異世界クリスマス
十二月二十五日。
レムは、おそらくはだれもが身を震わせるような冬の朝の寒さの中を足取りも軽く、むしろ舞い踊るようにして、自身の主の寝室に飛び込んだ。鍵のかかっていない部屋の中、主は当然のように不在であり、豪奢な寝台の上には雑に扱われた掛け布団と毛布が寝台という大地の上の小さな丘のように盛り上がり、その上に置かれた折り畳まれた寝間着は、さながら丘の上の湖のようだ。
水玉模様の厚手の寝間着は、彼女の主が好意を寄せる女性からの贈り物であり、そういった贈り物の類は、なにもその寝間着だけに留まらない。普段着から礼服に至るまで、ほとんどすべてが女性たちが選んだものであり、贈り物が多いのだ。身につけるものに頓着のない彼女の主は、それのおかげで色々と助かっているといっても過言ではない。もし、彼の主がみずから衣服を選ぶような機会があるとすれば、壊滅的な美的才能を披露してくれること疑いない。そのくせ、女性たちへの贈り物だけはそつがないのだから、人誑し女誑しの面目躍如というべきか。
そして、だからこそ、主の周囲には彼に恋い焦がれる女性が集まるのだろうし、そのために騒々しくも賑やかな毎日を送ることができているのだから、不満のひとつもない。むしろ、この退屈のしない毎日を生み出す根源たる主には感謝してもしきれないくらいだった。
そんな日々を心置きなく過ごせるようになったのは、この年の春先のことだ。この一年は、レムの人生にとって激動の連続であり、彼女は、自分というものを見つめ直すことになった。ただ流れるままに過ぎていくだけの暗澹たる日々が突如として終わりを告げたのだ。希望など見当たらない暗闇の中から光差す庭に迷い込んだような感覚が、時折、彼女の心を震わせる。
それが、生きている、ということなのではないか。
(なにを考えているのでしょうね)
レムは、苦笑とともに思索を打ち切ると、寝台に意識を戻した。
彼女が、主が不在の寝室に飛び込んだのは、それが彼女の仕事だからだ。ガンディア最大級の都市にしてザルワーンの古都龍府を預かる領伯に相応しい豪奢な部屋は、しかし、主の戦闘以外への無頓着ぶりを示すように生活感というものが薄かった。主の境遇、立場を考えれば致し方のないこととはいえ、レムたちがいなければ、主の日常生活は色彩も薄ければ起伏も少ないものになっていたのではないか、と思わざるを得ない。
レムは、寝台の大地に聳える小高い丘の上の寝間着に手を伸ばし、その丘がわずかに動いていることに気づいた。だれかが、掛け布団の中で丸くなっている。そしてそれがだれなのかは思考を巡らせるまでもない。
「ミリュウ様、なにをなさっておられるのですか?」
問い、しばらく待っても反応はなかった。
仕方なく寝間着を手に取り、ついでの掛け布団を捲り上げると、掛け布団の影から寝ぼけ眼がこちらを見ていた。影に隠れていてもわかるくらいに真っ赤な髪を寝癖でくしゃくしゃにしたままなのは、顔つきそのままに寝ぼけた状態でこの寝台に潜り込み、そのまま二度寝したからに違いない。焦点の合っていない瞳は、どこか悪戯な猫を想起させる。女だ。それも並外れた美女であり、レムの主を取り巻く女性のひとりだった。
名をミリュウ=リヴァイアという。
ミリュウはあくびを漏らしながら、口を開く。
「なんでわかっちゃったのかしらねー……」
「御主人様の寝床に忍び込もうという痴れ者など、わたくしかミリュウ様くらいでございます故」
レムは、当然のように暴言を吐くが、寝ぼけ眼のミリュウは怒りもしない。それは寝ぼけているからではなく、自他共に認めることだからに違いなかった。
「そうなのよね-。ファリアもシーラも、どういうわけか、セツナの寝込みを襲うこともしないのよ」
「それが正常でございます」
「失礼ね。まるでそれじゃあたしたちが異常者みたいじゃない」
「その通りでは?」
「嘘でしょ……?」
「えーと……」
ミリュウが真剣に驚いている表情を目の当たりにして、レムは困惑を隠せなかった。
ミリュウは、のそのそと布団の中から抜け出し、大きく伸びをした。それで明らかになるのは、彼女の姿態の見事さだ。あざやかなまでに真っ赤な頭髪に合わせたのだろう深紅の寝間着は厚手だが、彼女の体つきをはっきりと認識させる。特に胸の出っ張りは、思わず鷲掴みしたくなる衝動に駆られる。
「レムってば、さっきからなにしようとしてるわけ……?」
ミリュウに問われて、レムは、自分が無意識のうちに両手を彼女の胸に向かって伸ばしかけていることに気づいた。豊かな胸への憧憬や羨望がにじみ出ている。しかし、彼女は手を引っ込めるどころか、むしろ空気を掴むような仕草をしながら、冗談めかしく告げる。
「ミリュウ様の胸を揉みしだかさせて頂こうかと思いまして」
「なんでよ」
「そうすれば、わたくしの胸も大きくなるのではないかと」
「そういうもの?」
「わかりませんが、実際に試してみる価値は」
「ないわよ」
「ないですか。残念です」
仕方なく、といった体で両手を引っ込めると、ミリュウが寝台から滑るように抜け出した。
「まったく、くだらないことばっかりいって。おかげで目が覚めたわ。ありがと」
「はい、おはようございます」
「おふぁよう」
それでもなおあくびを漏らしつつ、ミリュウが問うてくる。
「で、セツナは?」
セツナとは、レムの主であり、ミリュウの上司にして、想い人のことだ。セツナ=カミヤが彼の名前だが、現在、この国においてはセツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドという長たらしい名で周知されている。
ゼノンは、ガンディアにおいて宮廷召喚師に与えられるものであり、現在、その名を持つ人間は極めて少ない。そもそもガンディアに所属する武装召喚師自体が少ないということのほうが大きいのだろうが、たとえ武装召喚師が多数ガンディアに所属していたとして、宮廷召喚師として取り立てられる人材がどれほどいるのか、考えるだけ無駄なことだ。だれもが叙任されるわけではない。
ラーズとは領伯。つまり、領地を与えられた高位の人物のことを指す。セツナの場合、エンジュールと龍府、ふたつの領地を持つため、そう称されるのだ。どうでもいいことだが、ディヴガルドとは、ガンディアがセツナのために勝手に作った龍府の別名だったりする。
わずか十八歳でふたつの領地を持つことになった少年セツナの物語は、ガンディアにおいては英雄譚として広く知られており、諸外国においてはガンディア躍進の象徴としてその雷名は轟いている。
「予定通り、朝早くから戦技隊、黒獣隊の皆様と龍府一周の旅に出向かれましたよ」
「旅って」
「この都は広大でございます故、一周するとなると、相当な時間がかかりますから」
「でも旅じゃあないじゃない」
ミリュウが立ったまま伸びをした。すると豊かな胸が強調されるものだから、より一層に目がいった。が、今度は手を伸ばすような真似はしなかった。意識したからだ。
「わたくしにとっては同じようなものでございます。一日千秋の想いで、御主人様のお帰りを待っているのですから」
「そんな想いするくらいなら一緒に行けば良かったんじゃないの?」
「それも考えましたが、わたくしの場合、そのような鍛錬はまったくの無意味でございますので。でしたらば、御主人様不在の天輪宮を御守りするほうが余程、御主人様のためになるのではないかと」
「なるほどねえ」
「ミリュウ様は?」
尋ねれば、ミリュウはきょとんとした。そんな質問が来るとは想定していなかったといわんばかりだ。
「あたし? あたしは、自分のことで手一杯だし。セツナとふたりきりならまだしも、皆と一緒なんてしんどくてやーよ」
「ふふふ、ミリュウ様らしいお考えでございますね」
ミリュウの思考というのは、実にわかりやすい。セツナを中心に考えていて、それ以外はほとんどどうでもいい、というのがミリュウのミリュウたる所以といってもいいくらいだ。セツナのこととなると目の色を変え、セツナと無関係のことにはまったくの関心を持たない。
そういう意味では、自分も似たところがあるのではないか、と思ったりもしないではないが、レムは彼女ほど極端ではない。セツナ以外の、セツナを取り巻くひとびととの関係性も重要だったし、そういったひとびととの触れ合いもまた、彼女の乾ききった心を潤してくれていた。
「ところでレムちゃん」
「はい……?」
その瞬間、ミリュウが思わず身構えたのは、ミリュウらしからぬ呼び方だったからだ。
「今日、暇?」
「ですから、御主人様不在の天輪宮を御守りするという重要な役割がございまして」
「さて、ここで問題です。龍宮衛侍が結成されたのはなんのためでしょう」
「天輪宮の警護のため……でございますが」
「大正解! そんなレムちゃんには、特別賞として、あたしの助手に任命してあげる!」
「はい……?」
レムは、なにからなにまでわけのわからないことをいわれて、茫然とした。ミリュウは、満面の笑みを浮かべて、こちらを見ている。その笑顔のあまりの眩しさには、むしろ違和感しか覚えないのは、彼女がレムに対してそのような笑顔を見せることなどありえないからだ。
「助手……でございますか?」
「そうよ、助手!」
「いったい、なにをなさるおつもりなのでしょう?」
レムは、ミリュウとの間の距離があまりに短いことに気づき、はっとした。事と次第によっては、ミリュウの魔の手を逃れるために全力を発揮しなければならなくなるかもしれない。ミリュウは、外見からはわからないが、凄腕の武装召喚師なのだ。鍛え抜かれた肉体は鋼のようであり、幾多の戦いを経て研ぎ澄まされた感覚は、その身体能力を最大限に引き出すことも可能とする。
「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれましたね、助手壱号ちゃん」
「壱号……」
「今日、十二月二十五日は、いったいなんの日か、知っているかしら?」
「なんの日……」
ミリュウの質問の意図が読めず、レムは頭を捻らせた。十二月二十五日など、彼女からしてみれば年末の一日に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもなく、故に彼女はいつものように主の部屋を綺麗に整え、天輪宮の清掃に取りかかろうとしていたのだ。
この年末になにかしらの行事を行うという話もなかったし、それが十二月二十五日であるという話もなかった。もちろん、セツナの領伯としての公務や仕事に関しては、従者たる彼女よりも、龍府の司政官ダンエッジ=ビューネルのほうが詳しく、記憶違いがあるかもしれないが、だとすれば、セツナたちが以前から計画していた龍府一周走なる一日がかりの訓練に許可が降りるはずもない。
つまり、この十二月二十五日に特別な出来事などはないのだ。
レムは、降参するほかなかった。
「はてさて、いったい、なんなのでございましょう……?」
「助手壱号ちゃんには難しすぎたかしらねー」
なにやら楽しそうにほくそ笑むミリュウの反応を見ていると、無性に嫌な予感がしてならなかった。こういうとき、ミリュウはなにかを企み、その結果、大騒動に巻き込まれることは、この半年で大いに学習したのだ。かといって、その騒動の渦中に取り込まれてしまった以上、もはや抜け出すことは出来ない。
ミリュウの両手が、がっしりとレムの細い肩を掴んでいたのだ。
紅い髪の美女は、さきほどまでの寝ぼけ眼など忘れ去ったようにきらきらと両目を輝かせ、告げてきた。
「十二月二十五日! そう、クリスマスよ!」
「はい……?」
レムは、聞き慣れない言葉にただ首を傾げるしかなかった。
龍府は、古都として知られる。
ガンディア王国ザルワーン方面における最大にして最古の都市、とはよくいわれることだが、実際、ザルワーンはガンディア王国領内でも長い歴史を誇る都市に違いない。かつては五竜氏族と呼ばれるザルワーンの特権階級によって支配されていた都市は、いまやガンディア王国の統治下に置かれてはいるものの、古都としての景観に変化はなかった。
それも当然だ。
領伯として龍府の統治を任されたセツナは、ザルワーン人が大半を占める龍府市民の心を掴むべく、龍府の景観に一切の手を加えず、保護し、維持することを約束したのだ。それに対し、保守的かつ古都龍府の景観こそ自分たちの命のように想っていた龍府市民は拍手喝采の反応を見せている。領伯就任の第一印象は良好である、という趣旨の新聞記事が出回ったのも、印象に残っている。
セツナにしても、龍府の美しくも趣のある景観を傷つけるようなことはしたくなかった。そもそもが龍府にそのような必要性が見当たらない以上、そんな発言をする必要さえなかったのだが、龍府のひとびととの間により良い関係性を構築するため、演説を行ったに過ぎない。それも周囲の人間からの入れ知恵であり、彼独自の考えではなかった。
領伯という役割は、セツナ自身、自分には荷の重すぎるものだと想っていた。だからといって返上することなどできるわけもなく、国王直々に任命された以上は、なんとしてでもやり遂げなくてはならなかった。失敗してはならない。ならば、周囲の智慧を借りるほかない。
セツナは自分が頭のいい人間だと思ったことはなかったし、だからこそ、必要とあらば周囲の人間の知恵を借りることに躊躇はなかった。
そのおかげもあって、セツナと龍府市民との関係は良好であり、領伯として上手くやれているのだ。
この龍府一周走という名の強化訓練中も、セツナは度々市民から声援を受けたし、それに手を振って応えたりした。
龍府一周走。
それは、龍府を囲う分厚い城壁の壁際を走り続けて一周するというものであり、体力および持久力のさらなる向上を図る目的の訓練だ。
発案者は、領伯近衛・黒獣隊の隊士であるクロナ=スウェンとミーシャ=カーレルの二名。ふたりは、黒獣隊をガンディア最強の戦闘部隊にすることこそ、セツナへの恩返しであると考えている、といい、そのために終わりの見えない鍛錬の日々を送っている。龍府一周走は、その一環として発案し、それを伝え聞いたセツナは、彼女たち黒獣隊だけでなく、シドニア戦技隊の面々も巻き込み、セツナ配下の戦闘部隊の全体的な底上げのための合同訓練という位置づけとした。
それには、身体能力の向上以外にも、もうひとつ大きな狙いがあったのだ。
黒獣隊長シーラをはじめとして女性のみの部隊である黒獣隊と、“剣魔”と呼ばれるほどの剣の達人エスク=ソーマを隊長とするシドニア戦技隊は、セツナ配下の二大部隊なのだが、両者の関係というのは良好とはいえず、特に隊長同士は犬猿の仲といっていいほどの間柄だった。
今後のことを考えれば、両者の関係が悪いままというのは決して喜ばしいものではないし、少しでも改善できるならばそれに越したことはない。セツナは、そう考え、黒獣隊だけの訓練だったそれを合同訓練へと練り直し、両隊に命じた。
当然、両隊の隊長同士は、それぞれに嫌がったものの、主君の命令ということで聞き入れるほかなく、渋々といった様子で、合同訓練に参加することが決まった。主君の命令に背きたければ、主従の契りを破り捨てる以外にはない。そして、そのようなことができるほど、シーラもエスクも恩知らずではなかったし、子供でもなかった。
ふたりとも、自分の立場を鑑み、周囲への影響を考えることのできる大人なのだ。
もし仮にどちらかが合同訓練が嫌だからという理由でセツナの命令に背き、主従の契りを破るようなことがあれば、その部下たちまで路頭に迷うことになる。そんな身勝手をふたりができるわけがない。
散々、自分の身勝手で部下たちを振り回してきた隊長たちなのだ。
部下たちを巻き込んでまで、自分の感情に従うことはできない。
そうして龍府の城壁周辺を巻き込んだ合同訓練が行われたこの日、天候に恵まれ、終始快晴だった。
早朝、朝食を終えた面々は、龍府の中心たる天輪宮を馬車に乗って出発地点である南門へと至っている。
合同訓練・龍府一周走に参加したのは、当初の予定通り、セツナと黒獣隊、シドニア戦技隊の面々だけだ。セツナ配下の合同訓練ということで龍宮衛侍の隊長リュウイ=リバイエンも参加を熱望したが、天輪宮の警護が手薄になることを理由に許さなかった。なにより、龍宮衛侍は発足したばかりということもあり、天輪宮の警備にすら慣れていないということがあった。
黒獣隊は、シーラを始め、女性のみで構成される少数精鋭の部隊だ。クロナ=スウェン、ミーシャ=カーレル、アンナ=ミード、リザ=ミード、ウェリス=クイードの合計六名からなる。元々がシーラの王女時代の侍女団であり、そのために息の合った戦い方を見せており、増員させるかどうかについてはシーラに一任している。
一方のシドニア戦技隊は、シーラと犬猿の仲であるところの“剣魔”エスク=ソーマを隊長とする、むさ苦しい男ばかりの集団だ。副隊長のレミル=フォークレイが紅一点であり、一服の清涼剤のような役割を果たしてくれている。弓の名手ドーリン=ノーグら、だれもかれも一癖も二癖もありそうな男ばかりなのは、シドニア傭兵団という名の知れた傭兵集団の生き残りによって構成されているというのも大きい。いずれも歴戦の猛者ばかりであり、実際、頼りになった。
シドニア戦技隊は、黒獣隊に比べれば大所帯であり、筋骨隆々の大男ばかりということもあって、出発地点に辿り着くと、人目についた。
龍府の領伯とその配下の二部隊が一堂に会しているということそのものが、龍府市民の目には驚きを以て受け止められたに違いない。
ザルワーン時代、龍府を始めとするザルワーンのすべての都市は、五竜氏族と呼ばれる特権階級によって支配されていた。支配階級ともいえる五竜氏族のひとびとというのは、貴族であり、王族であり、一般市民とは明らかに異なる立場にあったのだ。そしてそれがザルワーンにとっては当たり前であり、五竜氏族の支配に疑念を持つことすら、ザルワーン国民にはできなかった。
そんな常識を打ち破ったのがセツナの所属するガンディアなのだが、そのことはいい。
ともかく、平然と人前に姿を現し、部下とともに訓練に励むセツナの姿は、龍府の人々の目には新鮮に映っただろうし、奇異にも見えたに違いなかった。
早朝、南門を出発したセツナ一行は、逆時計回りに龍府を駆け巡った。
所々に用意された休憩所で水分を補給し、疲れが溜まったのならば休み、また走り出す。太陽が中天に至り、滲んだ空を染め上げたならば、手配していた昼食を平らげ、しばしの休息を取った。龍府は、広い。
通常、城壁の内側を駆け抜けるような経路では、一日で一周することなど不可能だ。しかし、そこは事前調査のおかげもあり、休みつつも一日で走破できる走路を作り上げている。その走路上にいくつもの給水地点が用意されており、それらは龍府のひとびとが率先して協力してくれていた。
給水地点に辿り着くたび、名も知らぬ一般市民から声援を受け、その都度、セツナは笑顔になったし、気力も沸き上がった。
とはいえ、西の空が真っ赤に染まるころには、もはや走り続けるだけの体力も残っておらず、早歩きにさえなっていなかったが。
それも当たり前のことだ。仲間同士煽り煽られ合った結果、体力の配分も考えず走り続けたのだ。体力を無意味に消耗し、いまや底を尽きかけている。全身汗だくで、肌に服が張り付いて気持ちが悪かった。かといって、ここで足を止めては終着点に辿り着けないまま一日が終わることになる。それはできない。
「ひとの子というのは、よくわからぬのう」
不意に頭上から聞こえてきた声にセツナは憮然とした。
「なにがだ?」
「いたずらに体力を消耗して、なにが楽しいのやら」
「楽しくはないが……必要なことだ」
息継ぎをしながらの返答になったのも、消耗のせいだ。
「それもわからぬ」
「何度もいってんだろ。人間ってのは、常日頃鍛錬していないと、あっという間に衰えるんだよ」
「か弱い生き物じゃのう」
哀れむでもなく事実を告げてきたのは、人間ならざる存在であるところの竜だった。手乗り飛竜と呼称されるほどに小さな竜は、しかし、その小ささからは想像もできないほどの力を持っている。名をラグナといい、セツナたちにとっていまや大切な仲間の一員だった。いま、ラグナはセツナの頭の上で寛いでいる。この合同訓練中、ずっとそうだった。
万物の霊長にして生まれながらの強者である竜には、訓練など必要ないのだ。
故にこそ、セツナたちが常日頃訓練に汗を流す様を見ては、首を傾げるのだが、そろそろ人間のか弱さを理解してほしいものだと思わざるを得ない。とはいえ、竜属には竜属の価値観があり、人間のそれとは相容れない以上、簡単に分かち合えることではないのだろうが。
「にしたって、少々無謀すぎやしませんかねえ」
「ん?」
見れば、エスク=ソーマが長い黒髪を風に靡かせながら早足に近づいてきていた。苦言を呈する彼の表情は疲労困憊といった様子だ。さすがの“剣魔”も、体力が底を尽きかけているようだ。戦技隊の隊士たちも皆、エスクと同意見に見える。
「いくらなんでも、一日で龍府を一周するっていうのは……さすがに」
「こればかりは、同感だな……」
と、嫌そうな顔でシーラがいった。本来ならば真っ白な長い髪は、夕日を浴びて燃えるように輝いていた。彼女もまた消耗しすぎていて、もはや走ることなどできないといわんばかりだった。彼女の部下である黒獣隊の隊士たちも同様だ。
「文句があるなら、発案者にでもいってくれよ」
「ええ!? そんな!?」
「それは酷くありませんかね!? あたしたちは、提案をしただけなんですが!?」
ミーシャ=カーレルとクロナ=スウェンが大袈裟なまでの反応を見せたのは、この訓練が終わったあと、参加者の怒りの矛先が自分たちに向くことを恐れてのものに違いない。
「まあ……企画を練り直したのは俺だが」
「だったらそりゃ責任転嫁って奴ですぜ、大将」
「その通りだな」
苦笑とともに認めつつ、前を進む。
日が傾き、街路に立ち並ぶ魔晶灯が点灯し始めるも、走路沿いにはセツナたちの合同訓練を見守るひとびとが少なからず存在していた。それら龍府市民の声援は、セツナの失われた体力をわずかにも回復させるかのようであり、底力を発揮させる。
「とはいえ、南門まで後少しだ。そこまで辿り着けば、あとは馬車で天輪宮に戻れるぞ。さあ、最後の力を振り絞れ。限界の先にこそ、未来はある!」
「そんなこといわれても、だれも賛同しませんぜ」
「まあ、やるしかないんだがな」
セツナの激励に心底呆れたような隊長たちの声が続くが、彼は聞き流した。
やがて、日が落ちた頃、セツナたちは龍府の南門に辿り着いた。そのころにはだれもかれも精根尽き果て、龍府一周走を完遂したことを喜ぶ声はまったく上がらなかった。だれもがその場にへたり込み、用意されていた水を手渡されると、浴びるように飲み干し、さらにおかわりを求めるものが後を絶たなかった。皆、龍府を一周するべく、全力を尽くしたのだ。その結果、明日以降の素晴らしい筋肉痛の日々が待ち受けていることは、セツナも承知の上だ。
だが、それでもこの無謀な訓練を成し遂げられたということには、セツナ自身、強い手応えを感じずにはいられなかった。
鍛錬というものは、ラグナにもいったように毎日続けるものであり、怠るようなことはない。それは、セツナ配下の黒獣隊、シドニア戦技隊も全員そうだった。強くなるため、あるいは力を維持するためには、日々の鍛錬を怠ることなどできないのだ。だが、それでも、これほどまでに体力を使い果たすことなど、中々あることではなかった。日頃の鍛錬というのは計画的に行うものであり、精根尽き果てるような鍛錬を毎日行うのはむしろ非効率なのだ。
その非効率的な合同訓練は、体力の限界を超えるためであり、また、黒獣隊と戦技隊、両隊の関係を少しでも良化するためだったが、そのいずれもが達成されたことは、両隊の様子を見る限り間違いなかった。
両隊は、このような合同訓練を実施したセツナへの悪態を吐くことに関して完全に同調していて、そのことが両隊の溝を少しは埋めたようだった。どれだけ仲が悪くとも、共通の敵を持てば協力せざるを得ず、その結果、歩み寄るものだ。
セツナは、敢えて両隊に厳しい訓練を指示し、それによって自身への敵意を集めたのだ。そうすることで両隊の関係が良化するのであれば、一時的に敵となることもやぶさかではなかった。
もちろん、完全に無意味ならばただ敵意を稼ぐことになり、憎悪さえ芽生えさせることもあるだろうが、この合同訓練は決して無意味ではない。
「まあしかし、つぎからはもう少し緩めた方がいいな」
「またやるんですかい」
「当たり前だろ。これを日課に……」
「冗談だろ」
「冗談だよ」
セツナは笑いかけたが、シーラもエスクも笑うに笑えないといった反応だった。
呆れ果てたのかもしれない。
南門前でへたり込んでいたセツナたちは、待機していた馬車に分乗し、天輪宮に向かった。
天輪宮は、古都龍府の中心にして象徴ともいえる建物だ。
龍の名を冠する荘厳な五つの殿舎からなる宮殿であり、かつてザルワーンの政府が置かれていた場所でもあった。ガンディアがザルワーンを攻め滅ぼして以降は、ガンディアの所有物となり、都市の行政を取り仕切る司政官によって管理されていた。それをセツナが我が物顔で使うようになったのは、セツナが龍府の領伯に任命されたからにほかならない。
厳密には龍府のみならず、周囲一帯の広い範囲がセツナの領地となっている。エンジュールに続く二つ目の領地を持つということは、基本的に領土のほとんどを王家の所有としているガンディアにおいて、極めて珍しいことだった。
それはつまり、それだけガンディア政府がセツナを評価しているということであり、そのことそのものを周辺諸国に主張するためでもあるらしかった。
大陸小国家群の中でも特筆するべき弱小国家だったガンディアが、いまでは周辺諸国がこぞって友好関係を求めてくるくらいの躍進を果たしたのは、セツナのおかげである、といわんばかりに。
それは半ば事実であり、半ば誇張である、と彼は考えている。
なにもセツナひとりで成し遂げられたわけではないのだ。
そんなことを考えながら馬車に揺られていると、眠気が襲ってきた。体力を使い果たしたのだ。そんな状態で心地よい揺らぎの中に身を置けば、眠たくもなるだろう。とはいえ、汗だくの格好で眠るわけにもいかず、セツナはなんとか堪え、馬車が停まるのを待った。
そして、馬車が停まると、頭の上のラグナが大きく息を吐いた。
「ようやく帰ってこられたか。わしは疲れたぞ」
「なにもしてないだろ」
「応援しておったじゃろうが」
「……ときどきな。ほとんど寝てたじゃねえか」
「寝るのが仕事なのじゃ」
「そうかい」
などと言い合いながら馬車を降りると、先に別の馬車から降りてセツナたちを待っていたらしいエスクがこちらを見ていた。
「いつもの調子に戻るのは構いませんがね」
「ん?」
「ありゃあ、いったいなんだ?」
「なんだって天輪宮……って、あれ?」
セツナは、シーラの不可思議な疑問に答えようとして天輪宮に視線を向けたとき、違和感を覚えた。天輪宮は、堅牢な塀に囲われた宮殿だ。古都龍府の景観を損ねるような要素は一切なく、むしろ、古都の景観の基本となっているため、魔晶灯の数も天輪宮を夜闇の中に浮かび上がらせる程度に抑えられている。それは龍府全体にいえることではあるのだが、だとすればなおさら奇妙だった。
天輪宮がまばゆいばかりに輝いていたからだ。
複数台の馬車は、天輪宮の手前に停車し、その周囲に合同訓練の参加者が屯しているのだが、だれもが景観をぶちこわしかねないほどに輝く天輪宮の有り様に仰天していた。
「なんじゃなんじゃ?」
「ううん? どういうことだ?」
「行ってみるしかありませんぜ」
「そうだな」
嫌な予感に駆り立てられる中、エスクの言葉にうなずき、セツナは天輪宮に向かった。天輪宮の塀の四方に存在する門のうち、南門の前には当然のように門番が佇んでいる。天輪宮の警備を司る龍宮衛侍の隊士たちであり、彼らは、セツナたちと見るや深々と敬礼し、門を開いた。
そして、門内の様子が明らかになると、セツナはさらに驚かざるを得なかった。
天輪宮は、五つの殿舎からなる。中心に泰霊殿を抱き、四方に紫龍殿、玄龍殿、双龍殿、飛龍殿という四つの殿舎が建っている。南門から入れば、真っ先に視界に飛び込んでくるのは双龍殿の出入り口だが、その荘厳な門扉は、色鮮やかに飾り立てられていた。いや、門扉だけではない。よく見れば、門扉までの通路に並び立つ柱や、庭木の数々もすべて飾り付けられ、電飾よろしく無数の魔晶灯が輝いていた。それはさながらクリスマスツリーのようであり、その事実を認識した瞬間、セツナは、唖然とした。
クリスマスツリー以外のなにものでもない。
であれば、双龍殿の飾り付けも、クリスマスを意識したものだ。
ここは、異世界。
クリスマスなど存在しなければ、そんな風習があることを知っているものなどいようはずもない。
自分を含めた三人を除いては。
「なんだこりゃ」
「だれがいったい……」
「こんなことするの、ミリュウ以外いねえだろ」
「確かに……」
セツナが頭を抱えるように告げれば、だれもうなずくだけで否定の声を上げなかった。ミリュウが様々な騒動を起こしてきたことは、この場にいるだれもが知ることだ。行動をともにするようになって日の浅い戦技隊の面々さえ、ミリュウが混沌の化身であることを知っているくらいだ。彼女が問題を起こさず、健やかな一日を過ごせる日のほうが少ないのではないか。そんな気さえする。
「派手じゃな」
「ああ、まったく」
「しかし、楽しそうじゃ」
「それならよかった」
適当に相槌を打ちながら双龍殿の門を潜り抜けた瞬間だった。
複数の破裂音が鳴り響いたかと思うと、色とりどりの紙吹雪が視界を待った。聞き知った爆音は、クラッカーのそれであり、セツナは聞いた瞬間、己の耳を疑うほかなかった。この世界にクラッカーなど存在するはずもない。
「ハッピーメリークリスマース!」
そして聞こえてきたのは、幸福感に満ちたミリュウの声だ。憮然とする。
「なにがだよ」
「ええ!? 乗りが悪いわね!?」
「乗りもなにも、なに考えて――」
セツナは、ミリュウを問い詰めようとしたが、そのとき、彼女の格好を初めて認識して、絶句した。
「うふふ、どう? 似合う?」
などといいながら膝を曲げ、わずかに前傾姿勢になったミリュウはというと、真っ赤な衣装を身に纏っていた。赤いだけではなく、ところどころ白の織り交ぜたそれはまさしくサンタクロースの衣装を模したものだったし、先端に白い玉のついた帽子もサンタクロースのそれだった。ただし、女性的かつ過激に変化が加えられたものであり、豊かな胸の谷間を激しく主張し、露出も多く、太腿も露わだ。寒くないのか、といいたくなったが、室内の温度は、外とは比べものにならないくらいに暖かく、その点では問題なさそうだった。
それ以外は問題点ばかりとしかいいようがないが。
「いつの間にそんなものを用意したんだ……」
「どうどう? どうなのよ?」
ぐいぐいとその肉感的な肢体を主張してくるミリュウに対し、セツナは言葉に詰まった。ミリュウが魅力的な女性なのはいうまでもない。衣装よりも紅い髪の似合う美女であり、しかもセツナへの好意を隠そうともしない。それどころか常に主張してくるのだから、セツナとしても悪い気はしないのだ。
「うんうん、すんごいいい感じだと思うけど、いったいなんの衣装なんだ?」
「エスク?」
食い入るように見つめるエスクに対し、部下にして恋人のレミルが冷ややかなまなざしを向ける。が、エスクはまるで気にしている様子がない。
「サンタクロースよ! しかもミニスカ!」
「わけわかんないが、俺はいいと思う」
「エスク?」
「安心して、レミル。あなたの分も用意してあるから。もちろん、シーラたちのもね」
「はい?」
「なにいってんだあ!?」
その発言には、さすがのレミルもシーラも素っ頓狂な声を上げざるを得なかったようだが、ミリュウは完全に黙殺した。
「さあさあ、セツナも皆もさっさと汗を流してきなさいよ。汗臭いまま、クリスマスパーティーなんてできないでしょ!」
「あ、ああ……って、クリスマスパーティー?」
「料理も目一杯用意してるんだから、期待してていいわよ」
そういって片目を瞑ってきたミリュウは、控えめにいっても魅力的だった。
湯殿にて汗を流し、服を着替えたセツナたちは、龍宮衛侍に案内されるまま玄龍殿に向かった。案内役の龍宮衛侍も、天輪宮各所で警備中の龍宮衛侍もそうだが、普段とは異なる格好をしていた。サンタクロースを模したものもあれば、トナカイを模したもの、雪だるまのような衣装まで、派手で素っ頓狂ともいえるような格好の数々は、おそらくミリュウによって用意され、強引に着せられたものに違いない。でなければ、天輪宮の秩序の守護者たる龍宮衛侍そのものが狂ったとしか言い様がなくなるし、そんなことは考えたくもないことだった。
玄龍殿は天輪宮の北に位置する殿舎であり、広い舞踏場がある。五竜氏族統治時代、定期的に舞踏会が開催されていたといい、その広間をこのたびのクリスマスパーティー会場に活用したのだろうということは、案内されるうちに想像がついた。
ただ、ひとつだけ気がかりなことは、女性用の湯殿に向かったシーラたちの消息が知れないということだ。湯殿は、当然、男女別々に存在しており、天輪宮の構造上、かなり離れていた。つまり、湯殿を出てすぐさま合流するということはできなかったのだが、それ以上に派手な格好の案内人たちに気を取られ、シーラたちのことを考えている暇もないまま、玄龍殿の舞踏場前へと至っていた。
「シーラたちもこっちに向かってるんだよな?」
「もちろんです。くりすますぱーてぃーとやらは、今宵、天輪宮に集った皆様方で楽しむ催しのようですし」
トナカイの着ぐるみ崩れのような格好をした龍宮衛侍の男が、セツナの質問に答えた。直属の主君たる領伯に対する格好ではないという自覚があるのか、彼は気の毒なほど苦しそうな表情だった。セツナは、彼らのためにミリュウの企みに巻き込まれたことを労ると、奇抜な格好の男たちは、皆、ほっと胸を撫で下ろしたようだった。
セツナとて、ミリュウの企みに巻き込まれることの回避不可能ぶりは熟知しているつもりだったし、そのために龍宮衛侍を辞めたい、などと言い出されては困るのだ。発足したばかりの龍宮衛侍から脱退者が出るようでは、龍府の領伯としての評判が悪くなり、面目も立たなくなる。
玄龍殿の舞踏場は、その出入り口からしてきらびやかに飾り立てられていた。まさに現代日本のクリスマス前後によく見るような風景そのものであり、まさかそのような既視感をこの異世界で抱くものとは、想いも寄らず、彼は軽い目眩を覚えた。
「くりすますとやらは、なんとも派手な催しのようですな」
「風呂でいっただろ、龍府にもっとも合わないことだって」
「ですが、ミリュウ殿の格好は中々に素敵でしたぞ」
「そりゃあ、認めるが……」
セツナは、後ろをぞろぞろとついてくるシドニア戦技隊の面々が、やはり男の集団であることを思い知りながら肯定した。確かに、普段あまり見ることのないミニスカート姿のミリュウというのは、魅力的であり、しかも自分の企画に熱中している彼女ほど輝かしいものはないのだ。その相乗効果たるや、凄まじい威力でもって吹き荒れている。
舞踏場に足を踏み入れるなり、再び破裂音とともに紙吹雪が待った。
「クリスマスパーティー会場にようこそー!」
いうが早いか、臆面もなくセツナに抱きついてきたのは、もちろん、ミニスカサンタの格好をしたミリュウであり、セツナは、その豊かな胸を押しつけてくるかのような勢いに押され、危うく倒れるところだった。なんとか踏み止まったはいいものの、冷や汗をかく。ミリュウは、セツナの気持ちなど知るわけもなく、頬ずりしたあと、腕を組み、引っ張るようにして舞踏場の中を歩き始める。
「どう? どう? いい感じじゃない? いい感じにクリスマスパーティーを再現できてると想うんだけど」
ミリュウは、目を輝かせながら、舞踏場に視線を巡らせる。セツナもそれに倣って広間を見回せば、確かに彼女のいうとおりだということがわかった。確かに、よく再現できていた。完全無欠とはいえない。なぜならば、ここは異世界で、現代日本ではないからだ。文化が違えば技術力も違い、なにもかもが違うのだ。人間同士ですら、本当に同じ生き物なのかと疑問に感じずにはいられないほどだ。極めて酷似した別の生き物なのではないか。それくらい、この世界の人間というのは頑丈にできていたし、鍛え上げた戦士であるはずのミリュウの肉体があまりに柔らかいのも、そのためなのではないか。
それは常日頃の疑問であって、いまふと思い立ったことでは、ない。断じて。
ともかく、セツナは、舞踏場の中心に聳え立つ木にまず注目した。いわゆるクリスマスツリーを再現したのだろうそれは、天輪宮の庭木を運び込んだものではないようだ。いつどこでどうやって確保したのかはわからないが、針葉樹の幼木だった。そこに多種多様な飾り付けが施された上、庭木に見た電飾代わりの小型魔晶灯が無数に取り付けられ、クリスマスツリーと呼ぶに相応しい輝きを帯びている。しかし、よく見ると、クリスマスツリーらしからぬ飾り付けが目に止まった。
セツナは、逆にミリュウを引っ張るようにしてクリスマスツリーに近づくと、気になったそれを手に取ってみた。綺麗に切り取られた紙には、大陸共通語の文章が記されている。
「なんだこれ?」
「なにって、見ればわかるでしょ。短冊じゃない」
「短冊……?」
ミリュウが当然のようにいってくるので、セツナは混乱しかけた。短冊とは、あの短冊のことだろうか。
「クリスマスツリーに願い事を書いた短冊を吊すと、叶うのよ!」
「へえ、そりゃ面白い」
「短冊は大量に用意してあるから、暇なときにでも書いて吊してよね!」
ミリュウは、クリスマスツリーの近くに置かれた台を指し示し、告げた。その台の上には、確かに山のように積み上げられた短冊が見える。もちろん、筆もだ。まずエスクが駆け寄ると、その部下の男たちがよってたかって短冊に願い事を書き始めたものだから、セツナは頭を抱えたくなった。
「おいおい……短冊って」
「だから、短冊は短冊でしょ」
「七夕と混ざってる……」
「いいのよ、別に。ここはイルス・ヴァレよ。セツナの生まれ故郷じゃないの。これがこの世界に於けるクリスマスパーティーなのよ!」
などと力強く断言するミリュウの前には、セツナの意見などなんの力も持たない。それに彼女が知った上でわざとそうしているというのであれば、どうしようもなかった。彼女の言い分も、理解できなくはない。ここは、異世界。セツナの生まれ育った世界でも、現代日本でもないのだ。七夕とクリスマスがひとつになったとして、なんの問題があるのか。
クリスマスツリー以外にも様々な飾り付けが舞踏場全体に施されており、舞踏場に運び込まれた無数の椅子や卓もクリスマス一色に染まっていた。そのためにミリュウやレムたちが全力を尽くしたことは想像に難くなかった。電飾代わりの小型の魔晶灯の数々は、この日のためだけに買い集めたのだろうし、それ以外の様々な飾り付けも、ミリュウが暇を見つけては買い付けたり、作ったものらしかった。なにかと騒動を起こしたり、企画したりする彼女だが、それら企画に駆ける情熱というのは本物だったし、そのためならば時間も金も労力も惜しまないところは、見習ってもいいのかもしれない。
特に今回のような周囲に害のない企画ならばなおさらだ。
天輪宮の各所に飾られた魔晶灯は、まさにクリスマスのイルミネーションであり、魔晶灯独特の冷ややかな青白い輝きも、今宵は明るく見えた。
卓の上に並べられているのは、セツナが隊長を務める王立親衛隊《獅子の尾》専属料理人ゲイン=リジュールが腕によりをかけた料理の数々だ。それらはミリュウの情報を元にしたクリスマスパーティーに相応しいものが大半を占めた。要塞のよう巨大なケーキはむしろウエディングケーキといったほうが相応しいのではないかと思ったものの、それ以外の料理は、いずれもクリスマスに相応しいものだ。七面鳥の丸焼きのような鳥の丸焼きなど、まさにクリスマスの象徴ではないだろうか。
そして、女性陣だ。
ミリュウが前々から用意していたというサンタクロース風の衣装を身に纏った女性陣の姿は、セツナたち男性陣にとって眼福以外のなにものでもなかった。
「なんでわたしまでこんな格好をしなきゃいけないのかしら?」
ファリア・ベルファリア=アスラリアは、露出も控えめだが、体の曲線をしっかりと主張する分、むしろ恥ずかしいとでもいいたげな彼女の反応が愛おしさを増幅させた。青みがかった黒髪の彼女は、基本的に紅い衣装を好まないようだが、今回ばかりは特別なのだろう。
「まあまあ、クリスマスパーティーでございますし」
レムは、十三歳の少女という外見に相応しい可憐な衣装であり、やはり露出は控えめだった。そのほうがレムには合っているし、レム自身、気に入っているようだった。
「なんで俺らの分まであんだよ……ったく」
シーラと彼女率いる黒獣隊の面々も、それぞれの体格に合わせた衣装を与えられたらしく、シーラは特に胸元を主張する衣装であり、男性陣の目を釘付けにした。そのことがシーラには気に食わないのかもしれないが、普段男勝りな彼女が照れくさそうにする様は、そそるものがあった。
「これでセツナ様の寝込みを襲いましょうぜ、シーラ様」
「そうです、そうしましょう!」
「なにをいってるのよ……」
「恥ずかしい……」
「なんでわたくしまで……」
シーラの部下であるところのクロナ、ミーシャ、アンナ、リザ、ウェリスのうち、乗り気なのは、クロナとミーシャくらいのものであり、特にリザとウェリスは露出度の高い衣装に困惑しきっていた。
「はあ……逃げ場はどこですか」
レミルも終始恥ずかしそうにしていたが、その長身を引き立たせる衣装は、凜然としていて、美しいと感じさせた。エスクが持て囃すと、さらに彼女は顔を真っ赤にした。
「まあ、楽しそうでいいじゃないか」
と、自慢の胸を見せつけるようにして背を逸らしたのは、《獅子の尾》専属医師のマリア=スコールだ。彼女もまた、ミリュウが用意したサンタクロース風の衣装を身に纏っており、切れ目の入ったスカートから伸びる長い足の美しさは注目の的となり得た。
「わたしにはよくわかりませんが」
人造人間ともいうべき魔晶人形ウルクまでもがサンタクロース風衣装を身につけさせられていることには驚いたが、絶世の美女といっていい容姿を誇る彼女のことだ。どんな格好でも似合ったし、絵になった。その姿に一番歓喜しているのは、彼女の創造主であるミドガルド=ウェハラムであり、トナカイ風の衣装を身につけた彼は、無表情のウルクをただただ見つめ続けていた。まるで記憶にその姿を焼き付けようとでもいわんばかりに。写真機でもあれば、何十枚、いや、何百枚でも撮り続けたに違いない。
「わしにもわからん」
憮然とした様子でセツナの目の前に飛んできた小飛竜は、トナカイの格好をさせられていた。飛竜がトナカイの格好をするというのはおかしな話だが、実際にそうなっているのだから仕方がない。
「くりすますぱーてぃとやらは、毎日開催してもいいのではないでしょうか」
「大真面目になんてことをいうんだよ」
「いやだって、これはいいものですよ、大将」
「……悪くはないが」
セツナがエスクの意見に同意すると、シーラが噛みついてきた。
「どこがだよ!」
「そうよ、どこがいいのよ……」
「いや、すまん」
シーラに続き、ファリアにまでそういわれては、謝る以外にはない。女性陣に対し、セツナの立場というのは決して強いものではない。すると、レムが助け船を出してくる。
「わたくしは、毎日でも構いませんよ、御主人様」
「そうよねえ、レムちゃーん」
「ミリュウ様、さっそく酔っ払っています?」
「そうねえ、雰囲気に酔ってるかもお」
レムに抱きついたまま酔っ払いの戯れ言を宣うミリュウの様を見て、セツナは頭を抱えかけた。
「駄目だこいつ」
「駄目じゃないわよう。楽しくないの?」
「そんなことはないが……」
周囲を見回せば、だれもが食堂内の各所でこの雰囲気を楽しんでいるように見えた。セツナとその部下、配下だけがいるだけではない。天輪宮で働く役人や駐屯軍の軍人も呼び集められているようだった。その点、ミリュウはそつがない。司政官のダンエッジにも話を通しているに違いなかった。でなければ、いくらミリュウでも天輪宮を飾り立てるという暴挙には出られまい。
ダンエッジは、不承不承了承したのかもしれないが、結果としては、良い方向に向かっているのではないか。そう想えば、
(たまには……こういう日があってもいいか)
たまにならば、と、何度となく確認しながら、セツナは、しなだれかかってきたミリュウを受け止めた。ミニスカサンタ衣装の彼女は、いつも以上の過激さを振りまきながら、しかし、その目はセツナだけを見つめているようだった。紅い髪とは対照的な碧い瞳は、いつだってセツナを捉えている。
このクリスマスパーティーもセツナのために企画し、開催に漕ぎ着けたに違いない。その苦労たるや、セツナの想像に及ぶところではない。様々な障害を乗り越えたのだろうし、そのための努力を惜しまない彼女の熱意には頭の下がる思いだった。
そう思っていた矢先だ。
「ミリュウ様、そろそろ……」
「もうそんな時間!?」
「はい。早く致しませんと、間に合わなくなります」
「そ、そうね。早くしないとね!」
レムとミリュウが時計を確認し合い、席を立った。
「なんだ?」
「いったい、どうしたの?」
「セツナ、ラグナ、行くわよ!」
ミリュウは、こちらの質問には答えず、ただ強引にセツナを引っ張った。仕方なく立ち上がるも、疑問は消えない。
「どこにだよ?」
「こっちよ!」
「さあ、参りましょう、今宵のクリスマスパーティー、最終幕にございます」
「おまえはだれになにを説明してんだよ」
「うふふ」
乗り気なレムを見ていると嫌な予感しかしなかった。
「なんじゃなんじゃどうしたのじゃ」
ラグナはセツナの手の中でふらふらと立ち上がり、すぐさま寝そべった。ラグナは、果実酒ひと舐めで酔ってしまっていたのだ。皆が果実酒を始めとする酒類を呷るものだから、興味を持ったが最後、手のひら大の小飛竜にはきつすぎたのだろう。
そんな小飛竜とともにミリュウ、レムを追いかけていった先は、天輪宮の中庭だった。
やはり魔晶灯を始めとする様々な飾り付けが施された庭木が華やかに輝く中、ミリュウがなにやら呪文の詠唱を始める。それが古代語であり、武装召喚術の詠唱であることは、武装召喚術そのものに決して詳しいわけではないセツナにも一瞬で理解できた。この期に及んで武装召喚術を用いる理由は、想像もつかない。
武装召喚術とは、この世界とは異なる次元時空に存在する世界、いわゆる異世界から武器や防具、あるいはそれに類するなにかを召喚する技術のことであり、ミリュウは優秀な武装召喚師のひとりだった。
「だからいったいなんなんだよ?」
「まあまあ、御主人様。そう焦らずとも、良いではありませんか。今宵はクリスマスパーティー。なんでもありの夜にございます」
「いや、クリスマスはそういうもんじゃないが」
「はて?」
都合の悪いことは聞こえない振りをする下僕の身勝手さには、セツナも閉口せざるを得ない。ふらふらのラグナの頭や背中を撫でてやりながら、レムを睨む。すると、レムは思いだしたように口を開いた。
「そうそう、御主人様にはこれを着て頂きたく」
などと、彼女はどこから取り出したのか、赤と白の織り成す上着を手渡してくる。それは明らかにサンタクロース風衣装の一部であり、セツナは、受け取ったはいいものの嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
「武装召喚!」
やがて長たらしい呪文の詠唱を終えたミリュウが、結語の四字によって術式を完成させた。イルス・ヴァレと異世界の境界がこじ開けられ、こことはまったく異なる世界に存在するなにかがこの世界に呼び出される。爆発的な光が視界を白く塗り潰し、そのまばゆいばかりの白光の中をなにかが具現化していくのが感覚としてはっきりとわかる。この異物感は、武装召喚術に慣れ親しんだものならばだれもが理解できるはずだ。
セツナは、武装召喚術に詳しくこそないものの、武装召喚師であり、武装召喚術の使い手なのだ。故に強力な召喚武装が顕現したことがわかり、身構えた――のも束の間、光が薄れ、視界が正常化すると、彼はミリュウの目の前に出現した物体を目の当たりにして、その場にこけかけた。
「なんだよそれ!」
「どうしたのでございます?」
「そうよ、どしたの?」
「いやいやいやいや! なにを召喚するかと思えば、ソリってなんだよ!?」
セツナは自分でも素っ頓狂とわかるようなくらいに声を裏返しながら、告げた。実際、ミリュウの目の前に召喚されたそれは、ソリとしかいいようのないものだった。材質は不明だが、全体的に雪のように白く、わずかに光を帯びている。複雑な形状をした装飾の数々は、召喚武装の特徴というほかない。
召喚武装は、なにも武器防具に限らない。武装召喚術の始祖にして紅き魔人アズマリア=アルテマックスの召喚武装はゲートオブヴァーミリオンという名の門だったし、ほかにも多種多様な召喚武装が存在する。ソリ型の召喚武装が存在してもなんら不思議ではないのだ。
だからといって理解できるかといえば、まったく別の話だ。
もっとも、ミリュウは当然のようにいってくるのだが。
「なにって、ソリはソリよ? クリスマスといえば、ソリでしょ?」
「どういう思考回路してたらそんな考えに……って、ああ……そういうことか」
セツナは、ミリュウの考えが多少読めてきた気がした。クリスマスといえば、ツリーやパーティーだけではない。ミリュウやレム、それにラグナの格好を見て思いつかないほうがおかしいのだ。
サンタクロースだ。
ミリュウがソリ型召喚武装を呼び出したのは、サンタクロースらしいことをするために違いなかった。
「納得した?」
「それで、この衣装か」
「そういうことよん」
ミリュウは、セツナが理解したことがこの上なく嬉しいらしく、あざやかに片目を瞑ってきた。
「さあ、のってのって」
「少し楽しみでございますね」
「……まあ、そうだな」
セツナは、サンタクロースの上着に袖を通しながら、ミリュウ、レムに続いてソリに乗り込んだ。ソリは大人が三人くらいは乗り込める大きさであり、座席もしっかりとしていた。ただし、ソリは通常、自力で動く代物ではない。なにかしらの動力が必要であり、サンタクロースは、トナカイをその動力とした。しかし、このソリには動力となるものはなにもなかった。ソリを引くための紐はある。が、その紐はソリの先に垂れ下がっているだけだ。
「このソリはこのまま動く……んだよな?」
当たり前の疑問を口にすると、ミリュウは、当たり前のように返してきた。
「なんでよ? ソリよ?」
「はあ? じゃあ、どうやって……まさか」
「そのまさかよ」
ミリュウは、セツナが頭の上に移動させていた小飛竜を両手で包み込むと、その小さくまるまるとした頭を撫でた。ラグナは、トナカイのような格好をさせられている。となれば、思いつくことはひとつしかない。
「さあ、トナカイのラグナちゃん、ソリを牽引するのよ! そして大空に飛び立つの!」
「やっぱりそういうことかよ……おい、ラグナ、聞こえてるか?」
「うむむ……聞こえてはおるぞ。しかしなぜわしがそんなことをせねばならぬ」
ラグナはどうやら酔いから醒めたらしく、憮然といった。ラグナの言い分はもっともだ。なぜ、ミリュウの茶番のために、貴重な魔力を使う必要があるのか。ラグナは、常日頃、魔力を貯めることに全力を注いでいるといっても過言ではないのだ。そうやって貯めた魔力をどうするのかは、彼の主たるセツナが決めることであり、ミリュウに従う道理は、彼にはない。
しかし、ミリュウはといえば、ラグナの宝石のような目を見つめながら、必勝の表情を見せた。
「明日一日セツナを独占していいわよ!」
「それならば話は別じゃ。よかろう!」
ラグナは即断即決すると、ミリュウの手の中から飛び立ち、ソリの紐を自身に絡みつけた。それも彼の魔法だ。竜語魔法。竜属だけが用いることの出来るそれは、まさに万能に近い力だった。
「それでいいのかよ」
「ラグナも現金でございますね」
「おまえがいえたことかよ」
「なにかいいまして?」
「いいや、なんでも」
「ゆくぞ、空に!」
ラグナは、一声、吼えた。
その瞬間、セツナたちを乗せたソリはゆっくりと浮かび上がると、重力の楔を断ち切ったかのように空高く舞い上がった。
満天の星空が頭上に広がっている。数多の宝石のように輝く無数の星々に巨大な月、そのいずれもがこの滲んだ夜空を美しくもあざやかに彩っていた。その星空の下、寒風が吹き抜けるのも構わず、ソリは行く。重力など完全に無視し、自由自在に空を舞う。
「それで、これからどうするんだ? サンタクロースに必要不可欠なプレゼントなんてなにも用意してないぞ」
「ふふふ、あるじゃない、ここに」
満面の笑みを浮かべながら、ミリュウはソリに触れた。すると、ソリの後部から白い光が噴き出し始め、それは無数の光の粒となって、地上に降っていく。
さながら聖夜を彩る幻想的な雪のように。
飛竜に引かれ、ソリは空をゆく。
降り注ぐ光の雪は、夜の街を行き交うひとびとの目に触れ、驚かせていく。龍府には四季こそあり、冬こそ訪れるものの、雪が降るということ自体、ほとんどなかった。故に星空から降り注ぐ幻想そのものといっても過言ではない光の雪は、龍府のひとびとを興奮させ、子供たちが家を飛び出し、騒ぎ出した。
龍府は、瞬く間に光の雪とひとびとによって活気づき、まるでクリスマスの夜のような騒ぎが生まれた。それは幸福感に満ちた騒ぎであり、セツナは、なんともいえない気持ちになった。
ラグナにソリの進路を指示するミリュウの横顔は、実に楽しげであり、彼女の暗い過去などどこかに置き忘れてきたのではないかと想えたし、彼女がそんな風にして龍府に関われるようになったことは、素晴らしいことだと確信する。
過去は、変わらない。そう簡単に傷は癒えず、恨み辛みも容易く消えるものではない。実際、彼女はいまだザルワーンを憎んでいるだろうし、そういった感情は、言動の端々に窺い知れる。
しかし、それとは別に、セツナの治める龍府に対しては、多少なりとも関わりと持とうとするのは、大きな変化に違いなかった。
過去は、不変だ。
だが、ひとは、そうではない。
ひとは変化することで、未来を紡いでいく生き物なのだ。
ミリュウもまた、一年前とは比べものにならないほど、変化していた。
だからだろう。
セツナは、月明かりに照らされた彼女の横顔を網膜に焼き付け、微笑んだのだった。
そして、セツナたちサンタクロースを乗せたソリは、夜更けまで空を駆け回り、光の雪を降らせ続けた。




