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白刃の女神  作者: 大吉
17/39

第二部 破局 後編 第二部完

 爽香は意地悪だ。いつも私のことを目の敵にして、ことあ

るごとに私をいじめようとする。理由はもうわかっている。

 ……でも、時々わからなくなる。それでも、少しだけ、私

のことも考えてくれているのではないかって、ふと、そう

思うときがある。口だけだと、ずいぶんと冷めてはいるが。

 益々そう感じるようになったのは爽香の秘密を私が口にし

てしまったときだった。


―――――――――――――――――――――――――――


 国嶋の校内での知名度が日に日に高まった。もともとあっ

た良い方ではなく、悪い方が。

 周りは心配していたのだ。彼女が痛い目をみないうちに僕

からなんとか彼女を引き離そうとみんな必死のようだった。

 それがすべて国嶋に向かうものだから、彼女の気が病むので

はないかと僕は心配したが、彼女はそれを笑い飛ばしていた。

 「でも、おまえ、爽香でなくてよかったな?」

 「え? なんで?」

 「だって、考えてもみろ? あいつはおまえのこと少し悪

く言われただけで校長をもはたきかねないのだぞ?」

 「あ……まぁ、そうだな。でも、嬉しくもあるけどな?」

 国嶋は急に押し黙った。僕は国嶋のこの無言に何か悪い前

兆を感じていた。

 「私はおまえが心配だ、愁」

 「ん? なんで? おれ女苦手だし、話しもしないのに?」

 「爽香がいるだろ?」

 やはり、きたと思った。しかも、やっかいなことに彼女の

目は真剣だった。

 僕は愕然とした。冗談ならまだ彼女を許せたかもしれない。

 でも、真剣にこの話を続けるというのなら、僕はきっと彼女

でも許せなくなる。

 だから、僕はそれが怖くて、この話が早々に中断されるこ

とを願った。

 しかし、彼女はそれを続けた。

 「あいつは、おまえのことが好きだ。私はそれを知ってい

る。言うのは卑怯だと思ってずっと言わなかった。悪いとは

思っているが、……でも、やっぱり私は不安だ」

 僕は脳内で必死に理性にぶらさがっている。嫌だ、墜ちた

くない。彼女に怒鳴るなんてこと、したくない。でも、僕の

理性の欠点は爽香だ。兄弟のことを義理だからと恋人扱いさ

れるのは僕が一番我慢ならないことだ。しかも、それをいま

一番つつかれたくない人に糾弾されている。

 僕の身体がざわめいているのがわかった。もう一押しで僕

は完全に理性から滑り落ちてしまうだろう。だから、最後に

あがいた。

 「なに、からかってんだよ? 言っていい冗談と悪いのが

あるだろ? おれと爽香はそんなんじゃないよ」

 つかんだ手は無情にも空をきった。

 「冗談でこんなこと言えるわけないだろ!私は真剣に」

 ――理性は一度死んだ。

 「いいかげんにしろよ!おれとあいつは兄弟だ!ふざけた

こと言うな!」

 国嶋は恐らく、言葉よりも僕の語彙の強さに目をぱちくり

させていた。僕からこんなふうに言われるなど、夢にも思っ

ていなかったのだろう。それも、そうだ。僕は国嶋には極め

て優しい口調になっていたし、国嶋の方でもそれをすっかり

心地いいものとして受け止めていたはずだから。

 揺られているときに、心地よいハンモックの縄が切れてし

まうなどいったい誰が疑おう。

 国嶋は言葉とはやや遅れてその意味を理解した。押し寄せ

られた波に身体は激しく揺られて、それは、いよいよ彼女の

涙腺までも破壊してしまった。

 「……どうして、どうして、そういうことを言うのだ? 

私が嘘をついてるとでも言うのか? おまえがそういうので

からかわれること一番嫌いだって、私は知っているのだぞ?

なのに、それなのに、どうして私を信じてくれないのだ?

……なぁ、愁?」

 僕は瀕死の理性にそれでも肉体を支配させることに必死だっ

た。だから、言葉の容姿まで気を配ることなどとうていでき

なかった。

 「信じられるわけないだろ、そんなこと!おまえにそんな

こと言われるなんて思いもしなかったよ」

 僕はわななく身体をを起こして、その場を去ろうとした。

 「……わかった。私のこと信じられないのなら、もう終わ

りだろ?おまえとは付き合っていられない」

 理性が一瞬息を吹き返して、け落とした本能の首もとにつ

かみかかるのを感じた。でも、もう、遅かった。僕も国嶋の

言葉に揺られて、涙腺が破壊された。最後の防壁をつくって、

僕は国嶋に背を向けるとボロボロの理性がやっと容姿の整っ

た言葉を紡ぎだした。

 「……いままで、ありがとな。楽しかった」

 変だった。僕がいまフラれたはずなのに、背後にいる国嶋

の方が苦しそうだった。

 僕はその帰り道で、犬をあやしていた。さぞかし、この犬

も迷惑だろう。僕は口元を撫でながら、上の空だったから。

 いつか、国嶋が話してくれた、お面の話を思い出して、虚

しく笑った。

 ――くぅん。

 犬は人の気持ちに敏感だ。最後に頭を撫でてやると、僕は

帰り道を正した。

 なんともあっけなかった。僕はもっとこう、別れるという

ことは壮絶ななにかが起こるものだと思い込んでいた。二人

にはどうしようもない何かが起きると。でも、僕らのはいっ

たい何だったのであろう。ただ、国嶋が僕と爽香の関係に疑

念を抱いているというだけだ。

 兄弟関係を茶化されることはいままでにも何度かあった。

その何度かあったことをたまたま国嶋が口にしたからといっ

て、どうして、僕はあれほどまでに怒ってしまったのだろう。

 要は僕の傲慢さが原因だった。国嶋なら僕のことをちゃん

と理解してくれている、そんな国嶋だから、僕が一番嫌がる

兄弟ネタをつつかないだろうと勝手に信じ込んでいたのだ。

 なんていう身勝手さだ。僕はいつも彼女の人格を尊重しよ

うと願ったが、結局、僕は彼女の人格を勝手につくりかえて

いた。でも、どうして、国嶋はあんなことを言ったのだろう。

意地悪を言ったつもりが、相手を傷つけてしまって、その事

実から逃れようとよけいに意固地になる、あのやっかいな泥

沼に足をとられてしまったのだろうか。それなら、どうして、

僕は彼女の手をひいてやれてなかったのだろう。

 後から偽善ぶるなんて、僕はとことん自分を嫌った。でも、

同時にどうしてもあんな発言をする国嶋を許せそうになかっ

た。

 ――もう、いいんだ。忘れよう。もう、終わってしまった

ことなのだから。


―――――――――――――――――――――――――――


 「ただいま」

 「お帰り。……兄さん、どうしたの? 目、赤いよ? 

うさぎさん?」

 「はは、なんだよ、それ。……なんでもないよ」

 僕はやっぱり妹が大切だ。僕を含めて彼女まで侮辱される

のはどうしても我慢ができない。国嶋の前で守ってやりたかっ

たのは、他でもないこの子だ。

 僕はよだれまみれの手を洗うとリビングで深く腰をかけた。

 「……コーヒーでも飲む?」

 「……ん、あぁ。ありがとう」

 爽香はきょとんとしながら、コーヒーメーカーをいじった。

 僕は本当のことをいうとコーヒーはあまり好んで飲む方で

はない。あれを飲むと、僕の頭のなかが麻痺するから。それ

でも時々飲みたくなるときがある。それは、いまのように頭

のなかを曖昧にしたいときだった。

 頭のなかを巡る様々なことの多くが、少々刺激が強すぎた。

 爽香は普段、僕に何か変調を感じてもそれを説いたりはし

ない。ただ、それには条件があって、僕が車のなかに閉じこ

もった場合に限ってのことだった。

 僕らには良識を持った主人のいる室内犬のように、決して

おかしえない場所があった。そこに入ってしまえば、いくら

主人といえど入ってこられない場所があった。絶対、安全な

場所。爽香は自室で、僕のそれはなぜか車のなかだった。

 僕がそこに閉じこもった場合、爽香は決して踏み込んでこ

ようとはしなかった。たとえ、一日中、こもっていようと。

ガレージの隙間に手紙を差し込むことはあっても。それは、

僕らの生活をお互いに守るための暗黙の了解だった。

 でも、僕はいまそこへ逃げ込もうとは思わなかった。聞い

てほしかったのかもしれない。国嶋の妄言を。笑ってほしかっ

たのかもしれない、僕の行動を。僕は卑怯にも味方がほしかっ

た。国嶋に対して行った言動の正当性を少しでも確認したかっ

た。

 賛同を得られなければ、僕は国嶋に対していたたまれない

思いに潰れそうだった。だから、僕は意を決して語ることに

した。爽香がコーヒーを入れて、もう一度、聞き出す前に。

 「国嶋と別れてきた」

 「え? どうしたの、急に?」

 グラスを持った爽香の手が強張って見えた。これは意外な

反応だった。

 「おまえ、気分悪くなるかもしれないけど、国嶋、おまえ

が俺のこと好きだってからかったんだ。それで、初めは聞き

流してたんだけど、終いにはどうして私の言うこと信じない

んだって怒りだして、それで……、もう、おまえとは付き合っ

ていられないって言われた」

 「……そうなんだ」

 僕はいままで机に向かって話していた。なんとなく、爽香

の顔が見られなくて。でも、反応の鈍い爽香が気になって、

顔を見上げた。

 でも、それより早く甲高い音が目の前に広がった。

 爽香がグラスを落としていた。

 「あ、おい!大丈夫か!?」

 「来ないで!」

 爽香が立ちすくんでいる。僕は言いようのない不安におそ

われた。目の前の彼女は僕の知っている爽香ではなかった。

 じっとどこかを見ていて、小刻みに身体を震わせている。

 僕はそこで何かを悟った。でも、すぐに抑圧した。なに、

コーヒーでも浴びてしまえば大丈夫だと言い聞かせた。忍び

寄る恐怖に僕は背を向けた。

 「ちりとりとほうき……、持ってくるな」

 踵を返すとすくんだ足をなんとか前へ追いやった。でも、

だめだった。すぐに、恐怖に心臓をつかまれた。

 「待って!」

 僕は観念して、恐る恐る振り返った。爽香は泣いていた。

 僕はもうわけがわからなかった。泣きたいのはこっちの方

だったはずなのに。

 「兄さん……」

 僕は耳をふさぎたかった。なのに、蝉の声がやけに大きく

響く。いつもと違う。みんなにからかわれたって文句言って

も、爽香は、そう、バカね。って、いつも不快そうに言うだ

けだった。それなのに、どうして。

 「いますぐ国嶋さんのとこに行ってあげて」

 「な、なんでだよ?」

 「いいから、謝って!……仲直りしてきて」

 「どうしてだよ。それに、おまえが泣くことないだろ? 

それより、おまえ怪我してないか?」

 「優しくしないで!」

 「……ったく、なんだってんだよ」

 「…ごめんね、…ごめんね、ごめんなさい」

 いよいよ、爽香はその場で崩れ落ちてしまった。僕は破片

が彼女に刺さらないか心配になって爽香のもとへかけよった。

 脱力した彼女をソファーに寝かせて、それから、しばらく

落ち着くのを待った。

 「兄さん……」

 「ん? なんだ?」

 「国嶋さんが言ってたこと……、全部本当なの」

 「っ……」

 僕は眩暈がした。でも、ここで倒れてしまっては爽香が家

を出ていってしまう気がして、必死に耐えた。バチバチ点滅

する視界から爽香を探して、そこに向かって言葉を振り絞っ

た。

 「でも、どうして、それを国嶋が?」

 「私が直接言ったの。兄さんのこと、国嶋さんと同じ気持

ちだって。だから、兄さんのこと幸せにしてねってお願いし

たの」

 ――なんということだ。意固地になって、泥沼に足をとら

れていたのは僕の方だったではないか。では、僕はどうした

らいいのだろう。

 国嶋の見えなくなってしまったその泥沼の世界で彼女の

名前を叫ぶ資格があるだろうか。

 「……そんなことがあったんだ」

 「……ん、ごめんね? あ、兄さん早く行ってあげて? 

私のことはあとでいいから」

 爽香は意外にも早く立ち直りつつあった。僕はというと、

未だに何が起きているのか、さっぱりわからなかった。

 「でも、もう……」

 はっきりしていることは僕は足をとられて、国嶋を見失っ

てしまったことだ。

 「お願い……、兄さん、このままじゃ一生後悔するよ? 

私も……、後悔する」

 初めの言葉には全然ひっかからなかったが、困ったことに、

最後の言葉にひっかかった。僕が一生後悔しても、それはお

かした罪の重さよりどれほど軽いものだろう。でも、その罪

を爽香も負うとなると……。

 でも、これは僕を一方で疲弊させた。僕はこんなときでも

妹のことを考えている。果たして、国嶋に許してもらえたと

しても、今後、僕は彼女の言うことをなにより尊重できるの

だろうか。また、彼女ではなく、僕のなかにいる妹を最優先

にして彼女を傷つけてしまうのではなかろうか。

 僕はもう僕自信が信用できなくなっていた。でも、とにか

く、僕のしでかした行為だけは彼女にいますぐ謝罪すべきだ

と思った。

 僕は爽香に行ってくると言うのと同時に、玄関を飛び出し

た。車にひかれてしまうなら、それはきっと報いだと都合の

いい逃げ場を振り払いながら、僕は全力で学校へかけだした。

 弾んだ息のなかで、国嶋を見つけた。彼女は校舎裏で空を

見上げていた。風に揺れる木の葉のせいか、辺りは一面に、

時間が止まっていくようだった。

 国嶋は僕の幼い足音に気がついたのか、こちらを振り向い

たが、一瞥するにとどまった。それは、街中の自販機や外灯、

行き交う人を見るときのような、機械的な目だった。思いの

こもらない彼女の視界に入ってみて、僕はいよいよ赤の他人

になってしまったことを自覚した。

 声が出なかった。僕の時が、違う、国嶋の時間が止まって

しまって、僕はどこに向かって声を上げたらいいのかわから

なくなった。

 一瞬の出来事だった。今朝まで健康体だったのに、いまは

全身を何かが蝕んでいる。性急に僕の内部をかきむしってい

るものがある。これが、悲しいということなのか。

 僕はそれを振り払いたくて、彼女に声をかけようとした。

でも、なんて呼んだらいいんだ。国嶋とまだ呼んでいいのか、

国嶋さんと呼ぶべきなのか、こんなときまで細かなことを考

えて、ますます声が出なくなった。

 止まったはずの時間が、新しく生まれていく時間だけが、

無常にも流れていった。

 「国嶋……」

 結局、僕は前者の呼び方を選んだ。まだ、恋人でいたいと

すがりつく、稚拙な思いからだ。呼吸はもう、十分に整って

いた。

 「……ごめん、国嶋の言うとおりだった。本当にごめん」

 でも、返事は返してもらえなかった。僕が風なら、その存

在意義を失くしてしまった。いまのように、木の葉をもう揺

らせないのだから。

 それならば、僕が木なのだろう。どこにも動けずに、ただ、

国嶋の声をずっと待っていた。果たして、彼女の声は容姿が

はかなくも、僕を根こそぎ吹き飛ばすだけの力があった。

 「……おまえ、どうして、信じてくれなかったのだ?」

 自分のざわめく音に僕は心底、おののいていた。

 「どうしても、信じられなかった。信じたくなかったんだ。

国嶋がじゃなくて、その言葉の意味するところが。明日、こ

の街がなくなるって言われるくらい、おれには……」

 なんとも卑近な例だった。もう、自分でも何をどう言って

いいのかわからなかった。

 ただ、どうかにして、国嶋に理解してもらいたくて、必死

だった。だからこそ、僕はダメだったんだ。

 「……じゃぁ、私がそれを知っていたとして、おまえだけ

にそれを伝えたとしたら、また、おまえはそんな私を放り捨

てるのか?」

 おこがましかった。自分で火の粉をあげていながら、その

行動を理解してもらいたいなどと。本当なら、火の粉を浴び

せてしまった彼女を真っ先に心配するべきだったのではない

のか。彼女の心情に心を向けるべきだったのではないか。そ

れなのに、僕が優先していたのは自己弁護だ。彼女の痛みを

もっと知るべきだった。それにも関わらず、僕は空回りをし

続けた。

 「そんなことしない!」

 「したじゃないか」

 自己弁護に必死な僕は少しでも受け入れてもらいたくて、

彼女に近づいた。

 「国嶋……」

 「来るな!おまえだけには……もう、近づいてほしくない!」

 そこで、僕はようやく足を止めた。理解してもらいたくて、

わめいて、国嶋の手を無理に引っ張って、僕の方に近づけ

ようとした自分に、やっと気がついたんだ。

 自分が憎かった。目の前の国嶋を前にして、僕は……。

 いつからそうしているのか、僕は自宅の前で立ちすくんで

いた。玄関が最後の逃げ口に見えて、僕は入れなかった。国

嶋に背を向けるのが嫌だ。最後にどんなに精一杯謝ったって、

僕はあの場から離れたくなかった。立ち去ることが、自分の

仕出かしたことに目を背けるようだったから。

 後ろ髪を引かれる思い、僕はその言葉を汚してしまった。

思えば、あれは良い言葉だったんだ。

ところで、僕が聞けた国嶋の最後の言葉は、帰れ、だった。

どこへ帰ったらいいのだろう。

 ――爽香の、もとへ?違う、そうじゃなくて……。


―――――――――――――――――――――――――――


 この場所が好きだった。誰もいない、誰もこない校舎裏。

初めてフラれて、そして、始めて恋人ができた場所……ここに

来ればまだそこに、きっと、愁がいてくれて……愁が。

 もう、どれくらい経っただろう。愁と喧嘩をしてから。……

あんなバカ、もう、知るか。ちょっと意地になっただけでは

ないか。それを真面目に受け取ってどうするんだ、あのバカ

は。

 私はそんなことを思いながら、もう何度も唇をかんでいた。

愁……、ただの喧嘩だろ?友達のときだって、よく喧嘩した

だろ?でも、すぐに仲直りだ。恋人になったって、そうだろ?

すぐに仲直りだ。

 なのに……なぁ、どうしてこないのだ?愁。別れようだな

んて、おまえ、本気にしているのか。デートだってまだして

いないのだぞ?

 目の前の木々がアスファルトのように滲み出した。今日っ

て、そんなに暑かったのか。ふと、空を見上げると、忙しな

い足音が遠くで聞こえた。

――あぁ、懐かしい。たぶん、愁だ。

愁が何かを言っている。私は答えてやらないと。でも、ダ

メだ。頭がぼんやりして、飛行機雲から目が離せなかった。

 何か言ってやらないと……。そうだ、愁。

 「……おまえ、どうして、信じてくれなかったのだ?」

 ダメだ、うまく愁の声が聞こえない。明日……街がなくな

る?何を言っているのだ、コイツは。まぁ、いい。ちょっと

いじめてやろう。

 「……じゃぁ、私がそれを知っていたとして、おまえだけ

にそれを伝えたとしたら、また、おまえはそんな私を放り捨

てるのか?」

 「そんなことしない!」

愁の声が少し大きくなった。したじゃないか。……まった

く、ボケているのか、コイツは。でも、少しいじめすぎたか

のかもしれない。視線の端で、愁が近づいてくるのがわかっ

た。

 重たい頭を向けると、愁は悲しい顔をしていた。私はそれ

を見て、なぜだか背筋が一瞬にして凍りついていった。

 「来るな!」自分でも驚くほどに、大声をあげた。

愁に別れを告げられる、そんな気がしたのだ。

 「おまえだけには……もう、近づいてほしくない!」

嫌だ。そんな顔して近づくな。私は愁がいないとダメなの

だ。別れたくない。私はもう……、おまえがそばにいないと

嫌なんだ。本当は手だって握って欲しいし、笑ってくれない

と困る。爽香には悪いことしたと思っている。でも、ダメな

んだ。愁が……、愁がいないのは怖い。

 ……愁、おまえ、あんなにも怒るのか。私のときも、そう

やって怒ってくれるのか。守って……くれるか。もう嫌だ。

何も考えたくない。

 「愁……。おまえ、帰れ」

うずくまる頭のなかで、ただ一言、爽香が羨ましい。と、

浮かんだ。それから、あのバカの遠ざかる足音がやけに大き

く聞こえた。

 それを最後に、私の意識は飛んでしまった。


―――――――――――――――――――――――――――


 「ただいま」

 「……お帰り。どうだった?」

 家に帰ると彩香はもう、いつもの爽香だった。グラスを片

付けてリビングで座っていた。

 「あぁ……、ダメだった。完璧に嫌われちまった」

 僕はできるだけ明るい調子でそう言った。きっと、体面を

守りたかったのだろう。とことん自分が嫌になる。

 「……そっか」

 「ん……」

 それから、僕は麦茶を飲んで、車に潜んで夜になるまで眠っ

た。眠ったといっても、ずっと目を閉じているだけだったが。

そうしたら、やがて、マズロー(6)のいうとおり、お腹が

へった。こんなときでさえも。

 僕は車から降りるとリビングへ向かった。

 「兄さん」

 ぎょっとした。リビングに戻ると僕が麦茶を飲んだときと

同じ位置で爽香はまだ座っていたのだ。

 「お願いがあるの……」

 彼女はまるで先ほどの会話の続きのように話しかけてきた。

 「いいよ、どした?」

 「ドライブに行きたい」

 いつからそう思っていたかはわからない。でも、それなら、

言いに来ればよかったのに。でも、……あぁ、と思った。僕

は車にこもっていたのだ。

 「あぁ、わかった。すぐに行こう」

 「あい」

 ガレージを開け放つとすっかり、夜になっていた。国嶋は

いまどうしているだろうか。……答えはいま見ているように、

すっかり闇のなかだった。

 昔はあれこれ浮かんだのに、いまはなにも浮かんでこない。

不思議だった。僕は一瞬にして、なにかの力を失ってしまっ

たようだった。

 僕は助手席を開けて、爽香を待った。彼女はなにを思った

のか、髪をすっかり束ねて現れた。それは、入浴後でも滅多

に見たことのない姿だった。

 僕は爽香を乗せて展望台を目指した。

 僕らは到着しても車から出ずに、狭苦しい車内で消えては

浮かぶ光の螺旋を見ていた。

 ふいに、助手席から爽香が肩を寄せてきた。僕はそんな彼

女をいままでのように頭をくしゃくしゃにして、胸に寄せて

やることしかできなかった。

 「……兄さん」

 「ん?」

 「……困った?」

 「……あぁ、まぁ、そうだな」

 「……ごめんね?」

 「いいよ。爽香が謝ることじゃないだろ?」

 「……でも、兄さんのこと傷つけたと思う」

 「なんでだよ?」

 「だって、ショックだったはずだよ? 兄さん。ずっと妹

だと思ってたのに、それなのに……」

 確かにどうしていいのかわからないし、ただ、置かれた状

況をまだ把握できていないだけかもしれない。でも、爽香が

いつものように接してくれているから、僕はきっと平静を保っ

ていられるのだろう。

 「……私、明日から話してもらえなくなっちゃうね」

 「なるわけないだろ?」

 「だって……兄さん、告白してきた子、みんな冷めた目で

見てた。女の子と会話もしなくなっちゃったし」

 「あれは……、俺がガキだったんだ」

 「でも、私のことも軽蔑したでしょ?」

 「してない。驚きはしたけど」

 「……嘘」

 「嘘は言わない。他の子と一緒に考えるなよ? おまえは、

もっと特別だろ?」

 「よして……」

 僕はしまったと思った。僕のいま言った特別と、彼女がずっ

と欲し続けた特別の間には決定的な溝があったのだ。

 「……ごめん」

 「いいの。ねぇ、兄さん? 恋愛感情とか抜きにしたら、

私のこと好き?」

 「あぁ」

 「……ありがとう。じゃぁ、いままでと同じ兄さんでいて

よ?」

 「え?」

 「好きだっていう私のこと、からかってよ」

 「……爽香」

 「私はそれでいいの。実際ね、兄さんと付き合えたとして

も、私それで幸せになれるとは思ってないから」

 「なんでだよ?」

 「勘違いしないでね? それは兄さんがどうのっていう話

じゃないから。私、兄さんの笑顔がみたい。ずっと笑ってな

かったけど、国嶋さんと話すようになって、また、大好きな

兄さんが帰ってきてくれたような気がして嬉しかったの」

 「そう……、なのか?」

 「ん、国嶋さんといるときの兄さんがいま一番好き。でも、

こんなの困ると思うけど、ホントに兄さんのことが好きだか

ら、また、きっと国嶋さんに意地悪しちゃうと思うけど、で

も、国嶋さんも本当は嫌いじゃないの」

 これは意外だった。いままでどんな思い出を引っ張り出し

てきても、爽香が国嶋にいい顔をしたときを僕は知らない。

 「そうだったのか?」

 「うん……、その……だからね? いますぐ付き合ってほ

しいとかそういうのじゃないから、気にしないで? 私は兄

さんにいつも通りに接してほしいの」

 「……あぁ、それなら、大丈夫だ」

 「……ありがとう」

 僕は爽香の肩を手で寄せた。小刻みに震えているのがわかっ

た。正直、本当にこのままいつものように接していられるか

なんてわからなかった。でも、彼女の気持ちを言葉のまま受

け取ることが、いまの僕がなすべきことだと感じていた。

 その後しばらく、爽香の震えがおさまるのを待った。

 「……起きてるか? そろそろ、戻るか?」

 時計は既に日付を変えていた。

 「……ん。兄さん?」

 ふいに僕の胸元から爽香が顔を寄せてきた。たぶん、キス

をされる。そうは思ったけど、僕は避ける仕草だけはしたく

なかった。なにもやましいことはない。国嶋にフラれて、僕

はひとりだ。爽香を拒絶することだけはしたくない。

 たぶん、キスをしたとしても、爽香が望むような気持ちに

僕はなれない。決して、国嶋とするときのような感覚には浸

れないだろう。でも、僕はとにかく避けたくなかった。

 「……よけないんだ?」

 爽香は口ではなく、そのまま僕の胸元に唇をよせた。

 僕は最低だ。安心して、さらには、国嶋と一生できなくなっ

てしまったことを、脳裏で悲しいと感じていた。こんなとき

にも、僕は。

 「どんなことがあっても、おれはおまえを拒絶しない。ガ

キのころそう言ったろ?」

 「ん……、でも、これは虚しいだけね?」

 爽香はそう言って、また小さく震えていた。

 もうこの話題は十分だろう。答えはもうお互いにわかって

いる。だから、僕はこの悲しい話題を終わりにしようと思っ

た。

 「運転代わるか?」

 「……いい。兄さんの助手席が好きだから」

 「そっか」

僕と爽香はシートベルトをしなおすと、けたたましい蛙

(7)の鼾を聞いた。起きてくれるまで、まだまだかかりそ

うだった。

 帰宅の道中で、帰路をそれた事に気がついたのか、爽香が

僕の袖を引っ張った。

 「あ、あれ? 兄さん、帰り道違うよ? あっちじゃない?」

 僕はずっと兄に拘ってきたけど、最後までダメ兄貴にしか

なれなかった。明日も学校があるというのに、僕はまだ彼女

を連れまわしたかった。

 「あってるよ。ちょっと、付き合えよ?」

 爽香の?マークの向こう側で、小さな看板が浮かんできた。

 「いいけど……、兄さんここって?」

 「あぁ、スープ専門店だよ。まだやってたんだなぁ。覚え

てるか? おまえ、ここの野菜スープ好きだったろ?」

 「兄さん……」

 「おれも身体ちょっと冷えちまって、ちょっと、飲んでこ

うぜ?」

 「うん……」

 ずっと忘れていた、爽香の照れ笑い。僕はこのときになっ

て、初めて、ずっとそれを見ていなかったことに気がついた。

本当にダメな兄貴だ。爽香にはいまは言えないけど、国嶋

と僕はもう付き合うことはないだろう。どうあっても、近く

にいると、僕らは誰かが傷つく。そもそも、僕は国嶋をあん

な風にしてしまったではないか。

 せめて、少しでも報いる方法を探したいし、それが叶わな

いというのなら、それこそ、僕はあのとき頑なに守ろうとし

た爽香を、もっと大切にしていこう。国嶋はもうそばにいな

いけれど、僕は国嶋といられたときのような、そんな笑顔を

ひとりで見つけていかないといけない。

 爽香の表情も、思えば、ずっと曇ったままだった。

 ――緑色の回転灯が妙に優しい。

 少しだけ湿った地面に車を止めると、僕は助手席のドアを

開けて、店のドアも開けて、さらには椅子をひいて、お絞り

も水も用意した。

 懐かしい爽香の笑顔が次々に浮かんできた。この深夜のレ

ストランはまるで魔法のランプみたいだと、爽香はおどけた。

 「……ごめんな? 爽香」

 「もう、よしてよ? せっかく……」

 「そうじゃない。その話なら、謝んない。フッた覚えはな

いしさ」

 「……なによ、それ?」

 「そもそも、ちゃんとした告白、まだ、受けてないしな?」

これには爽香も眉をひそめたけれど、いつものように、……

ドバカ、とだけ返してくれた。

 二人の間にはいつのまにか普段の雰囲気が戻っていたのだ。

 「そうじゃなくてさ、いままでのこと。おれ、ずっと一人

で塞ぎ込んでたから……、ごめん」

 「え? そうだっけか?」

爽香はそっぽを向いて、まるで関心がないように装ってい

た。

 「爽香、はぐらかすな」

 「ふふ、そんなの知らないの~。ダメよ? まだ国嶋さん

のこと、あきらめちゃ」

 僕は応えられなかった。どうして、爽香はそんなふうに言

えるんだろう。僕はまだこんなにも自分の幸せに固執してい

る。相手ではなく、自分の。

 抑圧の蓋がなければ、僕はきっと……爽香さえも守れない。



(6)Abraham Harold Maslow(1908-1970)

   アメリカ合衆国の心理学者。

(7)ポルシェ社が製造する自動車のこと。その独特のデザ

   インから、「カエル顔」と呼称される。

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