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白刃の女神  作者: 大吉
16/39

第二部 破局 前編

 僕には未だに付き合うという意味がわからなかった。ただ、

イメージというものは僕の中にもぼんやりとはあった。だが、

その僅かなイメージさえも現実とはかけ離れていて、そこに

いま僕は大きな戸惑いを感じていた。

 というのも、二人が付き合い始めたその日を境にして、二

人の距離はむしろ、離れてしまったかのように感じていたの

だ。

 僕の従来のイメージは親しく話したり、手をつないだりす

るもので、心理的にも物理的にも他の誰よりも近い存在にお

互いをおくことだった。

 ところで、僕らには会話が乏しく、まして、手などつなげ

なかった。二人の距離はどちらの意味でも遠かった。

 この問題は僕らだけにとどまらず、やがて、他人をも巻き

込んでいった。僕らが廊下で歩くと、後ろから来た人はかな

り歩くペースが遅れたし、前から来た人は踵を返すか近くの

教室に入らざるをえなかった。

 というのは、僕が廊下の右端を国嶋が左端を歩いているも

のだから、結局、後からくるひとも、前からくるひとも、国

嶋と僕の間を通るしかないわけで、それは御免被るという話

だったのだ。これは随分と傍迷惑な話だと思う。

 このことに関してはよく国嶋にクレームが入っていた。僕

はそのことが気になって、いよいよ、距離を縮めようと一大

決心をした。

 いつものように授業が終わって国嶋と一緒に廊下を歩み出

したときである。僕は意を決して、彼女に話しかけた。

 「国嶋……その、もうちょっと近づいた方が自然だと思う

んだけど」

 「なっ!? 知るか、そんなの。だいたい、おまえがこっ

ちにこればいいだろ!?」

 僕は愚図った。

 「え、おれ!?」

 「そうだ。だいたい、歩行者は左側通行だろ。ルールは守

れ」

 まさか、ここで真っ当な返しを受けるとは思わなかった。

僕は右側を歩いたことをひとり悔いた。

 「……そ、そうだな。わるい」

 「ぷっくくくく。あははは!」

 悔恨の念を爽香の笑いがさらに刺激した。

 「な、なに笑っているんだ、おまえ!?」

 国嶋もたまらずに怒った。

 「国嶋さん、かわいい~」

 「おまえ……、からかっているのか?」

 「だって……、だって、ねぇ?」

 爽香の隣には柊がいた。僕は国嶋の方に気を取られすぎて

いて前から歩いてきた二人にまったく気がついていなかった。

 「おい、そっち行きてぇんだ。道あけてくれよ」

 「なんや、自分ら一緒に歩いとったのか? 真ん中ガラ空

きやったから、よぉわからへんかったわ。いや~すまんすま

ん」

 まったくもってわざとらしい奴だ。

 「るせぇな、おい」

 冗談にくってかかろうとしたところで、このたちの悪い二

人はもと来た道へとかけて行った。

 「おい、愁?」そう言って、ふいに柊が立ち止まった。

 「なんだよ?」

 「愛の交通ルールはちゃんと守れよ!」

 「はっ!? るせぇ!!」

 「きゃぁ~。退避退避~」

 いったい、あいつらは何をしに来たんだ。

 僕らはふたりにすっかりとからかわれていた。

 「あいつら、バカにしやがって」

 僕はいつものようにあきれて呟いた。

 「おまえが、こっちにこないからだろ」

 でも、国嶋がいつもあきれているのは僕の方だった。ただ、

だからと言って、そうだよな、と身体を国嶋に近づける勇気

が僕にはなかった。

 好きだと言ってから、どうにも身体が鈍った。

 「……わるい」

 だから、僕はただ謝るしかなかった。

 「……別にいい」

 僕はとことん情けなかった。いつもここで、国嶋が謝るよ

り行動で示せと言ってくれないものだろうかと期待していた。

 困ったことにこのやりとりがすっかり僕らの日常になって

いた。

 それからしばらくしても僕らの距離は一向に変わらなかっ

た。僕は国嶋に言われた通り、国嶋の方へ近づこうかと何度

か考えた。

 ただ、そう思うと今度は困ったことにどれだけ近づいても

いいべきか、という問題が立ちふさがって僕の歩みを一向に

横へ向けなかった。

 それに、国嶋もあれから寄ってこないのだから、もしかし

たら、あまり接近されるのは好きじゃないような気がしてい

たのだ。僕はいままで考えたこともないような問題にぶちあ

たっていた。

 人との距離感なんて、いまのいままで考えたこともなかっ

た。

 このはかりかねていた距離感を一掃する事件が起きたのは

GWを間近に控えた金曜日のことだった。僕らは部活後に校

舎裏で待ち合わせをしていて、そこで僅かな会話をしていた。

もう帰ろうかとしたところで、ふいに国嶋がある質問を投げ

かけてきた。

 「……そうえいば、おまえはキスとか……、したいのか?」

 僕は不測の事態に直面していた。まさか、彼女がそのよう

な言葉を口にするとは思いもしなかった。

 ただ、これは至極当然のことだったのかもしれない。なぜ

なら、恋人特有の行為を僕らはまだしたことがなかったのだ

から。付き合ってから一度もそれらしいことをしていない。

僕らは一緒に帰りさえするが、間にはあいもかわらず人が通

れるスペースがあったし、歩いている間も僕は自分の頭のな

かだけで彼女と対話していた。それが、もう、数ヶ月も続い

ている。

 僕は別段、それが嫌ではなかった。二人の距離をもどかし

くも愛しく思えていたし、彼女との会話のなさも、それがな

いがゆえに一緒にいる理由を愛と解釈していたから。

 要は、僕は臆病だった。恋人特有の行為に及んでしまった

結果、いまの関係が崩れてしまうのが嫌なのだ。

 そう思うと、僕は時々彼女の手を見たり、唇に目を泳がせ

たりしながらも、やはり、前を向いて彼女と歩いている関係

でいたかった。とは言え、彼女の言葉が何度も鼓膜で反響し、

その行為の魅力にすっかりとりつかれてしまった。

 だからこそ、僕はキスに魅力を感じていることをほのめか

しながらも、キスをしなくていい状況にもっていきたかった。

あれこれ頭のなかではじいてみたが、僕は正攻法がみつけら

れなかった。

 もう、タイムアップだった。彼女が立ち上がろうとしてい

たから。焦って僕は分別のない、卑怯な手をつかってしまっ

た。

 「え? あ、あぁ、……国嶋はしたいの?」言っておきな

がら、自分で吹き出しそうだった。あまりにもいまの僕の姿

は滑稽だ。この図体でなんという女々しい発言だろう!しな

い、という結論に持っていきたいのだが、それは同時に、行

為の魅力のなさをも伝えてしまう。しかし、したいと答えて

しまうのは関係の保持を頑なに願う僕からすればそれは無理

だった。だから、どうしたのかというと、結局、僕は彼女に

それを否定させようとしたのだった。

 「なっ!? バカ!そんなことしたいわけないだろう!?

ただ、付き合ってる奴はみんなそういうのしてるだろ? だ

から、おまえもしたいかのかと……、そう思っただけだ」

 僕は今度、偽善者になった。

 「そうか……、でも、おれ、国嶋がしたくないならしたく

ないよ、そういうの。でも、ありがとう」

 「……別にいい」彼女はすっかり当惑したようで、顔を明

後日のほうへ向けてしまった。

 僕は彼女の勇気を踏みにじってしまった。ふいに、このこ

とこそが僕らの関係を壊しはしないかと不安になった。結局、

彼女はそれ以後、何も話さなかった。僕はというと、不安を

否定する解を求めるために、感情の入り込む余地のない倫理

式を頭のなかでいくつかつくっては、時々、彼女の様子を盗

み見ていた。

 帰宅時の道路は狭いので、僕はいつもぎくしゃくしていた。

あまり彼女から離れてしまっては後方から激しいブーイング

を浴びせられてしまう。そのけたたましいクラクションで彼

女が不快にならないように、僕はある程度、彼女に近づかな

ければならなかった。僕はおかしくなりそうだった。

 というのも、僕は彼女が怒っているものだと思っていたか

ら。やはり、あの卑怯な方法は彼女を傷つけてしまったので

はなかろうか。もし、そうだとしたら、これほど近づいてい

いものだろうか。

 その不安の解消が今日の道中の課題だった。

 帰り道はいつも国嶋の家の前までは行かなかった。最後の

十字路を左折すれば、数十メートルで着くくらいまでの距離

を残した位置が僕らの到着地点だった。

 彼女は歩くのをやめて、こちらを向いた。僕はどきまぎし

て、明後日の方向を向いた。でも、ここで僕はいつも何かを

言わなければならなかった。そうでなければ、彼女が帰れな

い。だから、僕は最後のこの時間を使って、いつも、その日

の弁解をするのだった。

 「あのさ、さっきの話……なんだけど」

 「……なんだ? さっきの話って?」

 僕はいつも言葉を濁す。言いにくいことは彼女の想像力に

期待するのだが、僕らは会話もろくにしていないから、それ

には、やはり、無理があった。でも、今日こそは気づいてほ

しかった。

 僕は顔が熱くなるのを気にしながら、あの言葉を言わなけ

ればならなかった。とはいえ、彼女がそうしてくれた手前、

言わないという選択肢は選べそうもなかった。

 「そのキス……がどうのっていう」

 「……あ、あぁ」

 彼女の顔が見れなかった。いま、どんな表情をしているの

だろうか。僕は思いきって、彼女の顔を見た。少し頬を染め

ているようにも思えたが、これは僕の願望のせいだろう。恥

ずかしさで恐らく、僕はあの夕日よりも赤い。夕日だけ赤い

のはいたたまれないと、地面を染めていくように、僕は彼女

の頬を染めているのだ。

 彼女はそんな夕日に何かを予感したのか、決して、それか

ら目をそらそうとはしなかった。

 「こうしないか? 明日、もし、したいと思ってくれたら、

7時に学校に来てくれないか?」

 これが精一杯の僕の勇気だった。先ほどの途切れてしまっ

た会話をつないだ。僕は彼女の気持ちを確かめたうえで、そ

れができる状況をつくろうと考えた。先ほどの会話に矛盾し

ないようにという意味も含んではいたが、それよりも、彼女

の気持ちを確かめられるという点において、僕は興奮してい

た。

 明日までに考える時間がある。もし、来なくても、また、

いまのようにきっと歩ける。なぜなら、彼女は先ほどそんな

のものしたくないと言っているのだから。頭の中での合理化

がすさまじかった。

 「……ずいぶん、早いのだな。おまえ、起きられるのか?」

 本当は7時に学校へなんて、いまの一度も行った試しがな

い。それどころか、いまでも予鈴の後に行くことが多い。そ

れにも関わらず、ずいぶんと早い時刻を宣言してしまったよ

うだ。それだからなのか、彼女は僕の発言内容の奇妙さより

も、そちらに関心をとられてしまっていた。これは思いがけ

ない幸運だったが、ところで、僕はその7時からいったい何

をしようというのだろう。キスは二人の同意と片方の勇気が

あれば、一分もかからないはずだ。それなのに、僕は。

 「あ、あぁ。それは、大丈夫」

 「そうか……、7時だよな? 一応場所だけ聞いておく」

 彼女はまだ決めかねているといった様相だった。

 「校舎裏でいいか?」

 「あぁ、わかった。じゃぁ、おまえも……、したかったか

ら、遅れずに来い」

 彼女はそう言って十字路へ消えていった。

 「あ……、あぁ。わかってる」

 言葉は行き場を失った。

 それにしても、思いがけない言葉を今日はよく耳にする。

 僕はその帰り、わけもわからず走り出したり、近所の犬に

戯れたりしながら帰った。このときにはもう、関係の保持よ

り破壊からくる新しい創造に身を任せようと思っていた。

 僕はその日、生まれて初めて目覚まし時計を買った。

 ところが、僕はその日眠れなかった。何度眠ろうと目を閉

じても、鼓動に叩き起こされるだけだった。まだ、彼女の唇

を知れると決まったわけではないのに、その可能性に酔いし

れている。

 ――眠れない。

 僕は爽香が起きないように何度も階段をそっと上り下りし

た。水を飲んだり、少し、月を見たりして。でも、一向に眠

れなかった。

 いたたまれなくなった僕はもう学校へ行くことにした。ま

だ、新しい日にちが生まれて間もない頃だ。こんなに清々し

い朝は他にないだろう。

 僕は風呂に入りなおして身支度を整えると、買っておいた

飴を手にして家を泥棒のようにそっと抜き出した。

 だが、10mも進まないうちに不安が襲った。

 爽香が家にひとりだ。戸締まりは確認した。雨戸も全部し

た。僕はそれでも、無性に不安になって、窓や玄関の前に落

とし穴を作った。音もあまり立てられず急いで掘ることは難

しかった。

 結局、もうすぐ日が昇りそうな時刻までかかった。既に汗

まみれになっていたので、もう一度、風呂に入りなおした。

そして、僕は日が昇るのと同時に学校へとかけだした。どう

して、全力で走ってしまったのか、僕にはもうわけがわから

なかった。着く頃には僕はまたしても汗だくだった。

 校舎裏へ着いたのは6時ごろだった。僕はへとへとになっ

て、腰掛けて座った。

 空腹の合図とともに僕の日は急速に落ちていった。

 「おい、……おい、愁」

 「ん? あ、あぁ。国嶋か」

 僕はいつのまにか眠ってしまっていた。

 「ふふ、おまえ、何時に来たのだ?」

 「え!?」

 僕はとっさに遅刻してしまったのかと勘違いして、7時前

だと慌てて主張した。

 「ふふ、知っている。だって、いまも7時前だ」

 国嶋は左腕の時計を見ながら、笑ってそう言った。

 「あぁ、そっか……」

 恥ずかしくて、それ以上声が出なくなった。

 「まさか、愁が5分前行動を守るとはな? おまえいつ来

たのだ?」

 「あ、えっと、15分前くらい、かな?」

 「嘘つきめ。私が来たのが15分前だぞ?」

 「あ、そ、そっか」

 僕は慌ててケータイでいまの時刻を確認しようとした。

 「あれ、おかしいな。この携帯くるってたのかな?」

 「貸してみろ。……ん? どこがくるっているのだ?

私の時計と同じだぞ?」

 僕はもう声がでなかった。

 「本当のことを言ってくれ。私はその時計で30分前に来

た。でも、愁はもっと早くきていたな?」

 「っ!? そんなに早く来てたのか!?」

 「バ、バカ!おまえの方が早かっではないか」

 「……わ、わるい。おれ、本当はその、1時間前くらい」

 「おまえ、1時間も前に来てたのか!?」

 「あぁ、なんか、眠れなくてな。それで、そのまま夜中に

来ようと思ったんだけど、爽香がひとりのこと気になって、

それで、引き返して……、あぁっ!? まっずい!!」

 「な、なんだ? どうしたのだ?」

 「おれ、玄関前に落とし穴作ったんだ!」

 「っあはははは!なにをやっているのだ、愁? おまえ、

それで、靴が泥だけだったのだな?」

 「あぁっ!? しまった!せっかく磨いたのに!」

 「磨いたのか?」

 「あ、いや、なんていうか、ほら? おれ、毎日磨くんだ

よ」

 「ふふ、そうか」

 「あぁ、……ってまずい!わるい、ちょっと電話していい

か?」

 「ん? 誰にだ?」

 「爽香、あいつ朝新聞取りに出るから」

 「っ……愁? まずいだろ、それ」

 「あぁ」

 僕はそう答えながら爽香の番号を急いで探した。

 ――ピピピピ!捜索の音がこの時ばかりは僕の指について

来られなかった。


―――――――――――――――――――――――――


 ―ピーピピ、ピーピピ、ピーピピ。

 ―カチャ。

 「んーっ」

 ……あれ?なにかがいつもと違った。そうだ、お部屋のな

かが真っ暗だ。時計のディスプレイを押してみる。時刻はい

つもどおり、6時過ぎだった。

 おかしい。夏場だから、この時間帯は明るいはずなのに。

 ケータイで光の道をつくりながら、恐る恐る窓辺に立った。

 あれ……どうして、雨戸が?兄さんが起きないようにスル

スルとスローモーションで開けていく。すると、眩しい朝が

やっと顔を見せてくれた。

 寝ぼけていたのかな、私?昨夜の不審な行動を疑いながら

階段を下りていくと、またしても、真っ暗だった。少し、怖

くなったけど、なんとなく、これは兄さんの仕業だとわかっ

た。

 きっと、私の部屋の窓も兄さんだ。電気をつけてみると、

やっぱり、部屋中の雨戸がしてあった。いったいなんのつも

りなのかしら?あぁ、そういえば、昨日は満月だったね。光

で眠れなかったの?まったく、困った狼さんだとこと。

 私は全部の雨戸を開け終えると、狼さんを叩き起こしに行っ

てあげようかとも思ったけど、まずは顔を洗いにいった。髪

をとかして、朝ご飯の用意をして気を紛らわせてから、よう

やく、兄さんの部屋をあけた。

 やっぱり、そこも真っ暗だった。まったく……何の趣味か

しら。電気をつけて、雨戸をあけると布団に手をかけた。

 誰もいない……。あれ?兄さん今日、出かけるって言って

たっけ?あ……時計が置いてある。兄さん、こんなの持って

いたっけ?どんどん疑問が浮かんでくる。その原因のひとつ

を持ち上げると、急にアラームが鳴り出して放り投げてしまっ

た。

 ――ガチャン。

 兄さん、目覚ましより早く起きてどこに行ってしまったの

かしら?なんとなく想像できそうだったので、それはやめて、

部屋を出て行った。

 あ……兄さん、鞄おきっぱなしだ。まったく、何をしに行っ

たのだか。今日のお昼、屋上でみっちり問いつめてあげよう

と思った。

 部屋を出て、兄さんの分のご飯をしまうと新聞を取りに外

へ出た。それにしても、玄関にチェーンの鍵までしてあった。

 ――兄さんいったいどこからでてったの?

 そんな不可解な行動をあいかわらず模索していると、あの

忘れかけていた感覚が全身を襲った。家族のキャンプでよく

兄さんにしかけられたやつだ。

 ここは家じゃない、入り口を出た瞬間からそこは戦場なん

だって……

 ――兄さん、ここお家ですけど?


―――――――――――――――――――――――――


 ふいに、ケータイがなり始めた。

 「ぬわっ!?」

 「まさか、おまえ……」

 「爽香だ!」

 「早くでてやれ!」

 「おっ、おぅ!……あ、爽香か!? おれだ!玄関から出

るなよ!」

 「もぉ!ドバカァ!!出たわよ!なによこれ!!雨戸も全

部して!」

 「マ、マジかよ!? わるい!いますぐ帰るから!おまえ、

怪我しなかったか?」

 「るっさい!早くこいドバカァ!!」

 思いのほか、爽香の声が辺り一面に鳴り響いた。僕は思わ

ずケータイを顔から話した。画面を見ると、既に通話は終わっ

ていた。

 「……ふふ、行ってやれ」

 「あ、あぁ、わるい。ほんと!せっかく来てくれてのに!

わるい!」

 僕は目の前で微笑んでくれている国嶋に身ぶり手ぶりで必

死に謝った。

 「あぁ、もう良い。それより、おまえのこれ、貰っていい

か?」

 「え? あれ、おれの……飴?」

 「ふふ、そうだ。おまえが大事そうに握りしめていた。お

まえ、これ何に使うんだ?」

 「あ、いや!その……」

 「ふふ、貰うぞ?」

 「あぁ」

 このときばかりは国嶋の大胆さが恨めしかった。

 どうせなら、もういっそのこと何も言わずにすべてを貰っ

てほしかった。

 「ほら、何をしているのだ? 早く行ってやらないと、あ

とがひどそうだぞ?」

 僕はうなずくと駆け出した。

 爽香には申し訳ないが、助かったと思った。僕はいまいや

しさを突き付けられて心臓がまた一段と潰れそうになってい

たのだから。


―――――――――――――――――――――――――


 愁に呼び出されて今日は早く学校に来ていた。とはいえ、

その本人がまた家に戻ってしまったものだから、私はしばら

く暇になった。そこで、私は体育館へと向かった。

 今日の私はとても機嫌がよかった。リングに意地悪をされ

ても、どうということはなかった。

 愁の奴め、そうか、私と……その、したくて昨日から動き

回っていたのだな。ふふ、バカな奴だ。私はもしかしたら、

あいつは今日来ないのではないかと思っていた。

 というのも、付き合ってからあいつの口数は妙に減ったし、

昨日だって、私が思いきってあんなこと言ってやったのに、

あいつは色のない返事を返すし、そもそも、一緒に歩いてい

るというのに、あいつはできる限り私から離れて歩こうとす

るし……なんなのだ、あいつは。

 私のことなど本当は好きじゃないのではないかと何回か不

安にもなった。でも、母さんにあることを指摘されてから、

それはなくなっていった。

 変に意識しすぎて近づけなくなっている……か。母さんは

彩香もそうなんでしょ?なんて、意地悪なことを付け足して

いたな。こんなの悔しいけど……、確かにそうかもしれない。

いまはとてもじゃないけど、冗談でもあいつの腕なんてつか

めないし、私からあいつに近寄って歩くなんて想像すらでき

ない。せめて、普通に話せたらとも思うのだが、いまいち反

応に欠けるいまの愁を見ていると、とても会話が続きそうに

もなかった。

 付き合ったら楽しいことばかりなんだろう、なんて単純に

思っていたのだが、実際は問題がこんなにも山積していた。

 でも、私は愁との問題なら別に嫌ではない。昨日だって、

私のためにあいつは夜通し働いてくれたのだ。こんなにも可

笑しなこと、付き合っていなければ感じられなかったではな

いか。

 私は自分の口元を指でなぞると、そこにあいつを想像した。

 遠くでひときわ大きく、ネットを揺らす音が聞こえた。

 ――なにかのまじないみたいだな。

 結局、愁はHRになっても姿を見せなかった。まったく、

いつまで待たせる気なのだ、あのバカは。心臓はそれほど強

くないのだぞ?私はそんな文句をノートの端に浮かべながら、

昼休みを待った。

 愁に会うのは多くても1日3回までだ。朝の登校時、昼食

後、それから下校時で……それくらいしかあいつは会いに来

ない。まったく、私は薬じゃないのだぞ?もっとたくさん手

にしてくれてもいいのに。

 あれこれ文句を浮かべていると、ふいに、近くで静香の笑

い声が聞こえた。その大きさに驚いていると、私の目の前で

サンドウィッチを片手に静香が腹をかかえていた。

 「さ、彩香? アンタ、箸!? 箸っ……」

今度はその言葉につられて真紀子も少し微笑んだ。どうや

ら、私は箸をかじっていたらしい。

 「彩香、お腹すいてるのか、すいてないのか、どっちなの?」

 今度は有香が私の減っていないランチボックスと顔を見比

べながら、えくぼを添えてたずねてきた。

 「う、うるさい!食べたきゃ、おまえらにやる」

 「あははは!ごめんごめん、だって、それ、素でやってる

んだもん」

 私は恥ずかしさのあまり、静香にランチボックスを押し当

てた。そんななか、真紀子だけが表情をもどして、隣で心配

そうに見つめているのがわかった。

 「大丈夫だ、飴を食べ過ぎて口の中がくどいんだ」

 そう言ったところで、私にも思わぬ落とし穴が待っていた。

 「そうなの? じゃぁ、愁君に爽やかにしてもらったらぁ?」

 静香の茶化し声に、真紀子が思わず抵抗した。でも、今日

は恥ずかしがり屋の真紀子よりもずっと私の方が参っていた。

 あいつ……、こんな飴なんか用意して、いったいどんなキス

を期待していたのだ。

 「あぁ、しっちゃん、彩香、妄想してる~」

 「ふざけるな!誰がそんなこと、からかいすぎだぞ……」

 私はそれ以上居づらくなって、席を立った。

 「行くの?」

 静香の奴、にやついた顔をして人差し指を上に上げた。

 私はますます恥ずかしくなった。

 別にそういうのを期待したんじゃない。

 付き合ってからはお互いに昼食後にバスケの練習をしなく

なっていた。まるで、それが二人を引き合わせるためだけに

行われていたかのように(爽香の言葉がそう思わせるのだろ

う)、あの日から二人は体育館へ足を向けなくなった。

 その代わり、昼食後は屋上へ向かうのが日課になっていた。

 屋上のわななく扉を開けると、妙に媚びをうるような愁の

気色悪い声と、それから逃れようとする爽香の意地の悪い声

とが聞こえてきた。

 「爽香……、さん?」

 「なによ?」

 「わ、わるい。ほんとわるかった!すまん!」

 どうやら、まだ、爽香の奴がお怒りらしい。愁の聞き覚え

のない情けない声色が妙に鼻につく。

 「もぉ、それ何回も聞いた。聞き飽きた~」

 「いや、だって、怒ってるだろ?」

 「そりゃそうでしょ? あんなとこしておいて!なによ!?

私がそんなに嫌い!?」

 未だに二人が喧嘩をしているというのに、私はこの問答

劇を見ているうちに、笑ってしまった。少し安心したのだ。

 「いや、違うって。ごめん!な!? このとおり!許し

てくれ!?」

 「やです」

 「やです、っておまえ……」

 愁からそっぽを向いた爽香の視線が、ちょうど私のそれと

重なった。そこでようやく、私に気がついたらしい。思えば、

体育館で言い合って以来、爽香とはろくに話していなかった。

 私はこれも良い機会だと思って、爽香に話しかけることに

した。

 「いつまで拗ねているのだ? いいかげん、許してやった

らどうなんだ?」

 「……兄さん、知らないひとがいる~」

 爽香はあくまでも真顔で愁に尋ねた。……本当に頭にくる

奴だ。こちらから歯車をかけ直そうとしても、いつも爽香は

それをずらして、ギィーギィー喚く。

 「爽香?」

 でも、今日は怒る気にならなかった。愁が少し声をおとし

て、抗議してくれたので、私は気分が良かったのだ。いや、

本当の理由はもっと別にある。

 爽香……、悪いことをした気はない。でも、どうしてな

のだ。ずっと、私には負い目が消えなかった。

 「愁、いい。悪かったな、爽香?」

 「どうして、国嶋さんがお謝りに?」

 「あ、いや……、そもそも私が愁を呼び出したのがいけな

かったのだ。……愁も、すまなかったな?」

 「え? あ、いや……」

 愁は私の意図を汲み取ろうと、視線を泳がせた。

 「なによ、これ? 私が悪者みたい」

 「だから、違うっての。おれだから、おれ。悪いのは。ほ

んと、ごめんな? ごめん」

 愁が頭を下げると爽香は一瞬、目をさらに大きくした。

 「……もう、いいよ? でも、怖いからもうあんなことし

ないでね? せめて、敷地内は安全でいたいの」

 「あ、あぁ……すまん。そうだな」

 これで、朝の事件は解決したものだと思った。爽香と話す

機会も得れてよかったと思った。でも、息をつくかつかぬか

というときに、爽香のいやらしい視線が私にからみついてき

た。でも、気づくのが遅かった。

 「ふふ、そんなに私のこと心配なの~?」

 「そりゃ、そうだろ?」

 真面目に答える愁を叱ってやりたかった。だって、そうだ。

爽香は私をそうやっていじめるのが好きなのだから。

 「じゃぁ、いつも一緒にいて?」

 「え?」

 「ずっと、一緒にいて」

 ――ほら、みろ……。

 「えっと、あの……、あれ?」

 「な、なにを言っているのだ、おまえは!?」

 「なによ? だいたい国嶋さんがいけないんだから。兄さ

んは私のことが心配なの~。無理に引き離そうとするからい

けないんだからね?」

 「な!? 人聞きの悪いことを言うな!」

 「ね、いいでしょ? 兄さん。今日、キングサイズのベッ

ト買いに行こう?」

 私の頭に目まぐるしく血が上った。爽香の奴、わざとだ。

ちらちらと私を確認しながら、そんなことを言う。

 「なんでそうなるんだよ?」

 「だって、ずっと一緒にいてくれるんでしょ?」

 「いや、その……」

 「バカ!愁が困ってるだろう!」

 もういいかげん頭にきて、愁がいるのも忘れて叫んでしまっ

た。

 「そ、爽香?」

 「嫌なんだ? 兄さんは家から引きずり出したこんなバカ

女に、これからものこのこ着いて行くんだ? 妹は落とし穴

に入れておいて?」

 「そういうわけじゃ……」

 「愁!もう、こいつのいうことは聞くな」

 そう言い終えると同時に、鐘が鳴った。

 爽香は私と目も合わさずに、去って行った。


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