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9、死去

 八井田玄やいだげんも四十歳になった。

 四十という数字を感じると、それだけで体が急激に衰えたように思えた。

 椅子から立ち上がる腰に重さを感じた。いつもより心も体も重たかった。


 玄はカレンダーの前に立ち、しばらく呆然とした。

 過ぎ去った年月を振り返ると、長いようであり、短いようでもあった。

 つい最近三十歳だった気もするが、遠い過去はどこまでも遠く感じた。

 過去が長くなるほどに虚無感が増大してきた。


 小説家になるという夢は今でも継続していたが、かつては熱く燃えていた情熱も今では風前の灯のように感じられるようになった。


 気が付けば、去年は一度しか新人賞に作品を投稿していなかった。

 二十代のころは七作品の投稿を継続していたが、最近は執筆の速度が低下していた。一切小説を書かない日もあった。


 しかし、小説家への執着心だけは今でも強かった。夢に執着する気持ちと現実の体力、精神力の乖離はとても大きかった。


 玄は机の上にある原稿用紙に目を向けた。

 気力はなかった。どうせ、書くだけ無駄なんだという投げやりな気持ちが先行した。


 しかし、玄は原稿の魔力に引き寄せられた。


 ドーパミンは出てこないが、魔力めいたい使命感は玄を突き動かした。

 彼の記憶の彼方にあるあまりに強すぎる力が玄に作用していた。


 それは聖なる力なのか、呪いの力なのか。


「記代子さん……」


 鉛筆を持った玄は誰かの名前をつぶやいた。

 涙が込み上げて来た。その涙が彼の手を動かす力となった。


 ◇◇◇


 生活のために、玄は今でも工場に勤めていた。

 高校を出てからずっと勤めているので、彼は二十五年勤務のベテランだった。

 しかし、この界隈の仕事は、勤務年数が長くなればなるほど余計に尊敬されなくなっていく職業だった。

 事実、年寄りは若い従業員から厄介者扱いされる傾向だった。


 仕事のルーティーンは昔から変わらない。稀に新しい受注があっても、これまでの作業のマイナーチェンジに過ぎなかった。


 慣れた作業でもあり、マンネリ化した作業でもあった。

 しかし、生活のために玄は文句を言わず作業を続けた。


 定期的に新人が入ってきたが、その大半が短い間に退職していった。

 最近は半分が外国人労働者に置き換わっていた。


 玄は最近、大槻とラインを担当することが多くなっていた。

 大槻は自分が新人のころに世話をしてくれた上司だった。

 新人だった自分を優しく丁寧に指導してくれた恩師だ。


 大槻はかつて笑顔の絶えない好青年だった。

 最近はたんと口数、笑顔ともに減っていた。

 玄より七つ年上ということもあり、体力的な衰えも顕著だった。

 オーブンの洗浄業務は腰に負担がかかるので、大槻は息を荒げながら苦しそうにした。

 玄は大槻に声をかけた。


「大槻さん、無理はなさらないでください」

「あ?」

「無理はなさらないで」

「この野郎、おれを年寄り扱いするのか?」

「いえ、そんなつもりでは」

「……」


 大槻はしばらく玄をにらみつけていたが、やがて目じりの筋肉を弛緩させた。


「すまん」

「いえ……」

「おれは誰にも愛されない足手まといなんだよ」


 大槻は機械音にかき消されるような小さな声でそうつぶやいた後、空元気な笑顔を作った。


「ホース取りに行ってくるよ」

「お願いします」


 玄は大槻の最期の言葉に形式で応えた。


 翌日、作業が始まる前に、従業員一同が事務所に集められた。

 事務長は従業員に訃報を伝えた。


「すでに聞いている者もいると思うが、昨日大槻が亡くなった」


 玄はこのときに初めて大槻の死を知った。

 事務長は大槻の死因については触れなかったが、大槻を良く知る従業員の話では自殺だったらしい。


 大槻の死は、玄にとって少なからずショッキングな出来事だった。

 身内の死のような悲しみはなかったが、他人の死として片付けることはできなかった。

 どことなく、大槻の姿がほんの少し先の自分と重なって見えた。


 玄はしばらく抜け殻になったように放心していた。

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