Episode 43
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警察の張ったカナリアイエローの規制テープが、古びた石柱の間を横切っていた。灰色に沈んだ夕暮れの光を受け、その鮮やかな黄色だけが、目に痛いほど浮かび上がっている。
藤沢蓮が通っていた私立星京高等学校――その旧校舎は、時の流れから取り残された建物特有の陰鬱な空気をまとっていた。
ここは、バンソンとアサが通う学校ではない。
そこには、別の世界がある。
別のルールがあり、別の闇がある。
だが、死だけは、どこへ行っても同じだった。
冷たく、沈黙していて、そして無数の嘘を孕んでいる。
風が奥へ奥へと伸びる廊下を吹き抜け、かび臭い湿気と、腐りかけた枯れ葉、そして錆びた鉄のような生臭い匂いを運んでくる。
アサはその場に立ち尽くし、虚ろな目で揺れる規制テープを見つめていた。
コートの中で、細い肩がかすかに震えている。
藤沢蓮。
中学時代からの友人。
十四歳だったあの頃、土砂降りの雨の日には、一本の傘の下で肩を寄せ合った仲だった。
未来について語り、眩しいほどの笑顔を見せていた少年。
その彼は今、法医学報告書の上に記された一つの名前に過ぎない。
バンソンは、そのすぐ隣にいた。
間に、距離はなかった。
大きく、揺るぎない彼の手が、冷え切ったアサの指をしっかりと絡め取っている。
そこから伝わる温もりは、ゆっくりと、静かに、それでも確かな強さをもって彼女へと染み渡っていった。
崩れ落ちてしまいそうな心を、嵐の中で繋ぎ止める錨のように。
ほんの数日前まで、二人の世界はまるで別のものだった。
アサは、あの瞬間を今でも鮮明に覚えている。
蝋燭や花に囲まれた、甘くロマンチックな場所ではなかった。
古びた事件資料の束が積まれ、黄ばんだ紙の匂いが漂う、誰もいない図書室の片隅。
そこで、バンソンはペンを止めた。
普段は鋭利な光を宿しているその瞳が、ふっと細まり、驚くほど柔らかく、そして深い色を帯びた。
彼は、まっすぐにアサの目を見つめた。
瞬きさえせず、目を逸らすこともなく。
「この世界は、嘘で動いているんだ、アサ」
バンソンはそう言った。
静まり返った空間に、低く落ち着いた声がゆっくりと響いていく。
「人は現場を偽装し、動機を隠し、自分自身さえ欺きながら生きている。俺は、何もかもを疑うというフィルターを通して見ることに慣れた。あらゆる変数を切り分けて、可能性を一つずつ潰していく。でも……」
ほんの一瞬だけ、彼の声が途切れた。
「君だけは……俺が絶対に方程式の中へ放り込んで、試すような真似をしたくない唯一の定数なんだ」
「『相棒』とか『親友』なんて言葉じゃ、もう俺の気持ちは収まりきらない。君が俺の隣にいることは、確率なんかじゃない。定理だ」
バンソンは、目を逸らさなかった。
「アサ……俺に君を守らせてほしい。事件を解く仲間としてじゃない。人生という、この先いくつもの凄惨な現場を通り抜けていくとき、君の手を握り続ける人間として」
飾り立てられた告白ではなかった。
だが、その言葉には誓いと呼ぶにふさわしい重みがあった。
アサが小さく頷いたとき、バンソンの腕が彼女の身体を包み込んだ。
その胸の中に抱かれた瞬間、彼女を満たしたのは、何よりも確かな安心だった。
その瞬間から、二人の間にあった目に見えない境界線は、もう存在しなくなった。
そして今。
蓮の死と向き合う彼女の手を、バンソンが強く握り直す。
それは言葉の代わりだった。
――俺はここにいる。
――俺たちで真実を見つけ出す。
そのとき、革靴がタイルの床を打つ音が響き、アサの思考を断ち切った。
旧校舎の暗い廊下の奥から、捜査官・高村圭司が姿を現した。
その顔には疲労の刻印のように深い皺が刻まれ、充血した目は、一晩たりとも眠っていないことを物語っていた。
高村の視線が、二人の絡み合った手に一瞬だけ止まる。
だが、何も言わなかった。
高村はバンソンの前で足を止め、白い息を吐き出した。
「上には許可を取った」
高村は、掠れた声で切り出した。
「中に入っていい。アサもだ。耐えられるのならな。ただし、破ってはならない規則がいくつかある。お前は検視区域の外から観察すること。証拠には絶対に触れるな。髪の毛一本、埃一粒であってもだ」
「分かっています」
バンソンの返答は短く、鋭く、余計なものが一切なかった。
高村は煙草を一本取り出して火をつけようとした。
だが、自分が現場に立っていることを思い出したらしく、苛立たしげにそれを消し、胸ポケットへ押し戻した。
「藤沢蓮の死因についての初期判断は、まだ結論が出ていない。バンソン。何もかもがめちゃくちゃだ」
バンソンはわずかに目を細めた。
「どの点が、まだ未確定なんですか?」
高村は三本の指を立て、それを一つずつ折りながら答えた。
「一つ目。法医学者は、蓮が階段から転落したことだけを死因とは断定できていない。二つ目。遺体が死亡後に移動させられたとも、まだ断定できない。そして三つ目。現在の死亡推定時刻は、ある程度の幅を持った範囲でしか定められていない。頼みの綱だった携帯電話のデータも……今となっては、それだけを絶対的な時刻の基準にすることはできない」
周囲の空気が、まるで凝固したかのように重くなる。
だが、バンソンは驚かなかった。
彼はゆっくりとアサの手を離した。
そして彼女を振り返り、目だけで大丈夫かと問いかける。
それを確認してから、一歩前へ出た。
視線の先にあるのは、上階へ続く細く暗い木造階段だった。
警察の強力な投光器に照らされ、宙を漂う埃の一粒一粒が、閉じ込められた小さな亡霊のように浮かび上がっている。
バンソンの声が響いた。
淡々として、冷たい。
それでいて、解剖刀のような鋭い殺傷力を秘めていた。
「遺体が見つかった場所は、あくまで遺体が見つかった場所にすぎない。そこが、その人物の死んだ場所だと自動的に決まるわけじゃない」
高村は、ゆっくりと頷いた。
「だから、お前をここに入れた」
バンソンは規制テープをくぐり、階段の縁まで近づいた。
アサもその後に続いたが、安全を保つため一定の距離を置いた。
そしてバンソンは、観察を始めた。
その目は、階段全体の構造を上から下まで、寸分の隙もなく追っていく。
暗闇に潜む「犯人」を探しているわけではない。
彼が探しているのは、死に至るまでの物理法則だった。
もし蓮が本当にここでバランスを崩し、転落して死亡したのだとしたら、そこには必ず現れるはずのものがある。
重力は、嘘をつかない。
およそ六十キロの質量を持つ人間が、硬い木製階段を十五段も落下したのなら、衝撃には一定の法則性が生じるはずだ。
木材についた擦過痕。
長年積もった埃の移動。
そして、必死に身体を支えようとした形跡。
だが、この階段は――あまりにも静かだった。
乱れている。
それなのに、その乱れにはどこか「人工的」なものを感じさせる。
二十分後。
廊下の外に急遽設営された仮設テントの中で、法医学者・黒田俊平がゴム手袋を外した。
白衣からは、消毒用アルコールと保存処理に使われた薬品の匂いが立ち上っている。
黒田は、深く落ちくぼんだ目をした寡黙な男だった。
彼が信じるのは、死者が残したものだけだった。
眼鏡の位置を押し上げると、黒田はバンソンと高村を見た。
「予備検査の結果です」
黒田は切り出した。
その声は、まるでメニューでも読み上げるかのように乾いていた。
「被害者、藤沢蓮には、頭部に重度の外傷があります。後頭部の左側。頭蓋骨に亀裂が入り、広範囲にわたる脳内出血が確認されています。これが直接の死因です」
アサは両手を強く握り締め、唇を噛んだ。
血が滲んでも、離さない。
バンソンがそっと手を伸ばし、彼女の肩に軽く触れた。
ほんのわずかな圧力だった。
それだけで、落ち着くようにと伝えている。
「それ以外は?」
バンソンの目は揺れなかった。
黒田は報告書をめくった。
「それ以外には、肘と膝に擦過傷。右上腕の外側には、かなり明瞭な皮下出血があります。衣服には、浅い打撲痕がいくつかあり、横方向へ長く引きずったような擦過痕も見られます」
そこで黒田は一拍置いた。
眼鏡の奥の目が鋭く光る。
「しかし……激しい転落事故で、何十段もの階段を転げ落ちたのであれば、通常なら全身にもっと無作為な損傷が散在していてもおかしくない。だが、今回はそれが少なすぎる」
「殴られたとは判断しないのか?」
高村が眉をひそめた。
黒田は首を横に振った。
科学者としての厳密さが、論理の限界を飛び越えることを許さない。
「この外傷は、転落によって生じる可能性があります。ただ、現時点の形態だけでは、転落が唯一の原因だったと断定するには根拠が足りません」
黒田は、一語一語を強調した。
バンソンは、その中から一つの情報だけを鋭く拾い上げた。
「右腕の皮下出血。その大きさと形状は?」
黒田は一枚の写真を取り出した。
「楕円形。直径、およそ四センチ。縁はそれほど明瞭ではありません」
「……誰かに強く腕を掴まれたときにできる、手形の痕跡では?」
アサが口を開いた。
掠れた声だった。
だが、その言葉は驚くほど明瞭だった。
黒田は淡々と答えた。
「階段の角に強く打ちつけたことで生じた可能性はあります。だが、それ以前に加えられた外力によってできた可能性も、十分にある。たとえば、誰かが被害者の腕を強く掴んだ場合などです」
黒田は写真へ視線を落とした。
「ただし、爪による引っかき傷もなく、指の形が対照的に残っているわけでもない。こうした単独の皮下出血だけから、その二つを見分けるのは不可能です」
バンソンは写真に目を落とした。
これは重要な点だ。
現代的な推論における原則の一つ――警察は、犯人を必要としているからという理由だけで、一つの痣を「犯人の手形」に仕立て上げてはならない。
そんな推論に飛びつけば、待っているのは確証バイアスという罠だ。
「……血液は?」
バンソンは、問いの方向を変えた。
その言葉を引き継ぐように、鑑識班の班長が入ってきた。
テーブルの上に、血痕分布図――Bloodstain Pattern Analysis、いわゆるBPAの資料が広げられる。
「もし致命傷となった衝撃――頭蓋骨が砕けるほどの一撃が、本当に遺体の発見場所、あるいはそのすぐ上の階段で加えられたのだとすれば」
鑑識官は図面を指差した。
「考慮すべき要素はいくつもあります。衝撃が加えられた方向、頭蓋骨が損傷した瞬間の頭部の位置、出血が始まった後に身体がどう移動したか。そして、飛沫血痕――スパッターと、接触によって生じる血痕――トランスファーが、どのような分布を示しているかです」
黒田が図の中央を指先で軽く叩いた。
「我々が遺体発見場所周辺から採取した重要な血痕の大半は、重力によって流れ落ちた血液と、衝突後に形成された接触血痕だ。床に染み込み、衣服にも付着している」
黒田は一度言葉を切った。
「だが……ここが最初の致命的な打撃が加えられた場所だと証明できるほど明瞭で、かつ十分な量のカストオフ・パターンやインパクト・スパッターは確認できていない」
高村の眉間に、さらに深い皺が刻まれた。
「つまり先生……別の場所で殺されたことを証明することはできない、と?」
黒田は顔を上げ、年嵩の刑事をまっすぐに見据えた。
「そういうことだ。だが同時に、この現場だけを根拠に、その逆を証明することもできない」
バンソンは図面から目を離した。
テントの出入口越しに、実際の階段へと視線を向ける。
急勾配の木製階段が、上から下へと視界を貫いていた。
だが、そこには明確に対応する血痕の連続がない。
もし蓮が階段の最上部で頭部を殴打され、血液が飛び散り、そのまま十五段の階段を転がり落ちたのだとすれば――その過程を裏付ける、連続した血痕が存在してしかるべきだった。
これは巨大な疑問点だ。
まだ、結論ではない。
だが、現場という一枚の絵に入った、確かな亀裂だった。
すべてが行き詰まりかけた、そのときだった。
巣のように乱れた髪をした若い鑑識技官、西川陽斗がテントの扉を押し開けて入ってきた。
その手には、微細証拠物を収めた透明なジップバッグがいくつも握られている。
「昨日、8番の区画で行った検査ですが」
西川は早口にそう言いながら、タブレット端末を起動した。
「被害者のズボンの裾に付着していた埃を、すべて回収しました。その後、採取した埃について、分光分析と成分分析を行い、四か所の試料と照合しています。階段の踏み板、旧校舎の廊下、一階の資料保管室、それから二十七号室の前です」
その瞬間、全員の意識が西川へと集中した。
西川は画面上の棒グラフを拡大した。
「結果はこちらです。藤沢蓮のズボンの裾の繊維内部まで入り込んでいた埃には……微生物の構成比、カビの胞子、そして木屑の成分が含まれています。その組成は、階段から採取した試料よりも、資料保管室から採取した試料に――はるかに、はるかに近い」
高村が深く息を吸った。
「つまり、階段へ向かう前に、資料保管室にいたということか?」
「はい」
西川は頷いた。
だが、すぐに手を上げて言葉を遮るような仕草をした。
「ただし、ここは強調しておきます。これは、被害者の衣服が資料保管室と類似した表面、あるいは環境に接触し、擦れた可能性を示しているだけです。これだけでは、彼がその部屋で殺害されたとも、そこで死亡した後に外へ運び出されたとも、科学的には断定できません」
バンソンは静かに頷いた。
西川の慎重な姿勢に異論はない。
必要なのは真実だ。
焦った推測ではない。
「埃以外には何かあるか、西川?」
バンソンの目が鋭くなる。
「埃はクロスコンタミネーションが起きやすい。廊下で強い風が吹いただけでも、資料保管室の埃が階段まで運ばれる可能性がある。もっと固有性の高いものが欲しい」
西川は、かすかに笑った。
微細証拠を愛してやまない者特有の、得意げな笑みだった。
そして、小さな証拠袋を取り出した。
中をよく見なければ気づかないほど微細な物質の粒が、いくつも収められている。
「被害者の袖の内側、それから手首周辺から見つかりました」
西川は慎重に説明した。
「極めて微小な物質片です。そのうちの一部が、資料保管室で使用されている、独特な古いファイル表紙の表面加工材と紙繊維に完全に一致しています」
画面を拡大しながら、西川は続けた。
「現代の用紙じゃありません。九〇年代から使われていた、あの独特なカーボン系の表紙です」
西川はタブレット上の画像を横へ滑らせ、別のページを開いた。
そこに映し出されたのは、電子顕微鏡で撮影された写真だった。
「でも、本当に重要なのはこっちです」
西川は声を潜めた。
興奮を抑えきれない様子だった。
「特に、この極小の破片です。塗料か、あるいは合成樹脂の一部だと思われます。被害者の右袖、その内側の縫い目に深く食い込んでいる。これほど布地の繊維の奥まで入り込むには、かなり強い圧力が加わったはずです」
右腕。
皮下出血。
右袖。
バンソンの頭の中で、散らばっていた情報が一瞬にして一本の線へと繋がった。
歯車が、静かな音を立てて噛み合う。
その瞬間、蓮の携帯電話に残されていた、最後の奇妙なメッセージが稲妻のように脳裏を駆け抜けた。
――「19:12――資料保管室」
「資料保管室をもう一度調べる」
バンソンは迷いなく言った。
「今すぐに」
警察は、二度目の資料保管室の捜索に入った。
今度は、紛失物を探すような気軽な捜索ではない。
高村は三人の鑑識員を呼び、紫外線ライト、ルミノール試薬、そして高照度の懐中電灯を持ち込ませた。
室内の隅々まで、一つずつ潰していく。
目線より低い位置にあるあらゆる表面。
腐食の進んだ木製棚の脚。
そして、継ぎ合わせた板張りの床に残された、ごく狭い隙間に至るまで。
部屋の隅にあった古い金属製の書類棚は、角が錆びつき、ずっしりと重かった。
三人の警官が力を合わせ、それを現在の位置から動かす。
ギィィ……。
金属が木の床を擦る音が、耳障りなほど鋭く、そして不気味に室内へ響き渡った。
棚の下に、遺体はなかった。
凶器もない。
大量の血痕も存在しない。
だが、投光器の光が床を照らした瞬間、バンソンの瞳孔がわずかに収縮した。
「……あそこ」
アサが囁き、床を指差した。
何十年ものあいだ誰にも掃除されず、分厚く積もっていた埃。
その上に、かすかな引きずり跡が残っている。
映画に出てくるような、誰が見ても分かる痕跡ではない。
ただ、埃の層の一部が乱され、押し潰され、奇妙な形に変わっている。
その痕跡は、一メートル余りにわたって伸びていた。
そして、その終点。
ちょうど先ほどまで書類棚が置かれていた場所の縁に、法医学者が綿棒を取り出した。
蒸留水で湿らせ、その木目に紛れるような暗褐色の小さな点を慎重に擦り取る。
数秒後。
「カストル・マイヤー試験、陽性です」
法医学者が顔を上げた。
「乾燥した血液である可能性があります」
ほどなくして、採取された試料は現場に設置された簡易検査装置へ送られた。
三十分後。
モニターに予備検査の結果が表示される。
DNA型――被害者、藤沢蓮と一致。
高村は腕を組んだまま、険しい表情で画面を見つめていた。
「蓮がここに来ていたことは、もう分かっている。メッセージの記録と埃の分析結果が、それを示している」
高村は低い声で続けた。
「では、この極小の血痕から新たに何が分かる?」
黒田が即座に答えた。
その声には一切の妥協がなかった。
「分かるのは、藤沢がこの部屋で負傷した、擦過傷を負った、あるいは出血した可能性があるということだけだ」
黒田は言葉を切った。
「それ以上でも、それ以下でもない。ここが最終的な殺害現場だったとも、彼が最後に息を引き取った場所だったとも、証明してはいない」
バンソンは彼らの議論には耳を貸さなかった。
片膝を床につき、埃の上に残された引きずり跡を見つめている。
懐中電灯を床すれすれまで下げ、光を横から当てた。
すると、わずかに残った溝が浮かび上がった。
「この引きずり跡……」
呟きは、バンソンとアサにしか届かないほど小さかった。
「外の廊下からここへ引きずり込んだ跡じゃない」
アサも彼の隣にしゃがみ込む。
「じゃあ、どこから?」
「始点は、ここの壁際だ」
バンソンはレーザーポインターで、一点を示した。
「そして終点は……さっきまで書類棚が置かれていた場所と、完全に一致している」
彼は立ち上がり、二歩ほど後ろへ下がった。
そして、部屋全体を見渡す。
これが、最近になって何かを隠すために慌てて書類棚を動かした際に生じた痕跡なのか。
それとも――
書類棚が押し込まれる前に、別の重量物が床を引きずられた跡なのか。
たとえば、人間の身体。
その場にいる誰一人として、この曖昧な引きずり跡を法廷で通用する確定的な証拠として扱うことはできない。
だが、バンソンの頭の中ではすでに一つの「犯行シナリオ」が形を取り始めていた。
司令用の仮設テントへ戻ると、バンソンは自分の手帳を開いた。
そして、遺体発見時に蓮が所持していた私物の一覧を、もう一度確認する。
財布――異常なし。
携帯電話――ズボンのポケット。
鍵――所持。
学生鞄――遺体の近くに落ちていた。
バンソンはしばらく黙ったまま、その記録を見つめた。
それから、アサへ顔を向ける。
「図書室を出たとき、蓮は薄い書類ファイルを持っていた。アサ、覚えているか?」
アサは迷うことなく頷いた。
「覚えてる」
そのときの光景が蘇ったように、彼女は目を細めた。
「廊下を通る蓮を見たの。青い厚紙のファイルを抱えてた。……かなり大事そうに、しっかりと抱えてた」
バンソンは、現場全体を収めた十五枚の写真を見渡した。
「死亡後、そのファイルは学生鞄の中にはなかった。階段の周囲に飛び散っていたわけでもない」
彼は写真から目を離さず、続けた。
「それがどこで消えたのか。誰かが持ち去ったのか。警察は、そこをまだ特定できていない」
そして、西川へ視線を向ける。
「蓮があの日の午後に使っていた図書室の端末から、画像データとウェブ閲覧履歴は復元できたか?」
西川は頷き、キーボードの上を素早く指で走らせた。
「終わっています。事件当日の午後三時二分、蓮は学校のコンピューターシステム上にある内部データ記録を開いていました。データそのものは暗号化されていましたが、ファイルのキャッシュ――そこに残っていたタイトルだけは復元できます」
画面に、無機質な英語の文字列が表示された。
――“GRADE REVIEW / STUDENT ACCESS / 27”
「成績再審査/学生アクセス/27……」
バンソンは眉を寄せた。
「その端末から印刷することは?」
「可能です。あの端末は中央プリンターに接続されています」
西川は答えた。
「ただ、ネットワーク履歴を見る限り、蓮は印刷していません。個人のUSBメモリを接続して、データのコピーをダウンロードしています」
「つまり……」
アサの目が大きく見開かれた。
「蓮はかなり早い段階から資料を準備して、夜になる前から情報を集めたうえで、資料保管室へ向かったってこと?」
「その通りだ」
バンソンは、ペンの先で机を軽く叩いた。
「蓮は、ただ好奇心に駆られて旧校舎へ迷い込んだんじゃない。授業を抜け出して、煙草でも吸いに来たわけでもない」
一拍置く。
「『27号室』と、何らかの成績再審査に関係する資料を持って、明確な目的のもとで資料保管室へ向かったんだ」
事件の輪郭が、少しずつ変わり始めていた。
それはもはや、「誤って階段から転落した事故」などという一言では片づけられない。
そこには、意図的な準備の痕跡がある。
そして――死に至ることになる、何者かとの接触。
だが、心理的に最大の難所は、依然としてあの携帯電話にあった。
この二十四時間あまり、捜査全体を支配していた一つの仮説。
――午後七時二十四分、蓮はまだ生きていて、自分の携帯電話を操作していた。
その前提こそが、捜査の時間軸を支えていた。
西川は回転椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
その表情は、これまでになく険しい。
「検察に令状を出してもらい、通常の通信履歴だけじゃなく、通信事業者から生のパケットデータを提供させました。そのうえで、携帯電話の内部システムをさらに深い階層まで解析しています」
バンソンは腕を組んだ。
「話せ」
西川は大きなモニターへ時系列の表を表示した。
19:03――蓮の携帯電話が旧校舎のWi-Fiへ正常に接続。現在も稼働している唯一のアクセスポイント。
19:07――ジャイロセンサーおよびタッチセンサーが、人の指による最後の直接的な画面操作を記録。蓮は指で画面をスワイプし、メッセージを確認している。
19:12――学校職員用の認証カード、SR-01が使用され、物理サーバー上の「ノア」と呼ばれる記録保管領域へアクセス。
19:24――携帯電話の画面が起動。バックライトが点灯。
「ここです」
西川は19:24の項目を指した。
「以前は、画面が点灯したという事実から、蓮本人が電源ボタンを押して時刻を確認したか、何らかの操作をしたものと考えていました」
西川は唾を飲み込む。
「ですが、システムログをさらに深いレベルまで調べた結果が出ました」
テントの中が静まり返る。
「19時24分の時点で――該当するタッチ操作は一切ありません。スワイプもない。ロック解除を試みた形跡も、存在しません」
高村が眉をひそめた。
「では、なぜ画面が点いた?」
「自動的に送信されたプッシュ通知です」
西川は息を吐いた。
「迷惑メールだった可能性もあります。アプリからの通知かもしれない。あるいは、バックグラウンドで位置情報が更新されたことによるものかもしれません」
一見すれば、ただの小さな技術的事実にすぎなかった。
だが、それは事件を支えていた論理構造そのものを吹き飛ばす爆弾だった。
危険極まりない一つの前提が、今、崩れた。
――バンソン自身が、気づかぬうちに片足を踏み入れていた罠だった。
「携帯電話が動作していた」
それは――
「蓮が生きていて、その時刻に携帯電話を操作していた」
という意味ではない。
仮設テントの中を、重苦しい沈黙が覆った。
聞こえるのは、幌布の隙間を唸りながら抜けていく風の音だけだった。
バンソンは目を閉じた。
数秒間、何も言わない。
顎の筋肉が硬く張っていた。
彼は19時24分という時刻に、ずっとしがみついていた。
そこを、この事件の時間軸を打ち込むための標杭だと信じていた。
蓮がまだ息をしていたこと。
まだ携帯電話を手にしていたこと。
その最後の証拠だと――そう思っていた。
だが今、その推論を切り捨てなければならないのは、他でもない自分自身だった。
論理という名の刃を、自らの手で振り下ろす。
そして、その誤った前提を完全に切り落とす。
「……俺たちは、間違っていた」
バンソンが目を開いた。
声は平坦だった。
だが、その奥には、自分自身に向けた深い悔恨が滲んでいた。
アサは彼を見つめた。
その眼差しには、言葉にしなくても分かる理解があった。
「あなたは……あの時も、蓮がまだ携帯電話を使っていると思ってたんだね」
「ああ」
バンソンは頷いた。
自分の誤りから、一歩も逃げようとはしない。
「一つの兆候を、事実に変えてしまった」
彼は低く言った。
「画面が点いたという現象に、人間の行動を勝手に与えてしまったんだ」
アサは静かに口を開いた。
その声は柔らかかった。
だが、慰めるためのものではない。
「少なくとも、それに気づいたのは、私たちがもっと深く盲目的な道へ進んでしまう前だった」
それは励ましではなかった。
バンソンの理性そのものを肯定する言葉だった。
バンソンは、わずかに首を横へ振った。
「最も危険な捜査官っていうのは、何も知らない人間じゃない」
一瞬、視線を落とす。
「自分が『知っている』と思っていることを、疑わなくなる人間だ」
そして、静かに言葉を継いだ。
「知性の傲慢さこそが、真実を隠すにはいちばん優れた覆いなんだよ、アサ」
バンソンは、テントの隅に立てかけられていたホワイトボードへ歩み寄った。
黒いマーカーを取り出し、キャップを外す。
カチッ――。
乾いた音が、静かなテント内に響いた。
彼は、力強く明確な筆跡で書き始める。
「19:03――蓮、旧校舎のネットワークへ接続」
「19:07――本人による最後の携帯電話操作を確認」
「19:12――SR-01が『ノア』の記録領域へアクセス」
そこに一本の横線を引き、さらに下へ書き足した。
「19:24――通知によって画面が点灯しただけ。人間による操作は確認されていない」
バンソンは一歩下がった。
そして赤いマーカーに持ち替えると、19:12という数字を太い円で囲んだ。
高村が彼の隣まで歩み寄り、並んだ時刻を凝視する。
「お前は……蓮が19時12分に死んだと思っているのか?」
バンソンは振り返った。
「いや」
赤いマーカーを掲げる。
そして、誰かが下書きしていた「死亡」という文字を、横一線に迷いなく塗り潰した。
「19時12分は、時間軸の中で異常な一点なんです。少なくとも、その時刻に生身の人間がSR-01の認証権限を使っていたことだけは確実だ」
バンソンは、そこにいる全員を見渡した。
その視線に晒されると、狭いテントの空間さえ、さらに窮屈になったように感じられた。
「問題は、そのとき藤沢蓮がどこにいたのか。何をしていたのか。そして――生きていたのかどうか。そのどれ一つとして、まだ証明されていない」
彼はホワイトボードへ向き直った。
「これは、捜査を線形的な因果関係だけで組み立てようとする思考の誤りです」
そして、三つの問いを大きく書いた。
「これからは、三つを完全に切り離して考えます」
一つ目。
「1.19時12分にSR-01を使ったのは誰か?」
二つ目。
「2.その時刻、蓮は正確にどこにいたのか?」
三つ目。
「3.蓮が死亡したのは、いつなのか?」
バンソンはマーカーの先でホワイトボードを二度、三度と叩いた。
カツ、カツ、カツ――。
乾いた音だけが響く。
「この三つの問いを、一つの物語として繋げてはいけない」
彼は一人一人の顔を見ながら続けた。
「それらを物理的証拠が結びつけるまでは、絶対にだ。カードを使った人間が犯人とは限らない。データへアクセスされた時刻が、そのまま殺人が行われた時刻だとも限らない」
ホワイトボードを背に残し、バンソンはテントの出入口脇にある窓へ歩いていった。
視線の先では、細かな雨が降り始めていた。
資料保管室の軒先を叩く雨粒が、一定のリズムを刻んでいる。
だが、バンソンの頭の中では、それとは正反対の激しさで論理の歯車が回り続けていた。
彼は、蓮が最後に受け取ったメッセージを思い出す。
――「19:12。資料保管室」
「このメッセージの異常性は、19時12分という数字そのものじゃない」
バンソンの呟きは、独り言に近かった。
だが、アサには十分聞き取れた。
「……じゃあ、何なの?」
アサが彼の隣まで歩み寄る。
バンソンは雨の向こうを見つめたまま答えた。
「一番恐ろしいのは時刻じゃない」
わずかに間を置く。
「メッセージの送り主が、蓮がその場所へ来ることを知っていた。あるいは――蓮がそこへ行かざるを得ないように仕向けたことだ」
バンソンは、現在分かっている情報を頭の中で組み直していく。
「見えていることを整理する。まず一つ。送り主は、校内における蓮の動きをかなり正確に把握していた可能性がある」
「二つ。蓮が何を調べていたのか、その目的や行動予定まで把握していた可能性がある」
そして三つ目。
「あるいは、蓮が誰にも明かしていなかった情報にアクセスできる、校内の内部情報システムへの権限を持っていた」
アサは黙って聞いていた。
やがて、その目がゆっくりと伏せられる。
背筋を、冷たい恐怖が這い上がった。
彼女にも分かったのだ。
バンソンが事件を、まったく別の方向へ押し動かそうとしている。
それは、単なる学生同士の感情的な衝突などとは比較にならないほど、暗く、そして危険な方向だった。
「つまり……」
アサは深く息を吸い込んだ。
「メッセージを送った人は、蓮がそこへ来ることを知っていた」
「知っていただけじゃない」
バンソンの声が低く沈む。
「……蓮が何を探していたのかまで知っていた」
アサが、その先を引き取る。
バンソンは彼女の目を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「それこそが、一番俺を警戒させている」
彼の視線が雨の向こうへ戻る。
「この事件は、蓮と敵対していた誰かが廊下で口論になって、感情的になって殴り合い、そのまま事故が起きた――そんな単純な話じゃない」
声がさらに低くなる。
「違う。蓮は誘導されたんだ」
一拍。
「獲物として、事件の起きる場所へ誘い込まれた」
そして今なお、犯人の正体だけが、不気味な空白として残されている。
蓮といつも衝突していた問題児、海斗。
彼は個人的な動機を持つ有力な容疑者ではある。
だが、現時点では彼を殺人現場と直接結びつける法医学的証拠は一つもない。
そして、数々の秘密を抱えている恋人――玲香。
彼女もまた容疑者のリストから外すことはできない。
しかし、決定的な直接証拠が欠けている。
SR-01を使ってシステムへアクセスした人物が、殺人犯とは限らない。
あの挑発的なメッセージを送った人物が、犯人だとも限らない。
三人が、それぞれ別人である可能性さえある。
あるいは――
一つの悪意が、三つの顔を使い分けている可能性も。
捜査本部が追う中心的な問いは、もはや、
――「誰が蓮を階段から突き落としたのか?」
ではなかった。
それは、さらに禍々しい形へと変貌していた。
――「誰が、この完璧な偽装現場を演出し、作り上げたのか?」
日が完全に落ちたころ。
高圧ライトを灯したパトカーが、煉瓦壁へ細長く歪んだ影を投げかけていた。
バンソンは高村に頼み、最後にもう一度だけ資料保管室へ戻る許可を得た。
同行するのは、彼とアサだけだった。
室内には、埃と黴びた紙の匂いが濃く漂っている。
古い金属製の書類棚はすでに移動されていた。
目には見えない微細な血痕も、すべて採取済みだ。
バンソンは、部屋の中央に立ったまま、しばらく動かなかった。
床に残された引きずり跡を見る。
次に、移動された書類棚を見る。
そして最後に窓の外へ視線を向ける。
遠く、暗い廊下の先にある階段。
闇に沈んだその階段を見据えながら、バンソンは頭の中に散らばっていた情報を、ひとつずつ整理していった。
藤沢蓮は、間違いなくこの旧校舎へ足を踏み入れている。
死亡する前、蓮はこの資料保管室と明確な関わりを持っていた。
彼の衣服には、この部屋にいたことを示す痕跡が残っている。
そして蓮は――たった一滴であろうと――この部屋で出血している。
だが、頭蓋骨を粉砕するほどの頭部外傷が、階段からの転落によって生じたものだとは、まだ医学的に証明されていない。
19時24分という携帯電話の記録は、テクノロジーが仕掛けた一つの罠だった。
19時12分には、SR-01という見えない権限が動いている。
そして――
蓮の調査を、かなり正確に把握している何者かが、暗闇の中に潜んでいる。
バンソンは、小さく息を吐いた。
それは、何かを理解した者の吐息だった。
同時に、積み重なった疲労が滲んだ息でもあった。
「俺たちは……最初の一歩から間違えていたんだ、アサ」
そのとき、ずっと扉の外に背を預け、二人を監視していた高村が、好奇心に促されるように室内へ入ってきた。
「最初の一歩っていうのは、どこだ?」
高村は、バンソンの背中を見つめながら尋ねた。
バンソンは、ゆっくりと振り返った。
そして、老練な刑事を真正面から見据える。
「この二十四時間、俺たちは――あなたも、俺も、そして捜査班全員が、躍起になってあらゆる場所をひっくり返してきた」
低く、静かな声だった。
「探していたのは一つです。誰が蓮を階段から突き落としたのか」
高村が眉をひそめる。
「お前は、この資料保管室こそが本当の殺人現場だと疑っているのか?」
「違います」
バンソンの返答は鋭かった。
「俺が疑っているのは……俺たちには、あの階段を『殺人現場』と呼ぶ資格も、根拠も、まだないということです」
彼は振り返り、狭く、湿気のこもった部屋を見渡した。
そこには、生徒たちの成績記録。
「27号室」に隠された秘密。
そして、長い年月の中へ埋め込まれた過去が眠っている。
「俺たちは、階段で一つの問題を解こうとしている」
バンソンは言葉を切った。
「なのに、その前提となる最も基本的なこと――蓮が本当にあそこで死んだのかどうかさえ、まだ証明していない」
その声が低くなる。
押し殺された唸り声のようだった。
「そして……もっと難しい問いがある」
張り詰めた空気は、今にも弾けそうな弩の弦のようだった。
アサが彼のそばへ歩み寄る。
鼻の奥がつんと痛む。
声は小さく、今にも涙と一緒に崩れてしまいそうだった。
「……どんな問いなの、バンソン?」
バンソンは、まっすぐにアサの目を見た。
その瞳には、一種の冷酷な知性が宿っていた。
感情や弱さが真実を覆い隠すことを、決して許さない知性。
「もし――藤沢蓮が本当に、この資料保管室で殺されたのだとしたら……」
一語一語が、凍りついた雫のように落ちていく。
「俺たちが今、血眼になって階段で探しているものは……答えじゃない」
バンソンは顔を上げ、開いた扉の向こうへ視線を向けた。
その先に広がるのは、廊下の暗闇。
「犯人は、なぜわざわざ蓮の遺体を外へ運び出した?」
低い声が、静かな室内に響く。
「なぜ俺たちに――警察に――そして、この世界そのものに、蓮は階段から転落して死んだと思わせようとした?」
そして、静かに言い切った。
「そこは現場じゃない」
一拍。
「俺たち全員に信じ込ませるために、犯人が作り上げた――悪意に満ちた物語なんです」
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