〔26〕知らされた事実
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沢で体を洗い、纏わりついた血を消し去ったディアンは、予備で持参していた衣服に着替え、冷えた体を外套に包んで焚火に当たっていた。
裂けたベストは、ディアンでは修復が難しそうな程にボロボロで、身につける事は諦めた。
隣には前脚を伸ばして体を横たえた、白い獣がまどろんでいる。
チラリとだけそちらに視線を向け、ディアンはまた焚火を見詰めた。
魔獣との戦闘から一時間程が過ぎた今、ディアンの気持ちは多少落ち着いてきてはいる。
気持ち的には魔獣と遭遇した事よりも、この神獣と遭遇した事のほうがディアンを混乱させていた。
自分がまさか件の神獣と対面した挙句、あまつさえ契約を交わすなど、これまでのディアンでは想像だにしなかった事だ。しかしそのお陰で、終わっていたであろう自分の命が繋ぎ止められたのも事実。
その契約をしたはずの今も、ディアンの体は特に変わったところがないように思う。
変化といえば、額に神獣が触れたあの短い時間に、温かい何かに包まれたと感じた、ただそれだけだった。
とはいえ、致命傷だったはずの深い傷は一瞬にしてなくなり、傷跡さえないのだから、ディアンの中で確かに何かが変わったのだろうとは思う。
そしてこれからの先にあったはずのディアンの未来も……。
だがあの時神獣は、この契約は解除できるしあとで断ってもいい、とさえ言った。
よく考えれば、それはディアンに考える時間を与えてくれる為の嘘だったのかも知れないが、それは何故か嘘ではないだろうという確信もあった。
自分がそんな大変な事に巻き込まれた事だけは理解できて、ディアンはあれからずっと混乱したままだ。
どうしてこうなったのか。
だがいくら考えてもそれらが整理できる気配はない。他にも疑問が多すぎて、何を考えても余計に混乱するだけだった。
そもそもディアンがここにいる事を、何故この獣は知っていたのか。
どうして助けてくれたのか、という問いは、もう訊くつもりはないが……。
『どうかしたのか?』
ディアンの不安を感じたのか、神獣は顔を上げディアンに視線を向けた。
「……色々と混乱して、現状にまだ理解が追い付かないだけだよ……」
はぁっとため息交じりにディアンが言うと、ピクリと耳を動かして神獣は目を細めた。
『それは追々、理解していく事だ』
そういう事ではないとディアンは首を振り、この際、疑問に思うところを尋ねる事にした。
「―――訊いてもいい?」
『そなたの問いならば、いくらでも答えよう』
真っ直ぐに見詰めてくる銀の瞳が煌めく。
「……なんで僕がここにいるって、分かったんだ?」
神獣はディアンの問いに、そんな事かと言いたげに瞬きをした。
『そなたの気配ならば、ある程度離れていても吾は感じ取る事ができる。だが今日は近くにはいなかったが故に、来るのが遅れてしまった』
「そっか……」
頷いたものの、ディアンはその言葉が意味するところに気付き、更に疑問が湧く。
「なあ。いつから……僕の存在を知っていたんだ?」
『白南風の頃より』
白南風が吹く頃といえば雨降る季節も終わり、一年で一番暑くなる季節に移り変わるあたり。
そして今は山の木々が色付き始め、その暑さも落ち着いてきている。
「え? そんな前から……?」
『そうだ』
「これまで何処にいたんだ?」
『そなたの近くに』
驚いてディアンが瞠目すると、銀色に輝く瞳が細まった。
そしてひとつ、ディアンの脳裏にある光景が浮かぶ。
「――もしかしてガルムの時……?」
『そなたは恐怖に囚われ、動けなくなっていた』
「…………」
『それに今のそなたの能力では、あの魔獣を屠る事はできないと分かっていた』
つまり……。
「それじゃあの時、助けてくれたのは君だったんだな―――」
『そうだ』
あのチラリと見えた白いものがこの獣だったと思えば、それはすんなりと腑に落ちた。
言われてみればガルムよりも強い魔獣を造作もなく倒すこの獣であれば、ディアンが目を瞑ったあの一瞬でガルムを屠るなど簡単な事だったはずだ。
「助けてくれて、ありがとう……」
『礼に及ばず。王となり得る者を護る事は、元より吾の責務』
「その言い方、ちょっと味気ないんじゃない?」
『そういうものか?』
「そうだと、僕は思うけど?」
『初めて言われたぞ。……以後は留意する』
不愛想な言い方。
けれどディアンに寄り添おうとする気持ちは伝わってきて、ディアンは小さく息を吹きだした。
『何か笑う要素があったか?』
それが何も変わらない言い方で、ディアンは本格的に息を吹きだした。
『多少は落ち着いたか?』
笑い終わってディアンが膝を抱え直せば、神獣は気遣う言葉を紡いだ。
「少し。―――あのさ、もしかしてその前も助けてくれた事がある?」
ディアンは窺うように、視線をそっと隣に向けた。
『そなたが仕事をしている間、近くにいるようにはしていたからな』
やっぱりか。
否定しないところを見る限り、ディアンが思い出した出来事も神獣がやったのだと知る。
「爆発……どうやって起こしたんだ?」
ディアンが問いかければ、神獣はさも簡単な質問だと言いたげに、前脚に顔を乗せて寛ぐ体勢を取った。
『吾には魔素を操る素質がある』
神獣は、それが答えであるかのように目を閉じた。
「…………。それ、答えになってない」
ディアンが返した言葉で耳を立てた神獣は、瞼を上げて顔を起こす。
『何をいう? そなたには意味が分からぬというのか?』
「だね。僕は魔素に関する知識がないから、魔素を操るとどうして爆発が起こるのか、全く分からないんだ」
『……そういう事か』
「そういう事」
『それでは、そこからの説明をしよう』
「そうしてもらえると助かるよ」
ディアンは苦笑しつつ、銀色に輝く眼差しを見つめ返した。
神獣と話すのは、正直、楽しいとディアンは思った。
これまで疑問に思っていた事の答え合わせができた為と、寄り添ってくれる神獣の姿勢がディアンにそう思わせたのかも知れない。
その後、そろそろ日付が変わろうという頃になって、神獣はディアンに言った。
『そなたはもう、眠るとよい』
「でも」
山の中で寝てしまってはいけない事くらい、ディアンでも知っている。
『構わぬ。吾が傍にいる故、まかり間違ってもそなたに危険は及ばぬ。それにそなたの傷は癒えたとはいえ、多くの血を失った。そなたの身体は今、休息を欲しているはずだ』
確かに神獣が傍についていてくれれば、ディアンなど居なくても問題はない事くらいは理解できた。
それに傷が癒えた今も、全身が倦怠感に包まれたままだった。
「わかった。それじゃお言葉に甘えさせてもらうよ」
『あとは任せておけ』
そんな束の間の会話のあと、ディアンは眠りについた。
◇ ◇ ◇
そして訪れた翌日の早朝。
「……何で、変わってるんだ?」
困惑するディアンに視線を向けて髭をそよがせる獣は、悪びれた風もなくディアンに告げた。
『こちらの方が親しみやすいと思ったのだが、お気に召さなかったか?』
ディアンは何とも言い難い複雑な表情を浮かべる。
「…………じゃあ、あれは君だったのか?」
ほんのりと頬を赤く染めながら、ディアンはそう言って視線を向ける。
『そうだ、考えてみるがいい。町では本来の姿のままではいられまい?』
シレっと説明する白い獣を、ディアンは恨めしく見詰めた。
「だったら、最初から言ってほしかった!」
真っ赤な顔で抗議するディアンは、自分が子供のような事を言っているのを自覚している。
だがそれでも言わせてほしいと、ディアンはプクリと頬を膨らませて獣を睨んだ。
『そんなに黙っていた事が不愉快だったのか。……そうか、申し訳なかったな』
本当にそう思っているのか?と思わなくもないが、一応ディアンはそれで溜飲を下げる。
「………もう分かったからいい」
不貞腐れてしまったディアンを、神獣は目を細めて見詰める。
『なんだ。そんなに吾に甘い言葉を掛けた事が恥ずかしかったのか?』
「一言余計なんだよ!」と心の中で叫びながら、ディアンは目の前にいる小さな獣を見下ろした。
「ああーーーもう! あの猫が神獣だなんて、誰も分かる訳がないだろーがーー!」
澄ました猫に抗議するディアンの叫び声は、煌めく空気を纏う静かな深い森に木霊していった。
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