何かを検索してくれているようだ。またも沈黙。
液晶画面がスクロールする度、暗い部屋の空気が微かに揺れるような感覚に陥る。
「福岡支部にはY社に勤めてる会員はいないね」
あっさりと芝山美波が俺たちの希望を断ち切る一言を吐いた。
う~んと唸ったのはミカである。俺も黙り込むしかできる事がない。
「他の県も当たってみる?少し時間はかかるけど」
Y社の社員は全国に一万人強いる。簡易的に日本の人口を1億人として、一万人に一人の割合。会員が百万人いるなら100人程度はY社に勤める柔心会の会員がいてもおかしくない。単純な算数だが、もし会員の中にY社に勤める人間が見つかったとしても、その人物が俺たちの期待する立場の人物であるかどうかは別問題だ。
製造業の会社なんて社員の約七割がひたすら物作りに従事しているのが普通なのだ。例えその人物が国宝級の技術を持っている職人であっても、俺達の求めている人物じゃない。俺達の探しているのはY社に繋がりの有るむしろフィクサー的な役割を担うことのできる人物だ。
ここで俺は思う。俺たちは致命的なアプローチ面でのミスを犯しているのではないか。
探すべきはフィクサーなのだ。しかしフィクサーと言ったところで、彼女たち二人には難し過ぎる言葉だろう。
「今さらで申し訳ないのですが、何もY社の社員である必要はありません。どちらかと言えば商社というか、それも総合的な仕事に携わっている総合商社に勤められてる方の人脈の方が、実は有難いのですが・・・」
俺の言葉に芝山美波の手が止まった。俺の認識不足が招いたミスだ。しまった。怒らせたか。
「九州の総合商社・・・それなら」
ぼそっと芝山美波が呟いた。




