停滞(12)
ヤバい感じ。書けなくなってきた。
「もしもし~夜分に申し訳ないです。美波です。お菊ちゃん、お久しぶり~」
近寄り難さすら感じた冷たい美しさを纏っていた芝山美波の表情が、このとき一気に綻ぶ。それだけの変化で、電話の相手はとても親しい間柄の人物だと分かる。
「うんうん、元気でやってる。道場の皆も元気よ。みんなお菊ちゃんに会いたがってるよ~こっちに来る機会なんて無いのかな。そ~~会いたいよね~~」
まるで女子高生同士の恋バナのようなテンションだ。世界最強と呼ばれる芝山美波が、こんな甘い声を出し、こんな破顔を見せるのかと俺は驚かざるを得ない。
「そっか、やっぱ忙しいか。□□商事の課長さんともなれば、まあ当然か」
□□商事という会社名に、俺はかなり驚く。年間取扱高は決して巨大企業という域ではないが、特定の業種に向けた販売力は特筆すべきものがあり、その扱い商材も実に幅広い。付け加えるなら、N社に代表される非鉄金属メーカとのコネクションの強さは業界トップクラスと考えていい。
「ところでお菊ちゃん、え~と、なんて会社だったっけ?」
芝山美波が俺の方を向く。魅力的な微笑が張り付いている。その問いは俺に対するもののようだ。
「Y社。総合電機メーカのY社です」
少し慌ててしまったのか、不自然に声のトーンが高くなってしまった。
「Y社だって。お菊ちゃん、福岡のY社って会社知ってる?あっ、知ってる・・・えっ、そうなの、知らない方がどうかしてるって?そんな有名な会社なんだ~~」
芝山美波の反応から察するに、受話器の向こう側の相手はY社について知っているようだ。それはそうだろう。□□商事が俺の知っている□□商事なら、かなり強固な企業間のコネクションがあっても不思議じゃない。
「Y社さんは知ってるみたいだけど、でっ、何をお願いするの?」
いつの間にか芝山美波の言葉の語尾から敬語や丁寧語が消えていた。親しい間柄の電話相手に心が和んだのだろう。
そして俺は困る。いかに簡潔に俺達の望みを伝えるか。それもこの業界に疎いであろう芝山美波を介してである。直接に俺が電話で話するのが早いのだろうが、しかし・・・
「じゃあ直接話してくれる?そっちの方が手っ取り早い」
芝山美波が俺に繋がったままのスマホを手渡そうとする。この瞬間に俺が思い出したのは、この芝山美波がリングの上でルナ・ワイズマンなる格闘家を一瞬で仕留めた投げ技からの腕固め。改めて思い返すと、それは極めて合理的な体捌きで無駄というものが微塵も存在しなかった。無駄を嫌い、極めて合理的。一流のアスリートの思考や行動とは、こう言うものなのかも知れない。
「菊元さん。□□商事の九州支社の課長さん」
受話器の向こう側の人物に関して、そんな簡易な説明を芝山美波は付け加えてくれた。
スマホを受け取った俺は、会社名を告げるかどうか少し迷った。それでもここは正直であるべきだと考え、自分の氏名の前に会社名を付けた。
「□□商事の菊元です」
俺の聴いた声は比較的若い女性のそれだった。そのことが俺には意外だった。課長というからには相当の立場にある人物だろう。女性幹部社員比率の向上は国の指導が入るレベルでの構造改革の一つだが、我が社でそんな女性幹部社員がいるかと問われると、すぐには思い当たらない。さすがは□□商事と言ったところだろうか。いや、今はそこに感心している場合じゃない。
「改めてK電機の大友と申します。夜分に恐縮でございます。実は大変に不躾なお願いがありまして・・・」
続けた俺のお願いは即ちこうだ。
重電メーカY社との仕事上の付き合いはないか。
あるなら担当者と一度会話できる場を設けることはできないか。
非鉄金属業界に関係している仕事をしている人ならベター
俺は緊張しているのだろう。芝山美波から受け取ったスマホが温い手汗で滑りそうになる。
「仮に弊社に該当する人物が存在したとして、どのような要件となるのでしょう?」
やはりと言うべきか、俺にとっては最も回答するに難しい質問を受ける事になった。通常の感覚を持っている会社人なら至極当たり前に突き当たる疑問だ。
さあどうすると一瞬悩んだ俺だが、一度正直であるべきと腹を括った俺の決断は早かった。
「N社の大きなプロジェクトに関して、Y社のご担当の方と腹を割ってお話する機会を頂戴したいと考えております」
正直であること。駆け引きがないこと。それがこんなに楽な事なのかと思う。
思えば俺達のようなサラリーマンは、多くの時間を嘘や言い訳に費やす。
この場合の嘘とは、顧客との駆け引きの一部である。言い訳とは会社や上司に対する説明であったり自己弁護であったりする。その全てが無駄なことではないだろうが、限られた時間とエネルギーの有効活用と言った観点では、決して生産性のいい行動ではあるまい。
菊元なる□□商事の課長と会話しつつ、そんなことを俺は考えている。今の俺はなぜか脳が活性化している。
「N社の大きなプロジェクトとは、西日本地区のCRプロジェクトの事でしょうか?」
(繋がった)
菊元課長のその一言を聞いた時の、俺の心境が正にそれだった。




