〜21〜脱出の失敗
「礼、残り1分よ」
了解、と軽い口調の師匠が、冬香さんの肩に手を置いてひとつ撫で、絵の前に立つ。すぐに取り込みが始まり、吸い込まれるように消えていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「師匠、大丈夫でしょうか」
「心配しなくて大丈夫よ。だって彼は……!」
冬香が光に説明しようとしている途中だった。絵の前の虚空が黒く歪み、バチンッと弾けるような大きな音。
「きゃ!」
絵の真横にいた冬香は、絵から吐き出された礼と共に壁に飛ばされる。撮影小物の花瓶が大きな音を立てて割れた。礼と壁に挟まれた冬香は、しばし息もできずに痛みに震える。
「え?師匠!」
空間の歪みは消える事なく、歪な形に変化する。にゅっと伸びて呆気にとられている光を掴んだ。
「うお!おぉおおお!」
足から引きこまれていく光。
「え!まじ……?えぇえ〜」
その光景を見た礼から気の抜けた声。しばし呆気にとられていたが、ややして冬香を抱えるようにして上体を起こす。
「いたた……どうなった、の?」
額に手をあて、絵の方を見た冬香。目が彷徨い焦点が合っていないところを見ると、頭を強く打ちつけているようだ。
その背中を優しく撫でながら、礼は大きなため息をついた。
「よっぽど気に入ったって事かな?光、惚れられたな」
宙を見てしばし考えた礼は、冬香の顔を覗き込む。
その瞳をじっと見つめ、目の焦点が自分に定まるのを確認すると口を開いた。
「大丈夫か」
少し反応が遅いが、静かに頷くのを見て安堵の息を漏らす。
再び壁を見る礼。
しばらくして、ぽつりと呟いた。
「オレ、フラれたって事?男前度たりない?」
「……そういうの気になるんだ」
気になる訳じゃないけど、とブツブツ言いながら拗ねた表情を作る礼。背中にあった癒しの手が後頭部に移動する。
冬香は小さく笑うと、礼の頬を撫でた。
「世界一素敵な人よ。ありがとう、もう痛くないわ」
礼に微笑むとその手を離れて、割れた花瓶の破片を一つ拾う。
割れた花瓶は、次の瞬間には元の状態に戻っていた。
「駅で見た時から違和感はあったし、やっぱりあれはマーキングだったんだな」
そう呟く礼の膝に、雀が飛び乗ってくる。
「お前は助け出されてよかったな」
ふと、顔を上げた礼。店の入り口のほうをじっと見つめる。ややして冬香に顔を向けて問う。
「猫は雀食べる?」
ビクッとした雀が慌てて冬香の手に逃げ込む。
「マイカはそんな事しないわ。大丈夫よ、小さな付喪神さん」
付喪神に見せる冬香の表情は格別に美しい。礼は何も言わずにその顔を見つめていた。
「あなたにも名前が必要ね。どうしようかしら」
冬香の人差し指に飛び乗って、嘴を擦り付けるようにする雀。
「そうだわ。タルクにしましょう」
嬉しそうに言う冬香。
それを微笑ましく見守っていた礼は、思い出したように壁の絵を眺めて軽く息を漏らす。
タルクに頬を寄せていた冬香も、それに気がついて口を開く。
「こうなったら、長期戦を覚悟するしかないのね。美里さんが無事戻ってこれるかどうかは、瓊樹の学生である事に賭けるしかないわ……」
「そうだな。ま、でも、さすがにそんな都合よくいかないか……。若月、なんかいいアイデアとか、いいアイテム作ってくんないかな」
「藤沢から帰ってきたら相談してみましょう……早々にとはいかないでしょうけど」
落とされた溜息を拾う者はおらず、2人はしばらく絵の前で思案に耽るのであった。
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けたたましく鳴く蝉の声に、スッと目を開く。
汗ばんだ額に手を置いて、状況を確認すべく目を動かす。
そのまま手で汗を拭うと、体を起こして左右を見た。
俺、何してたんだっけ。
二条の屋敷に戻っている。
『光、弾け』
「あ……師匠」
うっすら覚えている。今回はどこまで記憶が残っているのだろう。
師匠は巻毛のイケメンで、俺には冬香さんの呪い?保護?がかかっている。
探さなきゃいけないのは先輩で……なんの先輩かは分からないが、同じ学校の人だと思う。
……学校ってなんだっけ。
あ、いかん、これ考え始めたら深みにハマる。
違う事考えよ。
ん〜、先輩ってどんな人だったのかな。
「先輩……先輩……笑顔が、白い花のイメージの人。可愛い人……女、だよな?」
たぶん。
それ以上は思い出せそうにない。
「俺、いつこっちに戻ったんだ?」
あ、そうだ。
小君と西の姫と外に出た。師匠に言われて怨霊を弾いて、その後怨霊はどうなった?
確か西の姫が怨霊だったな。先輩かもしれないと思っていた、囲碁を打っていたもう一人はまだ確認できていない。
う〜ん、と考えながら寝室を覆う布を捲ると、左右下方に何かの塊が見えて、心臓が跳ねる。
ビクッとした瞬間、布からビリッと刺激。
「静電気とのダブル……。やっぱ、これ心臓に悪い」
そうだった。両側に狛犬のような置物があるんだった。
胸に手をあて撫でる。
「若様」
惟光の声がしてその姿を見つけた。
「気落ちしないでくださいね」
そう言って手に持った衣を差し出してくる惟光。
これは何だと思いながら受け取った。
「この衣1枚残して逃げるなんて、よほど身持ちの固い方なのでしょうね」
ああ、あの先輩かもしれない人が残していったのか。こんな衣、あったかな?
「こちらの方で、さりげない様子で文は送っておきましたよ」
「なんて書いたんだ?」
「空蝉の身をかへてける木のもとに なほ人がらのなつかしきかな、と懐紙に走り書きのように書きました」
「えっと……あぁ、この衣を蝉の抜け殻に例えたのか。上手いな」
「お返事はありませんけどね。あのお使いをしてくれた小君も見当たりませんで、届いたのかどうかも定かではありません。もう、難しいかもしれませんね、空蝉の人とは」
空蝉の人か、上手いことを言う。
「まぁ、時々は文を出して様子を伺いましょう。この件はお任せください」
先輩か否かだけでも確認しないといけないし、安易に諦めちゃダメだ。たとえ振られたとしても、恋人にしたいわけじゃないし関係ない。
傷つくけど……
「そうだな……。うん、頼んだ」
惟光の有能ぶりに感謝しつつ、ふと見舞いの件を思い出した。
「母君の様子はどうだ?」
「はい。出家してなんとか持ち直したようですが、まだ起き上がるほどには回復しておりません」
「そうか。今日にでも見舞おうか?」
そう問うと惟光は首を傾げる。
「出仕後は六条へお渡りでは?」
「え?六条って?」
なんか約束でもしてるのかな。
「若様、愛人もお忘れなんですね。でも母のことを覚えていてくれて嬉しいです」
惟光の感動も気付かぬほど、俺は今、驚いている。
あ、愛人?
妻もいて、愛人までいるのか。
その愛人が先輩だなんて事は……あるかなぁ……いや、さすがにないよなぁ……でも、あるといいなぁ。
俺の心が読めたのか、惟光がくすりと笑う。
「気が向いたらで結構でございますよ。今日はわたしも実家の方におりますし。近頃忙しくて、六条の方へもあまり渡っておられないでしょう?あちらでも気を揉んでいるかもしれませんから」
「そ、そうか?」
よからぬ妄想が脳内を駆け巡りそうだったが、首を軽く振って追い出す。
「あ、古今和歌集ちゃんと読んでおいてくださいね。六条へは手習いで通うのですから」
え、勉強が言い訳なの?それとも勉強から派生したのか?
それはちょっと面倒だな。
俺は惟光から古今和歌集を手渡されながら、勉強と聞いて行く気が萎えていくのを感じる。
今日、帰りに気分で決めてもいいかと、そう思った。




