シーン5:絶望と希望
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
勘弁してくれ、何でこんなことになったんだ?
僕が何か悪いことした?
「なんで一緒に来るんですかっ!?」
そう噛み付くように言葉を発したのは楓。向けられた相手はというと。
「あら・・・お兄様のお話だと、霧島君の傍にいるのが一番事件に近付ける術ではなくて?」
全く気にしないように、その綺麗な顔に微笑を湛えたまま答えたこの人は島崎蓮理先輩。
僕と楓が帰ろうとして教室を出ると、廊下で待っていて自分も一緒に帰ると言い出したのだ。そして今は僕を二人で挟むようにして歩いている。かれこれ、もう20分くらいはこうやって喧々囂々としていて全然進めない。
「そうそう、私のことは名前で呼んでくださって結構ですわよ、霧島君」
「はい?」
「島崎先輩などと、堅苦しい事この上ないですわ。親睦を深めるためにも、ぜひ」
突然のとんでもない申し出をのたもうた先輩。学校にいる時とは別人のような笑顔を向けられてこう言われたら、まともな男なら断れるはずも無い。
「じゃ、じゃあ・・・蓮理先輩」
「呼び捨てで結構ですわ」
「さ、さすがに先輩にそれは・・・」
すると、先輩は少しだけ拗ねた様ではあるけれど、やはり笑って言った。
「でしたら百万歩譲って、さん付けでよろしいですわ」
百万歩ですか。ここから百万歩ってどこまで行けるのかな?
それはいいとして、知り合ったばかりの女の子を名前で呼ぶのは何か恥ずかしいけど。
「えっと・・・・・・れ、蓮理さん」
「はい♪」
僕がそう呼ぶと、ぱあっ・・・と、無邪気な笑顔を見せる蓮理さん。
う、やっぱりこの人すごく綺麗だ。
「・・・・・・・・・(怒)」
そして楓が怖い、なんだろうこのラブコメチックな展開は。楓がイライラしている上に、蓮理さんはそれをまるで挑発でもするかのような言動をしては楽しそうに笑っている。
だから僕の出した結論は・・・・・・女の子って、怖い。
「・・・真っ赤だ」
夕方、空は雲一つ無いからこそか、赤く染まっていた。それが何かを暗示しているかのように思えてしまったのは僕の考えすぎか。
そんな空とは対照的に、いつの間にやら僕の前を行きながら二人で賑やかに言い合っている楓と蓮理さん。と言っても、楓が勝手に怒っているのを蓮理さんが笑顔で流しているのだが。さすがに先輩、大人だな。
――そんな、なんてことの無いことを考えていたのに。
気付くのが遅かったわけではない。
まさか・・・そう意識にあったから。
確かに、歩道と呼べるものは無い。
けれど道幅は広いし、見通しも良い。
だからまさか、その車が自分を目掛けて走ってくるとは思わなかった。
避けなきゃ。
そう思った時には既に遅し。
衝撃を感じることはなく、無論、音が耳に届くことさえも無く。
自分がどうなったかなど知ることすら出来ずに、時間の終わりを迎えた。
「・・・・・・っ!」
なんて、一瞬。
恐怖を感じることが無かったのがせめてもの幸いか。
場所は・・・どこだ?
見たことがあるような・・・けれど、はっきりとは分からない。
すると、僕が立ち止まったことに気付いた二人が振り返る。
「麻人君?」
「・・・ひょっとして、何か見えましたの?」
先ほどまでの様子とは打って変わって、二人とも心配そうでそれでいて真剣な表情になる。
「二人とも、ちょっといい?」
三人寄れば文殊の知恵という。僕は藁にもすがる思いで二人に見えた場所を知らないか尋ねた。はたして僕の説明で情景が浮かぶかどうかは分からないが、それでも今はそれしかない。
「それは、もしかしたらあの道かも知れませんわね」
蓮理さんがそう呟く。
「えっ!?どこですか!?」
さすがの蓮理さんもはっきりと自信は持てないようではあったが、それでも一刻を争うことは了解しているからかはっきりと言った。
「あと一人の生徒会役員、芹沢 ぼたんさん。一度だけ彼女の家に行ったことがあるのですけれど、その近くの道に特徴が似ていますわ」
「・・・っ!」
また生徒会の役員なのか?
楓もそう思ったのだろう、急かすように言う。
「急ぎましょう、案内してください!」
「ええ、こちらですわ!」
そして蓮理さんの先導の下、僕らはその道へと急いだ。
あまりに遠すぎた。いくら一生懸命走ろうと、人が10分で辿り着ける距離ではなかった。
息を切らし走る途中、耳に届いた―――救急車の音、が。
「芹沢さん・・・」
そう蓮理さんが呟いた。
担架に乗せられた芹沢さんの顔には白い布が掛けられていた。
つまり、もう明らかに息が無い、ということだ。
「この間会った時も、あの服でしたわ・・・確かにあの時は笑っていらしたのに・・・っ!」
唇を噛んで悔しそうな蓮理さん。
楓も、何も言えずに俯いている。
だけど――僕は、おかしくなったのだろうか?
何も感じない。感覚が、狂ってしまったのか?
「・・・麻人君?」
無表情の僕に声を掛ける楓。
僕は答えられない。そして、何故かその場から逃げるように走り出してしまったんだ。
「麻人君!?」
突然の僕の行動に驚くも、慌てて追いかけようとする楓。
しかしそれを、蓮理さんが止めた。
「・・・放っておきなさい」
「ど、どうしてですか!?」
僕を追いかけようとした楓の前に立ちふさがった蓮理さんは、厳しい瞳だった、
それは生徒会副会長としてのものでもなく、一人の女の子としてのものでもなく。
“命”というものを本当に理解している人のものだった。
「霧島君が不吉な未来を見ることが出来るようになってしまったのならば、これから・・・この事件が解決したとしても、また人の死に行く様を残酷なまでに見せ付けられるでしょう。けれど、その度にいちいちこんな風にそれから逃げていては、彼は弱いまま。未来を変えるなんて、出来っこありません」
その言葉は、楓に諭すようではあったけれども、それと同時にまるで自分に言い聞かせるかのようでもあった。
しかし楓にはそんなこと気付く余裕があるはずもなく、ただ言葉を受け入れることを否定しようとする。
「でも・・・っ」
「放っておくことですわ。それが、今の彼にとっては一番なはず」
「・・・・・・」
だがやはり、蓮理さんの言葉に従わずに僕の後を追いかけようとする楓。
蓮理さんもやはり道を譲らず、より瞳の色を深くした。
「それでも追いかけると仰いますの?」
「どいて下さい」
「霧島君のことを大切に思うのならば、放っておくこと。過保護は彼のためになりませんわ」
「それでも!」
ついに叫ぶように声を出した楓。
しかし蓮理さんはひるまないどころか、いっそう険しい表情を見せて告げる。
「それでも?あなたに何が出来る?まだ人生経験もロクに積んでいない青二才に過ぎないのに?」
「そんなこと言ったら蓮理さんだってそうじゃない!なのに偉そうに言わないで!」
周りの視線など気にならない。
もう楓には、目の前で仁王立ちして道を塞いでいる蓮理さんの冷たい瞳しか見えていないだろう。そして当の蓮理さんはギロッ・・・と、冷たいどころか怖いほどの睨みを利かせた。そのあまりの威圧感に、大声を上げた楓の方がびくっと身を震わせる。だが蓮理さんの声のトーンは変わらず、はたからしたら冷静としか思えないもので言葉を続けた。
「舐めないで欲しいですわね。これでも私の家はお兄様だけじゃ無くてお父様も警官でしたのよ」
「えっ・・・」
その中に、一つだけ気になる言葉があった。
それに楓も気づいたようで、目を丸くする。
「“でした”・・・?」
そう、過去形。それが意味するもの、それは子供でも分かる。
「ええ、五年前までは。いわゆる、殉職というものですわ」
「・・・っ!」
「今だって、いつお兄様がお父様のように殉職してしまうのか・・・毎日毎日、心配でたまりませんわ。無事に家に帰ってこられるまで、気が気でない。この気持ちがあなたに理解出来て?」
「・・・・・・・・・」
殉職。つまり、寿命や病気ではない、突然死。
事故ならまだ諦めは付くかもしれない。しかし警官の殉職というものは、言い換えるのならば“殺される”ということ。五年前に突如そうやってお父さんを失い、今なお毎日肉親が殺されるかもしれない恐怖と戦い続けている。
それだったんだ。蓮理さんが、同じ高校生ながら僕らとどこか違う気がしていた理由は。
命の重みというものを、嫌と言うほど味わわせられている。
――それでも逃げずに。
蓮理さんは、そこまで強く言うと急に顔を微かにほころばせて・・・どこか、寂しそうに。
「まあ、そんな父と兄を持ったことには、とっくに腹をくくっていますわ・・・それでも、お父様が亡くなった時は涙が枯れるほど泣きましたけれど、ね」
「・・・ごめんなさい」
楓は瞳に涙をにじませて謝罪した。きつく言われたからではない。どうしてか、蓮理さんの表情を見ていたら自然と涙がこぼれてしまったのだ。きっと自分でもその理由は分かっていないだろう。
すると、蓮理さんは溜め息を一つ吐いて言う。
「謝ることはありませんわ。それより、どうするのですか?」
「・・・?」
「私は言いたいことは言いましたわ。それでもあなたが霧島君を追いかけると仰るならば、もう止めたりしません。好きにしてください」
楓は、涙を拭い蓮理さんの目を真っ直ぐ見て答えた。
「私は、行きます」
「・・・そう」
すると何故か、蓮理さんは目を細めて微笑んだ。そして道を開ける。
「・・・・・・」
楓は少しだけお辞儀をして蓮理さんの横を通り過ぎようとした。
と、ちょうど真横に並んだ時、蓮理さんは囁く様に声を掛ける。
「ただし、彼の背負っているものをずっと一緒に背負って行く・・・くらいの覚悟はなさって下さいな」
「・・・はい、ありがとうございます」
そうお礼を告げると走って行く。その背が見えなくなった頃、蓮理さんに声を掛ける人がいた。
「相変わらずキツイな、おまえは」
「盗み聞きとは男らしくありませんわよ、お兄様」
振り返らずにそう返す。そう言われたのは島崎警部、溜め息と共に。
「蓮理、おまえなぁ・・・・・・まあそれより、被害者はまたしても生徒会の役員だそうだな?」
「ええ。まだ事故かどうかは判断しかねますけれど」
「いや、おそらくまた、だろう。おまえが・・・いや、霧島がここにいち早く駆けつけたのがその証拠だ」
「確かに、そうかもしれませんわね」
少しだけ、ため息をつく蓮理さん。
ここで警部の方を向いて尋ねた。
「それで・・・車は見つかりました?」
「いや、まだだ。目撃証言もロクに無い。だが、見つかったとしてもそこから犯人を割り出すのは容易くは無いだろう」
「・・・・・・悔しいですわ」
僅かに唇を噛んだ蓮理さん。島崎警部はなだめるように彼女の頭を軽くポンポンと叩くようにして撫でる。蓮理さんの性格ならそういった事をされるのは嫌がるかと思われるのだが、意外にも彼女はそれを払いのけるようなことはしなかった。
「ああ。だから少しでも早く解決するために、被害者についていろいろ教えてもらうぞ」
「分かっていますわ・・・それから、情報は出来る限り霧島君と鈴鳴さんにも伝えてくださいな」
「どうしてだ?」
「・・・これは私の勘に過ぎませんけれど、この事件の解決にはあの二人が大きく関わってくる・・・そんな気がするのですわ」
蓮理さんの進言に、少しだけ顎に手をやって考え込んだ島崎警部。だけどすぐに頷いた。
「勘、ね・・・・・・とは言え、おまえの勘は恐ろしく当たるからな・・・それに、もうあの二人も無関係とは言えないしな」
「そうですわね。あの二人が犠牲になることが無ければいいのですけれど・・・・・・」
そう呟くと、蓮理さんは僕と楓が走り去ったほうを静かに見つめるのであった。
「はあっ、はあっ・・・っ!」
僕はそんなに大した距離を走ったわけでもないのにもかかわらず、苦しいほどに肩で息をついていた。
「・・・・・・っ!」
自分が保てない。何も、分からない。
目の前で人が死んでいた。いや、僕は確かにその人の死に行く様をも見届けたのだ。
にもかかわらず・・・まるで、ブラウン管の向こうのドラマを見ているかのような感覚だった。すぐ横で蓮理さんが悔しそうに唇を噛みしめ、楓が俯いていたというのに。
僕は、人が死ぬという事に慣れてしまったのだろうか?血も涙も無い・・・これじゃ犯人と何も変わらないじゃないか。
「うわあああぁぁぁっっっ!」
嫌だ。そんなの、嫌だ。
僕は、不意に目の前にあった壁を殴りつけた。
ガンッ、ガンッ!
何度も、何度も・・・・・・
「麻人君!?」
僕の手と壁が赤く染まりだした頃、楓の悲鳴にも似た驚きの声がこだました。
「な、何やってるのよっ!?」
それでも僕はその手を止めない。
「麻人君っ!」
必死で僕を止めようとする楓。だがいくら彼女が男勝りでいつも僕を蹴りつけているとしても、やはり力で男の僕に適うはずも無く。
「麻人君ってば!」
どんなに力を入れて僕の手を止めようとしても、それは全くの無意味。だから、楓は手で押さえようとするのではなく、後ろから抱きつくようにして押さえつける。
「麻人君!」
全体重を掛けて止める楓。
「・・・・・・っ!」
それでやっと僕は壁を殴りつけるのを止めた。
そして・・・うなだれるように俯いて言った。
「楓・・・・・・僕は、おかしくなったのかな?」
「え?」
突然の僕の問いかけにすぐには答えることが出来ない。
僕は楓を振り払い、もう一度だけ壁を・・・今度は殴りつけるのではなく自分の手を叩きつけるかのように。
ダンッ!
もう、痛みは感じなかった。
「僕は・・・・・・人が目の前で死んでいるというのに、何も感じないんだ。可哀想とか、酷いとか、悔しい・・・そういった感情が何一つ湧き出てこないんだ。こんなこと今まで無かったのに!」
震えながら叫んだ。それが言葉になっていたかも分からない。
「麻人君・・・・・・」
楓は、こんな僕をどう思っただろうか?
情けない?弱虫?
「麻人君は、麻人君だよ」
「え?」
楓の呟いたものは、意外な言葉だった――そして。
「か、かえ・・・・・・で?」
楓が、彼女の言葉に驚き振り向いた僕の胸元に、唐突に頬を寄せた。
「ほら、麻人君の鼓動が聞こえる」
「?」
「麻人君は、ここにいるよ。何も変わっていない・・・優しい麻人君がここにいる」
「何も変わっていない?でも、僕は・・・っ!」
人が死んでも何も感じない・・・これを変わっていないだなんて言えるわけが無い。そう僕が反論しようとすると、楓はささやくように小さな、本当に今にも消えそうだけど力強く、そして優しい声で届ける。
「変わってないよ。麻人君自身が分からなくても、私には分かる。麻人君が苦しんでること、芹沢さんを救えなくて悔しいこと、未来を変えられなかったことに泣いていること・・・その全部、分かるよ」
「・・・・・・」
楓は、顔を上げて僕の目を見て微笑んだ。
「大丈夫。麻人君は、大丈夫だから」
何の根拠も無いだろう。
だがしかし、そんな楓の言葉だけで僕の心は信じられないほど何かで満たされて。
「あらららら」
そう楓が驚きの声を上げるほど、ボロボロと涙を流していた。
「よし、よし」
楓はそんな僕の頭を背伸びして撫でてくれていた・・・僕が泣き止むまで。
そういえば、昔似たようなことがあった。
小さい頃、クラスの男子で僕だけが逆上がりが出来なくて・・・・・・どれだけ練習しても。そのことで少しからかわれて泣いたんだっけ。
そんな時、やっぱり楓がこうやって慰めてくれたんだ。その時はむしろ楓の方が背が高かったので背伸びなんてしていなかったけれど。
でも、おかげで頑張る勇気が持てて。
それから先生に放課後まで付きっきりで教えてもらって、最終的には僕がクラスで一番うまく出来るようになったんだよな、確か。あの時は迷惑かけたなぁ、先生はデートがあったらしくて、待ち合わせ時間ギリギリで急いで車で帰ったって後から聞かされた覚えがある。
・・・・・・ん?
何だ?何か、引っかかるぞ―――なんだろう?
「麻人君?」
急に泣き止んで何かを考えこみ出した僕に、下から声を掛ける楓。
「え・・・あ、ああ・・・もう大丈夫、ありがとう楓」
「・・・うん、良かった」
何故か、楓の笑顔を久しぶりに見た気がした。
「戻ろう、楓」
「いいの?」
「うん。もう、逃げない」
「・・・・・・そっか」
安心したような微笑み。何故かそれがやけに嬉しかった。
それから僕らは、すぐに現場へと戻ったんだ。
「芹沢ぼたん。おまえたちと同じ二年だ。特に役職は無いが、行動派として有名だそうだ。思ったことはすぐに行動に移して、一件無茶と思えることでもその性格から意地でも成し遂げてしまう。そのため周りのものは少し振り回されがちだが、彼女を嫌うものはいないらしい」
「確かに、僕たちも彼女の噂はちょくちょく耳にします」
戻ってきた僕たちを待ちかねていたかのように、被害者の話を始める警部。と言っても、その情報源は蓮理さんなのだろうけど。
するとそこで、島崎警部は眉間をしかめて少しだけ声を低くした。
「ところが、一つだけ不審な点がある」
「?」
「彼女は、つい先日までは学校を一日たりとも休んでいないのだそうだ」
「え!?」
どうして?
今日、彼女は休んでいたじゃないか・・・あれ?
そうすると、何故彼女は欠席したにもかかわらず外出したのだろう?
「それだ。担任の話だと昨日から様子がおかしく、今日は大事な用事があるから休む、との連絡があっただけらしい」
「大事な用事・・・・・・?」
何かが引っかかった。楓もそれを感じ取ったのか考え込む。
そして、気付いた。
「相川さんと同じケース・・・?」
「可能性は高いな」
すると犯人の呼び出しに応じ、その説得に向かう途中で?それがちょうど放課後の時間だったということだろうか。
「俺たちは、彼女が犯人と説得のための機会を設けたものの、その途中で待ち構えていた犯人に轢き殺されたと見ている」
「ということは、犯人は大人?」
僕がそう言うと島崎警部はゆっくり首を振る。
「いや、最近は高校生でも免許を持っていることは少なくない。それに、免許が無くても運転出来る奴はいくらでもいる」
「それもそうか・・・・・・」
「車も盗難車の可能性が高いですわね。これまで何の証拠も残してなかった犯人が、塗料のことくらい考慮しないはずも無いですし」
結局、行き詰るわけだ。
・・・っと、あれ?
「楓?」
「・・・え?」
途中からずっと無言で考え込んでいた楓。
何かに気付いたのだろうか?
「何か分かったの?」
「え・・・う、ううん・・・気のせいよ。そう、気のせい・・・・・・」
「?」
基本的にものをはっきり言う楓にしては珍しく曖昧な返事。
なんだけど。
「警部、他に何か情報はありませんか?」
「あ、いや・・・残念ながら無い」
「そうですか・・・・・・」
まるで自分の考えを否定したかったとでも言いたげな表情の楓。
僕と同じように何かが引っかかっているのだろうか?
「何の証拠も無いのに、人を疑うのは良くないわよね・・・・・・」
そう彼女が呟いた言葉は、僕だけには聞こえてしまっていた。
「楓・・・もしかして犯人が分かったの?」
警部と蓮理さんと別れた帰り道、そう切り出した。
「えっ!?」
必要以上に驚く楓。
それはまさに眠っている動物に大声を掛けた時の様だ。
「ど、どどど、ど、ど、どうして!?」
どもり過ぎ、どもり過ぎ。ただでさえ大きな目を更に大きく丸くしているし。
対して僕は苦笑いとも言える息をつく。
「その様子で気付かない方がどうかしてるよ」
「“う」
変なポーズのまま固まった楓。
さすがにこれには笑みがこぼれてしまったけど、すぐに真面目な表情を取り戻して尋ねた。
「・・・で、どうなのさ?」
「確証は無いわ。状況証拠ですら無い。でも・・・なんとなく」
「でも?」
「ごめん、まだ言えない。分かって」
楓の沈痛な面持ち。
こんな表情をされたら、これ以上聞くことなんて出来るはずないだろう?
「・・・ありがと」
「でも、無茶はしないでよ?何かするなら僕たちに・・・いや、僕だけには言ってよ?」
「うん、分かってる。頼りにしてるよ、麻人君」
別れ際、楓の背中が少し霞んで見えた気がした。これが何を意味するのか。
僕は頭に浮かんだ想像を振り払おうと首を振る。
エスペランサよ・・・・・・頼むから、最悪の未来だけは見せてくれるな―――。