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神律スキル編纂局 ~その不具合スキル、直します~  作者: にのまえあゆむ


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第1話 女神様への恩返し

 ──痛くない。


 それが、暗闇の底から意識を浮上させたヤマトが最初に抱いた率直な感想だった。

 さっきまで、呼吸するだけで胸の奥が焼け付くように軋んでいたはずだった。肺に空気が通るたびに押し寄せていた、あのじっとりとした嫌な熱がない。

 骨の髄にしがみついていたような、鉛のような重苦しさも綺麗さっぱり消えている。


(ああ、そっか……。俺、死んだんだな)


 ヤマトは暗闇の中で、不思議なほど冷静にその事実を受け入れていた。

 二十歳になるかならないかの短い人生だった。

 大半を白い天井の病室で過ごし、常に誰かの手を借り、お世話になりっぱなしのまま駆け抜けた生涯。悔いが全くないと言えば嘘になるが、精一杯生き抜いたとことについては、少しだけ誇ってもいいのかもしれない。

 そう思えた。


「──目覚めましたか、気高き魂よ」


 不意に、魂の芯に直接染み渡るような透き通った声が響いた。

 同時に、ただの暗闇だった視界がにわかに柔らかな光で満たされていく。

 ヤマトが驚いて光の源に目を向けると、そこには言葉を失うほど美しい女性が佇んでいた。

 背後に揺らめくのは、地上のどんな織物でも再現できないであろう慈愛の輝き。

 一目で、それが人間を超越した神聖な存在であることが理解できた。


「私は世界を見護る者。あなたの歩んだ道を見ていました。病苦に苛まれながらも、最期まで他者への感謝を忘れなかったあなたの魂に、祝福を授けましょう」


 女神はそっと微笑み、慈愛に満ちた眼差しをヤマトに注ぐ。


「新たな世界で、健やかに生きなさい。もう、あなたを縛る病はありません。何の憂いもない新たな人生を歩ませましょう。望む営みを、望むままに謳歌しなさい」

「こんな僕に、そのような救いを……本当に、よろしいのですか?」


 女神からの提案は、ヤマトにとって願ってもない、最高の救いだった。

 前世で動けなかった分、健康な体で世界を歩き、美味しいものを食べ、普通に暮らせる。

 それだけで奇跡のような提案だ。


「……でも、僕は──」


 ヤマトは、差し伸べられた女神の手を、ただ受け取るのをよしとしなかった。

 代わりに、すっと背筋を伸ばす。その瞳には、嫌みのない快活さと、真っ直ぐな誠実さが宿っている。


「女神様、身に余るお言葉、本当にありがとうございます」


 ヤマトは一礼し、心からの声を言葉にした。


「一つだけ、俺の我が儘を聞いてもらえませんか?」

「我が儘……ですか? ええ、構いませんよ。どのような望みでも言ってみなさい」


 女神は大人の余裕を崩さず、優しく先を促す。

 望むだけの富か、あるいは一騎当千の異能か。女神はそんな若者らしい望みを予想していたのかもしれない。

 しかし、ヤマトの口から飛び出したのは、そのどれでもなかった。


「俺、前世ではずっとベッドの上で、お医者さんや看護師さん、家族……本当にたくさんの人にお世話になりっぱなしの人生だったんです。だから、もし本当に健康な体で新たな人生を過ごせるのなら……今度は俺が、誰かの役に立ちたい! できることなら、俺に手を差し伸べてくれた女神様に恩返しがしたいです!」


「……え?」


 女神の慈愛に満ちた柔らかな笑みが、ぴたりと固まった。

 私利私欲の願望を強請られると思っていたのだが、そんなことはなかった。それどころか、自分のことではなく誰かのために──それも、女神である自分に対して恩返しがしたいなどと言い出すとは、女神の全能を以てしても予想外すぎた。

 ヤマトからの殊勝な申し出に、女神は完全に呆気に取られ、綺麗な目を丸くしたまま視線を泳がせている。


「え、あ、ええと……? 恩返し、ですか……? 普通は、その、もっと強力な力が欲しいとか、英雄になりたいとか、そういう……」

「俺にはそんな大層なものは必要ありません! 健康な体さえあれば、いくらでも働けますから!」


 完全に調子を狂わされた女神は、少し困惑したように頬を染め、しかしヤマトの濁りのない瞳に根負けしたように、ふっと柔らかな笑みをこぼした。


「ふふ。あなたは本当に、変わった魂ですね。わかりました。そこまで言うのであれば、私の側で役目を与えましょう。私が作り上げた世界で、絶対的な調律を司る我が機関の職員として」


 女神がそっと指先を振るうと、光の粒子が魂だけの存在だったヤマトを包み込む。


「これより、あなたへ我が御使いとしての肉体を授けます」


 その言葉が終わるか否かの瞬間だった。


 どくん──と。


 前世では一度も感じたことのない、圧倒的な生命の鼓動がヤマトの中心で脈打った。


(な、んだこれ……!?)


 五感が、世界のすべてを猛烈な勢いで吸い上げ始める。

 深く息を吸えばどこまでも透き通った空気が肺を満たし、全身へエネルギーが駆け巡るのが分かった。

 指先を握れば、思った通りに力が伝わる。

 肌を撫でる空気の心地よさ、足がしっかりと地を踏み締めている感覚。

〝健康な肉体〟という存在そのものが、ヤマトにとっては至高のエンターテインメントのようだ。


 しかし、驚きはそれだけで終わらない。


 肉体を得た瞬間、世界の解像度が一気に変貌を遂げたのだ。

 それまでただの神聖で真っ白な空間だと思っていた周囲の景色が、まるで霧が晴れるように、驚くべき機能美を持って網膜に飛び込んできた。


「うわぁ……!」


 思わず見上げた遥か虚空には、静かに、しかし厳かに駆動する黄金の巨大な歯車がいくつも浮かび、噛み合っている。

 周囲の空間を流星のように行き交うのは、淡い光を放つ無数の魔導スクリーンだ。


 スクリーンには文字が流れており、ヤマトは何故かその文字を読むことができた。おそらく、女神様から授けられたこの肉体になったからだろう。


 膨大な文字で書かれていることは、何かしらのエラーログに見える。

 読むことはできるが、内容までは理解できなかった。

 神聖なファンタジーの荘厳さと、超近代的なシステムの中枢が融合した、圧倒的な光景に目が奪われる。


「驚くのも無理はありません。これこそが、私の管理する世界の裏側──理の中枢なのですから」


 呆気に取られるヤマトの様子を見て、少しだけ誇らしそうに、女神がふふっと胸を張った。世界を統べる者としての輝きが戻っている。


「あなたがこれから身を置くのは、あのスクリーンに映る『世界の綻び』を直す場所。すぐに案内を呼びましょう」


 女神が空間を軽くノックするように、パチンと指を鳴らす。

 すると、虚空に浮かぶ黄金の歯車の一つが、チキリ、と小気味いい音を立てて逆回転を始めた。その歯車の影から、一枚の魔導スクリーンが滑り込むようにしてヤマトたちの前へと降りてくる。


「──お呼びでしょうか、女神サマ」


 スクリーンの向こうからではなく、まさにその画面を背もたれにするようにして、一人の男がいつの間にかそこに佇んでいた。


「こっちも今、地上から降ってきたバグ報告の仕分けで、てんてこ舞いなんですよ?」


 緊張感のない、気怠げな声。

 ヤマトが目を瞬かせると、そこには首元を少し緩めた衣服に身を包んだ、青年とも壮年ともつかない姿の男が立っていた。


「室長、急に呼び出してごめんなさいね。ですが、あなたに預けたい面白い人材を紹介したいと思いましたの」


 女神はそう言って、優雅な仕草でヤマトを指し示した。

 室長と呼ばれた男は、気怠げに視線を動かし、じろりとヤマトを観察する。その細い目が、一瞬だけ鋭く光ったような気がした。


「ええと……どちら様で?」

「彼は白瀬ヤマト。病苦の果てに命を落とし、私が創造した世界で新たな命を授けようと思っていた、清き心持つ人間でした。しかし、彼は新たな生にこだわるのではなく、私の役に立ちたいと申し出てくれたのです」

「おやまぁ、そりゃ剛毅なことで」


「そうして今ここで、御使いとしての肉体を与えたところです。マージン室長、彼が望む生を謳歌できるよう、あなたの下で面倒を見てあげてください」

「なるほどなるほど。それは願ってもないことだ。はじめまして、新人くん。俺はここにある神律スキル編纂局の品質管理部『不調調律室』で室長をやってる、マージンだ。よろしく」

「ヤマトです! お世話になります」

「はいよ、よろしくねぇ」


 マージン室長は気怠げに笑いながら、ポケットから抜いた手を差し出してきた。

 ヤマトがその手を握ると、新しく手に入れた手のひらを通して、人間のものと変わらない確かな温もりと、少しざらついた大人の手の質感が伝わってくる。


 生きている──と、健康な肉体を五感のすべてで実感し、ヤマトは自然と胸が熱くなるのを感じていた。

 がっしりと交わされた二人の握手を、女神は満足そうに見届け、そっと両手を胸の前で重ねる。


「私の愛おしい子供たちよ。世界の綻びを整え、人々を健やかな理へと導きなさい。ヤマト、あなたのこれからの歩みに幸多からんことを祈っていますよ」


 聖なる光の残照が、静かにヤマトの視界を包み込んでいった。

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