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第32話 雑用令嬢、見つかってしまう⑤

「――お断りします」


 そう告げた瞬間、ガルドの笑みが止まった。


「……なに?」


 眉間に深い皺が寄る。さっきまでの柔らかい顔はまだ残っているのに、その奥から別のものが少しずつにじみ出ていた。


「アイカ。お前、自分が何を言っているのかわかっているのか? 国へ戻れるのだぞ? 両親を安心させたくはないのか?」

「……両親のことは大事です。でも……」


 胸の前で握っていた手に自然と力が入る。しかし、私は目を逸らさなかった。


「けれどそれでも、またギルドに戻ってあなた方のもとで働くくらいなら死んだ方がましです」


 ガルドの目が見開かれた。

 その後ろにいた《金の盾》の三人も、予想外だったのか一瞬だけ驚いたような反応を見せる。


 受付、掃除、給仕、調理、書類整理。

 思い出そうとしなくても、あのギルドで押しつけられてきた仕事はいくらでも浮かんでくる。


 ミスをすれば怒鳴られ、うまくやっても難癖をつけられた。嫌がらせのような行為も日常茶飯事だった。


 ……あの頃は、それを仕方のないことだと思おうとしていた。


 ギルドに派遣されたのは貴族制度に基づくもの。自らの意思で職を辞することはできず、できたとしても家に迷惑がかかってしまう。

 それに貴族学校を卒業してからすぐに働き始めた私にとって、あのギルド以外の世界など知らなかったことも大きい。


 でも、この帝国に来て思い知った。


 私が当たり前のように過ごしていたあの環境は、決してまともなものでなかったことを。人は、あんなふうに扱われるのが当たり前ではないのだということを。


「それだけじゃありません。仮にまた王国に戻って私が力を貸せば、あなたのような人間がこの先も人の上に立ってのさばり続けることになる。誰かの人生を捻じ曲げ、踏みしだいて……そんなの、決して許されることじゃない」


 そしてなにより――。


「ここには騎士団の方々がいて、領民のみなさんがいて……なにより旦那様がいます。私の居場所はここです!」


 私がはっきりと言い放つと、ガルドの顔から今度こそ完全に笑みが消えた。


「き、貴様ぁ……! こっちがおだててやっていれば、たかが下級貴族風情がエラそうに……!」


 さっきまでの謝罪めいた態度はどこにもない。


 そこにあったのは、かつて何度も見たギルドマスターの顔だった。人を見下し、思い通りにならなければ怒鳴りつける、あの頃のままの顔。


 ガルドは《金の盾》へ向き直った。


「ふん、こうなったら仕方ない。力ずくで連れて帰るぞ」


 それまで黙って見ていたディックが、面倒そうに肩をすくめる。


「けっ、やっぱりこうなるんじゃないか。とんだ茶番を見せられちゃったよ」

「な。だからオレは最初からこうした方がはえぇって言ったのによぉ」

「ぷぷっ。ガルドのおじさん、振られちゃったねー」


 ドドリゴが斧を担ぎ直し、アマンダは口元を手で隠しながらくすくすと笑った。


「うるさい。いいからとっととやらんか」


 短く吐き捨てたガルドの横を通り過ぎながら、ディックが拳を鳴らす。


「まあいいや。前からいびるだけじゃなく、いっぺん本気で貴族の女を殴ってみてぇと思ってたんだよね。……あ、今はビミョーにちげぇのか、はは」

「おい。顔を殴るのは構わんが、しゃべれなくなるほど潰すなよ。あと腕もな。場合によっては聞き出した調理法を実演させねばならんかもしれん」

「あいよ。てことは、()()()()は好きにしていいってことだろ?」


 ディックが舐めるような視線で私を見た。


「んじゃ、まずは逃げらんねぇように足からやっとくか。殴るのはそっからだ」


 言いながら、腰に差していた剣を抜く。


 その音に背筋が冷たくなる。


 嫌味を言われるのとも、こき使われるのとも違う。

 今の彼らは私を奴隷どころか、料理を作るための道具として持ち帰るつもりで、そのためなら傷つけても構わないと考えている。


「いくぜ!」


 ディックが地面を蹴る。


 その踏み込みは軽く、動きもどこかゆっくりしているようにさえ見えた。

 けれど武器を持たない私に抗う術はなく、同時に剣を持った冒険者に襲われるなど初めての経験だった。


 どこか現実感のないままに、ディックの剣が私の足元へ迫りくる。


「……!」


 襲い来るであろう痛みに身構えた、その直後。


 ――鋭い金属音が森の中に響いた。


「なにっ!?」


 ディックの剣が弾かれ、彼は手首を押さえながら後ろへ下がった。


 私の前に、ひとりの背中がある。


「だ、旦那様……!?」


 町へ向かったはずの旦那様が、剣を構えてそこに立っていた。


「すまない、アイカ。少し遅れた」

「ど、どうしてここに……」

「あの若者の態度がどうしても気になってな。引き返してきた」


 旦那様はガルドたちへ目を向けた。


「……そして、どうやら俺の勘は当たったらしいな」


 声は静かだった。けれど、森の空気がはっきり変わったのがわかった。


 旦那様は私を庇う位置に立ったまま、振り返らずに尋ねる。


「アイカ。こいつらは何者だ」

「……彼が、ガルドです」


 私が短く答えると、旦那様の目がわずかに細くなる。


「そうか。こいつが……」


 低く呟いてから、旦那様はディックたちへ視線を移した。


「とすると……貴様らが《金の盾》か」


 睨むように見つめられ、ディックの顔がわずかに歪む。


 その背後ではガルドも戸惑うように立ちすくんでいた。恐らくはこういう事態を避けるために、雇った若者に旦那様を分断するよう指示していたはず。


 けれど彼は他に増援がないことに気づくと、すぐに表情に荒い笑みを戻した。


「ふん。なるほどな、貴様がリスティン・アルグレインか。たしかに噂のとおり腕は立つようだが、たかが一人だ。対してこちらは三人。ワシらの顔を見られたのは誤算だったが、この場で始末してしまえば同じことよ」


 ガルドは《金の盾》に向かって怒鳴るように命じた。


「構わん! 相手が領主だろうとなんだろうと気にするな! 所詮はよその国の貴族だ! 殺せ!」


 旦那様はその言葉を聞いても、表情を変えなかった。


「……ほう。だそうだが、どうする?」


 問いかけられた《金の盾》の三人は、すぐには動かなかった。


 それどころかアマンダは杖を握ったまま唇を噛んでいる。ドドリゴも斧を構えようとして、その腕を止めていた。ディックの額には汗が浮かんでいる。


 旦那様はただ立っているだけで、声を荒らげてもいない。

 それなのに、彼らはまるで鎖で縛られたように固まっていた。


 私には、その理由がなんとなくわかる気がした。


 たぶんだけど、旦那様の実力はSランクパーティーである《金の盾》の目からしても脅威なのだろう。

 普段から戦いの場に身を置く者なら、佇まいや気配だけで対峙する相手のおおよその力量を感じ取れるはず。だから冒険者であるディックたちは迂闊に動けない。


 しかも後に聞いた話では、彼らは少し前にムルウジさんに森で助けられたことがあったらしい。

 副団長であれだけ強いのなら、その上に立つ団長はどれほどなのか。


 今、彼らはそれについて考え……そして怯えているのだ。


「何をしている! さっさとやれ!」


 ガルドの怒声が飛ぶ。


 ディックは歯を食いしばり、先ほど弾かれた剣を拾った。


「……言われなくても、やるさ」


 アマンダとドドリゴも武器を構え直す。


「ちっ、面倒なことになったわね」

「オレが正面から潰す。援護しろ」


 旦那様は静かに一歩踏み出した。


「覚悟はできたようだな。なら、こちらから行くぞ」


 次の瞬間、旦那様の姿が揺れた。


 最初に崩れたのは、アマンダだった。


「炎よ、我が――」


 詠唱が終わるより早く、旦那様が距離を詰める。杖を持つ手首を剣の柄で叩き、続けて急所を外した一撃を入れた。


「かはっ……!」


 アマンダの身体がくの字に折れる。


「アマンダ!」

「よそ見をする余裕があるのか」


 ドドリゴの斧が振り下ろされる。けれど旦那様はそれを真正面から受け止めず、半歩ずれるように流した。

 斧の勢いが空を切ったところへ、鞘ごとの剣が叩き込まれる。


「ぐおっ……!」


 鈍い音がして、ドドリゴの大きな身体が膝から崩れた。


 殺してはいない。でも、もう立ち上がれない。

 そのことは倒れ方を見ただけでわかった。


「う、嘘だろ……」


 ディックはまるで悪夢でも見ているかのように後ずさった。


 ほんの一瞬とも呼べるわずかな時間。

 けれどその間に、仲間二人が何もできずにやられてしまった。


 カタカタと剣を持つ手が震える。

 そんな彼を最後の最後に奮い立たせたものは、これまで彼が築いてきた、今はもう風前の灯火であるプライドで――。


「ぼ、僕らは《金の盾》だ……王国最強だ……Sランクなんだぞぉおおおおお!」


 叫びながら、ディックは剣を振り上げて真正面から突っ込んでいく。


 旦那様はその動きを見据えたまま、ほとんど姿勢を崩さなかった。

 振り下ろされた剣を最小限の動きで弾く。金属音が響き、ディックの手から剣が跳ね上がった。


 続けて、旦那様の剣がみねうちで胴を打つ。


「うぎゅっ!」


 情けない声を漏らし、ディックはそのまま地面に倒れた。


 私を力ずくで連れ去るために来た《金の盾》。

 ソルヴェイン王国が誇る精鋭であったはずの彼らは、もう誰一人として動かない。


「そ、そんな……」


 残ったのは、顔色を失ったガルドだけだった。


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