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Episode 45

 二日目の朝の光が、警察署内に設けられた臨時執務室の、埃にまみれた窓ガラス越しに差し込んでいた。しかし、その光には、わずかな温もりさえ感じられなかった。むしろ、印刷インクの臭いと、いまだ鎮まる気配のない緊張が充満する室内に、宙を舞う埃の粒子をいっそう際立たせているだけだった。


 部屋の中央に置かれた大型のホワイトボードを前に、高村ケイジ捜査官は、言葉で会議を始めようとはしなかった。黒いマーカーを手に取ると、現実を形作る四つの動かしがたい事実を刻み込むように、簡潔な文言を迷いなく書きつけた。


 藤沢レン、死亡。


 遺体の発見場所は、旧校舎の階段。


 レンの血痕が、資料保管室で確認された。


 レンが持ち歩いていた書類一式が、行方不明となっている。


 その四行の下には、従来の三つの仮説が残されていた。ただし、もはやそこに、根拠のない憶測が立ち込める余地はなかった。


 レンは階段から転落し、その場で死亡した。


 レンは別の場所で致命傷を負い、その後、遺体が階段まで運ばれた。


 レンは別の場所で負傷したものの、しばらくは自力で移動でき、その末に階段で死亡した。


 高村はマーカーをペン受けに放り込むと、振り返り、捜査チームの面々と向き合った。その眼差しは、一人ひとりの顔を確かめるように巡り、冷徹なほど厳しかった。


「最優先で徹底すべき原則を、もう一度確認しておく」


 高村の低く重い声が、狭い室内に響いた。


「諸君は誰一人として、『偽装された現場』という言葉を、あたかも確定した事実であるかのように使ってはならない。遺体が発見された場所に疑いを抱くことには、十分な理由がある。だが、誰かが手を加え、あの現場を意図的に作り上げたと証明できる証拠は、現時点では一つもない。今後、いかなる仮説を提示するにせよ、必ず実験や検証によって真偽を確かめられる問いを伴わせることだ」


 捜査官の節くれだった指が、ホワイトボードの四行目を強く叩いた。


「何より先に、レンが持っていた書類一式を見つけ出せ」と、高村は命じた。「本当に生死を左右するほど重要な情報が含まれていたのなら、レンが旧校舎に何を持ち込んだのか、そして彼が倒れたあと、何が失われたのかを正確に把握する必要がある」


 その傍らに立つバンソンは、コートのポケットの中で両手を固く握り締めていた。切れ長の目は、行方不明となった書類について記された一行に、じっと注がれている。


 前日の朝、高村から浴びせられた手厳しい批判は、バンソンの思考そのものを根底から変えていた。もはや彼は、安易で、どこか怠惰な、いつもの問いから推理を始めるつもりはなかった。


 ――最も強い動機を持っていたのは誰か。


 そんな問いよりも、もっと根源的なことを知りたかった。


 藤沢レンは、息を引き取る直前までに、いったい何を知っていたのか。


 デジタルデータ分析を担当する西川ハルトが、プロジェクターの設置された演台へと進み出た。寝不足のせいで顔色は青白く、目の下には濃い隈が刻まれていた。それでも、キーボードを操作する指先には、微塵の乱れもなかった。


「旧式のデータ保管システムから、操作ログの複製データを抽出することに成功しました」


 西川はそう報告し、大型スクリーンに、緑色で表示された暗号化ファイルを開いた。


「このバックアップは、インターネットに接続されていない独立したハードウェアに保存されていたものです。生徒たちが普段使用しているメインサーバーとは、完全に切り離されています。両方のデータを照合したところ、すべてのイベント記録において内容が一致しました。現時点では、記録された後にログが改竄されたり、何者かによって不正に操作されたりしたことを示す技術的な痕跡は、一切確認されていません」


 西川は決定的な瞬間の記録を画面いっぱいに拡大した。


 19:12 — CREDENTIAL: SR-01 — RECORD: SHIRASAWA NOA — ACTION: OPEN/READ


 バンソンは一歩前に出た。鋭い眼差しが、スクリーン上の記録に釘づけになる。


「開いて、閲覧しただけなのか?」


「そのとおりです」


 西川は断言した。


「この操作ログには、成績の修正、データの削除、あるいは個人記録の上書きを行ったことを示すコマンドは、一つも存在しません」


 高村は眉をひそめ、腕を組んだ。


「では、それ以前にSR-01が使われた際の記録はどうだ。そちらも調べてくれ」


 西川はキーボードを操作し、藤沢レンが死亡するちょうど二日前に作成された別のログを開いた。


「このときも、同じ認証情報を使って、神崎リクの個人記録にアクセスしています」


 スクリーンに表示された結果は、先ほどと同じだった。記録されていた操作は、ファイルを開いて閲覧したことだけ。情報の変更も、削除も、一切行われていなかった。


 西川は顔を上げ、室内にいる全員を見渡した。彼の声には、この発見が持つ意味を明確に伝えようとする意志が込められていた。


「SR-01は、旧式の成績審査システムにアクセスするための上位権限を持つ認証情報です。過去にもデータ管理業務で使用された記録があります。しかし、今回確認できた個々の操作記録が客観的に示しているのは、これを使用した人物が成績を改竄する操作を行っていない、という事実です」


 西川はそこで言葉を切り、念を押すように続けた。


「一つひとつの操作は、必ず切り分けて、独立したものとして検証しなければなりません。」

 バンソンの思考の構造そのものが、一瞬にして組み替わった。


 それまでの十二時間、手探りの捜査を続けるなかで、バンソンは無意識のうちに、ある先入観に囚われていた。SR-01の権限に紐づく共用カード27番こそ、犯人がノアの成績を改竄するために直接利用した手段であり、それが過去の悲劇を引き起こしたのだ、と。


 しかし、いま提示された技術的証拠は、その先入観を容赦なく打ち砕いた。記録が裏付けていたのは、当該のカード、あるいはそれに関連する認証情報が、極めて機密性の高い記録を開いて閲覧するために使用されたという事実にすぎなかった。


 そこから、バンソンの脳裏に、まったく別の可能性が浮かび上がった。


 先ほどまでの推測よりも、はるかに暗く、複雑な可能性だった。


 ――19時12分にSR-01を使用した人物は、何かの情報を探していたのかもしれない。過去に何があったのかを確かめようとしていただけで、必ずしも何かを隠蔽したり、成績を改竄したりしようとしていたとは限らない。


 隣に立つアサも、画面を流れていくデータの列に目を走らせていた。彼女は静かに口を開き、考え込んでいたバンソンに問いかけた。


「もし、その人物がノアの記録を開いて、ただ読んでいただけなら……レンと同じように、彼女の死の真相を調べていた可能性もあるんじゃない? そう考えられないかな、バンソン」


「その可能性はある」


 バンソンは低く、ゆっくりと答えた。


「だが、まったく逆の可能性もある。レンが何を突き止めたのか、正確に把握しようとしていたのかもしれない。あるいは、レンを口封じする前に、ノアが何か手がかりを残していなかったかどうか、確認していたのかもしれない」


「つまり……」


 アサは唇を引き結んだ。


「その人物が、私たちと同じ側にいるのか、それとも敵なのか。結局、何もわかっていないということね」


「そうだ」


 バンソンは迷いなく頷いた。


「コンピューターの記録に残るのは、実際に行われた操作だけだ。人間が何を考え、何を意図していたのかまでは、絶対に記録されない」


 これまで、事件のなかでも特に疑わしいと思われていた手がかりの一つが、当初まとっていた意味合いを失いつつあった。


 19時12分、SR-01がノアの記録を開いた。成績の改竄やデータの削除を示す証拠はない。それ以前には、リクの記録にもアクセスしていた。そして、肝心の使用者が誰なのかは、依然として謎のままだった。


 バンソンは、先ほど高村から突きつけられた原則を、改めて胸に刻み込んだ。


 SR-01を使って記録を一度閲覧したという事実だけを根拠に、その使用者を殺人犯と決めつけてはならない。


 西川は、それだけで分析を終えようとはしなかった。今度は、藤沢レンが死亡する前日の午後ではなく、死亡当日の午後、旧校舎で使用していた個人用コンピューターに残されたローカルデータの解析へと移った。


「被害者が死亡した当日の15時02分ごろ、ローカルシステムに印刷ジョブが送信された記録が残っています」


 西川はそう報告し、画面に表示されたコマンドの列を指で示した。


「このジョブは、成績審査システムと生徒の個人記録へのアクセスに直接関係するものです」


 高村は机越しに身を乗り出した。


「その印刷指示は、正常に実行されたのか?」


「ログを見る限り、システムは印刷ジョブを受け付け、処理を開始しています」


 西川は眉をひそめた。


「ただし……要求された全ページの印刷が完了する前に、処理が突然中断されていました。用紙切れや紙詰まりの可能性もありますし、誰かが途中でプリンターの電源ケーブルを引き抜いた可能性も否定できません」


「途中まで印刷されたページの内容は復元できるのか?」


 高村が矢継ぎ早に問いを重ねた。


「確実に復元できるとは言い切れません」


 西川は申し訳なさそうに首を横に振った。


「キャッシュデータの一部が、すでに上書きされています。現時点で特定できるのは、当初処理されたページ数と、印刷ジョブが中断された際の接続状態までです」


 高村は身体の向きを変え、バンソンに視線を向けた。


「この印刷ジョブで出力されたものが、後にレンの手元で見つかった、あの薄い書類の束だったと断定できるか?」


「断定する根拠はありません」


 バンソンは即座に答えた。


「今わかっているのは、レンが記録システムに関連する資料を印刷しようとしていた、ということだけです。この印刷ジョブと、現場からなくなった書類の束を結びつけるには、独立した別の証拠が必要です」


 バンソンはホワイトボードへ歩み寄り、マーカーを手に取った。


 彼は、そこに「犯人は証拠隠滅のため、書類を持ち去った」と書くことを拒んだ。


 代わりに、一つひとつの言葉を慎重に選び、次の三文を書き記した。


 レンは資料の印刷を指示していた。


 現場にあった書類の束は、行方不明となっている。


 この二つの事実に関連があるかどうかは、まだ確認されていない。


 アサは新たに書き加えられた文字を見つめ、そっと尋ねた。


「バンソンは、本当にそこまで重要な資料だったと思っているの?」


「レンは旧校舎に書類の束を持ち込んでいた。そして、彼が死亡したあと、それがなくなった」


 バンソンは鋭い口調で説明した。


「だからこそ、調べる合理的な理由がある。だが、それは、その書類に事件の生死を決する秘密が記されていたという証拠にはならない」


「……早まった結論を出さないように、ずいぶん気を遣っているのね」


 アサはわずかに微笑んだ。それは、彼の変化を理解しているからこそ浮かべた、静かな笑みだった。


 バンソンは彼女へ目を向けた。その眼差しが、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。


「疑わしい事実と、検証によって裏付けられた事実。その二つを、きちんと区別しようとしているだけだ」


 そのとき高村は、旧校舎の監視カメラが電源を失う直前の映像に、まだ十分に検証されていない死角が残されていることを思い出した。


「西川。午後に撮影された映像を巻き戻してくれ。旧校舎の旧事務室へ向かう廊下のカメラだ」


 高村の指示を受け、西川はすぐさま操作を開始した。


 やがて大型スクリーンに、灰白色のノイズに覆われた映像が映し出された。

 時刻:18時58分。


 男子生徒の制服を着た、細身で学生らしい体格の人物が、旧校舎の旧事務室へと入っていく。右手には、折り畳み式のファイルケースと大きさも形状もおおむね一致する、薄い物体を持っていた。


 時刻:19時05分。


 同じアングルの映像には、その人物が先ほどとは逆方向へ歩き、事務室から出ていく様子が記録されていた。


 早送りで映像を確認した限り、退室する人物の手には、もはや先ほどのファイルケースらしき物体は見当たらなかった。


 高村が机を叩いた。


「もう明らかだろう! こいつは資料を持って事務室に入り、中に隠すか、あるいは処分してから、手ぶらで出てきたんだ!」


「お待ちください、捜査官」


 バンソンは片手を上げて制止した。視線はスクリーンに釘づけになっている。


「このカメラの画角は狭く、人物の全身を捉えきれていません。あの薄い物体は、コートの内側にしまわれた可能性もあります。脇腹に挟んでいたかもしれませんし、肩の陰に隠れていただけかもしれない。映像データが不十分な以上、その人物が事務室に資料を置いてきたと断定することはできません」


 西川は、その人物が出入り口を通過する瞬間のフレームで映像を一時停止した。


 バンソンはスクリーンのすぐそばまで歩み寄り、目を細めて、動きのわずかな変化まで見逃すまいと観察した。


「西川、この人物が左利きなのか、右利きなのかは判別できるか?」


「逆光になっているうえに解像度も不足しています。腕の動作を力学的に解析するのは不可能です」


「襟元を拡大して、校章や名札の名前を読み取ることは?」


「完全にぼやけています。判読できません」


 バンソンは短く息を吐き、数歩後ろへ下がった。


「なら、現時点で客観的に確認できるのは、ただ一つだ。18時58分、身元不明の生徒が、薄い長方形の物体を持って旧事務室に入った。それだけだ」


 高村は沈痛な面持ちで頷いた。


「その生徒が藤沢レン本人だと証明する、確かな根拠もない」


 その言葉は、冷水を浴びせるように室内の空気を一変させた。


 もし18時58分にカメラに映った人物がレン本人だったとすれば、退室時に資料が手元に見当たらなかったという事実は、悲劇が起こる前に、レン自身が書類を事務室内の安全な場所に隠した可能性を示唆する。


 だが、もし映っていた人物がレンではなかったとしたら――。


 レンのあとをつけていた何者か、あるいは別の人物が旧事務室に侵入していたのだとすれば、その人物が資料を持ち込んだのか、それとも持ち去ったのかという問題は、まったく異なる観点から検討し直さなければならない。


 高村は直ちに技術班へ指示を出した。その日の校内にいた全生徒および教職員の記録映像と、問題の映像を照合すること。さらに、隣接する廊下に設置された別の監視カメラに、補完できる映像が残されていないか調べること。


 その間、バンソンは腕を組み、ホワイトボードに書かれた時系列を凝視していた。


 18時58分――薄い物体を持った人物が旧事務室に入室。


 19時05分――同人物が退室。薄い物体は手に見える状態では確認できず。


 19時12分――SR-01がノアの個人記録にアクセス。


「この三つの時刻は、あまりにも近接している……」


 バンソンは独り言のように呟いた。


「だが、時間的に近いというだけで、同一人物がすべての行為を行ったと証明できるわけじゃない。ましてや、三つの出来事が一連の因果関係で結ばれているとも限らない」


 それは、捜査の前に立ちはだかった最初の、そして最大の空白だった。


 バンソンは、その空白を主観的な推測で勝手に埋めることだけは、断固として拒んだ。


 高村が次に打った手は、橘カイトを呼び出し、直接事情聴取を行うことだった。


 橘カイト――かつて神崎リクへのいじめに加わり、事件当日の朝にはレンと激しい口論を交わしていた男子生徒である。


 カイトは不満を隠そうともせず、両肩をすぼめ、周囲を落ち着きなく見回しながら取り調べ室へ入ってきた。その目つきは、逃げ場を失って追い詰められた獣を思わせた。


 彼は当初、事件当日の朝にレンと会った事実そのものを頑なに否定していた。しかし、監視カメラの映像によって、その嘘はすでに覆されていた。


 バンソンは直接の事情聴取には同席しなかった。アサとともに一方向鏡の向こう側にある観察室へ入り、高精細モニターを通して、カイトの一挙手一投足や呼吸のわずかな変化まで注意深く見守っていた。


 高村は、威圧的な口調を使わなかった。


 最初に投げかけたのは、ごく単純な質問だった。


「橘カイト。先日、なぜ警察に嘘をついた? 事件当日の朝、藤沢レンとは一度も会っていないと言ったな」


 カイトは机に視線を落とし、制服のズボンの端を指先で強くつまんだ。


「お、俺は……リクの件に巻き込まれたくなかったんです」


「なぜリクの名前を出されただけで、そこまで動揺する?」


 高村は間髪を入れず、問いを重ねた。


「中学の頃、俺と友達が……あいつにひどいことをしていたからです」


 カイトの声が詰まった。ようやく表に出た恐怖が、震える声にはっきりと滲んでいた。


「今度はレンが死んだ。もし俺が、あいつと会ってリクのことで口論したなんて認めたら……誰だって、俺に口封じをする動機があったと思うでしょう!」


 高村は終始、中立的な態度を崩さなかった。


 カイトの説明を、疑いようのない事実として受け入れることはしない。かといって、彼が自分の容疑を恐れているというだけで、殺人の証拠になると考えることもなかった。


 高村は質問の方向を変えた。


 話題は、事件当日の10時12分に交わされた二人の会話へと移った。


 追及を受け、カイトはついに、レンがリクについて問いただしてきたことを認めた。


 カイトの証言によれば、レンが知りたがっていたのは、ある生徒が教師たちの形式的な説明では「休学中」とされているにもかかわらず、校内の事務管理システムには正式な転校届も退学届も一切残されていないのはなぜなのか、ということだった。


「レンには答えたのか?」


 高村が尋ねた。


「俺は、そんな面倒な事務手続きのことなんか知るわけないって答えました」


 カイトはそう言ったが、その額からは冷たい汗が滲み出ていた。


「でも、そのあと……レンに聞かれたんです。リクが教室から姿を消したあと、旧校舎にこっそり入っていくのを見たことがないか、って」


「それで、何と答えた?」


「よ、よく覚えていないって……そう言いました!」


 高村は手元の書類を机に軽く叩きつけた。


「レンに、これ以上調べるなと言ったことはあるか? 『掘り下げれば掘り下げるほど、自分のためにならないぞ』と脅すようなことを口にしたんじゃないのか?」


 カイトは黙り込んだ。


 十秒近くもの沈黙が流れた。


 喉が上下し、彼は大きく唾を飲み込んだ。


「お、俺は……確かに、そう言いました」


 カイトはうなだれ、絶望したような声で認めた。


「でも、あいつを殺すと脅したつもりはありません! ただ、昔のことを今生きている人間への攻撃材料にするなって……そう言いたかっただけなんです」


「なぜ、そこまで警告めいた言葉を口にした?」


「俺は、リクが俺たちのグループから集団でいじめられていたことを知っていたからです!」


 突然、カイトの声が裏返った。


 恐怖に駆られた叫びが、取り調べ室に響き渡る。


「怖かったんです……! レンがこのまま昔のことを掘り返して、仲間外れにしたときのメッセージや、暴力を振るっていた証拠まで見つけたら……学校も警察も、俺が今までやってきたことを全部明るみに引きずり出して、処分するに決まっている!」


 カイトは拳を握り締め、必死に訴えた。


「俺はただ……自分の過去を、これ以上ほじくり返されたくなかっただけなんです!」

 カイトは、過去に自分が残酷ないじめに加担していた事実を、完全には否定しなかった。


 しかし、この証言によって明らかになったのは、あくまでも利己的な動機にすぎない。彼が恐れていたのは、懲戒処分を受けること、そして世間からの非難によって社会的な評価を失うことだった。藤沢レンを殺害する動機があったかどうかについては、依然として何一つ確定していなかった。


 高村は続けて、カイトが共用カード27番や、SR-01のアクセス権限について知っていたかどうかを尋ねた。


 カイトは激しく首を横に振り、その識別コードなど一度も耳にしたことがなく、旧資料保管室に足を踏み入れたことも一度たりともないと、誓うように主張した。


 ただし、この証言についても、真偽を判断するには別個の証拠による裏付けが必要だった。


 事情聴取を終える直前、高村は最後の確認として、ある質問を投げかけた。


「昨夜、レンともう一度会ったか?」


 カイトは、即座に断言した。


「いいえ! 午後の授業が終わったら、すぐに学校を出て帰宅しました!」


 高村は、18時58分に資料のようなものを持った男子生徒が監視カメラに映っていた事実を、カイトには明かさなかった。


 彼は証言の内容をすべて記録させると、捜査班に指示を出した。西京学園の正門付近にいた部外者や目撃者を捜し、カイトが実際に何時ごろ学校を出たのか、裏付けを取るためだった。


 観察室では、アサが長く息を吐き、隣にいるバンソンへと顔を向けた。


「カイトには、嘘をつく理由がいくらでもあるのね」


「そうだな」


 バンソンは画面を見つめたまま答えた。


「でも、嘘をついていたというだけで、彼がレンを殺した証拠にはならない」


「そのとおりだ」


 アサは小さく首を傾げ、琥珀色の瞳で恋人をじっと見つめた。


「だったら、どうしてさっきから、あんなに厳しい目でカイトを観察しているの?」


 バンソンは一拍だけ沈黙した。それから、平坦な口調で答えた。


「カイトは、過去の罪が明るみに出ることへの恐怖を語っていた。だが、俺にはまだ見つけられていないんだ。かつての校内暴力と、今回の事件を結びつける明確な糸がな。過去のいじめが、現在の誰かの命を犠牲にしなければならないほどの問題だったと示す、決定的なつながりが見えてこない」


 次に再び事情聴取室へ呼ばれたのは、水野レイカだった。


 今回は、高村の鋭い質問に追及されるうちに、レイカも以前のような冷静で無表情な態度を保てなくなっていた。彼女はうつむき、これまでの事情聴取で、自分が事実の一部を隠していたことを認めた。


 レイカが真実を伏せていた理由は、単に自分が犯人だと疑われることへの恐怖だけではなかった。


「私……白沢ノアが成績のことで深刻な問題を抱えていた時期、ずっと彼女のそばにいたんです」


 レイカは声を震わせながら泣き崩れた。こらえきれなくなった涙が、頬を伝って次々とこぼれ落ちる。


「ノアは、学校に何度もお願いしていました。採点記録を最初から全部調べ直してほしいって……。自分の答案がすり替えられたか、意図的に減点されたに違いないって、彼女はずっと訴えていたんです」


 言葉を続けようとしたレイカの喉が、嗚咽に塞がれた。


「私……自分の目で見たんです。何人もの教師や生徒たちが、ノアをひどく扱っていたところを。彼女が耐えられないほど追い詰められて、辱められているところを……。それなのに、私は卑怯でした。見て見ぬふりをして、彼女を助けようともしなかった。証言する勇気もなかったんです……」


 レイカは制服の裾を、両手で強く握り締めた。


「そして、ノアが自ら命を絶ったとき……私は、そのときの後悔をずっと抱え続けてきました。彼女が助けを求めていた頃、私がそばにいたと認めれば、みんなに問い詰められると思ったんです。どうして助けなかったのか、どうして黙っていたのかって……。世間から責められるのが、怖かったんです」


 高村の声が、ひときわ厳しさを帯びた。


「水野。19時12分にSR-01を使ってノアの記録を開いた人物を、知っているか?」


「いいえ」


 レイカはきっぱりと首を横に振った。


「本当に知りません。誓って、何も知りません」


「では、レンがなぜ旧資料保管室を探りに行ったのか、その理由は知っているか?」


「詳しいことは聞いていません。ただ、当日の朝、レンが私のところへ来て、以前、成績記録が再調査されたことについて問い詰めてきたんです」


「レンが持っていた書類の束には、何が書かれていた?」


 レイカは唇を噛み、首を横に振った。


 そこで高村の許可を得たバンソンが、観察室からマイクを通じて直接質問した。


「水野レイカ。レンは亡くなる前、白沢ノアが実際には殺害されたのだと証明できる、決定的な証拠を見つけたと言っていたか?」


 レイカは涙に濡れた目を上げた。彼女の視線は一方向鏡へと向けられていた。その向こう側にバンソンがいることを、彼女は知っていた。


「いいえ……」


 レイカは嗚咽を漏らしながら答えた。


「レンが言っていたのは……古い記録のなかに、いくつもの不審な点があるということでした。記録の内容と、実際に起きたことが食い違っているような痕跡を見つけたって……。でも、犯人を突き止めたとか、誰が裏で手を引いていたのか証明できたとか、そんなことは一度も言っていませんでした」


 バンソンは視線を落とし、その証言を慎重に手帳へ書き留めた。


 それは、彼が組み立てつつある推理の構図と、完全に一致していた。


 藤沢レンは、確かに不審なデータに行き当たっていた。記録システムの裏側に隠された異常にも、実際に触れていたのだろう。しかし、自分自身の調査を最後まで完遂する前に、その命を奪われてしまった。


 レンが突き止めていたのは、真相そのものではなく、真相へとつながる異常の存在だったのだ。


 高村が、なぜこうした事実を最初から話さなかったのかと尋ねると、レイカは再び泣きじゃくりながら答えた。


「怖かったんです……。レンに何か協力したのか、何か手助けしたのかって、追及されるのが……。もう二度と、自分が真実を知りながら、何もせずに傍観するだけの人間にはなりたくなかった。でも……いざ話そうとしたら、また責められるのが怖くなってしまって……」

 レイカは声を上げて泣くことはなかった。しかし、握り締めた両手には血の気が失せ、指の関節が痛々しいほど白くなっていた。


 バンソンは、彼女を慰めるために「君は悪くない」といった耳当たりのいい言葉を口にすることはなかった。そんな結論を軽々しく下すには、彼自身、道徳的な責任の所在についても、事実と結果を結びつける因果関係についても、まだ十分な情報を持ち合わせていないことを理解していたからだ。


 彼はマイク越しに、冷静で鋭い声を発した。


「あなたが恐怖を感じたこと自体は、その状況を考えれば理解できる心理的反応です。ですが、これから話す記憶については、あなた自身の推測や主観とは、完全に切り分けてください。確信が持てないことについては、無理に断定せず、『確かではありません』と答えてください」


 レイカは頷き、頬に残った涙を拭った。


 自分の臆病さによって犯した過ちの一部を告白したからといって、彼女が完全に信頼できる証人になったわけではない。


 それでも、今回の証言によって、事件捜査本部は一つの重要な境界線を引くことができた。


 レンが実際に知っていたことと、彼がまだ疑っていただけのこと。その二つを、明確に区別できるようになったのだ。


 その日の午前中、最後に事情聴取を受けることになったのは、スクールカウンセラーの桜井ミサキだった。


 彼女は高村の向かい側に腰を下ろした。疲労の色が濃い顔には、学校内で起こるさまざまな問題への対処に慣れた事務職員らしい、どこか事務的な落ち着きが残っていた。


 ミサキは、レンが死亡した当日の13時30分に、彼と面会したことを改めて認めた。また、旧資料保管室に紙の記録が保管されているにもかかわらず、電子上の痕跡が完全に消去されている生徒の事例について、レンから問い詰められたことも認めた。


「桜井さんの証言によれば、レンは単なる事務手続き上の疑問を抱いていただけではなかった」


 高村は調書を読み返しながら、確認するように言った。


「彼が執拗に尋ねていたのは、こういうことだ。ネットワーク上の電子データベースが何者かによって改竄されたり、完全にロックされたりした場合でも、原本である紙の書類だけは独立した証拠として残り得るのか、と」


 ミサキは認めるように頷いた。


「ええ。かなり踏み込んだ質問でした。私は、そうした食い違いを確認するには、原本となる書類と、事務処理上の変更記録、そして当時の責任者による承認署名を、直接照合する必要があると答えました。ただし、誰かが意図的に記録を消去したと断言したわけではありません」


「レンがその日の19時12分に、旧資料保管室へ忍び込むつもりだったことは知っていたか?」


 高村は瞬き一つせず、彼女の反応を観察した。


「いいえ。まったく知りませんでした」


 ミサキは平然と答えた。


「その時間帯に、あの子が何か厄介な約束をしていたことすら知りません」


「そこで誰かと会う予定だと、ほのめかしてはいなかったか?」


「特定の人物の名前は、一度も口にしていません」


「共用カード27番を藤沢レンに渡したことは? あるいは、SR-01のアクセス権限を与えたことは?」


「一度もありません」


 桜井ミサキの証言については、内部監査資料との照合や、ほかの職員からの追加聴取による検証が必要だった。


 とはいえ、現時点では、当日の午後にレンと面会したという彼女の証言と、直接矛盾する証拠は何一つ見つかっていなかった。


 しかし、バンソンの脳裏には、ある鋭い技術的な疑問が浮かび上がっていた。


 ミサキは、レンが旧校舎へ向かう前に、紙の記録について質問していたことを認めている。


 だが、重要なのは、その時点でレンが実際に印刷された資料の写しを手にしていたのか、それとも、まだ仮定の話として質問していただけなのか、ということだった。


 バンソンは手帳を開き、新たな問いを書き込んだ。


 藤沢レンは、それまで一度も目にしたことのない紙の記録を探すために、資料保管室へ向かったのか。それとも、すでに手元に確保していた資料を確かめ、誰かに突きつけるために、あの場所へ向かったのか。


 この二つの可能性は、あの運命的な待ち合わせに、まったく異なる意味を与える。


 もしレンの目的が資料を入手することだったのなら、現場から消えた書類こそ、犯人が何としても奪い取ろうとした最終目標だった可能性がある。


 一方、もしレンがすでに情報の写しを手にしていたのなら、あの待ち合わせは、単なる資料の受け渡しではなかったことになる。レンは、相手を問い詰め、隠れていた犯人を表舞台へ引きずり出そうとしていたのかもしれない。


 行方不明となった書類の正体と出所が明らかになるまでは、どちらの方向へ捜査を進めるべきか、決めることはできなかった。


 緊張の続いた一連の事情聴取を終えると、バンソンは自分の机に腰を下ろし、手帳を開いた。


 そして、事件の疑惑の渦中にいる三人について、心理と行動を対照させる一覧表を作成した。


 ### 1.橘カイト


 行動:


 事件当日の朝、レンと会った事実について、明白な嘘をついていた。過去に神崎リクへのいじめや集団的な排斥に加担していたことも認めている。


 隠蔽の動機:


 過去の暴力行為が明るみに出ることを恐れ、懲戒処分を受けたり、自分まで事件に巻き込まれたりするのを避けようとしていた。


 法的・捜査上の現状:


 夜間に旧校舎にいたことを裏付ける物証も、それを示す証言も、現時点では得られていない。


 ### 2.水野レイカ


 行動:


 白沢ノアが成績をめぐる深刻な問題に直面し、不当な扱いを受けていたことを、以前の事情聴取では隠していた。レンが記録システム内の異常を発見していたことは認めている。


 隠蔽の動機:


 ノアが生きていた頃、助けを求める彼女を支えず、傍観者として沈黙を選んだことについて、世間から非難されるのを恐れていた。


 法的・捜査上の現状:


 レンが犯人と直接対決できるほどの証拠を確保していたとは証言していない。また、19時12分の待ち合わせについて、彼女が事前に知っていたことを示す証拠もない。


 ### 3.桜井ミサキ


 行動:


 レンから、紙の記録と電子データの不一致について追及されていたことを認めている。


 隠蔽の動機:


 記録管理システムの不備が発覚した場合、管理体制の甘さについて責任を問われることを避け、自分の職務上の立場を守ろうとしていた可能性がある。


 法的・捜査上の現状:


 夜の待ち合わせについては何も知らなかったと主張している。共用カード27番や被害者の死亡と、彼女を直接結びつける証拠は、まだ見つかっていない。


 隣に立っていたアサは、机の上に並ぶ三人分の詳細な記録に目を通した。


「この三人……みんな、何かしらの真実を隠しているのね。それぞれ、他人には触れられたくない秘密を抱えている」


「そうだな」


 バンソンは頷いた。


「ただし、隠している理由は三人ともまったく違う」


「カイトは、いじめの過去が明るみに出て処罰されることを恐れている。レイカは、何もできなかった傍観者としての自分を責められることを恐れている。そして、桜井さんは、事務管理上の責任を問われることを恐れている」


 アサはそう整理しながら、鋭い光を宿した瞳をバンソンに向けた。


「でも、今わかっているのは、三人それぞれに、嘘をついてまで守りたい事情があるということだけ。誰かが今回の殺人事件に関与していることを、まだ誰も証明できていない」


 バンソンは、ホワイトボードに書かれた三つの時刻へと視線を戻した。


 疑わしい人物はいる。隠された過去もある。説明のつかない記録や、行方不明になった書類もある。


 それでも、疑念の数が増えたからといって、真相に近づいたとは限らない。


 必要なのは、誰かを犯人に仕立てることではない。


 それぞれの事実を結びつける、検証可能な一本の糸を見つけ出すことだった。

 バンソンは、紙面の中央に大きく記された藤沢レンの名前を見つめた。


「そのとおりだ。こうした嘘が教えてくれるのは、システムのどこに綻びがあるのかということだけだ。だからといって、それを有罪の証拠として扱う権利が、俺たちにあるわけじゃない」


 夜が訪れた。


 ひびの入った窓ガラス越しに、街灯の光が室内へ差し込む。バンソンは再びシステムログのファイルを開き、これまでに確認された一連の時刻を、最初から一つずつ検証し直した。


 18時58分――薄い物体を持った人物が、旧事務室へ入室。


 19時05分――同人物が退室。薄い物体は、手に持っている状態では確認できず。


 19時12分――SR-01がノアの記録を開く。


 19時19分――アクセスセッション終了。


 19時24分――自動通知の受信により、レンの携帯電話の画面が点灯。


 19時26分――端末が完全に信号を失い、あらゆる動作が停止。


 そこに、一つの論理的な空白が浮かび上がった。


 バンソンは、捜査班が事件の発生当初から、これらの時刻の間に無意識のうちに心理的な先入観を持ち込んでいたことに気づいた。


 彼らは、いつの間にか一つの筋書きを当然の前提として扱っていたのだ。


 ――19時12分にSR-01を使用した人物は、過去の痕跡を消し去り、ノアやリクの成績をめぐる不正の痕跡を隠蔽しようとしていた。


 しかし、技術的な記録に実際に残されていた操作は、あくまで「開いて閲覧する」という行為だけだった。


 仮に、痕跡を消し去ることが目的だったのなら、削除や変更のコマンドを実行するはずだ。データを上書きするという手段もあった。


 それなのに、なぜ、わざわざ記録を開いて閲覧する必要があったのか。


 バンソンは手を伸ばし、赤いマーカーを取った。そして、ホワイトボードに残されていた古い記述を、ためらいなく線で消した。


 ――SR-01の使用者は、痕跡を消すためにシステムへアクセスした。


 代わりに、先入観を排した新たな一文を書き込む。


 ――19時12分のSR-01によるアクセスの真の目的は、依然として不明である。


 バンソンは振り返った。机に頬杖をつきながら、彼の一連の動作を見守っていたアサと目が合う。


「アサ。もし、ある人物がシステムに不正に侵入した目的が、痕跡の削除ではなく、ただ記録を開いて内容を確認することだったとしたら……君は、それにどんな意味があると思う?」


 アサは瞬きをした。持ち前の鋭い洞察力が、すぐさま彼の問いを捉えた。


「その人は、何も消そうとしていなかったのかもしれない。レンが見つけた記録のなかに、いったい何が残っているのかを確かめたかっただけとか……。それとも、私たちがその人に悪意があると決めつけているだけで、本当は、何かの情報を確認せずにはいられないほど追い詰められていたのかもしれない」


 バンソンは深く頷いた。


「そうだ。それはほんの小さな視点の転換にすぎない。だが、そこからまったく新しい推論の道が開ける。あのときSR-01を使った人物は、レンが何らかの秘密を見つけてしまったのではないかと恐れ、その記録を確認していた可能性がある」


 この見方が導き出す可能性は、決して小さくなかった。


 アクセスした人物は、自らの犯行を隠蔽しようとする犯人かもしれない。動揺した証人かもしれない。殺人とは無関係な不正を隠そうとする者かもしれない。あるいは、レンと同じように真相を突き止めようとしていた、事件とはまったく無関係の第三者である可能性すらあった。


 その人物が何者なのかを明らかにするには、一つひとつの具体的な操作を検証し、証拠を積み重ねていくほかない。警察がその人物にまつわる疑念の皮膜を剥がしていけるのは、それによってのみだった。


 その頃、大会議室では、高村のもとに、18時58分の監視カメラ映像を照合していた画像解析班からの報告が届いていた。


 しかし、その結果は、期待を大きく裏切るものだった。


 カイト、レイカ、ミサキのいずれかが、あの夜、旧事務室に現れた人物だと特定できるだけの信頼性を備えたデータは、一切得られなかったのだ。


 映像は暗すぎた。解像度も低く、顔を識別することも、個人を特定できる身体的特徴を確認することも不可能だった。


 高村は深いため息をつき、次の指示を下した。


 成績審査に関する書類の原本を引き続き捜索すること。資料保管室へのアクセス権限の管理を厳格化すること。そして、レンが最期にたどった足取りを、捜査班が一つずつ徹底的に追跡すること。


 バンソンが警察署の建物を出た頃には、夜空はすでに濃密な闇に沈んでいた。


 初秋の冷たい風が、容赦なく襟元へ吹きつけてくる。


 アサはコートに身を包み、彼の隣を歩いていた。街灯の黄色い光に照らされた恋人の角張った横顔を見上げ、静寂を破るように、小さな声で尋ねた。


「バンソン……私たち、本当に殺人犯に近づけていると思う?」


 バンソンは玄関前で足を止め、振り返った。


 曇ったガラスの向こうには、捜査室の証拠ボードがぼんやりと浮かび上がっていた。


「俺たちは、あの夜に本当は何が起きたのかを知ることには、確実に近づいている」


 バンソンは、重みのある落ち着いた声で答えた。


「だが、アサ。その二つは……必ずしも同じことじゃない」


 アサは彼の手を、もう一度強く握り締めた。


「最後まで調べても、私たちが間違った方向に進んでいたとしたら……怖くない?」


「怖いさ」


 バンソンは、人間の弱さを隠そうともせず、あまりにも率直に答えた。


「この捜査で俺が一番恐れているのは、行き詰まることじゃない。疑わしい点が山ほどあって、嘘までついている人間を見つけたとき……俺たちが疲れ果てて、そこで捜査を打ち切り、真実を追い求めることをやめてしまうことだ」


 アサはそっと微笑み、冷えきったバンソンの手を、自分の手のひらで包み込んだ。


 彼女にはわかっていた。今の彼が、一つひとつの思考を通じて、少しずつ変わり始めていることが。


 あのガラスの向こうでは、カイト、レイカ、ミサキという三つの名前が、いまだ解き明かされていない無数の秘密とともに残されていた。


 嘘は、そこかしこに散らばっている。


 それでも、彼ら三人の存在を、一つの共謀関係として結びつけられる証拠は、どこにもなかった。


 バンソンは視線を落とし、携帯電話を取り出した。


 そして、藤沢レンが死地へ赴く前に残した、最後のメモをもう一度開いた。


「事故だと決めつけるな。」


 今度、彼はその言葉を、レンが殺害されたことを確信していたかのような、怒りに満ちた断定として読むことはなかった。


 彼にとって、それは自分自身に向けられた、何よりも重い戒めとなっていた。


 あらゆる可能性を、常に冷静に検証し続けろ。たとえそれが、大勢の人々や先入観が、もっとも信じたがっている可能性であっても。表面上の筋道が整っているというだけで、偽りの納得に飛びついてはならない。


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