森のくまさん:ウッツの話
「ララ!大変!」
地下の調合室にエメが駆け込んできた。
「ちょっと待って」
何やら粉末を慎重に量っているララが、振り向きもせずに抑えた声で答えた。
兎の少女がこうして駆け込んでくるのはいつものことなのだ。
「もー!」
地団太を踏んでいるエメだが、ララは動じない。
調合を最後まで終えてから、ゆっくりと振り返った。
「お待たせ、エメ。……あら」
エメは待ちくたびれたのだろう、部屋の隅の椅子に座り、背もたれに寄りかかって眠っていた。
「仕方がない」
エメの肩と膝裏に手を入れ、目を閉じるララ。
次の瞬間には、リビングのソファへと移動していた。支えていたエメの体をソファに横たえ、キッチンに向かう。
この時間は、ヴァイスは薬屋、シュヴァルツは買い出しに出ていて家の中にはララとエメだけだ。
手早くお茶を淹れてリビングに戻ると、エメがぼんやりした顔で身を起こしていた。
「ララ」
「お待たせ、お話があったんでしょう」
「ん……、ん、そう!お友達ができたの!」
ぱちぱちと瞬きをしたエメが、背筋を伸ばして目を輝かせた。
「おともだち?そう、よかったわね」
「えー、反応薄いなあ」
「おともだち、が何かよくわからない」
「仲良しってこと!もう、ララは人間なのに時々人間の言葉が分からないよね!」
「うーん。まあ、エメにわたしたち以外の『仲良し』ができたのは良いこと」
「でしょ!今度連れてくるね!」
「……家に連れてくるのはだめ。家を教えるのはだめ」
「ええ?どうしてよ」
「おともだちが危険な目に遭うわよ」
頬を膨らませたエメに、ララが諭すように言う。
「表の店なら良い。そこで会いましょう」
「えー、でも、嫌がらないかなあ」
「嫌だったら仕方がない」
「話してみるね!」
「ええ」
「ララ!大変!」
「どうしたの」
朝食を食べるなり元気に飛び出していったエメが、すぐに血相を変えて戻ってきた。
ダイニングでのんびりと食後のお茶を楽しんでいたララが眉を上げる。
「お友達が大変!」
「何かあったの」
騒ぎ声に、キッチンで片づけをしていたシュヴァルツもやって来る。
「どうしたんですか」
「怪我したの、お友達!矢が刺さってて、たぶん、昨日からずっと!血がいっぱい出てるの、助けて!」
泣きそうな顔をしてエメが叫ぶ。
ララとシュヴァルツが顔を見合わせ、頷く。
「わたしが先に行く。シュヴァルツは準備をして後を追って」
「はい」
「エメ、案内して」
「うん、早く治して!死んじゃやだ!」
身を翻し、家の外に出ると兎の姿で恐ろしい速さで駆けて行く。
気配を見失うことのないララは、宙を滑るように後を追う。
やがて二人が辿り着いたのは、家のある森の、一番深い場所。
「……ここに、いるの」
「そう!」
「いくらなんでも、人はこんな奥に入って来れないのでは」
ララですら、奥までは来ない。
「人?お友達が?」
エメがきょとんとしている。
「……なるほど」
ララがエメをじっと見て、首を振った。
「いいえ、なんでもない。どこにいるの?」
「あの木の近く!」
がさがさと木に近づいて、エメが人間の姿になりララを手招きする。
「矢、抜いても良い?」
「……おともだち、ね」
素早く屈み込んだララが頷く。
木の陰に倒れているのは、大きな体の茶色い熊だった。
背中から脇腹にかけて何本もの矢が刺さっていた熊は、ララが慎重に矢を抜きながら止血を施した。止血の最中に追いついたシュヴァルツは熊の口に薬を流し込んでいる。口が開いているため、大半が零れ落ちている。
「出血が多いわね」
「多かったらどうなるの」
「死ぬ」
「死ぬとどうなるの」
「いなくなるってこと。もう会えないってこと」
「やだ!」
「では黙って見ていなさい」
「……はい」
エメが少し離れた場所に行って膝を抱えて座り込んだ。
ララは熊に向き直り、両手をその巨体にかざす。
「エメ。あなたに初めてできた『おともだち』だから、助けるけど。普通の生き物は薬や治癒魔法で治らなければ死ぬの。それは覚えておいて」
「知ってる、ララは特別だって。ララはなんでもできるもの」
「できるけれど、やってはいけないこともある」
「……よくわかんない。できるならやっても良いんじゃないの?悪いことなの?」
「エメ」
シュヴァルツがエメの頭を撫でる。
「今はララ様に任せて。後で話をしよう」
「はぁい」
兄のポジションであるシュヴァルツにも窘められて、エメは不服そうであるものの頷いた。
「……わたしは言葉が足りないことが多い」
ちらりとエメを振り返ったララ。
「承知しています」
シュヴァルツが言い、エメも頬を膨らませて同調する。
「知ってるもんそんなこと」
「帰ったらゆっくり話をしよう。今は友達を助けるのが先です」
同じことを繰り返しているのに気づいてシュヴァルツがララとエメに言った。
時間をかけて止血を終えて、ララが深く息を吐く。
血を止めただけなので傷は癒えていないし体内の血液も不足している。少し動かせば傷はすぐに開くだろう。
熊の巨体に、どれだけの血液が必要なのか。
そして成体であろう熊の体内時間をどれだけ進めても大丈夫なものなのか。加減を間違えれば熊には老いが訪れるだろう。
森の中で血の匂いをさせながら長時間の治療は、危険はないのか。
そういうことをララは二人に話をした。
「どうしましょうか、ララ様」
深刻な表情でシュヴァルツがララの表情を窺う。
「意識が戻るまで、もしくは動けるようになるまでこの場で治療をする」
シュヴァルツが頷いた。
「エメを家に。ヴァイスが戻ったら伝えて。それから、何か食べるものを持ってきてちょうだい」
ララはシュヴァルツに指示を出した。エメは蚊帳の外だ。
「すぐに戻ります」
「あたし見てる!」
「だめだ」
ひょいと暴れるエメを小脇に抱えてシュヴァルツが立ち去った。
浅い傷口には魔力を籠めた薬を塗り込み、深い傷には直接魔力を流し込む。
太陽は高くなり、気温も上がって草木の匂いが強くなる。熊の流した血も、地面に染みを作るほどの量で、周囲に匂いが届いている恐れもある。
「はやく、終わらせないと」
森に住むのはこの熊一頭だけではないのだから。
ゆっくりと草を踏む音に、ララは視線を動かした。
シュヴァルツの気配ではない。
「おい、大丈夫か」
姿を現し声をかけてきたのは人間の男だった。
猟師か。
「……」
弓を持ち、矢をつがえ、熊に狙いを定めている。
「どきなお嬢ちゃん、そいつを探してたんだ、仕留めてやる」
「だめ」
「あんたもそいつにやられたんじゃねえのか」
血まみれのララを見て男が言うが、ララは首を振った。
「熊は見つけ次第殺せってのが命令でな。離れろ」
「……命令」
何者かが命じているのか。
町の権力者か何かが?
「止めを刺せなくて取り逃がしたもんだから、首持って行かねえとならねえんだよ」
ララはゆっくりと立ち上がる。
「熊を全部殺すの?」
「ああ、そうだ。人間を襲うからな。根絶やしにしろってよ」
「……」
ララが手を上げると、突風が男を襲った。木の葉や草、土が巻き上げられて視界を奪う。
「うわっ、なんだ、急に!」
つむじ風に襲われた男は弓矢を失い、収まって周囲を見渡すと血痕だけ残して女も熊も消え失せていた。
「シュヴァルツ」
キッチンでエメとヴァイスに纏わりつかれながら食事の用意をしていたシュヴァルツが振り返る。
「ララ様!大丈夫ですか」
「マスター、心配していました、シュヴァルツが家から出してくれず」
「ララ、終わったの?生き返ったの?」
「……空き部屋のベッドに寝せているから、シュヴァルツがついていて。ヴァイスは町に行って、熊を根絶やしにするようどこから命じられているか調べてきて」
三人が静まり返って、そしてすぐに動き出した。
「何か必要なものはありますか」
「いいえ。起きたら教えて」
「熊を全部殺すって息巻いているやつがいました、そういえば」
「それの出所を確認して」
「あたしは何をしたらいいの?」
「少し一緒に寝ましょう」
身を清めて体を休めたララは、夕刻シュヴァルツが知らせに来て目を覚ました。
兎の姿のエメも目を擦りながら起きる。
「目を覚ましました」
「……すぐ行く。食事の用意を」
「できております」
よくできた子だと感心しながらララが熊のいる部屋に向かい、エメもその後を飛び跳ねながらついて行く。
「これは、どういうことだ」
ベッドに起き上っているのは、体格の良い壮年の男性だった。細身のシュヴァルツの倍くらいありそうだ。
「人間の矢を受けて瀕死だったでしょう。人間が止めを刺しにやってきた上、今後も熊が狙われそうだったから人間にした」
「お友達!」
しきりに鼻を動かしながら後ろ足で立ってアピールをするエメに、男性が目を細める。
「兎の眷族か」
「おともだちだから助けたいというこの子の我儘ではあるけれど、わたしも助けたいと思った。もし、戻りたいというのなら、記憶を消して熊に戻すことは可能だと思う。やったことはないけれど」
「……そうか。人間の体は小さいから慣れるのに時間がかかりそうだ」
「一緒にいようよ、お友達」
ぽんと人間の姿に変じるエメを見て、ララとシュヴァルツにも目を向ける。
「わたしは最初から人間。この子は、猫」
ララが言い、シュヴァルツが黒猫に変じる。
「そういう者たちがここにいるのか」
「あと一人、白猫もいる。このままで良いのなら、人間としての知識と仕事を与えて一緒に暮らすつもり。食事をして、ゆっくり眠って、返事は明日でもいい。エメとシュヴァルツ、話し相手になって様子を見てあげて」
ヴァイスが戻り、町の有力者が懸賞金を付けて熊を根絶やしにしようとしているのだという話をララに伝えた。
「そう」
「森で熊を見かけて恐ろしくなったことが原因のようです。人間に実害はあっておりません」
「ただそこにいるだけで、排除するの?」
「ええ。それだけを見て悪だと思ったのでしょう。肉の味を覚えてしまったら危険でしょうが、全ての個体がそうとは限らない」
「やっぱり、一緒に住むかもしくは、引っ越した後に熊に戻すかにした方がよさそうね」
その後、両者で合意をして、家族が一人増えることとなった。