異世界バレンタイン
この話は、本編・第千二百五十三話と第千五十四話の間の出来事です。
それ以前の本編のネタバレが含まれることになります。
飢えている。
浅い夢の道半ば、彼女が寝返りを打つこともできず、水底に沈められたような息苦しさを覚えて、空気を求めて喘いだのは、埋めがたい飢餓感に襲われたからにほかならない。それはさながら根源的、本質的な飢えとなって荒れ狂い、彼女の心に穴を開け、急速に拡大していくものだから、溜まったものではない。逃れようと足掻こうとしても、夢の水底では想うように動けず、溺れるしかない。溺れる内に、胸の内に広がる飢えの痛みに身を捩り、目が覚めた。
(夢……)
彼女は、はっきりとしない頭の中でつぶやき、うんざりとした。また、同じ夢を見た。飢えの中で溺れ続けるだけの夢。悪夢というべきだろう。少なくとも、楽しい夢ではない。せめて夢を見るのなら、楽しい夢を見せて欲しいものだと想うのだが、それも無理なことなのだろうと諦めにも似た気持ちで目を細める。
寝息が聞こえた。
まだ、世間は寝静まっている。
当然、彼女の下になっている女もまた、眠りの中にいるだろう。穏やかで平和すぎる寝息には、彼女も憮然とせざるを得ない。どうしてこうも平常心を保っていられるのだろうか。この状況下で平静でいられる度胸というか根性がどこにあるのか。
(まったく、どういうことなのよ)
横を見れば、仰向けに寝たままの女の豊かな胸が山のように聳え立っている。双丘の片方。もう片方の山は、彼女の枕になっていた。寝間着の上からもわかるくらい立派な胸の形がなんだか腹立たしくなったのは、その平穏すぎる寝息のせいに違いない。おもむろに手を伸ばし、もみしだく。
「ああん……だ、だめよ、こんなところで……」
頭上から甘い吐息が漏れてきたかと想うと、想定外の言葉が続いたことで、彼女はすぐさま手を止め、その手を目の前に持ってきた。弾力と柔らかさを内包する乳房の感触は、いつも通りではあるのだが、それにしたって、あまりにもあまりな反応だ。
(どんな夢を見てるのかしら)
甘くてとろけるような夢でも見ているのかもしれない。
だからこそ、女はいつも以上に平穏な寝息を立てているのではないか。
彼女はなんだか腹を立てるのも馬鹿らしくなって、女の寝台から降り立った。静寂に満ちた闇の中、彼女の小さな足音だけがした。
ここは、彼女の部屋ではない。いまも甘美な夢を見ているであろう女の部屋であり、彼女は、眠れない夜は大抵、この部屋に忍び込んでは女の布団に潜り込んだ。そうすることで安眠を得られるのだが、今日はどうも違った。
いや、今日だけではない。
ここのところ、安眠を得られた試しがなかった。
寝起き故か、あまりに眠れなかったがためか、妙に重い頭を抱えるようにして、彼女は部屋を後にした。甘い寝息に後ろ髪を引かれるのは、やはり、女のことが好きだからにほかならない。
部屋から長い廊下へ出れば、窓の外の景色がわずかに青みを帯び始めていることに気づかされる。黎明が近い。夜が終わり、朝が来ようというのだろう。だというのにまだだれも目覚めている様子がないのは、冬の寒さが覚醒を妨げているからに違いなかった。
冬の朝は、遅い。
いまは二月。
世間は大きく動いていて、こうしてくだらない理由で目を覚ましていられるのもいまのうちだということは、よくわかっている。わかっているからこそ、彼女は寒さに震える体を抱えたまま、廊下を歩いていく。
夜明け前の蒼い暗闇に包まれた廊下。
一定間隔で設置されている魔晶灯を点けないのは、そうまでする必要がないからだ。目が、闇に慣れきっていた。頭は未だに重く、脳内を雑音が氾濫しているものの、足取りそのものは軽い。慣れたものだ。
この建物が彼女の家となって、一年と少しばかりが過ぎた。
常にこの家にいるわけではないが、だとしても、この家の構造は、目を瞑ってても迷わないほどに慣れていた。なにより、この家は、彼女が初めて得た自分の居場所といってもよく、故に彼女は、一歩一歩踏みしめるように廊下を歩いた。
だれもが眠りについたままの建物の中で、唯一光が漏れている場所がある。
大抵、だれもが寝静まっている時間帯に火が灯るその場所は、彼女にとってもありがたい存在だった。眠れない夜、朝早く起きてしまったときなど、そこに行けば必ず彼がいたからだ。
食堂だ。
食堂に火が点っているということは、隊専属の調理人が厨房にいることの証といってもよく、たとえ調理人の彼がいなくとも、だれかは食堂にいるのは間違いなかった。だれかがいてくれればそれでよかった。眠れない夜、だれもが眠る朝、ぼんやりと過ごすにしても、だれもいない場所は耐えられない。
だから彼女は食堂に足を踏み入れると、そのわずかな明かりに引き寄せられるようにして厨房に向かった。
厨房からは、専属調理人が仕込みをしているらしく、包丁がまな板を叩く小気味のいい音が聞こえてきていて、彼女の足取りはますます軽くなった。ひとがいる。ただそれだけで、気分は晴れるものだ。重い頭が少しだけ軽くなった。気のせいではない。実感がある。
常に清潔に保たれている厨房の奥を覗き込めば、調理人の男が調理台でなにやら切り刻んでいる最中だった。ゲイン=リジュール。王立親衛隊《獅子の尾》に所属する非戦闘員のひとりであり、専属調理人は彼ひとりだ。年齢は四十歳手前だったか。年齢よりは若々しい外見だが、笑ったときなどに顔面に刻まれる皺の深さからは年齢を感じさせる、そんな男だ。
「おはよー……」
「これはこれはミリュウさん。おはようございます。随分とお早いお目覚めですね」
柔らかな物腰での対応は、彼が彼女を気遣ってくれていることの証だろう。立場上、当然のことではあるものの、ミリュウは、彼の気遣いに感謝した。口をついて出る言葉は、そんな想いとは裏腹なものだが。
「まるでひとがいつも寝覚めが悪いみたいにいってくれちゃって」
「そういうわけではありませんよ。なにか、飲まれますか?」
「いいわよ。自分で煎れる」
彼女は、ゲインの手を煩わせまいと、軽く手を振った。
勝手知ったる厨房の中だ。食器棚のどこに自分好みの茶碗があり、茶葉があり、茶器があるのか、熟知している。適当な茶碗を見繕い、茶器を用意し、茶葉を入れる。湯だけはゲインの協力を仰がなければならないものの、彼は、いつでもだれでもお茶が飲めるようにと用意してくれていた。準備万端なのだ。そういうところも、彼女が彼を気に入っている理由だった。
ミリュウが、思い人たるあの少年以外の人間を気に入るというのは、希有といってよかった。
ミリュウ・ゼノン=リヴァイアという名前が、彼女の現在の名前だ。
食堂の窓硝子に反射する自分の姿を見て、彼女は渋い顔になった。真っ赤な染めた髪は相変わらず派手に自己主張していて、同じく主張の激しい胸や尻を包み込む寝間着と厚手の羽織り物も、彼女好みの赤色だ。目の虹彩は青。赤と正反対の虹彩だけが、おとなしいといわれるくらい、彼女はすべてが派手だった。
言動からして派手そのもので、それ故、彼女を嫌悪するものは少なくなかった。が、彼女への嫌悪感を言外に出すことは、この国での立場を失いかねないことでもあるため、彼女が表だって非難されることは基本的にはなかった。彼女に対して鋭い言葉を叩きつけられるのは、身内くらいのものだ。そして、だからこそ、彼女はこの国に身を置いていられるのだと想っている。
他人の評価などどうでもいいが、思い人が自分のせいで立場を失うようなことは考えられない。といって、そのひとの側を離れることもできないのだから困りものだ。ましてや、感情を抑えることなど、できるわけがない。
想いは、いつだって胸の奥から溢れるばかりにある。
食堂は、明るい。夜明け前にあってもなお勢力を誇っていた暗黒の闇は、連鎖的に点灯した魔晶灯の冷ややかな光によって吹き飛ばされ、ほとんど消え失せてしまっていた。あるのは、卓や椅子、調度品の下に生まれる影くらいのものであり、その明るさが彼女の姿を窓硝子に映し出しているのだ。
ミリュウは、窓際の席に腰を下ろしている。窓からは、隊舎の庭が見えるのだが、この時間帯、だれがいるわけでもない。昼間ならば訓練中のだれかがいるかもしれないが。
目の前の卓上には、茶葉と熱湯の注がれた茶器と茶碗が置いてある。茶碗も茶器も白塗りの陶器であり、紅い花柄が可愛らしく、彼女のお気に入りだった。茶碗に注がれた紅い茶は白い湯気を立ち上らせ、濃密な甘さを鼻孔に運んでくれる。その香りを堪能するだけで多少心が落ち着くような気がしたものの、それはきっと気のせいにすぎず、彼女は、肩を落とした。
嘆息が、聞こえたのかもしれない。
「どうかされましたか?」
厨房から、ゲインが顔を覗かせた。
「なんでもないわよ」
ミリュウがぶっきらぼうに言い返すと、彼は、手拭きで手を揉むようにしながら食堂に入ってきた。仕込みを終えたのか、あるいは途中で投げ出したままなのか。おそらくは後者だろう。ゲインは、ひとがいい。
「とてもそんな風には聞こえませんでしたが」
「そう? 気にしすぎじゃない?」
「気にしすぎるくらいでちょうどいいと想いますがね、わたしは」
「あたしのことなんて気にしたって、しょうがないでしょう」
ミリュウが冷ややかに突き放しても、彼は食い下がってくるのだから、困りものだ。
「いやいや、それこそ思い違いですな。ミリュウさんは、隊になくてはならない方。体調や精神状態の善し悪しについては、常に目を光らせておくべし、と」
「センセから?」
「はい」
あっさりと白状するゲインの笑顔に彼女もつられて笑ってしまった。
「まったく……センセってば、心配性なんだから」
センセというのは、先生を彼女なりに砕けた言い方をしているだけのことで、《獅子の尾》専属医師マリア=スコールのことを示している。それもまたミリュウなりの愛情表現といっていいのだが、伝わっているのか、どうか。彼女の感情表現というのは、中々まっすぐに伝わらないことが多い。
「マリア先生は、隊の命を預かる身ですから、それは心配もなさるでしょう」
「そりゃわかってるわよ。ありがたいことだって」
「……それで、なにか気がかりなことでもあるのですか?」
「聞くの? それ……」
「はい」
そういって、彼はミリュウの対面の席に腰を下ろした。
質朴そうな調理人は、ミリュウの相談に全力で乗るつもりらしい。
ミリュウは、結局、彼のおせっかい根性に負けた。
「なるほど……心の飢え、ですか」
ゲインが、得心したようにつぶやいた。穏やかなまなざしは、白み始めた窓の外よりも暖かく、ミリュウのような人間にさえ等しく優しい。それ故に彼女も多少なりとも心を開いてしまうのだろう。こうして相談している事自体、普通には考えられないことだ。
「そうなの。飢えているの。圧倒的に、飢えて飢えて仕方がないのよ」
「空腹でしたならわたしの手料理でいくらでも満たせますが、心の飢えとなりますと、わたしにはどうしようもございませんな」
彼は冗談めかして微笑んだ。
「ミリュウさんの心の飢えを満たすことができるのは、ただおひとり。セツナ様をおいてほかにはおられますまい」
「セツナ……」
ゲインが発した男の名を反芻するようにつぶやいたとき、ミリュウは、胸の奥が疼くような感覚を認めた。
セツナ。それが彼女の愛しいひとの名だ。セツナ=カミヤ。公的な場では、セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドという長たらしい名前を用いる。この国の英雄であり、《獅子の尾》の隊長でもある彼は、彼女にとっては上官に当たり、また家なき彼女の保護者といっても過言ではない。
そんな彼のことを思い浮かべるだけで、彼女の心は高鳴り、幸福感がわき上がる。ただそれだけのことで幸せになれるのだから、安上がりな女だと自分でも思う。
しかし、それだけでは満足できない貪欲さもあって、それこそがいま自分自身を苦しめているのだという事実に気づいてもいる。
「そうなのよね。その通りなのよ……でもさあ、最近のセツナってさ、なんかこう、近づき難いっていうかさ」
「ミリュウさんが……ですか?」
ゲインが信じられないとでもいうような顔をした。
「あたしだって、さ。いろいろ考えて行動してるのよ、こう見えてもさ」
「それは……わかっていますが、しかし、セツナ様とミリュウさんの仲でしたら、気を遣うことなどありましょうか」
「あるわよ」
と、口先を尖らせて言い返しつつ、ゲインの抱くセツナとミリュウの関係性を垣間見て、彼女は内心、喜びを隠せなかった。それはつまり、セツナが彼女に対して気を許しているという風に見えているということにほかならない。ミリュウ自身が実感として理解していることでもあるのだが、それが他人の発言によって証明されれば、狂喜乱舞もしよう。
とはいえ、だからこそ、飢えているという事実を認めなければならなくなり、彼女は頭を抱えた。
「どうしたらいいと思う?」
「……セツナ様といつも通り接するというのは」
「それが無理だから、困ってるんじゃない」
「それは……困りましたな」
ゲインが困惑しきるのも当然だった。ミリュウが普段、他人にどのように認識されているのかを考えれば、彼の気持ちもわかるだろう。
ミリュウ=リヴァイアという女は、常識知らずで規格外の人間として認知されている。特にセツナに関連することとなれば、ときに場を弁えず暴走することもあり、そのことで危険人物や要注意人物として、政府首脳陣や軍に目をつけられていたりもするくらいだ。ゲインこそ、《獅子の尾》の一員であることもあり、ミリュウのひととなりをある程度は知ってくれているものの、ミリュウを評判でしか知らない人間からしてみれば、そのようなことで苦悩するなど、考えられないことこの上ないだろう。
ミリュウ=リヴァイアは、いつだってセツナにべったりとくっつき、恥も外聞もあったものではないというのが、一般的な評価なのだ。
そんな人間が、まるで恋する乙女のような思考回路を見せるなど、ありうべきことではない。
だからこそ、彼女自身、ひどく混乱している。
まるで自分が自分ではないような不安定さの中で、苦しんでいる。
「……では、こういうのはいかがでしょうか」
「なになに、なにか名案でも浮かんだわけ?」
「ミリュウさんがいつも通りに接することができないのでしたら、いつもと違う方法を試みればいいのではないかと」
「たとえば?」
「セツナ様に贈り物をしてみる、とか……」
ミリュウの食いつき具合に恐怖を感じたのか、ゲインは、急に自信なさげな顔になった。しかし、ミリュウは、彼のその一言によって脳裏に閃くものがあり、その瞬間、目の前の霧が晴れるような感覚に包まれた。その興奮が怒濤のように押し寄せ、彼女を立ち上がらせる。
「贈り物! 贈り物ね……!」
「え、ええ、まあ……そういうのも、ひとつのきっかけにはなるのではないかと」
「ありがとう! ゲインさん!」
ミリュウは、椅子が転倒した音を聞きながら、ゲインの両手を取ってその場で飛び跳ねた。ゲインは、なにがなんだかわからないといった風ではあったが、ミリュウが解決策を見出したらしいことにはほっとしたようだった。
確かに、それは解決策となり得るかも知れない。
ミリュウは、天啓が降りてきたような感覚の中で、脳裏に浮かんだ計画にひとり興奮していた。
ただ、それは自分ひとりではできないことだ。菓子作りなどしたこともないミリュウの手では、贈り物に相応しい代物ができるはずもない。
「南果固菓……ですか?」
ゲインが不思議そうな顔をしたのは、ミリュウが思いついたことの一部を話したからに他ならない。
「うん。自分の手で作ることってできるかな?」
「うちの厨房には大抵の調理器具が取りそろえてありますから、もちろん、可能ですよ」
「やっぱり、専用の器具とかいるんだ……よかった、ゲインさんに相談して」
「しかし、南果固菓ですか……なにか、理由でもあるのでしょうか?」
「うん。おおありなの」
ミリュウは、ゲインの疑問に大きくうなずいた。彼に理解してもらうためには、ある程度詳しく説明しなければなるまい。
「セツナが異世界から来た人間ってことは、ゲインさんも知ってるわよね」
「はい。存じ上げていますとも」
ゲインの力強い言葉は、彼がセツナ好みの料理を作るため、セツナから様々な情報を仕入れているからこそのものだ。和食と呼ばれる種類の料理が隊舎で食べられるようになったのも、セツナから仕入れた情報を元にゲインが腕を振るい続けているからだった。
もっとも、セツナが異世界人であることは、公然の秘密といってよく、政府高官ならば知らないものはいないだろうし、噂程度には一般市民も耳にしていることだ。異世界人であるセツナがこの国で受け入れられているのは、彼がこのガンディアにとってなくてはならない人物だからであり、数多の戦場でだれよりも活躍してきたからだ。ひとは彼をガンディアの英雄と呼ぶ。
彼がもし、ただの人間でしかなければ、異世界の存在として忌避されるか、黙殺されただろう。
この世界のひとびとは、異世界の存在とある種の因縁がある。
「セツナの世界だとね、二月にはヴァレンタイン・デーって呼ばれる特別な日があるのよ」
「それは初耳ですな。ばれんたいん・でー、ですか。建国記念日のようなものでしょうか?」
「みたいなものよ。で、その日はね、女性が男性に好意を伝えるために贈り物をするっていう日なんだけど、その贈り物で一般的なのがチョコレート……つまり、この世界でいう南果固菓なのよ」
「ほほう……なんとも不思議な世界ですな。わざわざ好意を伝えるための一日が定められているとは」
ゲインの反応は想像通りではあったし、彼女も最初に彼の世界にそのような風習があると知ったときには奇妙に思ったものだ。
「もちろん、好意を伝えるのに決まった日があるわけじゃないのよ。一説に寄れば、商品を売るために仕組まれた製菓会社の陰謀だとか……」
「一気にきな臭い話になりましたが、それでいいんでしょうか」
「いいのいいの。そんなのはどうだっていい与太話なんだから」
ミリュウはゲインの疑問を適当にあしらって、話を進めた。実際問題、どうでもいい話ではある。
「本筋はね、セツナにあたしの想いを伝えるために、そのヴァレンタイン・デーをだしに使おうってだけなんだから」
ヴァレンタイン・デーなる日を利用しようと思いついたのは、いまが二月上旬だからであり、セツナの世界におけるヴァレンタイン・デーに近いからにほかならない。だったら二月十四日まで待てばいいのではないか、と、考えるのは、愚かなことだ。
二月十五日には、この王都ガンディオンを出発しなければならない。その前日ともなれば、セツナは多忙を極めること間違いなく、そんな状況下でヴァレンタイン・デーを再現しようものなら、彼女は飢えを満たすどころか、さらなる飢餓に陥ること間違いない境遇に追い込まれるだろう。
セツナに嫌われかねないということだ。
それに、一刻も早く飢えた心を満たしたいという想いもあった。
今日ならばまだ、セツナの迷惑にはならないという確信もある。逆をいえば、今日明日くらいしか許されないということでもあるが、さすがに三日四日もかかるものではあるまい。
そんな楽観的な想いとは裏腹の興奮が彼女を包み込んでいた。
想い人になにか贈り物をするという計画。
ただそれだけのことが彼女を否応なく昂揚させていた。
(なるほど……そういうことでございましたか)
彼女は、食堂でのミリュウとゲインの会話を聞き終えて、得心するとともに多少の安堵を覚えずにはいられなかった。
ここのところ、ミリュウの様子が不安定に見えて仕方がなく、ずっと気がかりだったのだ。といって、彼女がミリュウの調子を窺おうとしたところで邪険にされるか、嫌われるだけのことなので、触れようにも触れられないのだ。
こればかりは致し方のないことだ。
決してミリュウに嫌われている訳ではないものの、心を許し合うような間柄でもなかった。ましてや、互いに同じ人物に多大な好意を抱いているという事実もある。いうなれば恋敵であり、ときには、彼女の主を巡って徹底的なまでの口喧嘩が発生することだってあった。そのたびに被害に遭うのは彼女の主であり、ミリュウの想い人であるセツナだったりするのだが、それも結果論だ。
そしてそういうとき、主は、笑って許してくれる。
だからこそ愛おしさが募る一方なのだろうし、これだけ多数の女性に好意を寄せられもするのだろう。
彼女の主、セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドは、世間一般にはガンディアの英雄として知られているが、一方では、常に複数の美女を周囲に侍らせていることでも有名だった。
英雄、色を好む、という。
セツナが結婚もせず、複数の愛人を侍らせていることについて、悪くいわれることはほとんどなかった。たとえあったとしても、国のため、さっさと結婚しろ、結婚して欲しい、結婚して家庭を持ち、子を成し、一族郎党でもって国を支えるべきだ、という論調のものばかりだった。
この時代、彼女の主ほどの立場ともなれば、複数の妻を持つのはごく当たり前のことであり、愛人と見なされる女性全員を妻に迎え入れたとして、羨まれることはあっても非難されることはないだろう。
だからといって、主の愛を独占したいという想いを持ったところで、だれも責められはしないのもまた事実だ。
彼女だって、ときにはそう思うこともある。
ただ、いまこの場合は違った。
ミリュウの精神的な不調が、その企みによって解決するのであれば、なんとしてでも力になるべきなのが、彼女の立場だった。
「ばれんたいんでー? なにそれ」
ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリアが、いままで聞いたこともない単語に対し、極めて変な顔をしたのを目の当たりにして、彼女は、笑いを堪えるのに必死にならなければならなかった。
午前の仕事を終えたあとのことだ。だれもがとっくに目を覚まし、太陽も昼に向かって上り調子この上ない時間帯。真冬の寒さも忘れるほどの暖かさの中で、彼女は、ファリアがひとりになるのを見計らって声をかけたのだ。
ファリアは、セツナが周囲に侍らせる美女の筆頭といっていい。セツナとはもっとも長い付き合いの人物にして命の恩人であり、彼女たち“英雄の愛人”と一括りにされる女性陣にとってもある意味恩人といっても過言ではない存在だった。命の恩人だということはつまり、ファリアがいなければ、セツナは命を落としていたということにほかならないのだ。彼女たちがこうしてセツナとの日常を謳歌できるのも、ファリアの存在があればこそであり、だからこそ、彼女は真っ先に話を持ちかけたのだ。
怜悧が服を着て歩いているという評判もうなずけるくらいには、知性的な女性だ。青みがかった髪は肩まで伸ばされ、緑柱玉を思わせる虹彩の美しさは、女性が見てもはっとするほどだ。鍛え上げられた肢体は女性的な丸みを帯び、胸元は豊かに盛り上がっている。そこを見るたび思うのは自分の胸の貧相さだが、それは、いい。
胸の大きさに貴賤はない、というのが、彼女の主の考えであり、それが嘘などではないことは、主がどのような女性に対しても平等に接していることからもわかっている。なので、彼女が自分の胸の貧相さに悩むことは、あまり、ない。
「ミリュウ様の計画でございまして」
「ミリュウの? ろくでもないことじゃあないでしょうね」
「それが……」
彼女がファリアをミリュウの計画に巻き込もうと思い至ったのは、それこそ、セツナのためになり、ミリュウのためにもなると考えたからだ。
「ばれんたいんでーだあ? なんだそりゃ」
シーラが素っ頓狂な声を上げたのは、昼過ぎ、隊舎の庭での出来事だった。
昼食を終え、太陽が中天よりわずかに動き始めた頃合い、彼女は、ようやくシーラ率いる黒獣隊が隊舎に戻ってきたのを見て、内心、小躍りした。黒獣隊とは、領伯近衛。つまり、エンジュールおよび龍府の領伯であるセツナの親衛隊であり、セツナが公務に赴くときには大抵付き従った。
今日も今日とてセツナの出仕に従事しており、彼女は、シーラたちの隊舎への帰還をいまかいまかと待ちわびなければならなかった。主たるセツナの帰宅も大事だったし、セツナ第一の従僕たる彼女にしてみれば、セツナの世話を最優先にしなければならなかったが、今日は、セツナの世話をしながら内心気が気ではなかったりした。そのことをセツナに見抜かれたときには、主の愛情の深さに思わず感動したものの、ミリュウの計画をセツナに漏らすようなことはなかった。
ミリュウも、セツナにだけは知られたくあるまい。
飽くまで、セツナに驚きと喜びを与えたいと考えているに違いないのだ。
だから、セツナには決していわないだろう人物にのみ、そっと耳打ちするように伝えて回っている。
黒獣隊長のシーラもまた、見目麗しい女性だ。彼女の場合、女傑といったほうがいいのかもしれないが、一目見れば心奪われるような美女であることに間違いはない。真っ白な頭髪が極めて特徴的で、鋭いまなざしと鍛え抜かれた鋼の肉体、ファリア、ミリュウに勝るとも劣らない豊満な胸の持ち主だ。黒獣隊の隊服は、彼女の肢体をより引き締まったものに見せていて、そのために豊かな胸が強調されているのかもしれない。
「実は、ミリュウ様の計画でございまして……」
「ミリュウのやつ、またろくでもないこと企んでやがんのか?」
シーラが苦い顔をしたのは、これまで何度となくミリュウの計画に巻き込まれた経験があるからにほかならない。
「それが……でございますね」
彼女は、そんなシーラに対し、満面の笑みを浮かべた。
つぎに彼女が声をかけたのは、彼女と立場としてはまったく同じ人物だ。
「どうしました? レム」
黒獣隊の隊服に袖を通した美女は、彼女が話しかけるなり、小首を傾げた。そのちょっとした仕草ひとつとっても完璧なのではないか、というような美しさを誇るのが、彼女だ。名をウルクという。灰色の頭髪は腰当たりまであり、彼女の美しさを引き立てている。顔の作りは、絶世の美女といっても過言ではないくらい、あらゆる部位が整っている。ひとつ難点を挙げるとすれば、その目だけだ。ウルクの両目は、人間のそれとは大きく異なっていた。
ウルクは、人間ではない。
故にこそ完璧な美しさを作り込むことができたといってよく、彼女の美貌は、いわば作られた代物なのだ。しかし、だからといって、鼻につくような美しさではなく、むしろ、男も女も老いも若きも引き込まれるような、永遠の美がそこにはあった。
人間とは異なる淡く光を発する両目も、彼女の美貌を引き立たせるひとつの要素になっている。
そんな人外の存在である彼女が黒獣隊の隊服を身につけているのは、単純に、ほかに自分の立場に見合う服がないという理由だった。ウルクは、その本来の立場を明示するわけにはいかない境遇にあったからだ。
そして彼女がウルクに話を持ちかけたのは、無論、ウルクもまた、セツナをなくてはならないと認める存在だからだ。
「ミリュウ様のことで、お話があります」
「ミリュウ? ミリュウがなにか問題を起こしたのですか?」
「いえいえ、そういうわけではなくてですね」
彼女は、だれかれなく問題児の如く想われているミリュウのことを多少不憫に感じながら、話を進めた。
「あんたたち、なにかようなの?」
ミリュウが憤然とするのも無理のないことだ。
彼女がなにやら悪戦苦闘する中、彼女たちが一斉に厨房に足を踏み入れたのだ。《獅子の尾》専属調理人ゲイン=リジュールの聖域たる厨房に入り込むのは、本来、彼女たちであっても御法度であり、いつもならば怒られるところだったが、ゲインもミリュウの計画に付き合っているという後ろめたさがあったのだろう。バツの悪そうな顔しただけで、なにもいってはこなかった。
厨房内はとてつもなく甘い香りが漂っていて、ミリュウがゲインに教わりながら南果固菓を作っている最中だったことが窺い知れる。調理台の上には、そのための調理器具や材料の数々が散乱している。
「ばれんたいんでーのことは、レムに聞いたわ」
「おうよ、俺たちも協力するぜ?」
「協力させて頂きます」
ファリア、シーラ、ウルクの三人が三者三様に告げると、ミリュウは、明らかに不機嫌になった。調理師の真似事のような格好のまま、三人を睨み付ける。ゲインが狼狽を隠せない様子でおろおろしているのが、少々可哀想だった。
「はあ? 協力なんて頼んでないんだけど?」
「そう仰らないでくださいまし。なにもミリュウ様の邪魔をしようというのではございませぬ故」
などと彼女が口を開けば、ミリュウは矛先をこちらに向けてきた。ずいと、近寄ってくるなり、豊かな胸を突きつけてくるかのように背を逸らす。
「レム、あんたも余計なことばっかりしてくれちゃって。本当、どうしてくれようかしら」
「そういうわりには、嬉しそうじゃない?」
「なにいってんのよ! 嬉しくなんてないわよ! まったく!」
「まあまあ、ミリュウ様。御主人様のことを想う気持ちは、わたくしたちも一緒でございます。ここはひとつ、皆様で協力し合い、より良い一品を作り上げ、御主人様を大いに驚かせましょう」
「なにいってんだか。あたしの気持ちがあんたたちに負けるわけないでしょ?」
ミリュウが勝ち誇ったように告げれば、シーラが受けて立つ。
「はっ、いってくれるぜ。俺の気持ちこそが一番だってとこ、見せてやらあ!」
「わたしだって、負ける気はないわ」
「セツナのためならば、負けません」
ウルクまでも俄然やる気を出す中、当惑するのは彼女だ。彼女にしてみれば、ミリュウと協力することこそ、主のためになると踏んでのことだったのだが、なぜか、全員が全員、だれにも負けまいと息巻いてしまっている。これでは、協力など不可能なのではないか。
「……どうしてこういつも、勝負になってしまうのでしょうか?」
「レムさんがけしかけるからではないかと」
ゲインがなにか多くのものを諦めるかのような口調で告げてきた。
「わたくし、そんなつもりは毛頭ないのでございますが……ああ、もちろん。御主人様への愛でわたくしが負けることは到底ありえないことでございますよ?」
彼女――レムが自信満々に告げると、ゲインは、困り果てたような顔をしたのだった。
そして、そこから地獄のようなゲイン先生の料理教室が始まった。
セツナは、その日も、朝から王宮に呼ばれ、様々な仕事に追われた。王立親衛隊《獅子の尾》隊長としての職務は、いつものように副長と隊長補佐に任せたが、領伯として、あるいはガンディアの英雄としての役回りは、彼にしかできないことであり、故に彼はここのところ、様々な物事に追われるように時間を過ごしている。毎日の鍛錬が疎かになりかけるほどの忙しさは、ガンディアを取り巻く情勢の大きな変化のせいであり、ほかのだれのせいでもあるまい。
とはいえ、多少気疲れを覚えるのも仕方なく、彼は、隊舎に戻るなり、皆への挨拶もそこそこに昼食を取ると、そのまま自室に向かった。そして、自室の扉を閉めると、上着を脱いで机の上に放り出し、それ以外はそのままで寝台の上に身を投げ出した。敷き布団の弾力が体を受け止め、そのまま抱きしめてくれるようだった。
すると、頭上から呆れ果てたような声が聞こえてくる。
「なんじゃ、もう寝るのか? まだ夜ではないぞ」
「疲れたから横になるだけだよ」
「じゃったら、マリアに診てもらえばよいのじゃ。マリアならば、おぬしの仮病かそうではないか、見破れようぞ」
「仮病ってなんだよ」
彼は、笑うしかなかった。疲労に仮病もなにもないだろう。しかし、ラグナのいいたいことがわからないわけではない。ラグナには、セツナが昼間から寝台に倒れ込まなければならないほど体を酷使したとは想いがたいのだ。それはそうだろう。ラグナには、ひとの気持ちなどわかるわけがない。
仰向けに転がれば、後頭部を足場にしていたラグナが転げ落ち、慌てて飛膜をばたつかせるのが気配と物音でわかった。そして、天井の木目だけを捉えていた彼の視界に小さな飛竜の姿が入り込んでくる。
それが、ラグナだ。
翡翠のように美しい緑色の鱗に覆われた体は、ひとの頭に乗っても重くないほどに小さく、軽い。蛇のような鰐のような頭部に長い首、一対の飛膜に一対の足、長い尾を持つが、全体として丸みを帯び、実に愛嬌のある生き物だった。
名をラグナシア=エルム・ドラースという。なにやら仰々しい名前だが、その可愛らしいと評判の姿には似つかわしくないということで、ラグナの愛称で呼ばれていた。本人もそれでいいと考えているようだ。
そんなラグナの愛嬌に満ちた、宝石のような目がこちらを睨んでくるのを雑にあしらうように手を振ると、小飛竜は邪険にされたことに憤ったのか、大きく迂回してセツナの耳元に降り立つなり、耳たぶに噛みついてきた。もっとも、ラグナに噛みつかれたところで、甘噛みされているようなもので、痛みを感じることはほとんどなかった。牙が生えていないわけではないのだが、噛み方が悪いのだろう。
「くすぐったいよ、ラグナ」
「なんじゃと……!」
セツナが笑えば、ラグナはむきになって噛みつき攻撃をしてくるのだが、やはり痛くはなく、むしろこそばゆいのだから困りものだ。仕方なく耳元に手を伸ばし、ラグナを両手ですくい上げる。そのまま両手で包み込むようにすれば、小飛竜は手の中で飛膜を広げて威嚇してきた。しかし、セツナが人差し指で彼の首筋を撫でると、途端に表情を緩めた。
「そう怒るなって。たまにはこうやって昼寝するのも悪くはないさ」
「むう……」
「俺だって、疲れることもあるんだよ」
「わかっておる」
セツナは、彼の口上を聞きながら、自分の胸の上に小飛竜を置いた。すると、ラグナは顔だけはこちらに向けて、胸の上で丸くなる。彼も一緒に昼寝をするというのだろう。人語を解する万物の霊長は、その偉大さを忘れさせるほどに愛嬌に満ちた存在だった。
だから、セツナもラグナに気を許し、こうして自分の素顔を晒せるに違いない。
そんなことを想いつつ、彼は、冬の昼間のまどろみの中で瞼を閉じた。
どれくらい眠っていたのだろう。
気がつくと、窓の外が赤く染まっていた。夕刻。壁に掛けた丸時計を見遣れば、針は四時を指し示している。二時間ほどは眠っていたらしい。小さな寝息に視線を向ければ、小飛竜が眠りについている。
彼は、ラグナを起こさないよう、両手で慎重にその緑色の小さな体を包み込み、上体を起こした。枕元に小飛竜を移し、それでも眠ったままの彼に、セツナはなんともいえない愛らしさを覚えた。
竜属といえば、この世界における万物の霊長であり、絶対的な存在といっても過言ではない。その竜属の中でも、ラグナは、極めて強大な力を持つはずなのだが、どういうわけかセツナの下僕弐号を名乗り、そのことにむしろ誇りを持っているかのように振る舞っていた。故に、彼の存在は周囲にも受け入れられているのだろうが。
ラグナを無理に起こす必要もないため、ひとり寝台から降り立ったセツナは、大きく伸びをして、あくびをした。そのとき、不自然なことに気づいた。部屋の扉がわずかに開き、廊下が覗いていたのだ。部屋に入ったときにはしっかりと閉じたはずの扉がだ。小飛竜を見遣る。暢気に眠る彼が扉を開けたとは考えにくい。
では、隊舎にいるほかのだれかが開けて、そのままにしていったとしか考えられない。
部外者の線はない。隊舎は現在、厳重に警備されていて、隊と無関係の人間が立ち入ることはできなかった。つまり、内部の人間の犯行ということだが、心当たりは三人、あげられる。
一人目の容疑者は、レムだ。下僕壱号を名乗る、セツナ第一の従僕である彼女は、その立場上、セツナの部屋に勝手に出入りすることも少なくなかったし、セツナ自身、それを許可していた。黒髪赤目の可憐な少女然とした人物で、ほとんど常にといっていいくらいの状況で黒と白の女給服を身につけている。それも、それがセツナの趣味だと言いふらすものだから、勘違いされることも多々あるのが困りものだった。
二人目の容疑者は、ミリュウだ。彼女も、セツナの部屋を勝手に出入りした。ときには、夜中、眠れないという理由でセツナの部屋を訪れ、布団の中に潜り込んでくることもある。そういう状況をレムが見つけた場合は、彼女までもが布団に潜入してくるものだから、朝になると暑苦しくてたまらないときがある。
三人目の容疑者は、ウルクだ。人間ではなく、感情や機微といったものをあまり理解できない彼女は、セツナの命令こそ一も二もなく聞き入れてくれるものの、セツナの部屋そのものには突如として突撃してきたりする困りものだった。ウルクの親とでもいうべきミドガルド=ウェハラムは、セツナを心配しての行動故、笑って許して欲しいといわれる始末。セツナも、ウルクの暴走には諦める以外にはなさそうだった。
ファリアとシーラは、そのようなことはしない。シーラは、ミリュウやレムに焚きつけられて暴走することこそあっても、部屋に忍び込むような真似はしないのだ。
つまり、先に挙げた三人の容疑者のいずれかが、セツナの部屋に忍び込み、セツナが眠っているのを確認するなり、出て行ったという可能性がもっとも高かった。
(さて……犯人はだれだ?)
まず、扉の外の様子を窺ったが、窓の外から差し込む赤光と通路の照明器具の光の中、人影は見当たらなかった。おそらく、犯人がセツナの部屋を物色したのは、彼が覚醒直前のことではないのだろう。
扉を閉じ、室内に意識を戻す。室内になにかしらの手がかりが残されている可能性があるかもしれないと視線を巡らせたそのときだった。セツナは、部屋の片隅に配置した机の上に
封筒が置いてあることに気づいた。それが侵入者が残した手がかりだろうと察すると、彼はすぐさま机に歩み寄り、封筒を手に取った。
なんの変哲もない、この異世界で多用される封筒の表には、大陸共通語でこう記されていた。
(先輩へ……?)
意味が理解できるもののよくわからい記述に、セツナは多少の混乱を覚えながら封筒を開け、中を覗いてみた。中には手紙が入っていて、手紙には同じく大陸共通語で、群臣街東公園で待っている、という旨が記されている。ただ、差出人がだれなのか、なんの目的なのかはわからない。字の綺麗さは、判断基準にはならなかった。ミリュウは上流階級の出身であり、レムもウルクも相応の教育を受けているからだ。
(ってかまず先輩ってなんだよ)
セツナは、差出人がなにをとち狂ったのかと心配になりながら上着を羽織ると、手紙を上着の内側の衣嚢に収めた。寝台を振り返る。小飛竜はぐっすりと眠っている。わざわざ彼を起こす必要はないだろうとそっと部屋を出た彼は、その足で群臣街東公園へと向かった。
手紙の差出人がだれであれ、その目的がなんであれ、セツナを呼び出している以上、向かう以外の選択肢はない。
群臣街は、現在四重の同心円を描く大都市となった王都ガンディアにおいて、中心円から二番目の円周に位置する区画だ。その名の通り、ガンディア王家の家臣や軍人ばかりが住んでいる居住区であり、《獅子の尾》隊舎もこの群臣街にあった。
東公園まで歩いて行くのは少々遠い。なので、彼は、隊舎の建物を出るなり、呪文を唱えた。
「武装召喚」
呪文の末尾を唱えた瞬間、セツナの全身がまばゆい光を発した。夕日の燃えるような赤い光さえもはねのけるかのような強烈な閃光とともに、彼の上半身を重圧が包み込む。光の中から具現したそれは黒い軽鎧の召喚武装メイルオブドーターであり、セツナは、召喚に応じたその鎧に命じて、闇色の翅を出現させた。蝶の翅にもよく似たそれは、鱗粉を振りまくように闇を拡散させながら、セツナの体を重力から解き放つ。地を蹴った瞬間には急加速でもって彼の体は空高く浮かび上がり、夕焼けに染まる群臣街の町並みを眼下に、高速移動をしていく。
やがてセツナが手紙に指定された群臣街東公園に辿り着き、降り立つと、公園で遊んでいた子供たちが一斉に集まってきた。セツナは、この国一番の有名人といってもいい。
「セツナさまだ!」
「せつなさま!」
「そらもとべるの!?」
「すごーい」
セツナの周りではしゃぐ子供たちの相手をしてやることそのものにはやぶさかではないのだが、しかし、彼にはそんなことをしている場合ではないのだ。子供の親たちが慌てて駆け寄ってくると、子供たちをセツナから必死に引き離し、必死になってセツナに謝ってきた。親にしてみれば、セツナに迷惑をかけるなど、子供であっても許されることではないと考えるのは、当然のことだったが、セツナは軽く手を振って、気にする必要はないと伝えた。
それから公園内を見回す。
東公園は、群臣街の四方にある公園の中では比較的規模の大きい方であり、中心に聳える大樹が有名だった。その大樹の根元にひとり、公園の雰囲気とはまったくそぐわない人物が立っている。遠目にもわかるのは、黒を基調とした軍服を着込んでいるということであり、大樹の影の中でもその髪の長さと独特の灰色は目に付いた。
(ウルクか……でも、なんで?)
ウルクがだれの指示もなく勝手に行動するということは、基本的にはありえない。セツナの身が危機に瀕しているということがわかればその限りではないが、通常においては、彼女が自身の判断で行動を起こすことはなく、故に放置していてもなんら危惧する必要もなかった。セツナの部屋に飛び込んでくるときだって、セツナが悲鳴を発するなど、彼女の思考回路を刺激するような行動を起こしたときくらいのものだ。
それ故、セツナはウルクが大樹の前に超然と突っ立っていることに驚きを隠せなかったし、歩み寄りながらも、手紙の内容を思い出しては混乱した。
(先輩?)
ウルクがセツナのことを呼ぶときは、呼び捨てだ。セツナだけではない。親代わりのミドガルドさえ、彼女は呼び捨てにしていた。彼女には、敬称という概念が理解できないのだろう、と判断していたのだが、しかし、先輩と手紙には書いていた。
(またレムかミリュウがよからぬことを吹き込みやがったな)
それ以外には考えられず、セツナは頭を抱えかけた。こういうとき、ウルクになにかしら吹き込むのはレムかミリュウ以外には考えられない。そして、吹き込まれたことを疑うことなく実行するのがウルクなのだ。純粋無垢というべきなのかどうか。
ともかく、セツナは、あとで彼女に良からぬことを吹き込んだ張本人には説教しなければならないと想いつつ、大樹の元へ向かった。
「先輩、早かったですね」
ウルクは、セツナが近づくなり、声をかけてきた。黒獣隊の隊服を身につけた美女は、いつものように無表情でこちらを見つめている。
「ウルク……先輩ってどういうことだ? それになんでここに呼び出したんだ?」
セツナは質問をしたが、ウルクは背後に回していた手を表に出してくるなり、その手に持った小箱を押しつけてきたのだ。
「これを受け取ってください」
「これは……?」
「ばれんたいんでーのちょこれーとです。義理ではありません。本命です」
「は?」
セツナは、彼女がなにをいっているのか即座に理解することもできず、茫然としたまま、小箱を受け取った。というよりは、押しつけられた、といったほうが正しいだろう。
「それでは、わたしはこれにて隊舎に戻ります」
「ちょっ、おい、なにいって、おい!」
凄まじい脚力でもって一足飛びに公園から姿を消したウルクに向かって手を伸ばしたまま、セツナは、途方に暮れた。
(ばれんたいんでーのちょこれーとで義理じゃなくて本命……だと)
ウルクのその言葉で、すべての謎が解けて、彼は軽く頭痛を覚えた。
要するに、彼の生まれ育った世界、国におけるバレンタインデーを再現しようというのが、今回の騒動のきっかけなのだろう。騒動というほど大きなものではないが、ウルクを巻き込んでいる時点で、ほかの何人もが巻き込まれていることは想像するまでもない。
騒動の発端がだれなのかは、考えるまでもなかった。
ミリュウは、セツナの記憶を一度すべて見ている。そして彼女の記憶力は、一度見たセツナの記憶を何度だって蘇らせることが可能なのだ。だから、一度見ただけでは覚えていないような記憶の細部まで覚えているのだろうし、バレンタインデーのような風習についても思い出せるのだろう。
(なんでまた……)
セツナは、ミリュウがなぜいまになってバレンタインデーを再現しようと考えたのか、理解できずにいた。今日は二月九日で、時期的には近い。バレンタインデーである二月十四日に行うのは、セツナのみならず、国そのものに迷惑をかけかねないから、日程をずらしたのだろう、ということはわかる。その点では、ミリュウを評価してもいいだろう。彼女は、必ずしも我が儘で自分勝手ではないのだ。
しかし、なぜ、バレンタインデーなのか。
それもなぜ、いまさらなのか。
去年ではいけなかったのか。
(去年のいまごろは……そうか。クルセルクか)
昨年、つまり大陸暦五百二年の二月は、クルセルク戦争の最終盤であり、バレンタインデーなどに現を抜かしている状況ではなかった。
そう考えると、今年、突如として思い立ったとしても不思議ではないのだろうが。
(でもなんで先輩なんだ)
ミリュウがウルクにそう吹き込んだのは間違いない。そしてなぜ、ミリュウがそのようなことを吹き込んだのかは、彼女がいったバレンタインデーとチョコレート、義理と本命という言葉に手がかりがあるのだろう。ミリュウがセツナの記憶から抜き取りだしたバレンタインデーの情報があまりに不正確かつセツナの主観的なものであり、完璧に再現しようとすればするほど奇妙なものにならざるをえないのだ。
ウルクは、バレンタインデーにおける告白の状況のひとつを吹き込まれ、それを実行したに過ぎまい。感情表現の希薄なウルクでは、状況をどのように凝ったところで、無機的かつ無感動なものにならざるを得ない。
セツナは、茫然としたまま、彼女に押しつけられるように手渡された小箱を見下ろした。綺麗に包装されているところを見ると、ウルクの努力の跡が窺い知れる。小箱の中には、チョコレートが入っているのだろうが、中身の確認はせず、隊舎に戻るべく翅を広げた。
もしかすると、ウルク以外にも巻き込まれたものがいて、それぞれ、なにかしら吹き込まれているのではでないか。
そんな悪い予感がセツナを急がせた。
隊舎は、厳重な警備の中にある。
国を揺るがしかねない事件が起きて以来、《獅子の尾》の隊舎の警備は、さながら王族の住居に対するものにも負けないくらい重厚かつ厳戒なものとなり、昼夜関係なく警備に当たる兵士たちは、まるで《獅子の尾》の一員のような感覚さえ抱くほどに常連になっていた。そんな兵士たちの頭上を飛び越えて敷地内に降り立ち、正面玄関に入ると、靴箱の様子がおかしいことに気づく。
セツナ専用の靴箱が微妙に開けられたままだったのだ。セツナが隊舎を出る際、しっかりと閉めたはずなので、記憶違いでない限り、セツナが出て行った隙にだれかが靴箱を触ったということだ。しかし、だとしても、なんの意味があるのか。
(まさかな……)
不意に脳裏を過ぎった嫌な予感は、彼が靴箱を開けた瞬間、的中したことがわかった。靴箱の暗闇の中に封筒と小包が置いてあったのだ。封筒をまず手に取れば、表に「先輩へ」と達筆で記されていることがわかる。
(またかよ!)
大声でつっこみたくなるのを踏み止まりつつ、封筒を開け、手紙に目を通す。
(先輩への想いを込めて作りました。気に入らないならゴミ箱にでも捨ててください……だから先輩ってだれだよ)
そして、小包を手に取ったとき、異様な圧力を首筋に感じ取り、右後方を振り返ると、
「きゃっ」
などと甲高くも奇怪な声を上げながら、廊下の角に姿を隠す黒髪の少女の姿が残像となってセツナの視界に映った。
「せ、先輩と目が合っちゃった……!」
「おい、レム……」
わけのわからないことを宣いながら廊下を走り去っていった少女の後ろ姿に手を伸ばすも、彼の声は虚しく空を切っただけだった。あのふりふりの女給服を身につけた十代前半の少女の後ろ姿は、だれがどう見てもレムのそれであり、セツナは、彼女がノリノリで女学生を演じていることに気づき、愕然とした。
これもまた、ミリュウにありもしない幻想を吹き込まれて、彼女なりに解釈した結果の行動だろう。普段から乗りがよく、あらゆる冗談や軽口にも全力投球するのがレムだ。ミリュウから話を聞いたときには、自分の出番が来たと興奮したのではないか。
靴を脱ぎ、上靴に履き替えてから、両手の小包に視線を落とす。ウルクに続きレムからも受け取ったのは、バレンタインデーのチョコレートらしい。この異世界においてはそんな日は存在しもしないし、この異世界に召喚されておよそ一年半、考えたこともなかった。
ここは異世界。セツナの生まれ育った世界とは似て非なる世界なのだ。バレンタインデーやクリスマスといった、あの世界ではほとんど常識のように行われている行事のほとんどすべてが存在せず、故に考えることもない。まさか、ここにきてバレンタインデーに翻弄されるなど想像できるはずもなかった。
(今度はだれだ?)
ミリュウか、それとも、ほかのだれかか。ミリュウの起こす騒ぎに巻き込まれるとすれば、ほかに考えられるのはシーラくらいだが、もしかするとファリアやマリア、エミルまで巻き込まれる可能性もなくはない。
気を引き締めて廊下を歩いている最中のことだった。広間の扉が開くなり、シーラが声をかけてきた。
「よ、よお、いま帰りか?」
挙動不審なまでのよそよそしさで話しかけてきた彼女は、格好までも普段とは違っていた。黒獣隊の黒い隊服ではなく、赤を基調とするガンディア方面軍の軍服という、彼女にはあまりにも似つかわしくない格好だった。
「いや、帰ってきたところだけど……」
「奇遇だな、俺も帰りなんだ」
「今度はなにを吹き込まれた?」
セツナは即座につっこんだが、シーラは黙殺した。そして、後ろ手に持ったなにかを差し出してくる。
「こ、これ……」
「ああ?」
セツナは、シーラが両手を小刻みに震わせながら、あまつさえ顔を赤らめて差し出してきた小包を見て、返す言葉もなかった。
「あ、いや、別に今日がばれんたいんでーだからとか、そういうんじゃねえからな! た、ただ作りすぎただけなんだからな!」
彼女は、セツナに小包を押しつけてくると、廊下の奥に向かって駆けていく。
「か、勘違いするなよな!」
(なんというか、典型的だな……)
廊下の途中、階段を昇って姿を消したシーラのいかにもな口上に、セツナは、ただただ唖然とするしかなかった。それもこれも、ミリュウが原因に違いない。ミリュウ以外、あのようなことを吹き込む人間はいないのだ。レムがそれを面白がるということはあっても、レムに考えつくようなことではない。
(後輩ふたりに続いては、いじっぱりな同級生……っていう設定か)
どこでそんな設定を思いついたのかといえば、やはり、ミリュウがセツナの記憶から再構築した情報を元に、だろう。それ以外にはない。
暗澹たる気分で廊下を歩き、広間に入れば、今度は礼服に身を包んだファリアが待ち受けていた。《獅子の尾》の隊服でもなければ普段着でもなく、礼服を着込み、なおかつ髪型を整えた彼女の様子は、普段よりも妙に色気がある。長椅子から立ち上がった彼女の眼鏡越しのまなざしが放つ色香には、セツナもたじろがざるを得ず、彼女の接近を許した。
「セツナ君、生徒の君に渡すのもどうかと想うのだけれど」
ファリアが胸に抱きしめていた小包を、気恥ずかしそうに見せつけてくる。その仕草のひとつひとつが可憐で、セツナはなんともいえない気持ちになった。
「これ……受け取ってもらえるかしら」
「え、ええと……」
「皆には内緒よ?」
そういって片目を瞑って見せるファリアの姿は、妖艶さと可憐さを併せ持ち、セツナは、彼女が広間から去って行く後ろ姿を眺め続けた。
そして、だれもいなくなった広間で、受け取った小包を見下ろし、またしても茫然とする。
(教師……か、あれは)
ファリアもまた、ミリュウに余計なことを吹き込まれ、彼女の演出通りに行動したのだろうが。
それにしても、ミリュウにせよ、ファリアたちにせよ、どういう了見なのだろうか。自分たちがいったいなにをしているのか、理解できているのだろうか。
(チョコレートを手渡すのに必要な儀式……だなんて、想っちゃいないだろうな?)
ミリュウは、確かにセツナの記憶を見ている。それも、生まれたときから彼女と出逢った直後までの記憶を隅から隅まで見ているらしい。この世界とは似て非なる異世界の有り様を見、驚きながらも受け入れた彼女が、どういうわけかバレンタインデーを再現しようとしたということは、わかる。しかし、そのバレンタインデーに関する情報がいかにも偏見に満ちているように思えるのは、どういうことなのか。
(俺が偏見に満ちているってことか?)
そんな結論に落ち着くという事実に頭を抱えた彼は、おそらく最後の刺客たるミリュウの登場を覚悟しつつ、自室に向かった。
自室に入れば、未だ眠り続ける小飛竜の平和さに癒やされつつ、またしても机の上に手紙が置いてあることに気づく。
机の上の手紙には、屋上で待っています、とだけ記されていた。差出人は不明だが、またウルクということはあるまい。
(ミリュウだな)
マリアという線もないではなかったが、ミリュウのことだ。マリアを巻き込みはしないだろうし、マリアとて、巻き込まれはしないだろう。非戦闘員である彼女は、《獅子の尾》においてある意味最強といっても過言ではなかった。
セツナは、机の上にこれまで手渡されたりしてきた小包を置くと、すぐさま隊舎の屋上に向かった。
階段を駆け上り、屋上への扉を開けると、目映いばかりの夕日が視界を赤く灼くかのように飛び込んできた。思わず腕で目を庇いつつ、屋上に出る。すると、夕日を背景に佇むひとりの女性の姿があった。こちらに背を向け、鉄柵に体を預けるようにして黄昏れている様子の女性は、その真っ赤に燃えるような髪を見れば、だれであるか一目瞭然だった。
ミリュウだ。
「ミリュウ……これはいったいなんの真似だ?」
セツナは、後ろ手に扉を閉めながら、ミリュウに歩み寄った。逆光線の中、彼女がこちらを振り返る。夕日の赤光が、一瞬、彼女の顔を照らし、その物憂げな表情をセツナの網膜に焼き付ける。彼女がなぜそのような表情をしているのかなど、察しようもない。
「セツナ君。来てくれたんだね」
「……おまえまでそれかよ」
それ、というのは、彼女もなにかしら演じているという意味だ。ミリュウは通常、セツナを呼び捨てにする。君付けなど、したこともなかった。物憂げな表情も演技だったということだ。
「正直、来てくれないかと想ってた……」
「あのな――」
「これ、あたしの気持ち!」
セツナの台詞は、ミリュウの強い口調によって遮られた。彼女が差し出してきたのは、小包だ。やはり、チョコレートが入っているのだろう。
「受け取ってくれる……かな?」
「いや、まあ、受け取るけど、さ」
セツナが仕方なく応じると、ミリュウは小包を手にしたまま、駆け寄ってきた。
「受け取ってくれるのね……! ありがとう! 嬉しいよう!」
そして、その勢いでセツナに抱きついてくる。その時点で彼女が普段のミリュウに戻っているのだが、彼女は気づいている様子もない。セツナの胸に顔を埋め、嬉しそうな笑顔を浮かべる彼女は、普段通りのミリュウといっていい。
「なんなんだよ……いったい」
セツナは、堰を切ったように甘えだしてきた彼女に対し、なにかをいう気力さえ失い、しばらくそのまま立ち尽くした。
怒る気も失せた。というよりは、そもそも怒る必要もないことだ、ということに気がついたというべきか。彼女はただ、バレンタインデーを再現することで、セツナに懐かしい空気を味わって欲しかっただけなのだろう。だからこそ、このような手の込んだことを仕組み、皆を巻き添えにしたに違いない。
などとセツナは結論づけたのだが、あとで聞いた話によると、どうやら事実は違うようだった。
どうも、レムのせいで話が大きくなったらしく、ミリュウは元々、自分ひとりでやり遂げるつもりだったらしい。しかし、レムがファリアたちを巻き込んでくれたおかげで、セツナもバレンタインデーを満喫できたのだから、なにも問題はない――というミリュウの結論には、セツナも首を捻るしかなかったが、ミリュウが満足ならそれでいい、とも想った。
要するにそれが、自分なのだ。
周囲のひとたちが幸福ならば、それでいい。それだけで十分だ。それ以上に望むものなどありはしない。
ちなみに、ミリュウたちの手作りチョコレートは、セツナひとりでは食べきれず、ラグナと分け合って食べ尽くした。
甘さ控えめのものから舌が蕩けそうなほどに甘いものまで、様々な種類のチョコレートは、彼女たちの特徴が現れているといっていいのだろう。そしてそれらを腹一杯になるまで食べまくった挙句、まんまると膨れ上がった小飛竜のお腹を見て、セツナは、苦笑するほかなかった。いくらなんでも食い意地が張りすぎだが、それで幸福そうにしているのだから、なにもいうことはない。
ともかくも、セツナの異世界における初めてのバレンタインデーはそのようにして幕を閉じた。