第一章 五話b
実のところ、アヴェニールはトールが思っているほど怒ってはいなかった。
いや、怒ってはいるのだが、怒りの根元がどこにあるのか自分でも上手く把握できていないのだ。
スミがトールに襲われた件には、彼女の知らない出来事が関係していることには気付いている。そのせいでトールもあれほど怒っていたのだろうことも。
それにやはりあの事故は、自分がスミに触れたせいで起こったのではないかという不安が強かった。
そう考えるとトールへの仕打ちは八つ当たりにしか過ぎない。
それでも自分に優しくしてくれたスミを、直接傷つけたトールを無条件で許す気にはなれない。だが自分だって何度もトールを殺しかけている。一方的にトールだけを責めるのは理不尽だとは思うものの、それでも彼女の腹の虫は収まらなかった。
「(私はいったい何に腹をたてているんだろう)」
アヴェニールは心の内で疑問を言語化する。
そもそも自分は何が原因で、灰色の森で生活することになったのだろうか。いつまでそれを続けられるのだろうか。ここでの生活を気に入りつつある彼女は漠然と不安に思った。
自分がここにいるのはトモの事故が原因だ。しかし父親の指示とはいえ、どうして自分が危険な森に入ってまで旅に出なければならなかったのか。
遠い街に呼び出され、そこでいつも街でしているように商談に立ち会うと聞かされていたが、父親は目の見えぬ自分が旅することを危険だとは考えなかったのか。
ゴツゴツと揺れる馬車の旅は快適にはほど遠かったし、山道を抜けるために徒歩で歩くことになった。それを楽しめたのは足に豆ができるまでの僅かな間だけだった。
そして山の中ではひとりで待たされることになり、トールとスミと出会うまで、獣の声や木々の葉が擦れる音に脅えていた。
もし、彼らが知能の低い魔物であれば自分の命はなかったろう。こころない人間と会っても危なかったにちがいない。何者と出会えなければ、そのまま飢え死にしていただろう。
自分が今生きているのは、ひとえに幸運だからにすぎない。
だが、自分の幸運は常に他者の不運を踏み台にしている。
………………。
『捨てられたんじゃね?』
不意にトールの言葉が脳裏をよぎった。
「(そんなハズはない、ないハズよ)」
自分に言い聞かせるが、疑心暗鬼に捕らわれた心で、それを信じることはできなかった。
遠い街に呼び出したのは本当に父だったのだろうか。父に呼び出されたと人づてで聞いただけで、それを自分で確認したわけではない。
対峙した相手の嘘は見抜けても、騙された相手の言葉に間違いがあるかは彼女にもわからない。つまり父親でなくても、誰かが自分を亡き者にしようと、彼女を灰色の森へと誘ったのかも知れない。トモという使用人を道連れにして。
だとすればそれは誰だろう。店の者だろうか。それとも自分に関わり死んでしまった者の縁者だろうか。商売で嘘を見抜かれた相手が逆恨みをしたのかも知れない。
少女の中の不安は考えるほどに増幅していく。
それまでしっかりとしていたハズの岩がグラグラと揺れているようだった。




