七章の3 祭り本番
無数の動物がこちらに駆けてくるのが見えると同時に、馬車は向きを変え、群れと並走する方向へ動き始めた。その群れはと言えば、こちらを見つけてか左右に逸れようとするが、その周囲で炎を伴った爆発が起き、群れの進路を誘導していた。
「あの爆発は……先行した人たちでしょうか?」
「ああ、みなよ群れの周りを!」
群れの周りを、シルエットの違う動物……恐らく馬が何匹か並走している。爆発は、その馬から放たれる光弾や光線によって引き起こされていた。
「(あれは魔法……? ちゃんと見るのは初めてだな)」
距離が詰まるにつれ、群れの個体一つ一つの姿が明らかになる……牛だ。日本で良くイメージされる白黒ではなく、全身が濃い茶色で角を持っている。周囲を囲んでいるのはやはり馬と騎手、それと交代するような形で、馬車は群れと並走を始めた。ざっと数十匹は居ようかと言う群れが、ほんの10mほどの距離で土煙を上げている。
「よし、やるぞ!」
「仕切るんじゃないよ!」
マラートとカーラの声に続くように、すべての馬車から次々と矢が飛ぶ。牛の悲鳴が響き、1頭、また1頭と脱落する。自分もそれに続かんと、群れの1頭に狙いを定めようとしたが……
「(揺れる……!)」
馬車の振動が狙いをブレさせる。座っていれば多少不快な程度のそれも、狙いをつけるとなれば大きなズレとなって、容易に狙いをつけることができない。
「(よくこんな中で皆撃てるな……! 連射が効くからか……!? ええい……!)」
走りが安定する瞬間を待ち、矢を放つ。狙いは心臓、矢は風を切り、牛の……後ろ足付近に命中した。
「(だめか!)」
命中はしたものの、そのまま牛は走り続けている。弦を引くべく弩を下げ足をかけ、矢筒から矢を取って構えるが……先ほど矢を当てた牛は見当たらなくなっていた。倒れたか、群れに紛れたか、それを判断することはできない。
「(……とにかく狙って撃つしかないか……!)」
先ほどの牛が自分の矢で倒れてくれたことを祈り、改めて狙いをつける。後方に矢が流されるのでその分前を。鼻の少し前あたりを狙い、放つ。甲高い音、胴に刺さる矢、数秒走り続け、つんのめって倒れる。
「(これで銀貨8!)」
弩を床に突け、弦を引き、構える。20秒ほどのサイクルを一度こなす間に、群れの数は少しずつ減っていった。そのペースは、想像していたよりもずっと早い。
「連射力の差ってことか……」
小さな愚痴が口から漏れた。弩を使うのが悪い選択だとは思っていないが、やはりこうして差を見せつけられるのは楽しい物ではない。
「(……しっかり、今稼げる分を稼ぐんだ)」
三度目の狙いをつける。先ほどと同じように狙い……引き金を絞ろうとした瞬間、大き目の石でも踏んだか車体が跳ね、弩から矢が転がり落ちる。
「(こんなときに……!)」
身をかがめ拾おうとしたとき、大きな振動が馬車を襲う。体が浮き、枠にぶつかり、また空中に投げ出された感覚。それを頭が認識する前に全身を衝撃が襲った。体が転がり、草と土の感触が顔に降りかかる。全身を襲う痛みにうめきながらも体を起こすと、草原の中に自分はただ1人取り残されていた。
「(馬車から落ちた!? 追いつく……のは無理か……)」
自分が落ちたことに気が付いていないのか、そもそも気付いて無視しているのか。いずれにしても馬車も牛の群れも止まってくれる気は無さそうだ。
「(結局、1匹しか……)」
落胆しようとしたその時。背後で人の物ではない、荒い息が聞こえた。振り向くとそこには、1頭の巨大な牡牛。体には矢が刺さり血を垂らしているが、まだその生命が消える気配は無く、むしろ傷ついてなお命を繋ごうと、目の前の敵を抹殺する意志を燃え上がらせているように見えた。その敵とは、つまり。
「(まず、いっ……!)」
思考を終える前に、牡牛が突っ込んでくる。ねじれた、鋭い角の先端がこちらを向く。横に走って逃げるが牛の頭は追従し、角が体を掠める。全身が引っ張られる感覚。服に引っかかった角で振り回されて、体が浮き牛の背中で転がり視界に地面が迫る。
「がっ、ふ!」
肺の中身が押し出され、声にならない息が漏れた。トドメのつもりなのか、視界の端で牛がこちらに角の狙いをつけているように見えた。
「(刺されたら、終わる!)」
度重なる衝撃にもかかわらず、弩は手の中から離れてはいない。散らばった矢筒の中身、その一本が目の前にあった。
「(一発……一発だけで……!)」
息を小さく吸い、膝立ちになって、突っ込んでくるその頭に狙いを定める。尖った二本の角がこちらに向かってきた瞬間、矢を放った。狙いは完ぺき、矢は角の間を通り頭に刺さり……
「(当たっ……)」
牛は、勢いを変えぬまま迫ってきた。
「な……!」
確かに頭に刺さっている。しかし。それをものともせず。横に飛び退いた脚に角が迫り。
「がっ……!」
左足が持ち上がり、宙づりにされる。その支点となった脹脛から角の先端が見えている。角が振り回され、嫌な感触と共に地面に放り出された。体勢を立て直そうとした足は力が入ることなく、熱い液体が服の裏に広がっていくのが感じられた。
「(え……)」
動かない。避けれない。当たる。
「っ……!!」
鉈を抜く、突っ込んでくる頭に突き出す。弾かれ、体重をもろに受けて仰向けに倒れ、頭に衝撃、視界がぐらつき、角が、目の前に
「(死……)」
聞いたこともないような音と共に、視界が真っ赤に染まる。顔がぬるついた湯のような物を浴び、それをぬぐった時。目の前には、前半分の無くなった牛が横たわっていた。
「……は……?」
理解のできない光景に、思わず声を漏らす。何が起こったのか、それを理解するよりも早く、体の方が現状を認識した。脅威は去った、体に無理をさせる必要はもうない、と。
「ぐ、っ、うううう!!」
左足から、激痛がこみ上げる。破れた服の穴を中心に染みが広がり、思わず抑えた所でさらに痛みが強まるのみ。
「(足、動かな……! 血が……!)」
手のひらには自身の物とも牛の物ともつかない血がこびりつき、草原でのたうち回る。自分一人しかいない。北にも、南にも、東にも、西にも、人の姿は見えない。天を仰いだその時。人の姿が……鳥に乗った、人の姿が2つ。太陽を背に舞い降りてきた。
「ご覧ください! 大物を仕留めましたぞ!」
「ああ……そうだな」
1人は鎧兜で顔は見えないが、声からして女性。もう1人は派手さこそないが……上等な物なのだろう。礼服と言うか正装と言うか、黒基調の服を身に着けていた。
「しかし、持ち帰るわけにも行くまい。血で汚れる」
「兄上、鎧とは汚れる物。ましてやそれが屠りし敵の相手の返り血ともなれば、名誉でこそあれ……」
「獣一匹で何が名誉か。礼装だぞ、洗うのも高くつく」
「……承知しました……」
相手の正体はわからないが、少なくとも人だ。牛でも、言葉の通じないロヴィスでもない……二人が、こちらを見た。声も出せないまま、血で汚れた手を、伸ばす。
「行くぞ、もう十分遊んだだろう」
「この者は?」
「捨て置け。好き好んで危険に飛び込む連中が野垂れ死にしたからなんだというのだ」
「はい、兄上」
だが、二人はこちらの事など歯牙にもかけないまま、街の方へと飛び去っていってしまった。ただ、呆然とする……ことすらも激痛は許さず、自身のうめき声だけが、風にかき消されていく。
「(野垂れ死に……して、たまるか……!)」
ズボンをまくり、傷口を見る。思わず目をそむけたくなる、破れたような傷が血を垂れ流していた。痛みで気絶などしない辺り、まだ感覚がマヒしているのかもしれない。
「(テルミナスまで、絶対持たない……思い出せ……保健でやったはず……!)」
手持ちの水をすべて使って傷口を洗う。次いで、ポーチから薬を出そうとして……粘液に石を混ぜたような感触がした。
「(まさか……)」
取り出してみれば、薬の瓶は割れ、中身があふれ出していた。あれだけの衝撃を受けたのだから無理もない事ではあるが……どうせ駄目になってしまうならと、軟膏を掬えるだけ掬って、傷口に塗り付けた。だがそれでも、血はそれを押しのけるようににじみ出してくる。
「(シーツを持っといたのは、正解だった……!)」
傷口よりも心臓側、太ももに切ったシーツを結んでから、3本束ねた矢を使って締め上げていく。やがて出血が弱まっていき、何とか抑え込まれた、ように見える。さらに傷口にシーツを巻き付け、一応の保護とした。
「(学校の勉強も、役に立つもんだ……)」
だが、状況が良くなったとはとても言えない。せいぜい悪化するのが止まった、程度だ。日本ならば後は救急車でも呼べばいいのだろうが、ここではそうもいかない。
「う、ぐっ……!」
血を止めたとは言え、痛みが消えたわけでも無い。冷や汗を流しながらも地面を這い、散らばった道具をいくらか集め、地平線に見える給水塔の方を向いた。
「(行く、しか……)」
人通りなど到底期待できないこの平原。脱出するには、歩くしかない……たとえ、片足が使えなかろうが。
「(そんなに……離れては、ないはず……)」
半ば這うようにして、テルミナスを目指す。一応血は止めたとは言えこれは応急処置、きちんとした治療を受けないと、死は免れない。幸いと言うべきか、この世界は魔法のおかげで医療に関しては相当な高レベルだ。この重傷も、治療できる可能性は高い……たどり着くことができれば。
「(何キロ……あるんだ?)」
普通に歩くだけでも、それなりに時間のかかる距離のはず。この状態では、果たしてどのくらいかかるのか……かといって、立ち止まることは死ぬということなのだが。
「(考えない……ただ動く……出来てたはず……)」
考えるのを止めて、足を進める。弩を杖代わりに、一歩一歩。壊死しないよう数十分おきに止血を緩め、また進む。途中、狩った牛を回収する人間にでも遭わないかと思ったが、それは無駄な期待に終わった。時折、矢に倒れた牛が見つかるが……必ずしもすべての獲物を回収するわけではないようだ。
「(そりゃあ、あんな群れ丸ごと食う筈もないか……)」
死体には、早くも虫や鳥に肉を食われている物もある。それに自分の将来を重ねるなと言うのは、難しい話だった。
歩き、血を流し、また歩き、天頂近かった日が給水塔の頂上にかかり、徐々に地平線へと下がっていく。既にテルミナスの街はその全貌が見えているが、たどり着くとなると、そこへと続く細い道は恐ろしく長い物に見えた。
橋へとたどり着いたころには日は暮れて、周囲は真っ暗になっている。篝火を焚いた街門へと、体を引きずるようにして近寄り……やっとの思いで、そこまでたどり着いた。固く閉じられた重厚な木の扉。残る気力を振り絞り、その向こうへと声を上げる。
「開けて、下さい……! 誰か……!」
反応は……無い。返事はおろか、向こうで誰かが動いたような気配すらない。声が届いていないのか。弩で扉を叩く。それでも反応が無い。
「(ここまで、来て……)」
欄干に背を突き、座り込む。朝までこの扉が開かないとすれば、あと何時間か、ここで立ち往生してしまうことになる。シーツを剥して、傷口の様子を観察する。篝火の明かりだけが頼りではあるが、傷口は黒く固まっているように見えた……ゆっくりと、止血を緩めてみる。血の流れる感覚が足の中を伝うが、傷口に変化はない。
「(……これなら……)」
深く息を吐く。少なくとも応急処置はこの上なく上手く行っているようにみえる。後はもう、出来ることは無い。目を閉じ、座り込んだままただひたすら時間が過ぎるのを待ち続ける。街の中からは、音楽や太鼓、人の声が聞こえてきた……今頃、肉を焼いて皆で食べている所なのだろうか。
「(そういえば……何も食べてないな……)」
荷物の中の食料はおそらく無事だ。だが、水をすべて使ってしまった今、硬いパンだの干し肉だのを口にしたくはない。今できるただ一つの事。目を閉じて、襲い続ける痛みに耐える。それだけをひたすら続けた……




