メイド服を着た悪魔【読み切り版】
土砂降り。
水煙が立ち込める河川敷。
泥だらけの金髪メイドが、僕の手にあるボロボロのヘッドドレスを見て笑った。
メイドと聞いて想像する姿とは程遠く。
肩幅は広く、腕は丸太のように太い。
雨を吸った金髪はボサボサのまま顔に張りつき、泥と血で色までくすんでいる。
メイド服もひどい有様だった。
白いエプロンは茶色く汚れ、裾は裂け、片方の袖口からは血が滴っている。
それでも身体を縮こまらせる気配はない。
片膝をついているのに、まるでこっちを見下ろしているみたいだった。
頬は切れ、唇の端も赤い。
なのに三白眼の奥だけは妙にギラついている。
追い詰められている奴の目じゃない。
「……ハッ。上等じゃねぇか」
息は荒いが、その声音にはまだ余裕すらあった。
少し離れた場所では、もう一人のメイドが余裕を残したままこちらを見据えている。
その後ろで、同じクラスの男子がこちらを見下ろしていた。
このままじゃ勝てない。
それでも逃げる気にはなれなかった。
「……契約するぞ」
金髪メイドが片膝をついたまま顔を上げ、僕を見る。
僕も、その目を見返した。
契約に必要なのは装具と、もう一つ。
心臓の音が高鳴る。
「君の、名前は――」
〇
数日前。
朝、目を覚ますと天井が近かった。
少し手を伸ばせば届きそうな、染みの浮いた古い薄板の天井。
半年前まで住んでいた屋敷とは比べるまでもない。
白縫家が差し押さえを受けてから、僕たち家族四人は古い都営住宅で暮らしていた。
「輝李、起きなさい。学校でしょ」
襖の向こうから母さんの声がする。
「起きてるよー」
身体を起こすと、隣の布団では妹の茉莉がまだ丸くなっていた。
僕と妹の部屋なんてものはなく、夜になれば居間に布団を並べる。
台所から漂ってくる味噌汁の匂いにつられて居間へ出る。
食卓では父さん―針一郎が、朝っぱらから競馬新聞を広げていた。
派遣の仕事は今日は休みらしい。
「おはよ、兄ちゃん」
茉莉が寝癖だらけの頭で僕の横へ座る。
「おはよう」
母さん―珠子が、人数分の味噌汁を並べた。
目の下にはうっすらクマがある。
昨日は深夜まで飲食店、今日はこのあとスーパー、そのまま夕方からまた別の仕事。
母さんが家にいる時間の方が珍しくなっていた。
朝食はご飯と具なしの味噌汁、以上。
育ち盛りの腹にはだいぶ寂しい。
「文句言わないの」
僕の顔を見て、母さんが先回りする。
「言ってないじゃん」
向かいでは父さんが新聞に赤ペンで丸をつけていた。
「次のレースは鉄板だ。ここで取り返せば今月は楽になるぞ」
その台詞を何度聞いたかは、数えないことにしている。
競馬好きのいう鉄板とは、ウエハースでできているに違いない。
「その前に先月借りた二万円返して」
母さんが真顔で言うと、父さんは新聞から顔を上げた。
「増やして返そうと思ってるんだよ」
母さんは何も言わずに財布を鞄へしまった。
父さんは、白縫家の二代目だ。
先代だった祖父は、頑固なくらいの職人だったらしい。
注文を受け、一人のメイドのために一つの装具を仕立てる。
効率なんて知ったことか、とにかく良い物を作る。
父さんは、そんな祖父のやり方が嫌いだった。
祖父が亡くなるとすぐに工房を拡大し、機械を入れ、契約装具の大量生産へ切り替えた。
工場も増やして、人も雇った。
一家に一メイドと言われていた時代なら、間違った考えではなかったのかもしれない。
ただ、始めるタイミングが最悪だった。
設備投資の借金を抱えた直後、恐慌が来た。
注文は消え、取引先は潰れ、白縫家も一緒に沈んだ。
せめて蓄えがあれば違ったのかもしれない。
もっとも父さんの貯金は、酒と競馬と「付き合い」で、とっくに消えていたらしいけど。
本人はいまだに、
『時代さえ悪くなければ成功してた』
と言っている。
たぶん半分くらいは本当で、残り半分はただの言い訳だ。
ふと、部屋の隅を見る。
小さな神棚。
そこに一つだけ、この家には不釣り合いなものが飾られていた。
白いヘッドドレス。
縁はほつれ、色も少しくすんでいる。
白縫家に残った最後の財産だった。
差し押さえの日、父さんが役人の目を盗んで持ち出したものだ。
「……まだ飾ってるんだ」
僕が言うと、父さんも神棚を見る。
「いざとなったら質屋行きだな」
冗談めかして笑っているが、目は笑っていない。
あれだけは、父さんにも売れないらしい。
白縫家は代々、主人とメイドが正式な契約を結ぶ際に身につける契約装具を作ってきた。
ヘッドドレス、ブローチ、リボン。
主人の家紋や意匠を縫い込み、一組ごとに仕立てる。
今では見る影もないけれど、あの古びたヘッドドレスだけが、白縫家が何者だったのかを辛うじて残していた。
「兄ちゃん、遅刻するよ」
茉莉の声で時計を見る。
「やばっ。……いや、お前もだろ」
僕はご飯を掻き込み、鞄を掴んだ。
「あ、お母さん今日夜勤だから。夕飯は作っておくから、それ食べててね」
母さんはそう言いながら、自分の仕事用の鞄を確認している。
「わかった」
昼も夜も働いて、それでも家のことまでやっている。
母さんには本当に頭が上がらない。
玄関で靴を履きながら、まだ少し物足りない腹をさする。
学校までの途中で、パンの耳でも買っていくことにしよう。
〇
午前の授業が終わると、教室の空気が一気に緩んだ。
机を寄せる音と一緒に、あちこちで弁当箱が開いていく。
タイミングが悪く、パンの耳すら買えなかった僕は席を立ち、水筒だけ持って教室の後ろへ向かった。
「輝李、今日も昼なし?」
声をかけてきた友達が、自分の弁当から卵焼きを一つ箸でつまむ。
「朝食べたから平気」
「具なし味噌汁を朝飯って呼ぶのやめた方がいいぞ」
図星だった。
差し出された卵焼きをしばらく見て、結局受け取る。
「……明日返す」
「いいって」
笑われながら口に放り込む。
甘じょっぱくて、おいしい。
腹に入ると、かえって空腹を思い出してしまった。
昼飯を抜くようになってから、水をよく飲むようになった。
腹が膨れるわけじゃない。それでも何もないよりはましだった。
半年前までは、購買のパンが気に入らないとか、弁当のおかずが昨日と被ったとか、そんなことで文句を言っていた気がする。
今思えば、とんでもなく贅沢な悩みだった。
「しーらぬーいくん」
聞き覚えのある声に振り返る。
数人の男子を連れた同じクラスの男、矢吹が、僕の机の横に立っていた。
少し前まで、こいつは僕を見るたびに笑顔で近寄ってきた。
『白縫くんのお父さん、今度うちにも装具作ってくれないかな』
『今度また屋敷遊びに行っていい?』
そんなことをよく言っていた。
今は僕の水筒を見て笑っている。
「今日も水だけ?」
「そうだけど」
「へぇ、どこ産の?」
「……」
僕が黙っていると、後ろの連中が小さく笑った。
「元貴族様も大変だねぇ。昼飯くらい奢ってやろうか?」
「いい」
「遠慮すんなって。昔は俺らによく奢ってくれたじゃん」
馴れ馴れしく肩に手を置かれる。
払いのけると、矢吹の顔から笑みが消えた。
「……うわ、だる」
昔は、こいつの方から僕の機嫌を取っていた。
父さんの会社が潰れた途端、立場はきれいにひっくり返った。
分かりやすい奴で、むしろ清々しい。
「昼休み終わるぞ」
僕はそれだけ言って席を離れた。
〇
放課後。
真っ直ぐ帰るつもりだったけど、朝からずっと腹が減っていた。
最近、安くパンの耳を売ってくれる店を探している。
ついでに、食べられる野草が生えている場所も覚えるようになった。
最初は冗談半分だったけど、今は死活問題だ。
スマホで地図を確認しながら、いつもとは違う道へ入る。
住宅街を抜けると、広い河川敷に出た。
土手の斜面には草が伸び放題で、探せば食べられそうなものもありそうだった。
「つくしは……食えるんだっけ」
しゃがみ込んでスマホと見比べる。
その時、背後から笑い声がした。
「マジで草食ってんのはさすがに草」
振り返ると、矢吹とその取り巻きがにやにやしながらこっちを見ていた。
隣には矢吹付きらしい一人のメイドもいる。
制服姿の僕らの中で、整ったメイド服だけが妙に目立った。
「……なんでいるんだよ」
「帰りになにか御馳走してやろうと思ったら。河原で草漁ってるの見えたからさ」
矢吹がスマホを取り出す。
「写真撮っていい?元坊ちゃん」
「やめろよ」
手を伸ばすと、取り巻きの一人に肩を押された。
踏ん張れず、尻もちをつく。
矢吹は笑った。
「昔はあんなデカい家住んでたのになぁ」
僕は立ち上がる。
「お前、前はその家に遊びに来たがってただろ」
空気が止まった。
矢吹の口元が引きつる。
「……だから何?」
「別に。さっきからなんか小物っぽいなって」
胸ぐらを掴まれた。
「調子乗んなよ、貧乏人」
「お坊ちゃま、それ以上は…」
メイドが落ち着いた声でたしなめようとする。
「お前は『黙ってろ』」
矢吹は振り返りもせず言い放つと、メイドはぴたりと動きを止めた。
拳が飛んでくる。
頬に鈍い衝撃が走り、地面に倒れた。
口の中が切れたらしく、鉄っぽい味が広がる。
「ちょ、矢吹くん」
取り巻きの一人が小声で言ったが、男は聞かなかった。
「昔から気に入らなかったんだよ。家が金持ちってだけで偉そうにしてさ」
「……お前が勝手に媚びてただけだろ」
また蹴られる。
腹を押さえて丸くなる。
その時だった。
「ギャーギャーうるせえぞ、クソガキども!」
低い女の大声が飛んできた。
全員が思わず振り返る。
少し離れた高架下。
声の主が、面倒くさそうに歩いてきた。
「そっち行くからそこで待ってろ!」
遠目でも、身につけているのは汚れたメイド服だとわかった。
全身にあしらわれたフリル。
ロングスカートの裾は少しほつれている。
けれど、近づくにつれて妙な違和感が膨らんでいった。
そばまで来て、その理由がわかった。
背が高い。
というより、でかい。
肩幅も広く、腕も太い。
僕のすぐ横に立った彼女を、思わず見上げる。
まばゆいほどの金髪はひどくボサボサで、長い前髪の隙間から三白眼がこちらを睨んでいる。
矢吹は一瞬怯んだようだったが、すぐに鼻で笑った。
「…んだよ。野良メイドか?」
金髪の女は大きなあくびをする。
「作りたての我が城で昼寝してたんだよ、こっちは」
「関係ねぇだろ。もう夕方だぞ」
矢吹が吐き捨てると、女は頭を掻いた。
「あるんだよ。きゃーきゃーうるせぇよ、女子かと思ったわ」
金髪のメイドは大きく伸びをしながら、矢吹へ歩き出した。
「……なんだよ」
さっきまでの余裕が消え、矢吹が半歩下がる。
それでもすぐに強がるように鼻を鳴らした。
「バカが。メイド三原則があるんだから、主人種にはなんもできねえだろうが」
金髪のメイドは足を止めない。
「おまえこそバカか?」
「は?」
次の瞬間、太い腕が矢吹の襟首を掴んだ。
「うわっ!?」
軽々と身体を持ち上げられ、矢吹の靴が地面から浮く。
金髪のメイドが三白眼を細めた。
「野良は適用外だ」
「……!」
矢吹の顔から血の気が引く。
「い、イヴ!」
矢吹に呼ばれ、後ろに控えていたメイドが静かに歩み出る。
金髪のメイドは矢吹の襟首を掴んだまま、その様子を横目で見た。
イヴは彼女のすぐ隣まで来ると、太い腕へそっと手を添えた。
「どうか、お引き取りを」
声は穏やかだった。
それでも金髪のメイドはしばらくイヴを見つめる。
やがて鼻を鳴らすと、掴んでいた襟を放した。
「……ふん。美人を殴る趣味はねぇんだ」
「ぐえっ」
矢吹が尻もちをつく。
慌てて立ち上がると、イヴの後ろへ逃げ込んだ。
「きょ、今日はこのくらいにしといてやる!」
金髪のメイドが無言で一歩踏み出す。
「ひっ!」
矢吹は取り巻きを置いて走り出した。
「お、おい矢吹くん!」
取り巻きたちも慌ててその後を追う。
イヴだけがその場に残り、金髪のメイドへ小さく頭を下げた。
「失礼いたしました」
そう告げると、主人の後を追っていった。
河川敷に静けさが戻る。
「……ありがとう」
僕が礼を言うと、金髪のメイドは面倒くさそうにこちらを見た。
「勘違いすんな。あいつらがうるさかっただけだ」
そう言って踵を返し、高架下へ戻っていく。
そこには段ボールと毛布を組み合わせただけの寝床があった。
あれがさっき言っていた『我が城』らしい。
金髪のメイドはその前に腰を下ろすと、ふと思い出したように僕を見た。
「少年、タバコ持ってるか」
「ないよ」
僕が答えると、露骨に肩を落とす。
「はぁ…最近のガキはいい子ちゃんでちゅね~」
自分の服をあちこち探り始め、エプロンのポケットへ手を突っ込む。
しばらくして、指先に挟まれて出てきたのは、真ん中から折れ曲がった一本のタバコだった。
「お、ラッキー」
嬉しそうに形を整え、使い込まれたジッポライターを取り出す。
乾いた金属音。
火が灯り、タバコの先が赤く染まった。
僕はなんとなく、その横顔を眺めていた。
以前、家にいたメイドはタバコなんて吸わなかった。
似ているところなんて、ほとんどない。
それなのに。
夕日に向かって紫煙を吐き出す横顔と、河川敷の風にたなびく金髪を見た瞬間、記憶の中の彼女の姿が不意に重なった。
「……何見てんだよ」
「いや、なんでもない、です」
金髪のメイドは怪訝そうに僕を見ると、それ以上は気にせずタバコを咥え直した。
僕も帰ることにした。
土手を上がる前に一度だけ振り返ると、彼女はもうこちらを見ていなかった。
夕日の中で、一人静かに煙を吐いている。
やがて短くなったタバコを足元でもみ消すと、クマのようにのそのそと高架下へ戻っていった。
僕も今度こそ家路についた。
〇
翌日の放課後。
僕は昨日と同じ河川敷を歩いていた。
手には小さなスーパーの袋。
中身はパンの耳と、帰り道で摘んできた食べられる野草。それから、父さんの競馬新聞の横に置いてあったタバコを数本。
勝手に持ってきたので、厳密に言えば最後の一つは僕のものですらない。
昨日助けてもらった礼としては、我ながらだいぶ貧相だった。
菓子折りの一つでも持っていければ格好がつくんだろうけど、今の僕にそんな余裕はない。
それでも何もしないよりはいい、なんて考えながら土手を下りて高架下へ向かう。
昨日『我が城』と呼んでいた場所はすぐに見つかった。
段ボールを何枚か敷き、ブルーシートを壁代わりに吊るし、端には毛布が丸めて置かれている。
よく見ると空き缶を使った灰皿まであった。
住居と呼ぶにはあまりにも簡素だけど、秘密基地みたいでちょっといいなと思った。
「……ほんとに作り込んでる。」
その前で、金髪のメイドは太い腕を枕代わりにして、長い脚を投げ出して寝ていた。
メイド服姿でなければ、酔っぱらった大男が昼寝しているようにしか見えない。
「おーい」
返事がないのでもう少し近づいて声をかける。
「昨日の人ー」
三白眼がうっすら開いた。
「……少年か」
声だけ聞けば完全に寝起きのおっさんだった。
上半身を起こした彼女は、ボサボサの金髪を掻きながら大きなあくびをする。
「何しに来た」
「昨日のお礼」
僕が袋を持ち上げると、眠そうだった目が少しだけ袋へ向いた。
差し出してみる。
金髪のメイドは受け取る前に中身を覗き込んだ。
「パンの耳」
続けて野草をつまみ上げる。
「雑草?」
「野草、食べられるやつ」
「へぇ」
そして袋の底に入れておいたタバコを見つけた途端、さっきまで半分閉じていた目が露骨に開いた。
「おっ」
「それも、よくわからないけど」
金髪のメイドは一本取り出して眺める。
「気が利くねぇ、少年」
「父さんのだけどね」
「お前それ泥棒じゃねぇか」
「数本くらいなら気づかないよ。たぶん」
彼女はしばらく僕を見てから、肩を揺らして笑った。
「昨日はいい子ちゃんだったのに」
「返してもいいんだよ」
僕が手を伸ばすと、すぐにタバコを遠ざける。
「一度人にやったもん取り返そうとすんなよ」
金髪のメイドが袋を膝の上へ置いた。
その時だった。
ぐぅぅぅ。
河川敷に、やけに間の抜けた音が響いた。
一瞬、何の音か分からなかった。
金髪のメイドの視線がゆっくり下へ落ちる。
僕も自分の腹を見る。
「……」
「……」
逃げ場がない。
「朝は食べたんだけど」
言い訳してみたものの、彼女は何も言わず僕の顔を見ている。
昼は水だけだった。
そんなことまで説明するのも格好悪くて黙っていると、彼女はため息とも笑いともつかない息を吐いた。
袋を開け、パンの耳を数本取り出し、残りを袋ごと僕へ差し出した。
「ほれ、一緒に食おうぜ」
「いや、それ昨日のお礼だから」
「腹鳴らしてる奴の飯全部奪ったら、こっちがいじめっ子みてぇだろ」
「でも――」
僕が所在なさそうにしているとタバコの箱をポケットから取り出した。
音がしない箱を振ってみせた。
「私はこれさえあれば十分なんだわ」
空箱をひらひらさせながら、カラッと笑う。
金髪のメイドは僕の返事を待たず、パンの耳を一本咥えた。
僕の前に差し出した袋を、顎でしゃくる。
断っても意味はなさそうだった。
「……じゃあ少しだけ」
僕も隣に腰を下ろした。
高架下から見える川は、夕日を反射して赤く光っていた。
昨日はあんなに騒がしかった場所なのに、今日は水の流れる音しか聞こえない。
僕らはしばらく、何も話さずにパンの耳を食べた。
食べ終わると、僕は立ち上がって服についた草を払った。
「じゃあ、帰るね」
「おう」
金髪のメイドはそれだけ返すと、その場にごろりと寝転がった。
僕も土手を上がり、そのまま家へ向かった。
〇
それから数日。
学校帰りに河川敷を通るたび、金髪のメイドの姿を見かけるようになった。
『城』の前で寝転がっている日もあれば、川を眺めながらタバコを吸っている日もある。
僕が声をかければ、「おう、少年」と返す。
向こうから話しかけてくることも、たまにはあった。
それでも名前を聞くことはなかったし、彼女も僕のことを詳しく聞こうとはしなかった。
ただ、会えば少し話す。
それくらいの関係が、いつの間にか当たり前になっていた。
その日の空には、朝から厚く黒い雲が立ち込めていた。
放課後になっても雲は晴れず、河川敷を抜ける風は湿っている。
いつ降り出してもおかしくなさそうだったので、金髪のメイドとは少し話しただけで早めに切り上げた。
「傘いる?」
「いらねー」
「そう?一応、気を付けてね」
「おう」
軽く手を上げる彼女に背を向け、僕は家へ急いだ。
玄関を開けると、いつもなら聞こえてくるテレビの音がしなかった。
「ただいま」
返事がない。
靴を脱いで居間を覗くと、母さんと父さんが食卓を挟んで向かい合っていた。
母さんはもう仕事へ出ている時間のはずなのに、まだ家にいる。
父さんの前にも珍しく競馬新聞がない。
代わりに、食卓の上には何枚もの封筒と書類が広げられていた。
「……どうしたの?」
二人がこっちを見る。
母さんは何か言おうとして、結局口を閉じた。
父さんが気まずそうに頭を掻く。
「ちょっとな」
その言い方だけで、ろくな話じゃないことは分かった。
鞄を置いて食卓へ近づく。
細かい文字はよく分からないが、書かれている金額だけは嫌でも目に入る。
「返済のこと?」
「……まあ」
「会社の?」
「銀行の分も残ってるけど、これは別」
母さんが答えた。
父さんの顔を見る。
「別って?」
「会社が潰れた直後にな、どうしても現金が必要だったんだよ。銀行はもう新しく貸してくれねぇし」
「それで?」
「まあ……ちょっと別のところから」
歯切れが悪い。
母さんが低い声で言った。
「まともなところじゃない消費者金融よ」
「……は?」
思わず父さんを見る。
父さんは視線を逸らした。
「いや、その時は本当に仕方なかったんだって。銀行の返済は相談すりゃ多少待ってもらえる。でも家賃も生活費も、残ってた支払いも全部が待ってくれるわけじゃないだろ」
「だからって!」
「すぐ返せると思ったんだよ!」
母さんが大きくため息をついた。
「あなたの『すぐ返せる』はもう信用してないからいい」
「これは賭けとは関係ねぇぞ」
「そういう問題じゃないでしょ」
父さんが黙り込む。
僕は食卓の上の紙をもう一度見る。
「いくら借りたの?」
「……」
父さんがまた黙る。
その答え方だけで十分だった。
「今日、電話が来たの」
母さんが書類をまとめながら言った。
「これから直接来るって」
「これから?」
「向こうは聞く気ないみたい」
壁の時計を見る。
まだ夕方にもなっていない。
「警察は?」
僕が聞くと、父さんが渋い顔をした。
「借りたこと自体は事実だからな……」
「でもやばい金貸しなんでしょ」
「とりあえず今日のところは話すしかないわ」
母さんはそう言ったものの、その声には疲れが滲んでいた。
ふと部屋の隅を見る。
小さな神棚には、古びた白いヘッドドレスが置かれている。
家も工房も機械もなくなった。
白縫家に残っているものなんて、もうほとんどない。
「あれは大丈夫だよね」
僕が神棚を指さすと、父さんもそちらを見る。
「何が?」
「金になるもの出せとか言われたら」
「あんなボロ、売ったところで大した金にならねえだろ」
そう言いながら、父さんの目はしばらくヘッドドレスに向いたままだった。
その時だった。
ピンポーン。
部屋の空気が一瞬で固まる。
誰も動かない。
もう一度、今度は長くチャイムが鳴った。
ピンポーーーーン。
続けて、玄関の扉が乱暴に叩かれる。
ドン、ドン、ドン。
「白縫さーん。いるんでしょー?」
男の声が、薄い玄関扉を通して響いてきた。
父さんの顔から、さっきまでの軽さが消えた。
母さんがゆっくり立ち上がる。
「……はぁ」
窓の外で、ぽつりと雨粒がガラスを叩いた。
その時、僕の目は神棚のヘッドドレスに向いていた。
父さんはテーブルでうつむいていた。
僕は無意識に手を伸ばしていた。
古びた白いヘッドドレスを掴む。
「あ! 輝李! 待て!」
父さんの声が飛んできた。
考えるより先に制服の内側へ押し込み、玄関へ走った。
扉を開けると、ちょうどチャイムを押そうとしていた男と鉢合わせる。
怖そうな見た目ではなかった。
むしろ笑顔だった。
「あれ? おにいちゃん? お出かけ?」
「……バイトです」
口から勝手に出た。
男は一瞬僕を見て、それからにこっと笑う。
「……そっかそっか、頑張ってねぇ」
身体をずらして道を空けてくれた。
その横をすり抜ける。
「輝李!」
また父さんの声がしたけど振り返らなかった。
階段を駆け下り、そのまま外へ飛び出す。
ぽつり。
頬に冷たいものが落ちた。
もう一滴、二滴。
黒い雲から一斉に雨が落ちてくる。
走った。
どこへ行くかなんて考えていなかった。
声にならない叫びがのどを引き裂いた。
なんで闇金なんかから借りるんだ。
なんで母さんばっかり働いてるんだ。
なんで父さんはあんななんだ。
あのヘッドドレスを持ってきてどうする。
別に取られるって決まったわけじゃない。
そもそも売れるのか。
売れないなら置いてきてもよかったじゃないか。
じゃあなんで持ってきた。
知らない。
分からない。
ただ嫌だった。
あれまで誰かに持っていかれるのが嫌だった。
家もなくなった。
工房もなくなった。
金もない。
昼飯もない。
昔うちにいた人たちも、もういない。
母さんはずっと働いてる。
父さんは闇金。
学校に行けば矢吹。
僕は十五歳で。
何をしろっていうんだ。
制服の内側でヘッドドレスを押さえる。
濡らしたくなくて抱え込むように走ったせいで、うまく息ができない。
雨はもう傘があっても意味がなさそうなくらい強くなっていた。
前髪から水が垂れる。
靴の中が気持ち悪い。
肺が痛い。
それでも足は止まらなかった。
何度も角を曲がった。
横断歩道を渡った。
車の水しぶきを浴びた。
いつからか舗装された道が土に変わっていた。
顔を上げる。
雨の向こうに、見慣れた高架がぼんやりと浮かんでいた。
その下に、青いビニールシートが見えた。
『城』の前まで来たところで、ようやく足が止まった。
息が上がっている。
肩で呼吸をするたび、制服の隙間から冷たい雨が入り込んだ。
「……少年?」
声に顔を上げる。
金髪のメイドが、ブルーシートの下からこちらを見ていた。
さっき別れた時と同じ格好だった。
ただ、僕を見る三白眼から眠そうな色だけが消えている。
「お前……」
何か言いかけて、僕のずぶ濡れの制服を見る。
僕は何も言えなかった。
何を言えばいいのかも分からない。
家を飛び出してきた。
父さんが闇金から金を借りていた。
その取り立てが来た。
ヘッドドレスを勝手に持ってきた。
そんなことを順番に説明する気力なんて残っていなかった。
金髪のメイドはしばらく僕の顔を見ていた。
「……駆け落ちか?」
何も返さない。
僕が黙ったままでいると、彼女は少しだけ眉を上げた。
「……まあいいけど」
それ以上は聞かなかった。
自分の横に置いてあった段ボールを足で押しやり、人一人分だけ場所を空ける。
僕はそこへ座った。
屋根代わりのブルーシートを雨粒が叩いている。
さっきまで遠くに聞こえていた音が、今はすぐ頭の上にある。
制服の内側に手を入れる。
ヘッドドレスは濡れていなかった。
それだけ確認して、また抱える。
金髪のメイドがちらりとこちらを見る。
視線は一瞬、僕の腕の中の白い布に向いた。
何も言わない。
僕も何も言わなかった。
しばらく、雨の音だけが続いた。
「いたいた」
聞き覚えのある声が雨音を割った。
身体が勝手に強張る。
土手の方を見る。
傘を差した矢吹が立っていた。
その半歩後ろには、黒い傘を持ったイヴがいる。
「やっぱここだったんだ」
矢吹は傘を肩にかけながら、僕と金髪のメイドを交互に見る。
「なんだよ白縫。お前、野良メイドとつるむようになったの?」
僕は答えなかった。
矢吹は鼻で笑う。
金髪のメイドがゆっくり立ち上がった。
「またお前かよ」
「こっちの台詞だって」
矢吹の視線が彼女へ移る。
前に襟首を掴まれたことを思い出したのか、口元が一瞬だけ引きつった。
それでも今日は、すぐ隣にイヴがいる。
そのせいか、前よりずっと強気だった。
「この前はよくもやってくれたよな」
金髪のメイドは濡れた前髪を掻き上げる。
「なんだ。泣きつきに来たのか、坊ちゃん」
「は?」
矢吹の顔から笑みが消える。
「お前みたいなの、その辺うろついてるだけで迷惑なんだよ」
傘の柄を肩に乗せたまま、わざとらしく首を傾げた。
「害獣? 害メイド?」
少し考えるように間を置く。
「まあなんでもいいや。駆除してやる」
金髪のメイドの口元が吊り上がった。
「しつけぇ坊ちゃんだな」
一歩前へ出る。
その瞬間、イヴが矢吹の前へ滑り込んだ。
音もほとんどしなかった。
矢吹が満足そうに笑う。
「イヴ。やれ」
「承知いたしました」
イヴが傘を閉じる。
地面へ置き、そのままスカートの裾を軽く整えた。
雨に濡れても、その所作だけは妙に綺麗だった。
金髪のメイドが首を鳴らす。
「今回は美人ちゃんが相手してくれんのか」
イヴは何も返さない。
ただ静かに構える。
僕は思わず立ち上がった。
「待っ――」
声が出かかった、その時。
「少年、そこいろ」
金髪のメイドが僕を見ずに言った。
「でも」
「いい子ちゃんは大人しくしてろ」
言い終わるより早く、地面を蹴った。
大きな身体が一気に間合いを詰める。
速い。
昨日、矢吹を軽々持ち上げた腕がイヴへ伸びる。
イヴは半歩だけ身体をずらした。
金髪のメイドの手が空を切る。
そのまま踏み込み、今度は肩からぶつかる。
イヴが腕で受けた。
鈍い音。
細い身体が大きく後ろへ滑った。
「イヴ!右!」
矢吹の声が飛ぶ。
イヴの身体が即座に動いた。
考える間すらない。
金髪のメイドの追撃を右へ避け、その勢いのまま脇へ回り込む。
「蹴れ!」
脚が跳ね上がる。
金髪のメイドの脇腹に直撃した。
「ぐっ……」
巨体が一歩よろめく。
それでも倒れない。
「……へぇ」
口元を拭いながら、金髪のメイドが笑った。
「そういう感じかよ」
イヴはすでに次の構えに入っていた。
その後ろで、矢吹が得意げに笑っている。
雨脚が、また一段強くなった。
金髪のメイドが先に地面を蹴った。
大きな身体が一気にイヴとの距離を潰す。
振り抜いた腕を、イヴが両腕で受け止めた。
鈍い音が響き、イヴの靴が泥の上を滑る。
「イヴ、右!」
矢吹の声が飛んだ。
イヴの身体が即座に横へ動く。
続く一撃が空を切った。
「足!」
低い蹴りが金髪のメイドの膝裏へ入る。
「ぐっ」
体勢が崩れる。
けれど倒れる寸前、金髪のメイドは地面を踏み直した。
そのまま無理やり身体を捻る。
「下がれ!」
イヴが後ろへ退く。
一歩、遅かった。
「おらぁ!」
拳がイヴの腹へ突き刺さった。
「っ……!」
細い身体が大きく吹き飛び、泥の上を滑っていく。
「イヴ!」
矢吹が声を上げた。
イヴはすぐに片膝をつき、腹を押さえながら顔を上げる。
「……美人は殴らないのでは?」
金髪のメイドが鼻で笑った。
「内面の話ね」
矢吹の顔が引きつる。
金髪のメイドはそんな反応を見て、さらに口元を吊り上げた。
「あんな主人に仕えてるくらいだと……ねぇ?」
「お前……!」
イヴは何も言わず、静かに立ち上がる。
一発まともに食らったはずなのに、足取りはほとんど乱れていない。
金髪のメイドが少しだけ目を細めた。
「丈夫だねぇ、顔面美人さん」
「恐れ入ります」
「褒めてねぇよ」
再び二人が構える。
今度は矢吹も笑っていなかった。
「イヴ。右から」
「承知いたしました」
そこからだった。
金髪のメイドが踏み込めば、
「下がれ」
届く前にイヴが離れる。
追えば、
「左」
死角へ回り込まれる。
振り向けば、
「足」
蹴りが入る。
一発の重さなら、金髪のメイドの方が上だった。
けれど、その一発を当てるまでがあまりにも遠い。
踏み込むたびにかわされ、追えば先回りされる。
逆にイヴの攻撃は、矢吹の短い命令と同時に飛んでくる。
金髪のメイドの呼吸が、少しずつ乱れていった。
「……チッ」
「遅いんだよ」
矢吹が笑った。
「お前が考えてから動いてる間に、イヴは俺の命令で動けるんだからさ」
「だったら――」
金髪のメイドが再び踏み込む。
今度は矢吹へ向かって。
けれど、その前にイヴが割り込んだ。
「止めろ!」
金髪のメイドの腕を取る。
巨体の勢いを殺しきれず、イヴも一歩、二歩と押される。
それでも手は離さない。
「崩せ!」
イヴの足が金髪のメイドの踵へかかる。
泥で滑った足元が一気に崩れた。
大きな身体が地面へ叩きつけられる。
水しぶきが上がった。
「まだ――」
起き上がろうとしたところへ、
「押さえろ!」
イヴの膝が背中へ落ちる。
「がっ……!」
金髪のメイドの身体が再び泥へ沈んだ。
「おい、どうしたよ」
矢吹が傘の下から覗き込む。
「この前みたいに俺のこと持ち上げてみろよ」
金髪のメイドが歯を食いしばり、無理やり上体を起こす。
イヴの膝を押し退け、そのまま立ち上がった。
さすがにイヴも少し驚いたように目を見開く。
「……しぶてぇんだよ、野良」
矢吹の声が低くなる。
「イヴ。もういい。沈めろ」
「承知いたしました」
イヴが一歩踏み込んだ。
金髪のメイドも構える。
けれどさっきまでとは違う。
片脚を庇っている。
息も荒い。
それでも前へ出た。
「正面!」
イヴも正面から迎え撃つ。
金髪のメイドが腕を振り上げる。
「今、右!」
途中でイヴの軌道が変わった。
拳を潜り抜け、懐へ入る。
腹へ一撃。
続けざまに顎。
「っ――」
金髪のメイドの身体がぐらつく。
「倒せ!」
イヴが踏み込む。
金髪のメイドは片膝をついたまま、まだ立ち上がろうとしていた。
「――っ」
名前を呼ぼうとした。
そこで初めて気づく。
僕は、この人の名前すら知らない。
考えるより先に身体が動いた。
「待って!」
僕は両手を広げて、イヴの前へ飛び出した。
イヴの動きが止まる。
振り下ろしかけていた腕が、僕の目の前でぴたりと静止した。
「白縫!?」
矢吹が声を荒らげる。
「何してんだよ! どけ!」
「……嫌だ」
自分でも驚くくらい、すんなり声が出た。
背後から荒い呼吸が聞こえる。
振り返る。
泥だらけの金髪メイドが、片膝をついたまま僕を見上げていた。
僕は制服の内側から、ずっと抱えていた白いヘッドドレスを取り出した。
雨に濡れないよう守ってきた、白縫家に残った最後の一つ。
それを握りしめる。
「……契約、しよう」
すぐ近くで雷鳴が響いた。
一瞬だけ目を丸くしたあと、金髪のメイドは笑った。
「……ハッ。上等じゃねぇか」
契約には、主人から渡すものと、もう一つ。
知らないなら――僕が与える。
「……契約するぞ」
金髪メイドが片膝をついたまま顔を上げ、僕を見る。
ヘッドドレスを握る手に力を込めた。
「君の名前は――」
僕はヘッドドレスを握りしめ、彼女を見た。
「――ベル!」
その瞬間。
轟音が河川敷を揺らした。
空を引き裂くような稲光。
すぐ近くに雷が落ち、真っ白な光が一瞬だけ辺りを塗り潰す。
僕は思わず目を細めた。
光が消える。
ベルは、片膝をついたまま笑っていた。
ゆっくりと立ち上がる。
泥にまみれ、傷だらけで、それでも背筋だけは真っ直ぐだった。
ベルは僕の手からヘッドドレスを取った。
古びて、ほつれて、色までくすんだ白縫家最後の一つ。
それを両手で広げると、自分のボサボサの金髪の上へ載せた。
サイズは少し合っていない。
雨に濡れた髪の上で、わずかに傾いている。
それでも、その姿を見た瞬間。
胸の奥で何かが繋がった。
ベルが三白眼を細める。
さっきまでの粗暴な笑い方とは少し違った。
ほんのわずかに腰を落とし、僕へ頭を垂れる。
「……ご命令を、ご主人様」
「……えっと、いい感じに?」
「は?」
「倒してほしいわけじゃないし、でもなんとかしてほしい……」
「はっきり言え!」
「えっと……『負けないで!』」
「はぁ……まあいいよ。柔軟な対応が持ち味なんでね」
ベルが改めて構える。
「承知いたしました、ご主人様!」
ベルが構え直す。
さっきまでと同じはずだった。
泥だらけで、片脚を庇って、息だって荒い。
それなのに。
「イヴ! 右から――」
矢吹が命令を出し切るより先に、ベルが消えた。
「え?」
一歩。
ただ踏み込んだだけだった。
なのに、さっきまで何度も逃していたイヴの懐へ一瞬で入り込んでいる。
イヴが腕を上げる。
ベルは殴らない。
身体を沈め、伸びてきた腕の下をくぐると、そのまま背後へ抜けた。
「イヴ、左、ちが、後ろ!」
振り向く。
もういない。
「こっち」
真横から声がした。
イヴが反応するより早く、ベルの掌が肩へ触れる。
押した。
それだけで、イヴの身体が大きくよろめく。
「な……」
矢吹が言葉を失う。
僕も同じだった。
何も言っていない。
右とも、左とも。
避けろとも、殴れとも言っていない。
ベルは自分で見て、自分で考えて、自分で動いている。
「イヴ! 捕まえろ!」
イヴがベルへ手を伸ばす。
ベルは半歩だけ引いた。
指先が空を切る。
続けてイヴが踏み込む。
「足を狙え!」
蹴りが飛ぶ。
ベルは避けなかった。
片脚を上げ、その靴底でイヴの靴を踏みつける。
「え――」
乾いた音がした。
ぱきっ。
イヴの片方のヒールが折れた。
突然高さを失った足に身体が傾く。
ベルはその肩を軽く押した。
イヴが尻もちをつく。
「っ……」
立とうとする。
けれど左右で高さの違う靴では、すぐにバランスを崩した。
ベルは追撃しなかった。
ただその場に立って、イヴを見下ろしている。
「……」
イヴも一度自分の足元を見ると、静かに構えを解いた。
「申し訳ございません、戦闘続行は困難です」
雨音だけが残った。
ベルが僕の方を振り返る。
「……いいか?」
「え?」
「負けてねぇだろ」
「あ……」
そうだった。
僕が出した命令は。
勝てでも、倒せでもない。
「う、うん」
ベルが満足そうに笑う。
「じゃ、命令達成」
そう言ってから、ゆっくりと矢吹へ顔を向けた。
「で」
矢吹の肩が跳ねる。
「害メイドだっけ?」
「ひっ……」
ベルが一歩進む。
矢吹が一歩下がった。
前に襟首を掴まれた時のことでも思い出したのか、顔が引きつっている。
「きょ、今日はこのくらいにしといてやる!」
矢吹が踵を返す。
「おい!」
「ひぃっ!」
「ちゃんと面倒見ろ!」
ベルがイヴを指さした。
折れたヒールのせいで、立ち上がるだけでも歩きづらそうにしている。
矢吹が信じられないものを見るような顔をした。
「は? なんで主人種の僕が……」
ベルの三白眼が、ぎろりと細くなる。
「ひぃ……」
矢吹はすぐにイヴのところへ戻った。
ぎこちなく肩を差し出す。
イヴは少しだけ目を丸くしたあと、
「……失礼いたします」
と、その肩を借りた。
二人は、雨の向こうへ消えていった。
姿が見えなくなるまで見送ってから、ベルが大きく息を吐く。
「はぁぁ……」
その場にどさっと腰を下ろした。
「つっかれたぁ」
さっきまでの格好良さはどこへ行ったんだ。
「大丈夫?」
「全身いてぇ」
「ご、ごめん」
「なんでお前が謝んだよ」
ベルはそう言って笑った。
頭には、あの古びたヘッドドレスがまだ載っている。
雨に濡れて、金髪に張りついている。
僕はそれを見ながら、ようやく実感した。
本当に契約したんだ。
名前も知らなかった野良メイドと。
つい数日前まで、話したことすらなかった相手と。
「……ベル」
呼んでみる。
「ん?」
ちゃんと振り向いた。
それだけのことが、なんだか妙におかしかった。
「いや……呼んでみただけ」
「なんだそりゃ」
ベルが鼻で笑う。
少しして、ふと思い出したようにこちらを見る。
「てか、お前んち雇う金あんのかよ」
「……ない」
「あーあ、どうする?」
「えっと、とりあえず寝床と三食昼寝付きでどう?」
ベルが黙る。
数秒。
「……最高かよ」
その顔が、今日までで一番嬉しそうだった。
その時、さっきまで地面を叩いていた雨がふっと弱くなった。
僕らは同時に空を見上げる。
黒く垂れ込めていた雲が、ゆっくりと割れていく。
その隙間から漏れた光が、濡れた河川敷を照らした。
水滴をまとった草がきらきらと光り、川面にも白い筋が伸びていく。
その光は、並んで立つ僕とベルの上にも差し込んだ。
ベルが眩しそうに目を細める。
古びた白いヘッドドレスが、金髪の上で淡く光っていた。
読み切り版です
後日、リブート版に差し替え予定です。




