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LADY MAID ~Not Ready-Made~  作者: しょ
シーズン1
2/2

第1話 そのメイド、凶暴につき

土砂降り。

水煙が立ち込める河川敷。

泥だらけの金髪メイドが、僕の手にあるヘッドドレスを見て笑った。

メイドと聞いて想像する姿とは程遠く。

肩幅は広く、腕は丸太のように太い。

雨を吸った金髪はボサボサのまま顔に張りつき、泥と血で色までくすんでいる。

メイド服もひどい有様だった。

白いエプロンは茶色く汚れ、裾は裂け、片方の袖口からは泥水が滴っている。

それでも身体を縮こまらせる気配はない。

片膝をついているのに、まるでこっちを見下ろしているみたいだった。

頬は切れ、唇の端も赤い。

なのに三白眼の奥だけは妙にギラついている。

追い詰められている奴の目じゃない。

「……ハッ。上等じゃねぇか」

息は荒いが、その声音にはまだ余裕すらあった。

少し離れた場所では、もう一人のメイドがこちらを見据えている。

その後ろで、同じクラスの男子がこちらを見下ろしていた。

このままじゃ勝てない。

それでも逃げる気にはなれなかった。

「……契約するぞ」

金髪メイドが片膝をついたまま顔を上げ、僕を見る。

僕も、その目を見返した。

契約を形にするものは装具と――もう一つ。

心臓の音が高鳴る。

「君の、名前は――」

◇

数日前。

朝、目を覚ますと天井が近かった。

少し手を伸ばせば届きそうな、染みの浮いた古い薄板の天井。

半年前まで住んでいた屋敷とは比べるまでもない。

白縫(しらぬい)家が差し押さえを受けてから、僕たち家族四人は古い都営住宅で暮らしていた。

「輝李(かがり)、起きなさい。学校でしょ」

襖の向こうから母さんの声がする。

「起きてるよー」

身体を起こすと、隣の布団では妹の茉莉(まつり)がまだ丸くなっていた。

僕と妹の部屋なんてものはない。

台所から漂ってくる味噌汁の匂いにつられて居間へ出る。

食卓では父さん―針一郎(しんいちろう)が、朝っぱらから競馬新聞を広げていた。

派遣の仕事は今日は休みらしい。

「おはよ、兄ちゃん」

茉莉が寝癖だらけの頭で僕の横へ座る。

「おはよう」

母さん―珠子(たまこ)が、人数分の味噌汁を並べた。

目の下にはうっすらクマがある。

昨日は深夜まで飲食店、今日はこのあとスーパー、そのまま夕方からまた別の仕事。

母さんが家にいる時間の方が珍しくなっていた。

朝食はご飯と具なしの味噌汁、以上。

育ち盛りの腹にはだいぶ寂しい。

「文句言わないの」

僕の顔を見て、母さんが先回りする。

「なんも言ってないじゃん」

向かいでは父さんが新聞に赤ペンで丸をつけていた。

「次のレースは鉄板だ。ここで取り返せば今月は楽になるぞ」

その台詞を何度聞いたかは、数えないことにしている。

競馬好きのいう鉄板とは、ウエハースでできているに違いない。

「その前に先月借りた二万円返して」

母さんが真顔で言うと、父さんは新聞から顔を上げた。

「増やして返そうと思ってるんだよ」

母さんは何も言わずに財布を鞄へしまった。

父さんは、白縫家の家業の二代目だ。

いや、二代目だった。

先代だった祖父は、頑固なくらい職人気質だったらしい。

注文を受け、一人のメイドのために一つの装具を仕立てる。

効率なんて知ったことか、とにかく良い物を作る。

父さんは、そんな祖父のやり方を非効率とよく言っていたらしい。

数年前、祖父が亡くなるとすぐに工房を拡大し、機械を入れ、契約装具(けいやくそうぐ)の大量生産へ切り替えた。

工場も増やして、人も雇った。

一家に一(いち)メイドと言われていた時代なら、間違った考えではなかったのかもしれない。

ただ、始めるタイミングが最悪だった。

設備投資の借金を抱えた直後、恐慌が来た。

注文は消え、取引先は潰れ、白縫家も一緒に沈んだ。

せめて蓄えがあれば違ったのかもしれない。

もっとも父さんの貯金は、酒と競馬と「付き合い」で、とっくに消えていたらしいけど。

本人はいまだに、

『時代さえ悪くなければ成功してた』

と言っている。

たぶん半分くらいは本当で、残り半分はただの言い訳だ。

ふと、部屋の隅を見る。

狭い家には不釣り合いな立派な神棚が鎮座している。

そこに一つだけ、神棚には不釣り合いなものが飾られていた。

純白のヘッドドレス。

細かなレースが華やかにあしらわれ、なめらかな絹が光っている。

留め金は銀細工でできている。

白縫家に残った最後の財産だった。

差し押さえの日、父さんが役人の目を盗んで持ち出したものだ。

なんとなく僕が神棚に向かって手を合わせると、父さんも神棚を見る。

「いざとなったら質屋行きだな」

冗談めかして笑っているが、目は笑っていない。

あれだけは、父さんにも売れなかったらしい。

白縫家は代々、主人とメイドが正式な契約を結ぶ際に身につける契約装具を作ってきた。

ヘッドドレス、ブローチ、リボン。

主人の家紋や意匠を縫い込み、一組ごとに仕立てる。

今では見る影もないけれど、あのヘッドドレスだけが、白縫家が何者だったのかを辛うじて残していた。

「兄ちゃん、遅刻するよ」

茉莉の声で時計を見る。

「やばっ。」

僕はご飯を掻き込み、鞄を掴んだ。

「あ、お母さん今日夜勤だから。夕飯は作っておくから、それ食べててね」

母さんはそう言いながら、自分の仕事用の鞄を確認している。

「わかった」

昼も夜も働いて、それでも家のことまでやっている。

母さんには本当に頭が上がらない。

妹は今は学校に行けていない。

いじめとかがあったわけではない。

新学期が始まってから、朝になると玄関で足が動かなくなってしまうようになった。

これだけの環境の変化があったのだから無理もないと思う。

学校から支給されたタブレットで日々の課題や授業の復習を家に居ながらしている。

僕は玄関で靴を履きながら、まだ少し物足りない腹をさする。

学校までの途中で、パンの耳でも買っていくことにしよう。

◇

午前の授業が終わると、教室の空気が一気に緩んだ。

机を寄せる音と一緒に、あちこちで弁当箱が開いていく。

登校途中に寄った店ではまだパンの耳が出ておらず、結局何も買えなかった僕は、水筒だけを机に出した。

「輝李、今日も昼なし?」

友達の布川(ぬのかわ)が声をかけてきた。

「朝食べたから平気」

「具なし味噌汁を朝飯って呼ぶのやめた方がいいぞ」

そう言って、もう一人の友達の波佐見(はさみ)が弁当から卵焼きを一つ箸でつまむ。

差し出された卵焼きをしばらく見て、結局受け取る。

「……ありがてぇ」

「いいって」

笑われながら口に放り込む。

甘じょっぱくて、おいしい。

腹に入ると、かえって空腹を思い出してしまった。

昼飯を抜くようになってから、水をよく飲むようになった。

腹が膨れるわけじゃない。それでも何もないよりはましだった。

半年前までは、購買のパンが気に入らないとか、弁当のおかずがしょぼいとか、そんなことで文句を言っていた気がする。

今思えば、とんでもなく贅沢な悩みだった。

「しーらぬーいくん」

聞き覚えのある声に振り返る。

数人の男子を連れた同じクラスの男、矢吹(やぶき)が、僕の机の横に立っていた。

少し前まで、こいつは僕を見るたびに笑顔で近寄ってきた。

『白縫くんのお父さん、今度うちにも装具作ってくれないかな』

『今度またお屋敷に遊びに行っていいかな?』

そんなことをよく言っていた。

教室の空気がわずかに張り詰める。

「おい、みろよ」

今は僕の水筒を見て笑っている。

「今日も水だけ?」

「そうだけど」

「へぇ、どこ産の?」

「……」

僕が黙っていると、後ろの連中が小さく笑った。

「元貴族様は大変だねぇ。昼飯くらい奢ってやろうか?」

「いい」

「遠慮すんなって。昔は俺らによく奢ってくれたじゃん」

馴れ馴れしく肩に手を置かれる。

払いのけると、矢吹の顔から笑みが消えた。

「……うわ、だる」

昔は、こいつの方から僕の機嫌を取っていた。

父さんの会社が潰れた途端、立場はきれいにひっくり返った。

分かりやすい奴で、むしろ清々しい。

「そんなことしてると昼休み終わるけど?」

「…ふん」

矢吹は座ったままの僕を見下ろしながら席を離れ、教室から出て行った。

教室にまた緩い空気が戻っていく。

「…えーっと、今日放課後部活ないんだけどどっか行く?」

「いいね、公園でキャッチボールでもする?」

「なんで部活休みなのに運動しなきゃいけないんだよ」

「輝李は、どうする?」

友人が笑いながら話を振ってくれたがなんだか気を遣わせてしまっている気がした。

「僕はいいや、ちょっと用事あるし」

僕がいないところで、カラオケやゲームセンターにでも行ってほしい。

野草でも探しに、少し離れた河川敷へ行ってみようか。

「そっか、じゃあまた今度だな」

「輝李、キャッチボールへたくそだもんね」

「うっせ」

こうして変わらず接してくれるだけで、今はありがたかった。

◇

放課後。

朝からずっと腹が減っていた。

最近、安くパンの耳を売ってくれる店を探している。

ついでに、食べられる野草が生えている場所も覚えるようになった。

最初は冗談半分だったけど、今は死活問題だ。

スマホで地図を確認しながら、いつもとは違う道へ入る。

住宅街を抜けると、広い河川敷に出た。

土手の斜面には草が伸び放題で、探せば食べられそうなものもありそうだった。

「あった、ノビル。つくしは……食えるんだっけ」

しゃがみ込んでスマホと見比べる。

その時、背後から笑い声がした。

「マジで草食ってんのはさすがに草過ぎるだろ」

振り返ると、矢吹とその取り巻きがにやにやしながらこっちを見ていた。

隣には、矢吹付きらしい一人のメイドもいる。

制服姿の僕らの中で、整ったメイド服だけが妙に目立った。

「……なんだよ矢吹坊ちゃん」

「帰りになにか御馳走してやろうと思ったら。河原で草漁ってるの見えたからさ」

矢吹がスマホを取り出す。

「動画撮っていい?白縫の元坊ちゃん」

「やめろよ」

手を伸ばすと、取り巻きの一人に肩を押された。

踏ん張れず、尻もちをつく。

矢吹は笑った。

「昔はあんなデカい豪邸に住んでたのになぁ」

僕は立ち上がる。

「その家に遊びに来たいって媚び諂ってたのはお前だろ」

空気が止まった。

矢吹の口元が引きつる。

「……だから何?」

「別に。昼の時からずっと映画とかの小物っぽいなって」

胸ぐらを掴まれた。

「調子乗んなよ、貧乏人」

矢吹がこぶしを握り締め振りかぶる。

「お坊ちゃま、それ以上は…」

メイドが落ち着いた声でたしなめようとする。

「お前は『黙ってろ』」

矢吹は振り返りもせず言い放つと、メイドはぴたりと動きを止めた。

拳が飛んでくる。

頬に鈍い衝撃が走り、地面に倒れた。

口の中が切れたらしく、鉄っぽい味が広がる。

「ちょ、矢吹くん」

取り巻きの一人が小声で言ったが、矢吹は聞かなかった。

「昔から気に入らなかったんだよ。家が金持ちってだけで偉そうにしてさ」

「……お前が勝手にすり寄って来ただけだろ」

今度は蹴られた。

腹を押さえて丸くなる。

その時だった。

「うるせえぞ、クソガキども!」

低い女の大声が、河川敷いっぱいに響いた。

全員が思わず振り返る。

少し離れた高架下。その暗がりから、声の主が面倒くさそうに歩いてくる。

なぜか、メイド服を着ていた。

「そっち行くからそこで待ってろ!」

遠目にも、白と黒を基調にしたメイド服だとわかる。

ただし、よく見るような清楚なものとは少し違った。

白いエプロンには薄汚れが目立ち、ロングスカートの裾はところどころほつれている。胸元や袖にはフリルまで付いているのに、それが可愛らしさよりも妙なちぐはぐさを際立たせていた。

「え……メイド?」

誰かが呟く。

近づいてくるたび、その違和感の正体がはっきりしていく。

まず、背が高い。

いや、高いというより――で(・)か(・)い(・)。

肩幅が広い。

メイド服の袖が窮屈そうに張るほど腕が太く、歩くたびにスカートの下から伸びる脚にもずっしりとした力強さがある。

華奢だとか、可憐だとか、そういう言葉とは真逆の体格だった。

しかも歩き方までひどい。

背筋を伸ばして楚々と歩くでもなく、両手をだらりと下げ、眠そうに肩を揺らしながらのそのそ近づいてくる。

僕のすぐ横まで来たところで、思わず見上げた。

まばゆいほどの金髪は手入れされた様子もなく、好き放題に跳ねている。長い前髪の隙間から覗くのは、白目の目立つ鋭い三白眼。

眠そうにも見えるのに、その奥だけは妙にぎらついていた。

メイド服を着ている。

確かに着ている。

なのに、どう見ても「ご主人様にお仕えします」と言いそうな人には見えなかった。

矢吹は一瞬怯んだようだったが、すぐに鼻で笑った。

「…んだよ。野(・)良(・)メイドか?」

金髪の女は大きなあくびをする。

「作りたての我が城で昼寝してたんだよ、こっちは」

「関係ねぇだろ。もう夕方だぞ」

矢吹が吐き捨てると、女は頭を掻いた。

「あるんだよ。きゃーきゃーうるせぇよ、女子かと思ったわ」

金髪のメイドは大きく伸びをしながら、矢吹へ歩き出した。

「……なんだよ」

さっきまでの余裕が消え、矢吹が半歩下がる。

それでもすぐに強がるように鼻を鳴らした。

「バカが。メイド三原則があるんだから統率種(オーダー)にはなんもできねえだろうが」

金髪のメイドは足を止めない。

「おまえこそバカか?」

「は?」

次の瞬間、太い腕が矢吹の襟首を掴んだ。

「うわっ!?」

軽々と身体を持ち上げられ、矢吹の靴が地面から浮く。

金髪のメイドが三白眼を細めた。

「野良は適用外だ」

「……ひぃ!」

矢吹の顔から血の気が引く。

「い、イヴ!」

矢吹に呼ばれ、後ろに控えていたメイドが静かに歩み出る。

金髪のメイドは矢吹の襟首を掴んだまま、その様子を横目で見た。

イヴは彼女のすぐ隣まで来ると、太い腕へそっと手を添えた。

「どうか、お引き取りを」

声は穏やかだった。

それでも金髪のメイドはしばらくイヴを見つめる。

やがて鼻を鳴らすと、掴んでいた襟を放した。

「……ふん。美人を殴る趣味はねぇんだ」

「ぐえっ」

矢吹が尻もちをつく。

慌てて立ち上がると、イヴの後ろへ逃げ込んだ。

「きょ、今日はこのくらいにしといてやる!」

金髪のメイドが無言で一歩踏み出す。

「きゃあ!」

矢吹は取り巻きを置いて走り出した。

「矢吹くん待ってよ!」

取り巻きたちも慌ててその後を追う。

イヴだけがその場に残り、金髪のメイドへ小さく頭を下げた。

「失礼いたしました」

そう告げると、主人の後を追っていった。

河川敷に静けさが戻る。

「……ありがとう」

僕が礼を言うと、金髪のメイドは面倒くさそうにこちらを見た。

「勘違いすんな。あいつらがうるさかっただけだ」

そう言って踵を返し、高架下へ戻っていく。

段ボールとブルーシートを組み合わせただけの寝床が、遠目に見えた。

あれがさっき言っていた『我(・)が(・)城(・)』らしい。

金髪のメイドが、ふと思い出したように僕の方を振り返った。

「少年、タバコ持ってるか」

「ないよ」

僕が答えると、露骨に肩を落とす。

「はぁ…最近のガキはいい子ちゃんでちゅね~」

自分の服をあちこち探り始め、エプロンのポケットへ手を突っ込む。

しばらくして、指先に挟まれて出てきたのは、真ん中から折れ曲がった一本のタバコだった。

「お、ラッキー」

嬉しそうに形を整え、使い込まれたジッポライターを取り出す。

乾いた金属音。

火が灯り、タバコの先が赤く染まった。

僕はなんとなく、その横顔を眺めていた。

以前、家にいたメイドはタバコなんて吸わなかった。

似ているところなんて、ほとんどない。

それなのに。

夕日に向かって紫煙を吐き出す横顔と、河川敷の風にたなびく金髪を見た瞬間、記憶の中の彼女の姿が不意に重なった。

「……何見てんだよ」

「いや、なんでもない、です」

金髪のメイドは怪訝そうに僕を見ると、それ以上は気にせずタバコを咥え直した。

僕も帰ることにした。

土手を上がる前に一度だけ振り返ると、彼女はもうこちらを見ていなかった。

夕日の中で、一人静かに煙を吐いている。

やがて短くなったタバコを靴裏でもみ消すと、クマのようにのそのそと高架下へ戻っていった。

僕も今度こそ家路についた。

◇

翌日の放課後。

僕は昨日と同じ河川敷に来ていた。

手には小さなスーパーの袋。

中身はパンの耳と、昨日摘んで家で洗ってきた食べられる野草。それから、父さんの競馬新聞の横に置いてあったタバコを数本。

昨日助けてもらった礼としては、我ながらだいぶ貧相だった。

昔みたいに菓子折りの一つでも持っていければ格好がつくんだろうけど、今の僕にそんな余裕はない。

それでも何もないよりは、なんて考えながら土手を下りて高架下へ向かう。

昨日『我が城』と呼んでいた場所には、段ボールが何枚か敷かれ、ブルーシートは壁代わりに吊るされ、端には毛布が丸めて置かれていた。

よく見ると空き缶を使った灰皿まであった。

住居と呼ぶにはあまりにも簡素だけど、秘密基地みたいでちょっといいなと思った。

違法建造物の前で、金髪のメイドは太い腕を枕代わりにして、長い脚を投げ出して寝ていた。

メイド服姿でなければ、酔っぱらった大男が昼寝しているようにしか見えない。

「おーい」

返事がないのでもう少し近づいて声をかける。

「昨日の人ー」

三白眼がうっすら開いた。

「……少年か」

声だけ聞けば完全に寝起きのおっさんだった。

上半身を起こした彼女は、ボサボサの金髪を掻きながら大きなあくびをする。

「何の用だ」

「昨日のお礼」

僕が袋を持ち上げると、眠そうだった目が少しだけ袋へ向いた。

差し出してみる。

金髪のメイドは受け取る前に中身を覗き込んだ。

「パンの耳」

続けて野草をつまみ上げる。

「雑草?」

「野草、食べられるやつ」

「へぇ」

そして袋の底に入れておいたタバコを見つけた途端、さっきまで半分閉じていた目が露骨に開いた。

「おっ」

「それも、よくわからないけど」

金髪のメイドは一本取り出して眺める。

「気が利くねぇ、少年」

「父さんのだけどね」

「お前それ泥棒じゃねぇか」

「数本くらいなら気づかないよ。たぶん」

彼女はしばらく僕を見てから、肩を揺らして笑った。

「昨日はいい子ちゃんだったのに」

「返してもいいんだよ」

僕が手を伸ばすと、すぐにタバコを遠ざける。

「一度人にやったもん取り返そうとすんなよ」

金髪のメイドが袋を膝の上へ置いた。

その時だった。

ぐぅぅぅ。

河川敷に、やけに間の抜けた音が響いた。

一瞬、何の音か分からなかった。

金髪のメイドの視線がゆっくり下へ落ちる。

僕も自分の腹を見る。

「……」

「……」

逃げ場がない。

「朝は食べたんだけど」

言い訳してみたものの、彼女は何も言わず僕の顔を見ている。

今日も昼は水と友達からのおすそ分けだけだった。

そんなことまで説明するのも格好悪くて黙っていると、彼女はため息とも笑いともつかない息を吐いた。

袋を開け、パンの耳を数本取り出し、残りを袋ごと僕へ差し出した。

「ほれ、一緒に食おうぜ」

「いや、それ昨日のお礼だから」

「腹鳴らしてる奴の飯全部奪ったら、こっちがいじめっ子みてぇだろ」

「でも――」

僕が所在なさそうにしていると、彼女はポケットからタバコの箱を取り出した。

音がしないボコボコの箱を振ってみせた。

「私はこれさえあれば十分なんだわ」

空箱をひらひらさせながら、カラッと笑う。

金髪のメイドは僕の返事を待たず、パンの耳を一本咥えた。

僕の前に差し出した袋を、顎でしゃくる。

断っても意味はなさそうだった。

「……じゃあ少しだけ」

僕も隣に腰を下ろした。

高架下から見える川は、夕日を反射して赤く光っていた。

昨日はあんなに騒がしかった場所なのに、今日は水の流れる音しか聞こえない。

僕らはしばらく、何も話さずにパンの耳を食べた。

食べ終わると、僕は立ち上がって服についた草を払った。

「じゃあ、帰るね」

「おう」

金髪のメイドはそれだけ返すと、その場にごろりと寝転がった。

僕も土手を上がり、そのまま家へ向かった。

◇

それから数日。

学校帰りに河川敷を通るたび、金髪のメイドの姿を見かけるようになった。

『城』の前で寝転がっている日もあれば、川を眺めながらタバコを吸っている日もある。

僕が声をかければ、「おう、少年」と返す。

向こうから話しかけてくることも、たまにはあった。

ある日は、僕が高架下に着くと、彼女は何やら魚を焼いていた。

「……なにしてるの?」

「魚、焼いてる」

「いや、それはわかるけど」

彼女は得意げに川の方を指差した。

「釣ったの?」

「いや、素手」

「熊じゃん」

「失礼だぞ」

そう言いながら、焼き上がった魚を一匹差し出してきた。

「ほれ」

「え、いいの?」

「何匹か獲れたからな」

受け取った魚は温かかった。恐る恐る身をほぐして口に運ぶ。

……おいしい。

「どうだ?」

内臓はきれいに処理されていて臭みはなく、身はふっくらしている。野外で適当に焼いたとは思えない味だった。

「焼き魚ってこんなにおいしかったっけ」

「メイド舐めんなよ」

そう言って、彼女は自分の魚にかぶりついた。

「これなんて名前の魚?」

「んー、さぁ?毒はないだろうし、たいていの物は焼けば食えるから」

半分くらい食べてしまっていた僕は腹痛にならないことを祈った。

そんな僕を見て、彼女は意地悪そうに笑っていた。

別の日には、彼女がどこから来たのか尋ねてみた。

「そういえば、どこから来たの?」

「地獄」

即答だった。

「地獄?」

「そう、地獄からの使者」

彼女は大真面目な顔でそう言うと、タバコの煙をゆっくり吐き出した。

「……なにそれ?」

「秘密ってこと」

「いや、わかんないけど」

「あまり乙女のことは詮索しない方がいいぞ、少年」

「…乙女?」

「そっちに引っかかるなよ!」

そう言って、彼女はけらけらと笑った。

冗談なのか本気なのか、いまいち判断がつかない。

それ以上聞いてもからかわれそうだったので、僕も追及するのをやめた。

また別の日には、映画の話になった。

「暇な時って何してるの?」

「脳内映画」

「映画好きなの?」

「大好き、永遠に見ていたいね」

彼女は寝転がったまま、自分のこめかみを指で叩いた。

「少年、MCUは知ってるか?」

「なにそれ」

「アメコミの映画。そっかぁ、知らないか……」

心底残念そうな顔をされた。

「昔はアニメの映画とかは観てたけど、最近は全然」

「映画はいいぞ。見た分だけ世界が広くなるからな」

思いのほか真面目な口調だった。

「へぇ、おすすめは?」

「うーん、ジョン・ウィックはまだ早いか? 映画にはまるきっかけならアベンジャーズ、いやまずはアイアンマン……」

彼女は腕を組み、ぶつぶつと呟き始めた。

「でも、先に各ヒーローの単独作品を……いや、少年の好みもあるしな。マーベル以外ならナイトミュージアム、シックスセンス……」

「そんなにいっぱいあるの?」

「いっぱいあるんだよ!」

急に身を乗り出してきたので、思わず仰け反った。

「映画はな、たった二時間で自分の知らない世界に連れてってくれるんだよ。宇宙にだって行けるし、知らねえ国の文化だって知れる。その世界で起きていることを、特等席で観れるんだ」

「へぇ……」

「しかも観終わった後も、自分の中に残って人生を変えちまうんだ」

随分と映画が好きらしい。

さっきまで寝転がっていたのに、今では身振り手振りまで交えて熱弁している。

正直、話の半分もわからなかったけれど、聞いているだけで少し見たくなってきた。

「じゃあ、今度見てみようかな」

「おう! 見たら感想語ろうぜ」

彼女は満足そうに笑った。

見た目は怖いし、口も悪い。

昼間からタバコを吸って、橋の下で寝ているような人だ。

それでも、話してみると知らないことをたくさん知っているし、案外面倒見もいい。

少なくとも、僕を貧乏人だと笑うようなことは一度もなかった。

僕の家のことも、学校のことも、彼女は聞いてこない。

あの質問以来、僕も彼女の過去を詳しく尋ねようとはしなかった。

それどころか、未だにお互い名前すら知らない。

ただ、会えば少し話す。

それくらいの関係が、いつの間にか当たり前になっていた。

その日の空には、朝から厚く黒い雲が立ち込めていた。

放課後になっても雲は晴れず、河川敷を抜ける風は湿っている。いつ降り出してもおかしくなさそうだったので、金髪のメイドとは少し話しただけで早めに切り上げた。

「傘いる?」

「いらねー」

「そう? 一応、気を付けてね」

「おう」

軽く手を上げる彼女に背を向け、僕は家へ急いだ。

玄関を開けると、いつもなら聞こえてくるテレビの音がしなかった。

「ただいま」

返事がない。

靴を脱いで居間を覗くと、母さんと父さんが食卓を挟んで向かい合っていた。

母さんはもう仕事へ出ている時間のはずなのに、まだ家にいる。

父さんの前にも、珍しく競馬新聞がない。

居間の奥の襖は閉まっていた。

茉莉も家にいるはずだけど、姿は見えない。

代わりに、食卓の上には何枚もの封筒と書類が広げられていた。

「……どうしたの?」

二人がこっちを見る。

母さんは何か言おうとして、結局口を閉じた。

父さんが気まずそうに頭を掻く。

「あっちの部屋に行ってなさい」

その言い方だけで、ろくな話じゃないことは分かった。

鞄を置いて食卓へ近づく。

細かい文字はよく分からないが、書かれている金額だけは嫌でも目に入る。

「返済のこと?」

「……まあ」

「会社の?」

「これは別」

母さんが答えた。

父さんの顔を見る。

「別って?」

父さんは答えず、食卓の上の封筒を手に取った。

何かを確かめるでもなく、端を指で折ったり戻したりしている。

「……三十万円」

「え?」

「勝手に借りてきたのよ。三十万」

「どこから?」

俯いている父さんから視線を外さずに母さんが答えた。

「闇金よ」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「……闇金?」

「闇金じゃないって、昔の知り合いの、その知り合いの…」

「いずれにしてもまともな貸金業者じゃないわ」

母さんが吐き捨てるように言うと、額を押さえた。

「今日になって初めて知ったの」

「なんでそんなところから……」

父さんを見る。

「何に使ったの?」

「……競馬」

声が出なかった。

父さんは僕の顔を見ようとしない。

「競馬って……あの競馬?」

「他に何があんだよ」

「なんで!?」

思わず声が大きくなった。

「なんで金がないのに、借金してまで競馬なんかするんだよ!」

「……少しでも増やそうと思ったんだよ」

「は?」

「鉄板レースだったから、三十万あれば、うまくいけばまとまった金にできるだろ」

あまりにも当たり前のように言うので、耳を疑った。

「……それでも、増えなかったんでしょ?」

父さんは黙った。

「ねぇ」

「……」

「全部なくなったの?」

「……そうだよ」

僕は食卓に置かれた書類を見た。

三十万。

今の僕には、想像もつかない金額だった。

「何やってんだよ……」

口から勝手に言葉が漏れた。

「毎日あんな飯食ってるんだよ?」

「分かってんだよ!」

突然、父さんが声を荒らげた。

僕は思わず肩を震わせる。

「分かってるから、どうにかしたかったんだろうが!」

父さんが食卓を叩いた。

封筒が跳ねる。

「昔は三十万なんて、すぐに用意できたんだよ。なのに今じゃ、それすらどうにもならねえ」

「……」

「俺だって好きでこんな暮らししてるわけじゃねえんだよ」

母さんが静かに口を開いた。

「あなた」

父さんが母さんを見る。

「今の私たちにとって、三十万円がどれだけ大きいか分かってる?」

「……」

「毎日の生活費、どうにかやりくりしてるの。私が何時間働いたら三十万円になると思ってるの?」

父さんは答えなかった。

「あなた、会社が潰れてからずっとそう。昔はこうだった、昔ならこんなことにならなかったって」

「……」

「いつまで昔の話をするの?」

母さんの声は怒鳴り声ではなく、ただ、ひどく疲れているようだった。

「私たちはもう、あの家には住んでないのよ」

父さんの顔が歪んだ。

「分かって…」

「分かってないから、こんなことになったんじゃない!」

「じゃあどうしろってんだよ!」

父さんが椅子を蹴るように立ち上がった。

「仕事探したって、どこもまともに相手にしてくれねえ! 昔は頭下げてきた連中が、今じゃこっちの電話にも出ねえんだぞ!」

僕は初めて聞く話に、少しだけ驚いた。

派遣の仕事とは別に、父さんが仕事を探していたなんて、知らなかった。

「今さら何もかも一からやり直せってのか?十八で家を継いでから、ずっとあの仕事しかしてこなかったんだよ! 何十年もやってきたことが全部なくなって、今さら他所で何をしろってんだ!」

「……」

「一発でも当てりゃ、少しはうまいものでもみんなで食いに行けると思ったんだよ……」

最後の方は、ほとんど独り言だった。

父さんは力が抜けたように椅子へ座り直した。

しばらく誰も何も言わなかった。

「……父さん」

僕は恐る恐る声をかけた。

父さんは顔を上げなかった。

「……輝李」

その声はさっきまでとは違って、小さかった。

「…すまない」

父さんが絞り出すようにつぶやいた。

母さんが書類を一枚引き寄せる。

「今日、向こうから電話が来たの」

僕もそちらを見る。

「返済日を過ぎてるらしいの。何度連絡しても出ないから、直接家に来るって」

「……これから?」

「ええ」

「いくら返さなきゃいけないの?」

母さんが父さんを見た。

「借りた三十万円、プラス法外な利息と手数料諸々」

「そんなの、おかしいじゃん」

「闇金なんてそういうものよ。だから警察なり弁護士なりに相談しようって言ってるのに」

父さんは黙ったまま、額に手を当てていた。

「……俺が話す」

父さんが呟いた。

「俺が借りたんだから、俺が話す」

それは責任を取ろうとしているようにも、自分一人でどうにかできると思い込んでいるようにも聞こえた。

父さんはずっと、食卓の一点を見つめていた。

「あなたじゃ話にならないから来るんじゃない」

そう言うと母さんはまた頭を抱えてしまった。

ふと居間の隅に目をやる。

神棚に置いてある、ヘッドドレス。

家も工房も機械もなくなったけれど、あれだけは父さんが頑なに手放さなかったものだった。

「あれは大丈夫だよね」

僕が神棚を指さすと、父さんもそちらを見る。

「……何が?」

「金になるものを出せとか言われたら」

父さんは答えなかった。

嫌な沈黙だった。

「……父さん?」

「まあ、あれなら多少は金になるだろうな」

「え?」

「昔なら、あれ一つ作るのにも相当な金を取ってたんだ。分かる奴には価値が分かる」

「ちょっと待って。売るつもりなの?」

「……」

父さんの目はまだヘッドドレスに向いていた。

母さんが口を開く。

「あなた、あれだけは残すって言ってたじゃない」

「…じゃあ他にどうしろってんだよ」

父さんが弱々しく呻いた。

「俺だって手放したくねえよ。けど、今さら家宝だなんだって言ってられる状況じゃねえだろ……」

最後は吐き捨てるような声だった。

僕はもう一度ヘッドドレスを見る。

白い生地には汚れ一つなく、繊細なレースも、昔のままの形を保っている。

父さんが大切にしていたことは、僕だって知っている。

その父さんが、売ることを考えている。

本当に、そこまで追い詰められているんだ。

その時だった。

ピンポーン。

部屋の空気が一瞬で固まる。

誰も動かない。

もう一度、今度は長くチャイムが鳴った。

ピンポーーーーン。

「こんばんは~、スマイルファイナンスです」

続けて、玄関の扉がノックされる。

コンコンコン。

「白縫さーん。いらっしゃいますよねぇ?」

男の声が、薄い玄関扉を通して響いてきた。

父さんの顔から血の気が引く。

母さんがゆっくり立ち上がる。

「……私が出るわ」

「いや、お前は……」

「一人で抱え込んで、どうにかなった結果がこれでしょう」

父さんは何も言い返せなかった。

窓の外で、ぽつりと雨粒がガラスを叩いた。

父さんが、再び神棚を見た。

その視線を追って、僕もヘッドドレスを見る。

もしかしたら、父さんは本当にあれを差し出すつもりなのかもしれない。

あれだけは、なくなってほしくなかった。

父さんが椅子から腰を上げる。

僕は考えるより先に動いていた。

神棚へ駆け寄り、白いヘッドドレスを掴む。

「輝李!待て!」

父さんの声が飛んできた。

制服の内側へ押し込み、玄関へ走った。

扉を開けると、ちょうどチャイムを押そうとしていた男と鉢合わせる。

「おや、お兄ちゃん?」

スーツ姿の男が二人で立っていた。

怖そうな見た目ではなく、むしろ笑顔だった。

「お出かけ?」

「……バイトです」

男は僕を見て、それからにこっと笑う。

「……そっかそっか、頑張って稼いできてね」

身体をずらして道を空けてくれた。

その横をすり抜ける。

「輝李!」

また父さんの声がしたけど振り返らなかった。

階段を駆け下り、そのまま外へ飛び出した。

◇

ぽつり。

頬に冷たいものが落ちた。

もう一滴、二滴。

黒い雲から一斉に雨が落ちてくる。

走った。

どこへ行くかなんて考えていなかった。

声にならない叫びがのどを引き裂いた。

なんで母さんばっかり働いてるんだ。

なんで父さんはあんななんだ。

なんで、なんで、なんで。

あのヘッドドレスを持ってきてどうする。

分からない。

ただ嫌だった。

あれまで誰かに持っていかれるのが嫌だった。

父さんがそれを手放すところを見たくなかった。

家もなくなった。

会社も、工房もなくなった。

金もない。

昼飯もない。

昔うちにいた人たちも、もういない。

友人には迷惑をかけたくない。

頼れる人なんていない。

学校に行けば矢吹がいる。

十五歳の子供に何をしろっていうんだ!

なんでこんな理不尽なんだ!

制服の内側でヘッドドレスを押さえる。

濡らしたくなくて抱え込むように走ったせいで、足がもつれる。

雨はもう傘があっても意味がなさそうなくらい強くなっていた。

前髪から水が垂れる。

靴の中が気持ち悪い。

肺が痛い。

それでも足は止まらなかった。

何度も角を曲がった。

横断歩道も無視して走った。

車の水しぶきを浴びた。

いつからか舗装された道は土に変わっていた。

顔を上げる。

雨の向こうに、見慣れた高架がぼんやりと浮かんでいた。

その下に、ブルーシートが見えた。

『城』の前まで来たところで、ようやく足が止まった。

息が上がっている。

肩で呼吸をするたび、制服の襟の隙間から冷たい雨が入り込んだ。

「……少年?」

声に顔を上げる。

金髪のメイドが、ブルーシートの下からこちらを見ていた。

さっき別れた時と同じ格好だった。

ただ、僕を見る三白眼から眠そうな色だけが消えている。

「……」

彼女は何か言いかけて、僕のずぶ濡れの制服を見る。

僕は何も言えなかった。

何を言えばいいのかも分からない。

家を飛び出してきた。

父さんが闇金から金を借りていた。

その取り立てが来た。

家宝を売られたくなくて勝手に持ってきた。

そんなことを順番に説明する気力なんて残っていなかった。

金髪のメイドはしばらく僕の顔を見ていた。

「……駆け落ちか?」

何も返さない。

僕が黙ったままでいると、彼女は少しだけ眉を上げた。

「……まあいいけど」

それ以上は聞かれなかった。

自分の横に置いてあった段ボールを足で押しやり、人一人分だけ場所を空ける。

僕はそこへ座った。

屋根代わりのブルーシートを雨粒が叩いている。

さっきまで遠くに聞こえていた音が、今はすぐ頭の上にある。

制服の内側に手を入れる。

ヘッドドレスは濡れていなかった。

それだけ確認して、また抱える。

金髪のメイドがちらりとこちらを見る。

何も言わない。

僕も何も言わなかった。

しばらく、雨の音だけが続いた。

「いたいた」

聞き覚えのある声が雨音を割った。

身体が勝手に強張る。

土手の方を見ると、傘を差した矢吹が立っていた。その半歩後ろには、黒い傘を持ったイヴがいる。

「やっぱここだったんだ」

矢吹は傘を肩にかけながら、僕と金髪のメイドを交互に見た。

「なんだよ白縫。お前、野良メイドとつるむようになったの?」

僕は答えなかった。

矢吹は鼻で笑う。

金髪のメイドがゆっくり立ち上がった。

「またお前かよ」

「この前はよくも恥かかせてくれたよな」

矢吹の視線が彼女へ移る。

前に襟首を掴まれたことを思い出したのか、口元が一瞬だけ引きつった。

それでも今日は、すぐ隣にイヴがいる。そのせいか、前よりずっと強気だった。

「わざわざこんな雨の中、仕返しに来たのかよ」

「こんな天気だからいいんじゃん。誰も見てねえし」

矢吹は傘をくるりと回し、辺りを見渡した。

「こんなとこ、普段から人なんか来ないだろ?ましてやこの雨だし」

「……へえ」

「今日はお前に、身の程ってもんを教えてやるよ」

金髪のメイドは濡れた前髪を掻き上げた。

「随分と暇な坊ちゃんだな」

「うるせえな」

矢吹の顔から笑みが消える。

「お前みたいなの、その辺うろついてるだけで迷惑なんだよ」

傘の柄を肩に乗せたまま、わざとらしく首を傾げた。

「害獣?害メイド?」

少し考えるように間を置く。

「まあなんでもいいや。駆除してやる」

金髪のメイドが鼻で笑った。

「言ってくれるじゃねえか」

「野良のくせに、俺に逆らったのが悪いんだろ」

矢吹はゆっくりと土手を下りてくる。

「増水した川に野良メイドが一人流されたところで、誰も悲しまねえしな」

思わず川の方を見る。

上流では早くから降っていたのか、川はいつもより水かさを増し、茶色く濁った水が勢いよく流れていた。

矢吹はそれを見ながら、まるでちょっとした悪戯の話でもしているみたいに笑った。

その後ろに控えているイヴは笑っていなかった。

傘からはみ出た黒髪の先が雨に濡れ、普段のおとなしそうな顔には暗い影が落ちている。

「……お前、何言ってんだよ」

僕が口を挟むと、矢吹は面倒くさそうにこちらを見た。

「貧乏人は黙ってろよ。今はお前に用はねえんだ」

金髪のメイドが高架下から外へ一歩出た。

「おいおい坊ちゃん、小悪党っぷりに磨きがかかってんな。今度も泣かされてえのか?」

「……っ、調子乗んなよ!」

矢吹が声を荒らげ、彼女に詰め寄ろうとする。

その瞬間、イヴが矢吹の前へ滑り込んだ。

主人を背中にかばうように立ち、金髪のメイドとの間を遮る。

その動きに迷いはなかった。

けれど、彼女は拳を握るでもなく、ただ静かに立っていた。

金髪のメイドが首を鳴らす。

「今回は美人ちゃんが相手?」

イヴは少しだけ目を伏せ、それから丁寧に頭を下げた。

「先日は失礼いたしました」

「いやいや、あんたは何もしてねえだろ」

顔を上げたイヴは何か言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。

矢吹が苛立ったように舌打ちする。

「おい」

イヴは姿勢を正し、主人へ向き直った。

「イヴ。主命だ」

その言葉に、彼女の表情がわずかに強張る。

矢吹が金髪のメイドを指さした。

「『あの野良メイドを叩きのめせ』」

イヴは一瞬だけ悲しげに目を伏せた。

「……承知いたしました」

彼女は傘を閉じ、地面へそっと置いた。

黒髪が肩先で揺れる。

スカートの裾を軽く整え、金髪のメイドへ向き直る。

両手を胸の前まで持ち上げたものの、その立ち姿は、戦うというより何かに備えて身を固くしているように見えた。

「やる気満々ってわけか」

イヴは何も返さない。

ただ静かに、金髪のメイドを見据えている。

僕は思わず立ち上がった。

「待っ――」

声が出かかった、その時。

「少年、濡れるからそこいろよ」

金髪のメイドが僕を見ずに言った。

「いい子ちゃんは大人しくしてろ」

彼女は片足を半歩引き、身体を斜めに向けた。

軽く握った両拳を顔の前に構える。

空手の試合で見たことがあるような、シンプルな半身の構えだった。

太い腕と分厚い肩が、さっきまでとは違って見える。

彼女は口元を吊り上げた。

「いいね、踊ろうぜ」

その言葉が終わると同時に、イヴが踏み込んだ。

足元の雨水が弾ける。

一気に距離を詰めたかと思うと、右脚が金髪のメイドの頭めがけて跳ね上がった。

上段回し蹴り。

速い。

そう思った時には、すでに靴先が彼女の顔へ迫っていた。

金髪のメイドは上体を後ろへ反らした。

蹴りが鼻先をかすめ、雨粒を散らして空を切る。

イヴは蹴りの勢いを抑えきれず、大きく身体を回してしまった。

片足を地面につき、つんのめるように体勢を立て直す。

「……雑だけど速えな」

金髪のメイドは上体を戻しながら、小さく呟いた。

イヴは何も答えない。

「続けろ!」

矢吹が叫んだ。

その瞬間、イヴの身体がびくりと跳ねた。

着地した右足を軸に、身体を返す。

左脚が後ろ回し蹴りとなって、金髪のメイドの頭を狙った。

「へぇ、そういう感じね」

金髪のメイドは左腕で受け止める。

「まあまあ痛ぇな」

イヴは姿勢を戻し、すぐさま距離を詰めようとした。

「イヴ!右!」

矢吹の声に反応し、イヴの右拳が弾かれたように伸びる。

「っと」

金髪のメイドは首を傾けてかわし、左腕を伸ばして間合いを詰めた。

ところが、イヴはその腕を払いのけると、勢いのまま彼女の背後へ回り込んだ。

「おお、悪くない、悪くない……」

ぶつぶつと呟きながら、イヴの動きを観察している。

「やれ!イヴ!」

イヴが踏み込んだ。

最短距離の正拳突き。

金髪のメイドが振り向くのと同時に、拳が腹部へ突き刺さった。

「……だいたい分かった」

金髪のメイドはその拳を受けたまま、イヴの胸ぐらを掴んだ。

「――っ!」

「おらっ!」

軽々と身体を持ち上げると、野球の投手のように矢吹めがけて投げ飛ばした。

「うわっ!」

矢吹が悲鳴を上げる。

しかし、イヴは空中で身体を捻り、主人への直撃を避けて受け身を取った。

泥水が大きく跳ねる。

「蹴りはまあいい。拳は弱ぇ」

金髪のメイドが腹を軽く叩いた。

「……バケモンかよ」

矢吹が呟く。

「坊ちゃん、そろそろ帰らないと風邪ひくぞ」

「うるせえ!イヴ、もっと攻めろ!」

イヴの身体が再び跳ねた。

右、左、そして蹴り。

動きは速い。

けれど、攻撃のたびに身体の軸がぶれ、次の動作へ移るまでにわずかな隙が生まれている。

金髪のメイドはその隙を縫うように、拳も蹴りも紙一重でかわしていく。

「お手を取ろうか?お嬢さん」

まるで本当にダンスでもしているかのようだった。

先ほど腹に一撃受けたことなど気にも留めず、ほとんど反撃もしない。

「……あの人、強い」

思わず声が漏れた。

ふざけているようにも見えるけれど、その視線だけは一度もイヴから外れていなかった。

「……しかし、こりゃ気の毒だ」

金髪のメイドがぽつりと言った。

イヴの拳を受け流し、間合いを取る。

「格闘技なんかろくにやったことねえだろ」

イヴの眉がわずかに動いた。

けれど、何も答えない。

「つーか、坊ちゃんに無理やり動かされてんだろ」

「うるせえ! イヴ、黙らせろ!」

「はいはい、図星ね」

金髪のメイドは肩をすくめた。

「メイドを何だと思ってんだか」

次の拳をかわすと、彼女はちらりと矢吹を見た。

「あんたじゃなくて、もう一回あの坊ちゃんの襟首でも掴んでやるか」

そう呟いて、にやりと笑った。

「……っ!」

イヴの表情が変わった。

それまで伏せがちだった目が、はっきりと金髪のメイドを捉える。

「おい、イヴ! 絶対に近づけるな!」

「……承知しました」

その返事とともに、イヴの纏う空気が変わった。

金髪のメイドが矢吹の方へ一歩踏み出す。

それに合わせてイヴが動き、彼女の進路へ立ち塞がった。

「へえ……」

金髪のメイドが小さく呟く。

イヴの鋭い眼光が、正面から彼女を捉えている。

先ほどまでの戸惑いは薄れ、矢吹を守るという意思がはっきりと伝わってくるようだった。

「……なるほど。坊ちゃんに手を出されんのは嫌ってか」

金髪のメイドが口元を吊り上げる。

「いいね。ようやく自分で踊る気になった?」

次の瞬間、イヴが踏み込んだ。

「おっと、速――」

金髪のメイドが腕を上げる。

しかし、間に合わなかった。

鈍い音が響く。

イヴの拳が、金髪のメイドの頬を捉えていた。

「……っ!」

僕は思わず息を呑んだ。

金髪のメイドの身体が横へ流れ、泥水を蹴散らしながら数歩後退する。

「……マジか」

彼女は口元を親指で拭った。

イヴは追撃せず、矢吹を守るように立っている。

その表情はまだ硬い。

けれど、先ほどまでの不自然なぎこちなさは少しだけ薄れていた。

金髪のメイドはイヴと、その後ろの矢吹を交互に見た。

「……あー、なるほど。そういうことか」

小さく頷き、再び半身に構える。

「こりゃ、余計なこと言っちまったかな」

笑ってはいた。

けれど、その目からはさっきまでの余裕が消えかけていた。

イヴは矢吹の指示を待つことなく、自ら踏み込んだ。

「いいぞイヴ!そのままやっちまえ!」

右の拳。

金髪のメイドは左腕で弾いた。

続けて左。

身体を捻ってかわしたところへ、今度は下段への蹴りが飛ぶ。

「……っ!」

足を引いて避けると、間髪入れずに拳が伸びた。

腕で受け止めたものの、その衝撃に身体が押し戻される。

「速くなった?いや、迷いがなくなったのか」

イヴの動きにはまだぎこちなさが残っていたが、攻撃の間にあった隙が消えていた。

金髪のメイドは防戦に回り、少しずつ後退していく。

「いいぞ!押してるぞイヴ!」

そこへ、イヴの上段蹴りが肩を捉えた。

「……っ!」

金髪のメイドがさらに一歩下がる。

「……痛てぇな」

彼女は短く呟き、肩を回した。

「目的が一致した途端にこれか。厄介だねぇ」

金髪のメイドが半身に構え直す。

「こっちも真面目にやるか」

今度は彼女から踏み込んだ。

太い腕が鋭く伸びる。

イヴが防御のために上げた腕を掴み、身体を横へ引いた。

「っ!」

イヴの体勢が崩れる。

そこへ足を掛け、投げ飛ばそうとする。

しかし。

「イヴ!耐えろ!」

矢吹の声に、イヴの脚が地面を強く蹴った。

泥水が跳ねる。

強引に体勢を立て直すと、掴まれた腕を振りほどいた。

「……マジかよ」

金髪のメイドが一歩引く。

そこへイヴが踏み込んだ。

拳が迫る。

金髪のメイドは身体を横へ反らしてかわし、そのまま回り込もうとした。

「……っと――」

踏み込んだ、その瞬間だった。

ずるっ。

ぬかるんだ地面に靴底が滑り、踏み込んだ脚が外側へ流れた。

「……っ!」

支えを失った身体が、がくんと沈む。

「あ、やっべ」

その一瞬の隙を、イヴは見逃さなかった。

踏み込んだ左足を軸に、右脚が大きく弧を描く。

頭部を狙って叩きつけるような、上段回し蹴り。

鈍い衝撃音が響いた。

蹴りが、金髪のメイドの側頭部にまともに入った。

その巨体がぐらりと傾く。

踏ん張ろうとした足も泥の上を滑った。

金髪のメイドが横倒しになる。

泥水が大きく跳ね上がった。

「……え?」

僕は、目の前で起きたことが理解できなかった。

あの人が、倒れた。

さっきまであんなに強かったのに。

「はっ!やった!」

矢吹が歓声を上げた。

「いいぞイヴ!その調子だ!」

イヴは倒れた金髪のメイドを見つめていた。

拳を握ったまま、動かない。

その顔は、少しも嬉しそうではなかった。

「……おい!何してんだよ!」

矢吹が怒鳴る。

「まだ終わってねえだろ!」

イヴの肩が小さく震えた。

倒れている金髪のメイドへ、ゆっくりと足を向ける。

「……やめろよ」

気づけば、僕は声を上げていた。

矢吹がこちらを見る。

「は?」

「もう十分だろ!」

「何言ってんだよ。まだ立てるじゃん」

その言葉に振り返る。

金髪のメイドは泥の中に片手をつき、ゆっくりと上体を起こしていた。

額から垂れた雨水に、赤いものが混じっている。

「……クソ。いいのもらっちまったな」

立ち上がろうとした脚がもつれ、再び片膝をついた。

荒い呼吸の合間に、金髪のメイドが僕を見る。

「……少年」

「……」

「離れとけ。まだ終わってねえから」

「でも、もう……!」

言葉が続かなかった。

「おい、どうしたよ」

矢吹が傘を傾け、金髪のメイドを覗き込む。

「この前みたいに俺のこと持ち上げてみろよ」

金髪のメイドは泥に片手をつき、再び立ち上がろうとした。

その身体はふらついていたが、三白眼にはまだ鋭い光が宿っている。

その姿に、イヴがわずかに目を見開いた。

「……しぶてぇな、野良」

矢吹の顔から笑みが消える。

「イヴ、とどめだ」

イヴは一瞬だけ目を伏せた。

「……はい」

ゆっくりと、金髪のメイドへ近づいていく。

金髪のメイドは片膝をついたまま、荒い息を整えようとしていた。

イヴがとどめの蹴りを放とうと、片脚を引く。

「――っ」

彼女の名前を呼ぼうとして、初めて気づいた。

僕は、この人の名前すら知らなかった。

考えるより先に身体が動いた。

「待って!」

僕は両手を広げて、イヴの前へ飛び出した。

僕に当たる――そう思った寸前、イヴの身体がぴたりと止まった。

まるで、身体が勝手に止まったように見えた。

「白縫!?」

矢吹が声を荒らげる。

「何してんだよ!どけ!」

「……嫌だ!」

自分でも驚くくらい、大きな声が出た。

「野良の飼い主かよ」

矢吹が鼻で笑う。

「そんなに大事なら、そこの野良と契約でもすれば?」

「……契約?」

「まあ、今のお前に契約装具なんか買えるわけねえか!」

矢吹が声を上げて笑った。

「……あながち間違っちゃいねえな」

背後から低い声がした。

振り返ると、金髪のメイドが片膝をついたまま僕を見上げていた。

「契約できりゃ、まだやりようはあるかもしれねえ」

「……本当?」

「ああ。主命で力を引き出せりゃな」

彼女は肩で息をしながら続けた。

「ま、肝心の装具がなきゃ始まんねえけどよ」

「……あるよ」

「……あ?」

僕は制服の内側へ手を入れた。

ずっと雨に濡れないよう守ってきた、白縫家最後の契約装具。

白いヘッドドレスを取り出す。

金髪のメイドが一瞬だけ目を丸くした。

「……おい、マジかよ」

僕は彼女の目を見た。

「……契約しよう」

遠くで雷鳴が響いた。

金髪のメイドは僕を見つめ、それから笑った。

「……ハッ。上等じゃねぇか」

「……契約するぞ」

僕はヘッドドレスを差し出した。

彼女はそれを受け取ると、両手でそっと広げた。

白い生地に施された繊細な刺繍。

父さんがあれほど大切にしていた、白縫家の最後の宝物。

それを、彼女は自分のボサボサの金髪の上へ載せた。

サイズは少し合っていない。

雨に濡れた髪の上で、わずかに傾いている。

それでも、確かに契約装具を身につけたメイドが、目の前にいた。

契約に必要なのは、装具と、もう一つ。

主人から与える契約名。

僕は彼女の本当の名前を知らない。

なら、僕が与える。

金髪のメイドが片膝をついたまま顔を上げ、僕を見る。

心臓がうるさいくらいに鳴っていた。

「君の名前は――」

僕は、その三白眼をまっすぐに見返した。

「――ベル!」

その瞬間。

轟音が河川敷を揺らした。

空を引き裂くような稲光。

すぐ近くに雷が落ち、真っ白な光が一瞬だけ辺りを塗り潰す。

思わず目を細めた。

光が消える。

金髪のメイドは、片膝をついたまま笑っていた。

「……ベル、ね」

彼女は小さく頷いた。

「その名、承りました」

胸の奥で、何かが繋がったような気がした。

ベルがゆっくりと立ち上がる。

泥にまみれ、傷だらけで、それでも背筋だけは真っ直ぐだった。

三白眼を細める。

さっきまでの粗暴な笑い方とは少し違った。

ほんのわずかに腰を落とし、僕へ頭を垂れる。

「……ご命令を、ご主人様」

「え? ……えっと」

急に言われて、頭が真っ白になった。

「いい感じに?」

「は?」

「倒してほしいわけじゃないし、でもなんとかしてほしい……」

「はっきり言え!」

「えっと……『負けないで!』」

ベルは一瞬、呆れたように僕を見た。

「はぁ……まあいいよ。柔軟な対応が持ち味なんでね」

そして、改めて半身に構え直す。

「承知いたしました、ご主人様!」

イヴに向かって片手を差し出した。

まるでダンスに誘うように。

「さて、お嬢さん。ダンスの続きといこうか」

口元が不敵に吊り上がる。

「今度はあたしがリードするぜ」

イヴが静かに拳を構え直した。

それを見届けると、ベルは地面を蹴った。

泥水が跳ねる。

「――っ!」

イヴが咄嗟に腕を上げる。

その腕に、ベルの拳が叩き込まれた。

「くっ……!」

イヴの身体が大きく後退する。

「おお……」

ベルは自分の拳を見つめ、何度か握ったり開いたりした。

「こりゃいいや」

先ほどまで膝をついていたとは思えないほど、その足取りは軽かった。

「イヴ!何やってんだ!」

矢吹が怒鳴る。

イヴはすぐさま体勢を立て直し、踏み込んだ。

右の拳。

ベルは左手で受け流す。

続く左足の蹴りもその軌道を見切り、半歩だけ後ろへ下がって避けた。

先ほどまでと同じ、イヴの鋭い連続攻撃。

けれど、今度はベルが一歩も押されていなかった。

「……なるほどねぇ」

ベルが小さく呟く。

「これが主命ってやつか」

その口元に、いつもの笑みが戻っていた。

「……なんだよ、それ」

矢吹が呆然と呟く。

「さっきまでボロボロだったじゃねえか!」

イヴが再び踏み込む。

ベルはその拳を払いのけ、空いた脇腹へ手を伸ばした。

しかし、途中で動きを変え、イヴの肩を軽く押して距離を取る。

「……ふむ」

「ふざけんな!イヴ、攻めろ!」

矢吹の怒声が響く。

イヴはすぐさま向き直った。

その表情に迷いはない。

主人を守るという意思は、まだ消えていないようだった。

「……その忠誠心は本物なんだな」

ベルがぽつりと呟いた。

イヴは答えず、構え直す。

ベルは彼女の足元に目を落とした。

雨でぬかるんだ地面。

泥に沈みかけた、黒いヒールの靴。

イヴが体重を移すたび、その細い踵が地面に食い込んでいる。

「……そうか」

何か思いついたように、ベルが口元を吊り上げた。

イヴが踏み込んだ。

頭部を狙った上段回し蹴り。

ベルは上体を傾けてかわすと、通り過ぎようとしたイヴの足を掴んだ。

「……っ!」

イヴの身体が止まる。

ベルのもう片方の手が、その靴の踵へ伸びた。

パキンッ。

乾いた音がした。

「……え?」

イヴが目を見開く。

ベルはその足を離し、軽く後ろへ跳んだ。

手には、折られた黒いヒールが握られている。

「ほい」

ベルがそれを放り捨てた。

イヴが地面に足を下ろす。

しかし、途端に身体がぐらついた。

片方だけ踵の高さが変わってしまったせいで、うまく体重を乗せられないのだ。

「……あ」

イヴは足元を見つめた。

ベルは肩をすくめる。

「言っただろ、美人は殴らない」

「おい! 何してんだよイヴ!」

矢吹が叫ぶ。

「……申し訳ございません」

イヴは壊れた靴を見下ろし、困ったように眉を寄せた。

「申し訳ございません、じゃねえよ!さっさと戦え!」

ベルが矢吹を見る。

「おい坊ちゃん。もういいだろ。これ以上やっても――」

「うるせえ!」

矢吹が言葉を遮った。

傘を握る手に力がこもっている。

「なんでだよ……なんでお前なんかに……!」

その目が僕を捉えた。

「昔からそうだよな、お前は!」

「……え?」

「俺が何度話しかけても、いつも適当にあしらいやがって!」

「そんなつもりは……」

「そうだろうな!お前にとっちゃ、俺なんかどうでもよかったんだから!」

僕は言葉を失った。

そんなふうに思われていたなんて、知らなかった。

けれど、昔の矢吹と何を話していたのか、すぐには思い出せなかった。

「……くそっ!イヴ、戦え!靴なんていらないだろ!」

「……っ」

イヴの身体がびくりと跳ねる。

彼女は一瞬だけためらったあと、壊れた靴を脱ぎ、もう片方も脱ぎ捨てた。

白い足が、泥水の中へ沈む。

「おいおい……」

ベルの表情が険しくなった。

「冗談だろ」

イヴは裸足のまま、再び構えた。

「……参ります」

勢いよく踏み込む。

しかし、裸足がぬかるんだ地面に深く沈んだ。

「……っ」

思うように足が抜けず、一瞬だけ動きが止まる。

「イヴ!止まるな!」

矢吹の声が飛んだ。

その瞬間、イヴの身体が弾かれたように動いた。

まだ泥に取られた右足を軸に、強引に蹴りを放とうとする。

だが、軸足は泥から抜けない。

上体だけが勢いよく捻られた。

ぐきり。

「――いっ!」

イヴが悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。

泥水の中で、右足首を押さえる。

「あっ!」

思わず僕が叫んだ。

イヴは顔を歪め、立ち上がろうとした。

しかし、足に力が入らない。

「……っ、う……」

ベルがゆっくりと近づく。

「……足首、やっちまったか」

イヴは俯いたまま、何も答えない。

「もうやめとけ。これ以上は無理だ」

ベルが矢吹を睨んだ。

「おい坊ちゃん、いい加減にしろよ」

「……は?」

「足首をやってんだぞ。これ以上動かして、壊れたらどうすんだ」

「だから何だよ!」

矢吹が吐き捨てた。

「まだ立てるだろ!俺のメイドなんだから、俺の命令に従えばいいんだよ!」

「……は?」

「使えなくなったら新しいメイドを雇うだけだ!」

ベルの動きが止まった。

「……てめぇ」

低い声だった。

さっきまで浮かべていた笑みが、完全に消えていた。

「な、なんだよ……」

矢吹が一歩下がる。

ベルが歩き出した。

「お、おい!近づくなよ!」

その声を無視して、ベルが足を速める。

イヴのすぐ脇を駆け抜けた瞬間、足元で泥水が大きく跳ねた。

「ベル!」

「坊ちゃま!」

僕とイヴの叫び声が重なった。

次の瞬間には、ベルが矢吹の目の前にいた。

大きな拳が振り上げられる。

「ひぃっ!」

矢吹が悲鳴を上げた。

けれど。

その拳は、矢吹の鼻先すれすれで止まっていた。

まるで見えない何かに遮られたように、ぴたりと。

ベルの握り締めた拳が、わずかに震えている。

矢吹は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。

「……三原則に助けられたな」

ベルは低く吐き捨てると、ゆっくり拳を下ろした。

そのまま、ベルはしばらく矢吹を睨みつけていた。

そして、ふと足元に目を落とす。

そこには、イヴがいた。

泥まみれの身体を引きずり、捻った足を庇いながら、必死にベルの脚にしがみついていた。

自分を使い捨てにすると言った主人を、それでも守ろうとしている。

ベルはしばらく、そんな彼女を見下ろしていた。

「……立てるか?」

そう言って、大きな手を差し伸べる。

「……え?」

イヴが驚いたように顔を上げた。

差し伸べられた手と、ベルの顔を交互に見る。

「……でも、私は……」

「いいから」

ベルは少しだけ声を和らげた。

「手、貸しな」

イヴは戸惑いながらも、ゆっくりとベルの脚から手を離した。

そして、おずおずとその手を取る。

ベルは彼女の身体を支え、慎重に立ち上がらせた。

「足首、無理すんなよ」

「……ありがとうございます」

イヴが小さく頭を下げる。

ベルは鼻を鳴らした。

それから、腰を抜かしたままの矢吹へ視線を向けた。

「テメェのメイドにすら手を差し伸べられねえ奴に、主人の資格はねえよ」

矢吹は何も言わなかった。

ただ、怯えた目でベルを見上げている。

雨が降り続いていた。

しばらくして、矢吹がようやく口を開いた。

「……くそっ」

泥に手をつき、立ち上がる。

「もういい……帰るぞ、イヴ!」

そう言って歩き出そうとした矢吹を、ベルが呼び止めた。

「おい」

「ひっ!」

矢吹が飛び上がる。

「な、なんだよ!」

ベルは顎でイヴを示した。

「肩くらい貸してやれよ」

「……っ」

矢吹は何か言い返そうとしたが、ベルの目を見るなり口を閉じた。

渋々といった様子でイヴの隣へ戻る。

「……ほら」

「……坊ちゃま」

イヴが驚いたように呟く。

矢吹は顔を背けた。

「いいから、早くしろよ」

イヴは小さく頭を下げ、その肩を借りた。

「……ありがとうございます」

二人はゆっくりと土手を上っていった。

矢吹は最後まで、こちらを振り返らなかった。

その背中が雨の向こうへ消えるまで、僕は黙って見送っていた。

「……ふう」

隣で大きな息が漏れた。

ベルだった。

彼女は首を軽く回し、頬をさする。

改めて見ると、髪も服も泥だらけで、顔にはまだ血が滲んでいた。

「……大丈夫?」

「まあな。あの蹴りはしばらく響きそうだけどよ」

ベルは苦笑した。

それから、僕を見た。

「……負けなかった、でいいか?」

「……え?」

「主命」

そう言って、ベルは肩をすくめた。

「『負けないで』だったろ?」

「あ……」

そうだった。

初めての主命。

あんなに必死になって口にした言葉だったのに、今の今まで忘れていた。

僕はもう一度、矢吹たちが消えた土手を見た。

そして、ベルに向き直る。

「う、うん」

「じゃ、命令達成」

ベルは満足げに笑った。

かと思えば、両膝に手をついて、大きく息を吐いた。

「……つっかれたぁ」

さっきまでの格好良さはどこへ行ったんだ。

「本当に大丈夫?」

「全身いてぇ」

「ご、ごめん」

「なんでお前が謝んだよ」

ベルはそう言って笑った。

頭には、あの白いヘッドドレスがまだ載っている。

雨に濡れて、ボサボサの金髪に少し傾いていた。

僕はそれを見ながら、ようやく実感した。

本当に契約したんだ。

名前も知らなかった野良メイドと。

つい数日前まで、話したことすらなかった相手と。

「……ベル」

呼んでみる。

「ん?」

ちゃんと振り向いた。

それだけのことが、なんだか妙にくすぐったかった。

「いや……呼んでみただけ」

「なんだそりゃ」

ベルが鼻で笑う。

「そういや、その名前」

「え?」

「ベルって、どっから持ってきたんだ?」

「ああ、それは……」

僕は少し考えてから答えた。

「昔、うちに仕えてくれてたメイドさんの名前なんだ」

「……は?」

「小さい頃、よく面倒を見てくれた人でさ。咄嗟に思い浮かんだんだ」

「うわぁ……」

ベルが露骨に顔をしかめた。

「え、なに?」

「いや、重いっつーか……そういうの将来彼女にやっちゃダメですからね」

「えっ、なんで!?」

「昔の女の名前で呼ばれて喜ぶ女がいるかよ」

「いや、そういう関係じゃないから!」

「たとえ話だっつの」

ベルは呆れたように肩をすくめた。

それから、自分の頭に載せたヘッドドレスに触れる。

「……ま、悪くねえ名前だけどな」

「……そっか」

なんだか、少し嬉しかった。

「てか、メイド雇う金あんのかよ」

「……ない」

「あーあ、どうする?」

僕は考え込んだ。

勢いで契約してしまったけれど、その先のことなんて何も考えていなかった。

それに、家を飛び出す前のこともある。

父さんと母さんは、まだ喧嘩しているんだろうか。

借金だって、なくなったわけじゃない。

今の家は狭いし、食べるものにだって困っている。

そんなところに、ベルを連れて帰っていいんだろうか。

「……うち、すごく狭いよ」

「だろうね」

「お金もないし、ご飯だって……」

「パンの耳、一緒に食った仲だろ?」

ベルはあっさり答えた。

「……うん」

「今さら気にすんなよ」

その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

「じゃあ……えっと、とりあえず寝床と三食昼寝付きでどう?」

ベルが黙る。

数秒。

「……最高かよ」

その顔が、今日までで一番嬉しそうだった。

思わず僕も笑ってしまう。

ベルは満足げに頷くと、土手へ向かって歩き出した。

僕も慌ててその後を追う。

雨はだいぶ小降りになっていた。

それでも、まだ降り続いていた。

空には分厚い雲が垂れ込め、止む気配はまるでない。

父さんと母さんのこと。

借金のこと。

これからの生活のこと。

考えなければならないことは、何一つ減っていなかった。

家に帰るのだって、正直まだ怖い。

それでも、不思議と足取りは軽かった。

ふと隣を見る。

僕よりずっと背の高い、金髪のメイド。

泥だらけの服に、傷だらけの身体。

その頭には、白縫家に残された真っ白なヘッドドレスが載っていた。

雨粒をまとった白い生地は、薄暗い空の下でもひときわ鮮やかに見えた。

ほんの数日前まで、名前すら知らなかった人。

そんな彼女が今、僕の隣を歩いている。

僕はもう、一人ではなかった。


連載用にリブートしました

よろしくお願いします。

【キャラクター紹介】


ベル


180cmの長身に鍛え上げられた肉体、無造作な金髪と鋭い三白眼が特徴のメイド。

その風貌はメイドというより軍人の様。

粗暴な言動と豪快な性格も相まって、およそ一般的なメイドのイメージとはかけ離れている。


しかし、その見た目に反して家事全般を高水準でこなす実力者。

料理、洗濯、掃除と何でもそつなくこなし、口も態度も悪いが仕事の腕前は確かなもの。


趣味は映画鑑賞で、特にアクション映画が大好き。『ジョン・ウィック』シリーズやMCU作品を好み、好きな俳優はジェイソン・ステイサム、マッツ・ミケルセン、ゲイリー・オールドマン。

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