シンクシ 5
隣が男性の湯だと分かっていらしたのだから、たとえ僕たちに対する呼びかけに返事がなかったところで、あのような会話をするのは避けていただきたかった。
先程は、偶然にも他に利用客の方がいらっしゃらず、無人だったからよかったものの、もし、あのアイリーン様の呼びかけに応えずにひっそりと息を殺しているような不逞の輩がいないとも限らないのだから。
もちろん、そのような輩がいた場合、僕が対処していただろうから問題はなかったのだろうけれど、先程のアイリーン様がそこまで考えていらしたとは――失礼だけれど――とても考えられない。
混浴に関する危機感は、あるいは躊躇は大きくいらっしゃるのに、ただ壁、というか、柵が1枚あるだけであそこまで奔放にされても困る。いや、どちらかと言えば、混浴もそうだけれど、それよりも、不特定多数の方に肌を晒すことにこそ躊躇していらしたのだから、利用者がどなたもいらっしゃらなければ、あのように自然に楽しまれるということなのだろう。それ自体は良かったことだといえる。
とはいえ、言ってしまえば、そういった不埒なことを想像してしまったりしている僕たちの方が不純なのであり、アイリーン様には全く非はないのだけれど。
それに、返事をしなかったのは僕自身なので、大きな声で注意することは出来ない。
そもそも、そのことを注意すれば、僕があの場にいたことの証明になってしまうわけで、アイリーン様の態度を注意してくださる役目はシャラさんに期待するしかない。
もちろん、僕には不純な気持ちなんてこれっぽっちもなかった……かと問われると、全くなかったとは言い切ることは出来ず、かといって、そのような気持ちを表に出すほど考え過ぎていたという訳でもなく――
「お待たせ、って、何だかお兄様も、ユーグリッドも、顔が赤いみたいだけれど、もしかしてのぼせちゃったから先に上がっていたの?」
そんな、誰にとも知れない言い訳の思考のループに陥ろうとしていたところで、姫様方がお湯から出てこられた。
「とってもいいところだったのに、のぼせちゃうなんてかわいそうねー」
アイリーン様は、当然だけれど、こちらの事情など何もご存じないかのように無邪気に笑われる。
「お兄様が動けないようなら、少し休憩しましょうか?」
「いや、もう大丈夫だ。済まなかったな、ユーグリッド」
カルヴィン様が立ちあがられたので、僕は煽ぐのに使っていたうちわを元あった場所に戻した。
「こちらは残念ながら何も発見することは出来なかったのですが、シャラさんの方は如何でしたか?」
「いいえ。こっちも何もなかったわ。すくなくとも現在は、だけれど」
知っていましたけれど、などとは、口が裂けても言えない。
足を滑らせて頭を打ったりすることもなかったし、柵を越えようとしてきた不埒者もいなかったし、温泉による効能でよく分からない異常が発生しているということもないということだ。
汗を流された姫様方に、今から動いていただこうとは考えてもいなかったので、万が一、何かあった場合には僕 (あるいはシャラさん)が動くつもりではいたけれど、その心配はいらないようだ。
「では、湯冷めしてしまう前に宿へ戻ると致しましょう。暗くなってからでは危険ですし、風邪をひかれては一大事ですから」
もちろんこれは方便で、実際は、これから調査へと出かける僕の後についていらっしゃらないようにするため、早いうちにお休みいただこうという作戦だ。
シャラさんもいらっしゃる事だし、ベッドの上でお話でもしていてくだされば、移動の疲れもあることだろうし、すぐに瞼を閉じられることだろう。その疲れは、今温泉で癒されたところかもしれないけれど。
何も、流されたばかりの汗を、すぐにかかれることもない。
「待って。あそこにマッサージとかって書いてあるわよ。日々の疲れをお癒しくださいって」
アイリーン様が見つけられたのは、脱衣場の受付のすぐ隣に建てられていた看板だ。
「姫様。そちらはおやめになられた方がよろしいかと存じます」
シャラさんがはっきりとした、どこか使命感を帯びた口調でおっしゃられる。
「姫様は不特定の方の前に肌を晒すことを避けられていらしたはず。もし、御希望なのでしたら、部屋へ戻られた後、私にお任せください」
「そうよね。てっきり浴衣の上からかと思ったけれど、そっちの方が良いわよね」
アイリーン様はこちらでのマッサージにそれほど執着がおありなわけではないらしく、あっさりと引き下がられて、しかし、シャラさんにはしっかりとお約束なさっていた。
カルヴィン様は、多分、納得なさっていらっしゃるだろうし、説得に時間のかかりそうだったアイリーン様を、それからシャルリア様と小雪さんも、そうして留めてくださるというのならば大助かりだ。
「はい。お仕えするメイドとして、こちらの方にも矜持はお有りでしょうが、クオリティで負けるつもりはございません」
シャラさんは、アイリーン様とシャルリア様と小雪さんを引き留めるということ以上に張り切っていらっしゃるご様子だった。その瞳には静かな炎が燃えていらっしゃるようにもみえる。
マッサージがメイドの仕事なのかどうかは、僕には分からないけれど。
そして、その理屈だと、一応雑用としてシャラさん達の下に、メイドではないにしろ、就かせていただいている僕もその役目を引き受けた方が良いのだろうかということにもなる。
もちろん、シャルリア様やアイリーン様、小雪さんのことではなく、カルヴィン様のことだけれど。
「長距離での移動。温泉で疲れはおとりになられたことでしょうけれど、明日からの調査をより万全な状態で行うためにも、しっかりリラックスしてお休みいただけるよう、お尽くし致します」
明日からの、というところをさりげなく流されたのは、今日のところは私たちも休みます、というメッセージのおつもりなのだろう。いや、メッセージというよりは刷り込みというべきだろうか。
あまりあからさま過ぎると、逆に、せっかく弛緩した雰囲気で忘れられていらっしゃるところで、思い出させてしまう要因にもなりかねない。
アイリーン様が頷かれたところで、ようやくというべきなのか、丁度良くというべきなのか、別の利用客の方が姿を見せられた。少しタイミングがずれていたら、鉢合わせになっていたわけで、運が良かったといえる。
「じゃあ、戻りましょう。せっかくお母様の目がないのだから、少しくらい夜更かししても――」
「いけません」
「それは駄目だ」
アイリーン様のご意見は、姉姫様と、お兄様によってあっけなく却下された。
「アイリーンはまだ子供でしょう。早く寝ないと、成長が止まってしまいますよ」
お姉様も子供じゃない、というアイリーン様のつっこみを、シャルリア様は華麗にスルーされて。
「ですが、少しくらいならば構わないかもしれません。あなたが眠くなるまでは付き合ってあげます」
けれど、わずかに頬を染められながらそうおっしゃられたシャルリア様に、アイリーン様は「お姉様、大好き!」と抱き着かれた。




