悪いことは何ひとつしていない……と思う。多分。
◇ ◇ ◇
翌朝、僕は肌寒さを感じて目を覚ました。
冬、とはまだ言えない――そのはずだ――けれど、このくらいの時間帯、つまり、日の昇る少し前が最も寒くなるというのは、国や世界が違えども共通している事らしい。
それにしても、昨日までと違い過ぎる急な事態に、一体何故と思って目を擦ってみると、僕はベッドの上ではなく、床の上で、毛布に包まりながら、ベッドに寄りかかるようにして座っていた。
「そういえば、小雪さんをお泊めしていたんだった」
ベッドの上では、布団がわずかに上下していて、耳をすませば小さな寝息も聞こえてくる。
綺麗なお着物にしわがついたりしてしまってはいないだろうかと確認したかったけれど、しっかり布団を被っていらして、はみ出ている頭とわずかな指先以外を確認することは躊躇われた。
とりあえず、何事もなくお眠りになられた様子に胸を撫でおろすと、小雪さんを起こしてしまわないように、静かに着替えを済ませて、朝の鍛錬をするために庭へと向かった。
格闘、及び武器などの訓練に関しては、昼間、時間のあるときに騎士団の方の訓練に混ぜさせていただいているので、今、1人でも出来る訓練といえば基礎体力や魔法の訓練だ。
これは、お城に来てからの習慣のようなもので、朝起きてから、料理や掃除の準備が始まるまでの間に続けているものだ。
やっぱり、お城で働かせていただくには身体が資本だと思っているし、昼間暇なとき――そんな時間はほとんどないけれど――などは、朝は開放されていない図書館などにいた方が効率が良い。
それに、こうしていると。
城壁の上を走ったりもしながら、どれほどの時間が過ぎたことだろうか。
城壁の向こうから顔を出す太陽を眺めながら、少しばかり休憩していると、裏庭の方から、小鳥のさえずりに重なるように、ヴァイオリンを奏でる音が聞こえてきた。
朝の空気と同じように、澄んだ、艶やかな音色。
昨日の事から、ずっと緊張していた気持ちが和らいでゆくようで、僕はその演奏に耳を澄ませていた。
「っアルフリード」
つい――というわけでもないけれど――聴き入ってしまっていたようで、気がつくと、驚いたようなお顔を浮かべられたシャルリア様が少し離れたところからこちらを見つめていらした。
「おはようございます、シャルリア様。目の覚めるような素敵な音色でした」
「あ、ありがとうございます」
シャルリア様は頬をわずかにピンク色に染められて、俯きがちに、もじもじとなさっていた。
「私は1度戻ってから準備へと向かいますので、朝食は少しばかりお待ちいただけますか」
今は汗もかいているし、こんな格好で仕事をするわけにはゆかない。
「……あの、私も、最近はお料理にも興味があって、お仕事ぶりを見学していても構いませんか?」
厨房に入るのは、火を使ったり、包丁などの刃物を扱ったり、はっきり言って、危険ではないとは言いにくい。
しかし、シャルリア様はこのお城のお姫様で、僕にその行動を制限できる権限はない。
そういうことではないというのは分かっているけれど。
それに、こんな風に、何故だか恥ずかしそうに、嬉しそうに、戸惑うように女の子にお願いされたら、断るわけにもいかなかった。
リースさんに確認してからで構いませんかと告げて、僕は着替えをするために自室へと向かう。シャルリア様は後ろからついてこられた。
使用人に、浴室の使用時間などの(もちろん被らなければの話ではあるけれど)制限はない。
とはいえ、僕はそれほど時間があるわけでもないので、夜だけの使用にして、よっぽどの場合以外は、通常時は浄化の魔法で済ませるようにしているけれど。
浄化の魔法の精度に関しては、今まで、注意や警告を受けたこともなく、こうして仕事をクビにもなっていないことからも、おそらくは大丈夫なのだろうと信頼していた。
「では、私はここで待っています」
部屋の前までたどり着き、扉に手をかけたところで、シャルリア様はそうおっしゃられた。
「えっ?」
思わず、声を上げてしまった。
シャルリア様はこのお城のお姫様で、何処へいらっしゃろうとも、僕にそれを止める権利はないのだけれど。
しかし、今、僕の部屋にいられるのは――正確には扉の外だけれど――非常によろしくない気がする。
背中を、先程までとは別の意味で、冷や汗が流れる。
いやいやいや。
僕は何もやましいことなどしていない。
ただ、危ない目にあっていた女の子を助けただけのことだ。
しかし、シャルリア様は訝しまれるように、紅い瞳を細められた。
「何か、私がここにいると都合の悪いことでもあるのですか?」
「いいえ。一切ございません」
こころなしか、わずかに頬を膨らませていらっしゃるようにも見えるシャルリア様にはっきりと告げ、改めて扉に手を伸ばしかけたところで、ひとりでに扉が押し開かれた。
正確には、ひとりでに、ではない。
僕はしっかりと窓が閉まっていることも確認しているし、風が吹き込んできてひとりでに、などということはあり得ない。扉に関しても同様だ。
では、何故開いたのか。
「おはようございます、アルフリード。昨夜はベッドを貸しくれて、ありがとうなのですよ」
寝起きで、寝ぼけていらっしゃるのか、わずかにお着物を乱されたままの小雪さんが、やわらかに微笑まれる。
もう少し余裕のある状況であれば、着物を整えるくらいは――昨夜見ているので――出来ようものだったけれど、この時は、指1本たりとも動かすことが出来ないでいた。
背後から冷え冷えとした視線を感じて、振り返るのが怖い。
「お、おはようございます、小雪さん。ぐっすり眠られたのでしたら、ようございました」
声が震える。
落ち着け、冷静に頭を働かせるんだ。固まっている場合じゃない。
「早起きなのですね、アルフリードは。もしかして、床が硬くてよく眠ることが出来なかったのですか?」
「……アルフリード。そちらの方は?」
僕が口を開くよりも、シャルリア様の方が早かった。
振り返る動作が、立て付けの悪い扉のように、ギギギ、とでも音がしてしまいそうなものになってしまう。
「シャルリア様。こちらの方は小雪さんとおっしゃられる方で、昨夜、どなたかに狙われていらっしゃるご様子でしたので、一時、こちらで保護したく考え……ジェリック様にはご許可をいただいております」
僕はなんとか平静を装いながら、昨夜の出来事を簡潔に説明させていただいたのだけれど、何とも言い訳がましくなってしまったことは否めなかった。
シャルリア様は宝石のような紅い瞳で、氷柱のような視線をくださりながら。
「……お父様が許可を出されたのでしたら、私から何か言うことはありません」
それから、僕がシャルリア様のお誕生日にお贈りした銀の腕輪をぎゅっと握りしめられながら、
「朝食の前にヴァイオリンを片付けなくてはいけませんから、これで失礼いたします」
冷たい、凍れる声でそうおっしゃられて、僕が小雪さんにシャルリア様のことを説明する前に、足早に廊下の向こうへと去って行ってしまわれた。
お城にお仕えしている身でありながら、こんな出合って間もない女の子を部屋に連れ込むような破廉恥な男だと誤解(もしくは軽蔑)されてしまっただろうか。
「小雪さん。着替えなどお持ちではないでしょうから、どなたかお声をかけさせていただいてまいりますので、今しばらく、この部屋でお待ちくださいますか? それが済みましたら、朝食へとご案内させていただきますので」
僕は厨房に入ると、ほとんど同時にいらしたリースさんに事情を説明した。
「――そういうわけで、昨夜のうちに国王様のご許可はいただいていますので、どうかお願いできますでしょうか?」
「分かりました。国王様がご存知だということは、おそらく着替えなどの準備もなさっていらっしゃると思いますので、後のことは私に」
女性のことは女性に任せた方が良い。
お願いしますと頭を下げて、僕は朝食の準備に取り掛かった。




