プロローグ
彼女と出会った頃の僕は、毎日が苦しかった。
稽古に勉強に心得に。
自由もなく、友とも遊べず、外を眺めれば叱咤がとぶ。
自由がほしかった、あの頃。春のとある日。
稽古着のまま、家を飛び出した。
涙が風で後ろに流れるのも気にせずに、走って走って、走った先は、小さな丘だった。
丘の坂を前に足を止め、涙で濡れた顔を袖で汚く拭う。でも頬を伝うものは止まらない。
だんだんと顔はうつむき、何度も何度も拭っていると、どこからか小さな声が聞こえてきた。
その声に思わず顔を上げると、どうやら声の主は丘のてっぺんにいるらしい。
小さな影に見つからないように、静かに丘を登る。
だんだんとはっきり聞こえてくる声が、メロディーを奏でていると気づいた時には涙は止まっていた。
みーはみーんなーのーみ
ふぁーはふぁいとのふぁー
鈴のような、まだ幼い声。
初めて聞いた歌詞で、意味もよくわからないけれど、楽しく、それ以上になんて幸せに歌うのだろう。
そして小さな背中が全て見えた時、頭に大きな青いリボンと、その綺麗なプラチナブロンドに目を奪われた。
丘に咲く桜が、はらりはらりと風で舞い、その子のまだ短い髪とリボンを飾るように歌に乗って遊ぶのを、さっきまでの苦しさも忘れて、ただただ見つめる。
『どうしたのですか?』
我に帰ると、歌い終わったその女の子はまん丸の群青の目をこちらに向けて、首を傾げていた。
顔を改めてみると、歌声よりもずっと幼いようだった。
『なんでもないよ。君、歌、上手だね』
ずっと見ていたとは言えず、なんとか誤魔化そうとすると、女の子は年に似合わないニコリとした笑顔をして、また似合わない言葉遣いをした。
『歌うことが、大好きなんです。ずっと昔から』
『ずっと昔って、まだ数年じゃないのか。』
そう返せば、
『歌を歌えるようになりたかったのです。
歌うのは好きなメロディーで、誰に咎められることもなく、笑われることもなく、自由な歌を。自分だけの、自由な歌を。』
そう言ってまたニコリと笑った。
その言葉と、雰囲気に、きっといくつも年下であろうに、圧倒されて返す言葉を失う。
というよりも、そう話す女の子があまりに幻想的に見えて、見惚れてしまっていた。
そんな自分を見て、女の子はハッとしたように目を開くと、今度は年相応にえへへっと笑った。
『なーんてね!お兄ちゃんも、辛いことがあったら歌うと元気になるよ!』
じゃあね!と告げて、その女の子は着物の裾をたくし上げて、丘を一気に駆け下りていった。
短い白金の髪を靡かせ、鈴のような鼻歌を効かせながら。
ーーいつの日かの、誰かの、恋の話である。
明治イメージの、和風ファンタジーです。
衣装はハイカラさんとか、軍服などをイメージしていただければ。