〜22〜感謝のおっぱい
その日は帝と2人きりで話す機会があったので、乳母の事を聞いてみた。
貴族は自分の乳で子を育てないと聞いていたが、母は特に病弱だったため、俺はほとんど乳母から栄養をもらって大きくなったのだとか。
惟光の母は大弐と呼ばれる、数いる乳母の中でも筆頭の役職だそうだ。乳母も複数いたら上下あるんだな。
それよりも、惟光が飲むための乳を俺に分け与えて育ててくれたと聞けば、愛人に会いに行っている場合ではない気がした。
愛人という存在には興味があるが、ここはいつも頑張ってくれてる惟光への恩返しだと思おう。
よし、やっぱりお見舞いが先だ。
退出の時に用意されていたのは、いつもより地味な車だった。
まるでお忍びで出かける時のような、身分を隠すというか、誤魔化すかのような。
こちらの女房が用意した着物もさり気ないものだったし、出発してしまえば先導して歩く者もいない。夜にはいつも松明を持った前駆や、周りには警護のためか人がぞろぞろいるのに、これはもしや愛人に会いに行くために用意されたのだろうか。
ここまでお膳立てされてしまうと、六条にいる愛人とやらに会わないと申し訳ないような気がした。
「いや、でもなあ」
惟光だってちょっとは期待して待っているかもしれない。いつでも会える(のかどうかは正直分からないが)人よりも、病で弱っている人が優先だと思い直し、車の外に惟光の家に行くよう声をかける。
惟光の家がどこか知らなかったが、行き先を大きく変更する様子がない。後で聞いた事なんだが、惟光の家は五条にあったようだ。愛人の家が六条だから、その手前って事かな。
ギッと音を立てて牛車が止まった。どうしたのかと外を確認すると、牛車の入れる門は施錠されていると返答があった。
「惟光、俺が来るって欠片も思わなかったのか」
ちょっと淋しく思いながら、惟光を呼ぶよう指示した。待っている間、辺りの様子を伺っていると、白いものが視界の端を掠める。
ふと、既視感。
なんだっけ、白い、何か。
目を伏せて考えるが、頭の中は相変わらずモヤだらけ。やっぱり思い出せない。
いつものことにふっと息をはきだし、顔を上げるとやはり白いものがある。
なんだと目を細めて注目すると、木の垣根から緑の蔦と白い花が一輪だけ垂れ下がっていた。
「先輩のイメージ?いや……ちょっと違うか」
先輩の顔は思い出せないのに、花のイメージだけがはっきりしている。
白い花弁がシュッと細長く、つるんとした質感に5枚が星型に広がっているような花のイメージ。だが、そこにある花はもっと丸みがあって大ぶりだ。遠くから見ていると、ほとんど円に見える。
花弁の数も分からないが、一輪だけ咲いているので目に止まる。
はっ!
人はこれを風流と言うのか?
ふと、垣根の奥に目が行く。
「お……」
少しだけ、ギョッとした。数人がこちらを見ているかのようなシルエットが見えたからだ。
いや、ひょっとして外から中を覗き込んでいる変な人がいるぞって、警戒しているのかも。今日は特に貴人が乗るような車ではないし、怪しい変態だと思われているかもしれない。
これはいかん。
俺は慌てて言い訳を考え、袂に入れっぱなしの古今和歌集の存在を思い出した。
なんか、花の事を歌ったものがあったような。
パラパラとめくり、それを見つけた。
「うちわたす遠方人にもの申す……我そのそこに白く咲けるは何の花ぞも」
勉強中のフリをして前半は大きく、後半は小さく。後半が小さくなるのは本当は覗き見していた俺の自信のなさだ。
その声を拾ったのは随身……俺の警護のために付き添っている従者だった。
「あの白い花は夕顔という名前です。人を模したような名前ですが、こんなみすぼらしい垣根によく咲いていますね」
「夕顔……?」
朝顔の仲間かな?ここからではそんな風に見えないけど。
「みすぼらしい場所に咲くなんて残念だな」
ここからだと、白くて綺麗なのに。
「近くで見ると違うのかな」
ポツリとそう呟くと、随身が気を利かせて言ってきた。
「一房、手折って参りましょう」
おお、気の利く従者だ。
俺は静かに頷いて、随身が戸口に向かっていくのを見守っていた。
少し高いところにある為か随身が手間取っていると、スッと扉が開いて小さな女の子が出てきた。この家の女童だろうか。黄色い袴をずるずる引きずって動きにくそうだが、扉の前で手招きしている様子が愛らしかった。
男の子もかわいいけど、女の子もかわいいなぁ。動きにくそうだけど、大人の服をきて喜んでいる子みたいでかわいい。ま、普段着なんだろうけどさ。
ニコニコしながらその子を見ていると、チラリと白い扇が見えた。花を指差し、扇を渡している。その様子もまたかわいい。
随身が花を手折り、女童が差し出した白い扇に夕顔の花を乗せた時だった。
惟光の家の扉が開いた。
「あ、惟光。やっと出てきた」
そう呟いたが、惟光は俺の方ではなく随身を見ている。何をしているのかと思っているようだが、随身は惟光に気がつき、恭しくそれを手渡した。
簡単に経緯を話しているのか、随身と惟光の間に少しの会話があり、扇を受け取った惟光がこちらに歩み寄って来る。
「枝もなく風情が足りないので、こちらの扇に乗せて差し上げるようにと、あの家のものが配慮してくださったようです」
そう言いながら手渡されたその扇からは、焚き染めた香の良い香りが漂っていた。
おしゃれだな。
「それよりも大変お持たせして申し訳ありません。鍵をどこかに置き忘れたようで」
申し訳なさそうに言う惟光。
「若様の正体に気が付くような者は、この辺りにはいないと思いますが、こんな道端でお待たせして申し訳ない事です」
惟光の誘導で牛車が動き出す。門の中に入ったところで車から降りると、僧侶の格好の人が顔を覗かせている。
「兄の阿闍梨です」
惟光がそう紹介した。紹介された阿闍梨が柔和な顔に笑みを浮かべて頭を下げた。その後ろから公達が顔を出す。
「これは、かの源氏様にお目にかかれるとは。こちらの家の婿でございます」
丁寧な挨拶に、こちらも頭を下げる。
「三河守です」
惟光が補足してくれる。
家族に案内されて家の中に入ると、寝たきりの病人とそれを囲むように女性が2人座っていた。娘さん、かな。どちらかは、さっきの三河守の奥さんかも。
「まあ、なんと。私のような者のために、こんなところまでお越しくださいまして、本当になんて申し上げたら良いのか」
恐縮しつつ礼を言う老女が乳母だろう。起き上がって挨拶しようとするので、慌ててそれを押し留めようとしたが、上半身を起こしてしまった。
「惜しくもないこの身ですが、こんなお姿を若君にお見せするなど心苦しくて、しばらく出家をためらっておりました」
弱々しい声でそう言う乳母の様子を見ていると、胸が締め付けられるような気がした。小さい俺を惟光と一緒に面倒見てくれた人だと思うと、より一層弱っている姿が辛い。
「このように立派なお姿を見られたのですから、いつお迎えが来ても良いと思えるほどです」
そう言って泣く姿が、なんとも弱々しくて思わずその手を取った。
「何日も病状が良くならないと聞きました。世を捨てるなどと聞きますと、わたしもとても悲しく思います」
「そうですよ、母上。長生きして、若様のさらなる出世を見届けねばいけません。そうすれば極楽浄土の最上位にも行けましょう」
なんじゃそりゃ。
大袈裟なとは思ったが、納得してそうな様子に便乗して励ます事とする。
「この世に未練が残るのは良くないことですよ」
「おお、おぉ……」
優しく言ったのがいけなかったのか、大粒の涙を零して泣き崩れる尼君。
ど、ど、どうしよう。
背中とか摩ったらいいかな?
とりあえず懐紙出して、いや、もっと涙を吸い取れるような布があるか。
おろおろ見せないようにしていたが、困って惟光をチラ見した。
すると惟光は目を閉じて、うんうんと首を上下に振っている。
アドバイスくれよー




