〜20〜帰還 はなちるさと2日目
ぷっ、と吐き出される様にして床に転げ落ちる。
「光!」
警告めいた男の声が俺の名を呼ぶ。その直後の凄まじい悲鳴。
「ぎゃあぁあああ!」
俺の胸元からだった。思わず耳を塞ぎそうになったが、その前に上から声が降ってくる。
「お前、凄いの連れて帰ってきたな」
耳を塞ぐのをやめて見上げる。
巻毛の美男子がこちらに手をかざしていた。何をしているのだろうとその手を見ていると、ゆらりと空間が陽炎のように揺れる。
胸元の悲鳴が小さくなりつつあり、俺は首を捻った。
なんだっけ、これ。どこかで……
「はっ、師匠!」
そう叫ぶと師匠こと”安堂寺 礼”は巻毛を揺らしてにやりと笑った。
完全に戻った記憶とともに、視界に変化が起きる。師匠の手元から青い粒子が俺の胸元に伸びていた。怨霊の動きを止めてくれているのだろうか。
実を言うと怖くて確認できなかった胸元を、師匠がなんとかしてくれるのだと信じて勇気を振り絞り、それでも恐々と視線を落とす。
灰色の肌で髪が所々残っている禿げた頭部。残っている髪は長く、肩を流れて腰に絡まっている。ぎょろりとした目はこぼれそうなほど大きいが、異様なサイズで恐ろしい。腕は変わらず俺の首に絡まっており、離すまいと必死にしがみついている。いや、腕だけじゃなく、長い髪も俺に絡みついている。裸の女であることは変わりないが、その容姿からは、もはや色気を感じることはできない。
ぞわりと悪寒が背中を撫で、緊張が全身に走る。
蠢くように体をビクつかせている西の姫であったソレは、師匠の手から出ている粒子に囲まれて動きを制限されている様だ。
「かなり古い怨霊だな。こいつ、何年もの?」
ワイン品評のような師匠の物言いと、緊張感のない声色が強張った俺の体を少し和らげた。
「光、弾け」
まるで音叉の響きが耳の奥に吸い込まれていった時のように、師匠の声が号令のように体に浸透し、言われるまま弾くイメージを怨霊に向けた。
「ぎゃ!」
短い悲鳴と共に俺から弾かれ離れる怨霊。それを待っていたかの様に師匠の両手が円を描く。その動きに合わせる様に動く粒子は、怨霊を小さく丸めていった。
「す、凄い……」
床に座ったままその様子を見ていると、師匠が手を小さく丸めていくと同時に、粒子も集束し始め、怨霊は断末魔の叫びを上げながら小さくなる。上下に合わせられた師匠の手には、ほんの少しの盛り上がり。それを押して潰す様に平くなった手を、パンっと払って見せた師匠は自らの手を確認する。
俺は慌てて立ち上がってその掌を見た。
当たり前のように、そこには何もない。
「ま、中で祓えなかったらこんなやり方もありかな。光、まだビギナーだし。しかし、朧くらいは連れて帰ってきそうだと思っていたが、いきなり怨霊とはな」
「おぼろ?」
首を傾げた俺にの目の前に、すいっと現れるグラス。
「光くん、お水」
冬香さんが心配そうな顔で、トレーに乗ったコップを差し出していた。
「ありがとうございます」
ごくりと飲むと水分が体に浸透していくようで落ち着く。
はあぁと大きく息を吐き出し脱力する。背中を床につけると立ち上がれないような気がして、後ろに倒れそうになった体を、手のひらで支えた。
そんな俺に冬香さんからの質問。
「光くん、美里さんには会えた?」
「いいえ、まだです。実はさっきの怨霊が先輩じゃないかと思っていたくらいです」
「そう……もう2日経ってしまったわ。諦めるにはまだ早いけど、覚悟だけはしておいた方がいいわね」
「え、覚悟って……」
問い返すも、冬香さんは悲しげに瞳を揺らすだけで答えてくれなかった。
「先輩はどうなるんですか?この絵に入っている間、俺ってどうなって……いや、体ってどうなってるんですか」
ここに体が残っている?魂みたいなものだけ、この絵に入っているとか?
異様に美味しいと感じる水。もしかして、と不安が過ぎる。
「カシェットの中ではほとんど霊体の状態で活動しているの。この現実と逆の状態を、さらに逆の状態で表現された世界なのよ。だから、朧や傀も見た目には普通の人のように見えるの」
えっと、話が難しくてよく分からない。
しかも、オボロやクワイってなんだ?
忘れているだけなのか、知らないのか、今の混乱した頭では分からない。
「つまり、こちらと感覚は同じだけど、実際には肉体が霊体に守られていて、表に出ているのが霊体のほうなの。それで肉体は、簡単に言うと冬眠のような状態になっている。普段よりも代謝は落ちて、しばらく食べなくても大丈夫よ。でも個体差がかなりあるし、長引けば弱ってしまうのは避けられない……」
そこまで言った冬香さんは、首を振って言い直した。
「いいえ、下手をすると死んでしまう事もある。前もって保護でもされていない限り、早ければ1週間で限界がくるわ。長くても20日前後よ。だから、できるだけ早く美里さんと合流してほしかったんだけど……」
死ぬ。
もしかしてと考えなかった訳ではないが、意図的に避けていた。
「いや、それよりも、だ」
唸る様に言った師匠は、俺の足元に目を落とした。
「付喪神までいるのか」
顎に手を当てて、とんでもない事のように言う。
付喪神?
なんの事だろうかと足元を見ると、白い雀が俺を見て飛び跳ねていた。
「え!雀?」
いつからいたんだろう。
手を差し出してみると、雀は俺の手にちょこんと乗ってくる。
「人懐っこいな、お前」
癒される可愛さだ。まるで小君のような……
「こ、小君!」
小君の存在を忘れていた。腰にしがみ付いていたはずだが、一緒に出て来れなかったのだろうか。
「チュン」
小君の代わりに雀が返事をする。
違うのにと雀を見て、困った顔をして見せた。
だがしかし……
「ん?」
どことなく、小君のように感じた。
目かな?
何が似ているのかと問われると困るのだが、雀が小君に思えてならない。
「コギミってのは、さっきの怨霊とは別か?一緒に戻ってきた記憶はあるか」
師匠から質問が飛んできて、慌てて答えた。
「は、はい。首に女性の腕が、腰には小君……男の子がしがみ付いていたはずです」
「ほぉ、なるほど」
師匠は俺に顔を寄せて何かを見ている。しばらくじっと見つめられ、どうしようかと目をウロウロさせていると、今度は壁の絵を見ている。
師匠、一体俺の何を見ていたの?
「色々取り込んでいるようには見えたが、そこまでとは見抜けなかったな。これは、光の手に追えるモノじゃない」
「そこまでってのは、この雀の事ですか?」
「そうだ。付喪神まで取り込んだ怨霊となると、相当古いモノになる。古物はえてして強くて狡猾だ。実力はもちろんの事、知識も経験も必要になる」
冬香さんもそれに頷いて、手振りで俺に下がる様に指示する。
まあ、とため息混じりに前置き、続ける師匠。
「無事に帰ってこれそうな奴は、ここのメンバーでも少ないだろうし、適性を探している時間もない。若月がオレに行けと言った意味が分かったよ」
「礼、残り1分よ」
了解、と軽い口調の師匠が、冬香さんの肩に手を置いてひとつ撫で、絵の前に立つ。すぐに取り込みが始まり、吸い込まれるように消えていった。