3、二十代最後
八井田玄は三十歳の誕生日を明日に控えていた。
このころ、彼は何もなかった部屋にカレンダーを設置するようになっていた。
彼は自分の誕生日「七月九日」をしばらく見つめていた。
無言で誰かと会話をするように、彼は繰り返しうなずき、苦笑を一つ挟んだ。
「ごめんな。ずいぶんと待たせてしまって。でも、手ごたえがあるんだ。本当だよ。まだ実績はないけれど、確かに手ごたえがあるんだ」
彼は誰かにそう述べると、カレンダーに背中を向けた。
玄は小説家を目指す傍ら、隣町の食品加工工場に勤めている。
高校を卒業した後から、ずっとそこで働いていた。
当初は契約社員として勤め始めたが、去年から派遣契約に切り替わった。少しだけ時給が上がったが、ボーナスや退職金がカットされたので事実上の降格だった。
勤務地に到着すると、いつもどおりロッカーに向かった。
少し前から若い新人が入ってきており、その新人が先に着替えをしていた。
「どうも、八井田さん」
「おはよう、山田君」
玄は二十九歳、山田は二十三歳だったが、親子ぐらいの差があるように見えた。玄は年配に見間違えられるほど老け込んでいた。
「仕事には慣れましたか?」
玄は後輩に対しても敬語を使った。
「激やば勤務に参っちまいましたよ。普通に前の職場のほうがマシっすよ。しかも、来週から夜勤があるんでしょう? マジ無理っすわ」
「ですが、夜勤は時給が高いですから。ぜひ、共に頑張りましょう」
玄は山田と同じラインで彼の指示指導をしながらの勤務となった。
「今日はタルト生地ですから楽ですよ」
「マジでピザのトッピングじゃなくて良かった。おれ、あの作業のせいでピザが嫌いになっちゃいましたからね」
山田は両手を上げて喜んだ。
今日はオーブンの前で立っているだけの時間が多いので、比較的楽な作業だった。
会話をするゆとりも十分にある午前中の勤務となった。
「八井田さんって、高卒からもう十年以上働いてるんすよね? そんだけ勤めたら何かいいことあるんすか?」
「しばらくは昇給もありましたが、スタッフが派遣一本化になってからは、そういううまみもなくなってしまいました」
「なんか詐欺っぽい話っすね。普通、勤めたらいいポストにつけたりするもんじゃないっすか」
「仕方ないです。本社入りの採用試験もありましたが、大卒が条件でしたし」
「ずっとここで働くんすか?」
「どうでしょう。いつまで働くことになるのでしょうか。一応、僕には夢があるんです。そちらがうまくいけばいいのですけどね」
「夢なんてあるんすか? なんか意外っすね。え、夢ってなんですか?」
「そんなにたいしたことではありませんよ」
玄は具体的に夢の内容を話さなかったが、その夢が玄の生きる原動力そのものだった。
仕事を終えて帰宅した玄は二十代最後のチャンスに臨んだ。
投稿していた小説新人賞の第一次選考の結果が今日発表されることになっていた。
玄はパソコンを取り出してきて、机の上に置いた。
選考結果はホームページにすでに公開されていた。
そこに「八井田玄」の名前はどこにもなかった。
彼は三十歳の日を小説家志望として迎えることになった。




