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Episode 42

 雨は、麻の通う学校からそう遠くない、細い路地にひっそりと佇む喫茶店の大きな硝子窓を、規則正しく叩き続けていた。淡い琥珀色の照明が、木張りの床へ長い影を落としている。静かなジャズの調べは雨音と溶け合い、店の外に渦巻く喧騒とは完全に切り離されたような空間を形作っていた。


 麻は盤村燦――バンソンと向かい合って座り、白い湯気を立ち上らせるカモミールティーのカップを、両手でもてあそんでいた。コートを羽織っているにもかかわらず、身体の奥には冷えが残っている。


 それは天候のせいではなかった。


 先ほどまで燦と話していた内容が、胸の内側に冷たい影を落としているのだ。


 神崎陸。

 藤沢蓮。

 白沢ノア。


 三つの名前。三つの運命。


 まったく見知らぬ学校で、三人は不可解な渦へと巻き込まれていた。


 まさか自分が、再びこれほど暗い調査に足を踏み入れることになるとは、麻は夢にも思っていなかった。まして、その中心にいるのが神崎陸――中学時代、かつて誰よりも親しかった旧友だとは。


 陸は、何の痕跡も残さず消えた。


 そして今度は、かつて陸と何らかの関係を持っていた藤沢蓮が、不可解な死を遂げた。


 燦はそこに座っていた。


 氷から削り出された彫像のように、微動だにせず。


 鋭く冷たい眼差しが、机の上に広げられた数々のメモへ静かに落ちている。


 二人の間に流れる空気は、以前とはまるで違っていた。


 あの古い駅で過ごした夜以来、二人の間にあった見えない境界は、いつの間にか消えていた。


 麻はそっと燦の横顔を見つめた。


 その瞬間、胸がまた騒がしく高鳴る。


 あの告白の言葉を、麻は今でも鮮明に覚えていた。


 飾り気もなければ、気の利いた美辞麗句もなかった。


 けれど、それは燦という人間そのもののように、揺るぎなく、真っ直ぐだった。


「麻」


 あの夜、冷たい霧の中で、燦は低く落ち着いた声で彼女の名を呼んだ。


「俺は、データと数学の定理しか信じない人間だ。人生に存在するあらゆる変数を分析し、測定し、予測してきた。だが――お前が現れるまでは」


 燦は一歩、彼女との距離を縮めた。


 その瞳には、不思議な光が宿っていた。


「お前は、俺がどんな方程式にも組み込めない定数だ。お前の存在は、俺が知るあらゆる論理の法則の外側にある。だが、もうその答えを探そうとは思わない。麻。俺は、お前に俺のそばにいてほしい。傍観者としてではなく、俺の世界から切り離すことのできない一部として」


 そして今、麻はここにいる。


 燦の隣に。


 ただの恋人としてではない。


 これから始まる危険な道程を、ともに歩む協力者として。


 燦がペンを置いた。


 その小さな音が、麻の追憶を断ち切った。


 燦は顔を上げる。


 鋭利な眼差しが、真っ直ぐ麻を射抜いた。


「俺たちは、問いを間違えている」


 平坦な声音だった。


 感情の揺らぎはほとんどない。


 それでも、その一言には真理そのもののような重みがあった。


 麻はわずかに身を乗り出す。


「どういうこと? 私たちは蓮を殺したのが誰なのかを探しているんじゃないの?」


「その問いは、広すぎる。そして曖昧すぎる」


 燦は静かに首を横へ振った。


「今の段階で『犯人は誰か』と問うのは、広大な森の真ん中に立って、『この葉は、どの木から落ちてきたのか』と尋ねるようなものだ。全員が容疑者であり、同時に、誰一人として容疑者ではない」


 燦は机上の資料へ目を落とす。


「今の俺たちがやるべきなのは、犯人の正体を当てずっぽうで推測することじゃない。藤沢蓮が最後の二十四時間に何をしていたのか――それを、できる限り正確に、細部まで再構成することだ」


「最後の二十四時間……」


 麻はその言葉を繰り返し、燦の考えを懸命に飲み込もうとした。


「そうだ」


 燦の指先が、計算されたような一定の間隔で机を軽く叩く。


「蓮の行動記録を再構成できれば、いくつもの核心的な疑問に答えられる。蓮は何を知っていた? 誰を調べていた? なぜあの時間に旧校舎へ向かった? 誰に接触する機会があった? 最後に生きていた時刻はいつだ?」


 そこで燦は一度、言葉を切った。


「そして、最も重要なのは――現場に残された要素のうち、どれが事件の流れとして自然に生じたものなのか。そして、どれが人の手によって介入され、意図的に配置されたものなのか。その二つを切り分けることだ」


 燦は麻の瞳を真っ直ぐ見つめた。


「もう一つ、絶対に覚えておけ。蓮がその日に会った人間すべてが容疑者というわけじゃない」


 その声には、いつになく強い戒めが込められていた。


「人は嘘をつく。何かを隠すこともある。だが、その理由が個人的な事情であって、蓮の死とは完全に無関係という可能性もある。俺たちがやるべきなのは、嘘を見つけた瞬間に犯罪へ結びつけることじゃない。嘘の中から真実を剥ぎ出すことだ」


 麻は静かに頷いた。


 燦の言いたいことは理解できた。


 疑うことは必要だ。


 だが、根拠のない疑念は、真実へ近づくどころか、理性そのものを曇らせる。


 燦は最初の資料を取り出した。


「まずは、あの日の出発点からだ」


 一枚目の資料には、登校記録と校門の監視映像に関する情報が整理されていた。


「出欠記録と校門監視カメラの映像によれば、藤沢蓮が学校へ到着した時刻は午前七時十分。単独で登校している。様子も完全に平常だった。慌てている様子も、何かに怯えている様子もない」


「何を持っていたの?」


 麻は報告書から目を離さなかった。


「通学鞄、携帯電話、それから――薄い書類の束」


 燦は最後の部分を意図的に強調した。


「問題は、蓮が死亡した後、警察が鞄の中を調べた時、その書類の束が存在しなかったことだ」


「消えたの?」


 麻は眉を寄せた。


「それとも、犯人が持ち去った?」


「まだ断定できない」


 燦の声は落ち着いていた。


「蓮自身が捨てた可能性もある。誰かに渡した可能性もある。あるいは、犯人が持ち去った可能性もある。現時点では、データ上の空白だ。注目すべき要素ではあるが、まだ事件と直接結びつけることはできない」


 燦は次の資料へ手を伸ばした。


「最初の休み時間。午前九時三十分頃。廊下の監視カメラに、蓮と水野怜香が話している姿が記録されている」


「怜香?」


 麻の口から、思わず声が漏れた。


 怜香もまた、中学時代の旧友だった。


 物静かで、何を考えているのか容易には読み取れない少女。


 こうして人間関係が複雑に絡み合っていることが、麻には息苦しく感じられた。


「何を話していたの?」


「監視カメラには音声がない」


 燦は記録へ目を落とした。


「会話は正確に三分四十二秒。映像を見る限り、二人は議論しているように見える。怜香は何度も首を横に振っている。態度もかなり強硬だ。対して蓮は、旧校舎の方角を指差している。その後、怜香はその場を離れた」


「警察は怜香を尋問したの?」


 麻の声には緊張が滲んでいた。


「した」


 燦は怜香の供述調書を一枚、麻の前へ滑らせた。


「彼女はこう答えている。『蓮にノアのことを聞かれた』」


「ノア?」


 麻は視線を走らせる。


「何を聞いたの?」


「怜香の供述によれば、蓮は、なぜノアの成績記録が以前、異常な形で再確認されることになったのか知っているか、と尋ねた。怜香は、知らないと答えた」


 燦の口元がわずかに歪んだ。


 そこには、半ば皮肉めいた笑みが浮かんでいた。


「だが、お前は覚えているだろう? 以前、俺たちに何と話したか。怜香は、ノアと一緒に成績処理室へ行ったことを認めている」


 麻の表情が変わった。


「つまり――怜香は嘘をついているの?」


「完全な嘘ではない」


 燦はすぐに訂正した。


「警察は彼女に聞き直した。『では、“知らない”という答えは正確ではないのではないか』とな」


 燦は調書を指先で軽く叩いた。


「それに対して怜香は、かなり巧妙に答えた。『ノアが以前、異議を申し立てたことは知っています。でも、誰がデータを書き換えたのかは知りません』と」


「言葉の意味を巧妙にすり替えている……」


 麻は背筋を冷たいものが走るのを感じた。


「その通り」


 燦は頷いた。


「怜香は嘘をついているわけじゃない。だが、真実をすべて話しているわけでもない。質問の意味を狭く解釈し、その範囲内では正しい答えを返して、自分の身を守っている」


 燦は淡々と説明を続けた。


「彼女は事件そのものについて何らかの事情を知っている。しかし、実際に誰がデータを改竄したのかについては、自分は知らないと主張している。論理的に見れば、彼女の返答には明確な矛盾がない。だから、警察もそれ以上追及することが難しい」


「でも、どうして蓮は怜香にノアのことを聞いたの?」


 麻は納得できないように眉を寄せた。


「蓮とノアに、何か関係があるの?」


「そこを、これから調べる」


 燦は怜香の調書をしまった。


「怜香と話した後、蓮は図書館へ向かった。公共端末の利用履歴によれば、そこで『神崎陸』という名前を検索している」


 麻の心臓が、大きく一度だけ脈打った。


 また、陸だ。


 燦は記録された検索履歴を読み上げる。


「続いて検索した語句は、『神崎陸――学業成績』。その次が、『陸は転校したのか』」


 燦は時刻を確認する。


「だが、どちらも検索結果は返されていない。どうやら、該当する情報そのものが消去されている」


「じゃあ、本当に陸はシステムから消されているの?」


 麻は喉が乾くのを感じた。


「それだけじゃない」


 燦の声音が、さらに低くなる。


「蓮は最後に、一つの組み合わせを検索した。『陸 ノア』だ」


「それで、何が出てきたの?」


「古い資料だ」


 燦の目の奥から、静かな光が消えた。


「数年前、学術特別課程に参加した生徒の名簿。その中に、かつて神崎陸の名前が記載されていた。ところが――現在の電子ファイルは改竄されている」


 燦は一拍置いた。


「陸の名前が消えている」


「削除されたの?」


 麻は呆然とした。


「でも、どうして蓮は、それに気づけたの?」


「蓮は携帯電話で画面を撮影していた」


 燦が答えた。


「おそらく、古い印刷物と照合したか、もしくは元の名簿そのものを記憶していたんだろう。そして、麻。これなら、朝に蓮が持っていた薄い書類の束についても説明できる可能性がある」


 麻の顔から血の気が引いた。


「その書類って……」


 声が震える。


「改竄される前の、生徒名簿の原本を印刷したものだった可能性がある?」


「十分にあり得る」


 燦は静かに頷いた。


「そして、それが事実なら――蓮は、誰かがデータへ介入し、神崎陸という人間の存在そのものを消そうとしたことを示す証拠を握っていたことになる」


 喫茶店の空気が、突然、重くなったように感じられた。


 流れているジャズは相変わらず穏やかだった。


 しかし、もう麻には安らぎを与えてくれない。


 それはまるで、徐々に正体を現していく恐怖劇の背景音楽のようだった。


「続ける」


 燦は一枚の監視映像の切り抜きを取り出した。


「午前十時十二分。蓮は廊下で、橘海斗という男子生徒と接触している」


「橘海斗?」


 麻は記憶を手繰り寄せる。


「どこかで聞いたことがある名前……」


「蓮と同じクラスだった」


 燦は資料を確認しながら続ける。


「そして、もっと重要なのは――こいつが、神崎陸を日常的にからかい、いじめていた生徒たちの一人だということだ」


 麻は無意識に手を強く握り締めた。


 胸の奥から怒りが込み上げてくる。


 陸を、あそこまで追い詰めた者たち。


「警察は海斗も尋問している」


 燦は続けた。


「最初、海斗は蓮と会ったことそのものを完全に否定した。供述はこうだった。『俺はただ通り過ぎただけだ』」


「明らかな嘘……」


 麻の声には怒りが滲んだ。


「そうだ」


 燦も認める。


「監視カメラには、二人が七分近く立ち話をしている姿が残っている。証拠を突きつけられて、海斗はようやく供述を修正した。蓮とは成績のことで話した、と認めた」


「誰の成績?」


 麻が尋ねる。


「陸だ」


 燦の声が低く落ちた。


「海斗の話によれば、蓮はこう尋ねた。『お前、あの時のことを覚えているか?』」


 燦は続ける。


「海斗が『何のことだ』と聞き返すと、蓮ははっきりと『陸だ』と答えた」


 麻の表情が強張る。


「すると海斗は、すぐにこう言った。『もう、その話をするな』」


「どうして、と蓮が聞く」


 燦は記憶している供述をそのまま再現した。


「海斗は答えた。『掘れば掘るほど、自分にとって得にならないことだってある』」


「それって、脅しじゃない!」


 麻が思わず声を上げた。


 燦は片手を上げ、彼女を制する。


「落ち着け、麻。警察もお前と同じように考えた。俺は海斗の供述録音も確認した」


 燦は冷静に続けた。


「俺から捜査員へ、海斗が蓮を直接脅迫したのかと聞いた。答えは『明確ではない』だった。さらに、『調査をやめろ』と言ったのかと聞いても、答えは同じだった」


「でも、『自分にとって得にならない』って、どう考えても警告でしょう」


 麻は納得できない。


「警告ではある」


 燦はあっさり認めた。


「だが、殺害を示唆する脅迫とは限らない。疑わしい言葉を、それだけで犯罪の証拠へ変えてはいけない」


「海斗は、学校内の処分や、裏で力を持っている連中との揉め事について警告していただけかもしれない。必ずしも殺人を意味しているわけじゃない」


 燦は切り抜き写真をしまい、蓮の携帯電話から復元された通信記録を取り出した。


「そして、海斗との接触後、蓮は連絡先に登録されていない番号から一通のメッセージを受け取っている」


 燦は画面へ目を落とした。


「『お前は海斗に聞いた』」


 麻の身体が、わずかに震えた。


「……誰かが蓮を監視していたの?」


「蓮は返信していない」


 燦は続ける。


「すると一分後、その番号からさらにメッセージが送られている」


「『二人目には聞くな』」


 麻の顔が強張った。


「それで、蓮はどうしたの?」


「返信した」


 燦は静かに答えた。


「『俺が誰に聞いたのかを知っているなら、俺が何を探しているのかも知っているはずだ』」


 燦がわずかに眉を上げる。


「挑発的な返答だ」


「相手からの返信は?」


「ない」


 燦は首を横に振った。


「その後、蓮は会話記録をすべて削除している」


「どうして自分から消したの?」


 麻が疑問を口にする。


「自分が監視されていることを誰にも知られたくなかったのかもしれない。あるいは、誰かを巻き込みたくなかった可能性もある」


 燦はそこで一度言葉を切った。


「だが、幸いだったのは――端末から削除された後も、サーバー側に保存されていた通知のバックアップが残っていたことだ」


 燦は記録を机上へ置いた。


「この証拠から、一つだけ確実に言えることがある」


 麻は黙って燦を見つめる。


 燦の眼差しが、鋭く細められた。


「蓮が調査を進めている間、その一挙手一投足を監視していた人間がいる」


「……蓮は、自分が誰かに監視されていることに気づいていたのかもしれない」


 麻が呟く。


「そして、それを知りながら、あえて調査を続けた」


「そういうことだ」


 燦は静かに答えた。


「問題は――その監視者が誰なのかだ」


 雨音が、一段と強くなった。


 窓硝子を打つ無数の雨粒が、まるで何かを急かすように響いている。


 机の上には、神崎陸の消えた記録。


 藤沢蓮が持っていたはずの謎の書類。


 白沢ノアの成績データ。


 そして、正体不明の監視者から届いた二通のメッセージ。


 一見すると、それぞれ独立した断片にしか見えない。


 しかし――


 燦は、その一つ一つを頭の中で静かに組み合わせ始めていた。


 まだ全体像は見えない。


 だが、少なくとも確かなことが一つある。


 藤沢蓮の死は、偶然の延長線上に起きたものではない。


 そして神崎陸が消えた理由もまた、単なる転校や記録上の不備などでは片づけられない。


 誰かが、何かを消している。


 誰かが、何かを隠している。


 そして藤沢蓮は、その「何か」に近づきすぎた。


 だからこそ――死んだのかもしれない。

 盤村燦は赤鉛筆を手に取り、紙面に記された時刻を次々と丸で囲んでいった。


「この数字に注目してくれ。蓮が海斗と接触したのは十時十二分。メッセージが届いたのは十一時四十分。時間的な間隔に不自然なところはない。だが、問題はメッセージの内容だ」


 燦は丸で囲んだ箇所を指先で叩いた。


「『お前は海斗に聞いた』――この一文が意味するのは、送信者が、蓮が直前に誰と話していたのかを正確に把握していたということだ」


 燦は麻を見た。


 そして、鋭い問いを投げかける。


「もしお前が警察官だったら、何を聞く?」


 麻はしばらく考えた。


「その会話を撮影できる監視カメラがほかにないか。それと……近くに誰かいて、聞き耳を立てていなかったか」


「その通り」


 燦は満足そうに微笑んだ。


「警察も確認している。監視カメラは存在した。ただし、周辺には誰もいなかった。しかも、カメラの画角だけでは廊下全体を捉えきれていない」


「じゃあ……どうやって知ったの?」


 麻は眉をひそめた。


「三つの可能性がある」


 燦は紙に一本ずつ線を引きながら書き込んでいく。


「一つ目。メッセージの送信者が、どこか死角になる場所から蓮と海斗が話しているところを見ていた」


 一本目。


「二つ目。海斗自身が、蓮が立ち去った直後に、その人物へ報告した」


 二本目。


 燦の手が止まった。


「そして、三つ目……」


 赤鉛筆の先端が、机の表面を軽く叩く。


「メッセージの送信者は、学校の監視カメラシステムへアクセスする権限を持っている」


 麻の背筋を、冷たいものが這い上がった。


 もし三つ目の可能性が事実なら、二人が相手にしているのは単独の人間ではない。


 学校という閉ざされた環境の中で、監視網そのものを掌握できるだけの権限と、恐るべき影響力を持った存在。


 それは、単なる脅迫者とは次元が違う。


「どの可能性も、今の段階で切り捨てるつもりはない」


 燦は資料を折り畳んだ。


「三つとも残しておく。さて、次だ」


 燦は別の資料を取り出した。


「これが、蓮を死へ一歩近づけた可能性のある、もう一つの接触だ」


 一枚の供述調書が机の上に置かれる。


「電子錠の入退室記録によれば、蓮は校内の相談室へ入っている。その日の担当は桜井美咲だ」


「スクールカウンセラー?」


 麻は驚いた。


「蓮が、どうしてその先生に会いに行ったの?」


「桜井先生自身も、蓮が自分を訪ねてきたことは認めている」


 燦は調書へ視線を落としながら説明した。


「ただし、その供述内容には怜香との間で食い違いがある。美咲の話では、蓮はノアの記録について尋ねた。彼女は、古い記録は現在、生徒が閲覧できる権限の対象外になっていると答えた。その後、蓮は陸について尋ねた」


 燦は一拍置いた。


「それに対して、彼女が答えたのは――『陸はもうこの学校の生徒ではない』。それだけだ」


「……それだけ?」


 麻は胸の内に引っかかるものを覚えた。


 何かがおかしい。


 あまりにも短すぎる。


 あまりにも、整いすぎている。


「その通り」


 燦は頷いた。


「それが彼女が警察へ話した内容だ。簡潔な受け答えで、形式的なやり取りにすぎなかったという話になっている。だが――」


 燦は別の資料をめくった。


 そこには、複数のグラフと細かな数値が並んでいた。


「俺が廊下の監視映像の記録時刻をもう一度確認したところ、蓮が相談室に滞在していた時間は正確に十七分四十五秒だった」


 燦の視線が上がる。


「十七分四十五秒だ。十八分近い時間を使って、たった数個の質問と返答だけ? あまりにも不自然だ」


 麻は強く胸を打たれるような感覚を覚えた。


「……何か隠してる」


「俺もそう考えた」


 燦の瞳から先ほどまでの静けさが消え、鋭い光が宿った。


「そこで俺は桜井先生本人に直接聞いた。嘘をついているとは言わなかった。ただ、一つだけ質問した」


 燦は麻を見る。


「『あの会話の中に、先生が思い出したくないことはありませんか』――そう聞いた」


 麻は息を詰めた。


「それで……先生は何て答えたの?」


 燦は静かに目を閉じた。


 まるで、その瞬間を脳裏に再現しているかのようだった。


「長い間、黙っていた」


 やがて、燦が口を開く。


「そして最後に、蓮から、思わず動揺してしまうような質問をされたと認めた」


「どんな質問?」


 燦は、桜井美咲の口から出た言葉を一語ずつ再現するように告げた。


「『ある生徒が電子上のシステムから削除されていたとしても、紙の記録が残っているなら、その生徒はまだ学校の生徒だとみなされるんですか』」


 麻の身体を、電流が走り抜けたような衝撃が駆け抜けた。


「紙の記録……」


 彼女の声が震える。


「蓮は、物理的な記録が残っていることに気づいていたんだ……!」


「その通りだ」


 燦は目を見開いた。


「それが、あの日の最初の転機だった」


 燦は机上の資料を指先で順に示していく。


「蓮は気づいたんだ。電子記録と紙の記録には、明確な違いがある」


「電子記録は簡単に書き換えられる。でも、紙の記録は同じようには操作できない……」


 麻が言葉を継いだ。


「だから、陸の名前が電子上から消されていたとしても、紙の台帳に残っていれば――」


「陸という存在そのものが、完全には消されていないことになる」


 燦が静かに言った。


 その言葉に、麻は息を呑んだ。


 それは些細な違いではない。


 一つの記録が消えたという話でもない。


 誰かが、意図的に人間一人の存在そのものを記録から消し去ろうとしている。


 そして蓮は、その矛盾に気づいてしまった。


 燦は資料を一枚めくった。


「だからこそ、朝に蓮が持っていた薄い書類の束が重要になる」


「……元の紙資料」


 麻が呟く。


「陸の名前がまだ残っていた時点の記録を、蓮は持っていた」


「おそらくな」


 燦は頷いた。


「そして、その記録を持っていたからこそ、蓮は確信した。陸が単純に転校したわけではない。誰かが、陸の痕跡を消している」


 室内に沈黙が落ちた。


 外では、夕暮れの雨が途切れることなく降り続いていた。


 ひび割れた大きな窓硝子を打つ雨音が、まるでこの事件の底に沈んでいる何かを、絶え間なく呼び起こしているようだった。


 警察署の資料保管室。


 古びた紙の匂い。


 保温されたまま焦げついた安物の珈琲。


 湿った空気。


 そして、行き詰まりかけた事件特有の、目には見えない息苦しさ。


 それらが室内に重く澱んでいた。


 江波麻は、座面の革がところどころ剥がれ落ちた椅子に腰掛け、腕を組んだまま、白い掲示板の前に立つ少年の背中を静かに見つめていた。


 盤村燦。


 黒いシャツの襟元を一番上の釦まできっちり留め、捲り上げた袖からは、細いながらも引き締まった前腕が覗いている。


 その手には赤い筆記具。


 無数に並べられた現場写真の間を、鋭い線で結んでいた。


 病的なほど白い蛍光灯の光に照らされた横顔は、あまりにも現実離れして美しかった。


 雪と氷から削り出された彫像。


 冷たく、完全で、まるでこの人間世界に属していない存在のように。


 そして――実際、燦は完全にこの世界の住人ではなかった。


 麻は知っている。


 彼が抱える最も深い秘密を。


 盤村燦。


 それは、本物の彼ではない。


 彼は代替体だった。


 人の姿を与えられた、もう一人の存在。


 異なる次元で永遠にも等しい休眠状態にある、至高の悟達者ゲンソン・ジェスダ――その本体の核から分離して生み出された人造の分身。


 燦には、限界という概念そのものを超越したデータ解析能力が備わっていた。


 膨大な情報を瞬時に処理し、複雑な因果関係を整理し、無数の可能性を同時に演算する。


 脳内の化学反応によって生じる感情の揺らぎに左右されることすらない。


 完璧な思考機構。


 世界を解読するためだけに存在する、冷徹な知性。


 それが、かつての盤村燦だった。


 ――あの夜までは。


 街灯の淡い黄色に満たされた、あの路地裏の夜。


 その記憶が蘇った瞬間、麻の眼差しは無意識のうちに柔らかくなった。


 まだ、ほんの数週間しか経っていない。


 前の事件が、血と涙にまみれた結末を迎えた夜。


 錯乱した暴漢たちが振り下ろした刃の前へ、麻は反射的に身を投げ出した。


 燦を庇うためだった。


 刃は彼女の肩を掠めた。


 深い傷ではなかった。


 けれど、白い衣服には鮮やかな暗紅色が滲み、みるみるうちに布地を濡らしていった。


 そして――あの瞬間。


 生まれて初めて、盤村燦という存在は、論理の崩壊というものを知った。


 彼は麻を強く抱き締めた。


 普段から人間より低い温度を保っているはずの彼の手が、激しく震えていた。


「あの頃の俺は、三界に存在するあらゆる原理を理解するために造られていた」


 あの夜。


 街灯の下で、燦は麻の傷に包帯を巻きながら、そう囁いた。


 細く長い瞳には、壊れかけた感情が滲んでいた。


 それは痛いほど鮮烈で、同時に、今までの彼からは決して見ることのできなかったものだった。


「弾丸がどんな軌道を描くのかも、殺人犯がなぜ人を殺すのかも、一瞬で計算できる」


 燦の声が僅かに震えた。


「けど……麻」


 彼は、言葉を探すように一度目を伏せた。


「お前があの刃の前に飛び出した瞬間、俺の認識体系は全部崩れた」


「どうして胸が締めつけられるのか分からなかった。まるで中身を握り潰されて、今にも砕けてしまうようだった」


 燦は苦しげに息を吐いた。


「どんな演算式にも、どんな算法にも、それを説明することができなかった」


 指先が、僅かに震える。


「俺の存在なんて、本来はこの世界を解読するための、ただの遊戯装置にすぎないはずだった」


 そして、彼は麻を見つめた。


「なのに今は……お前がいない世界に、意味を見いだせない」


 燦の手が、そっと麻の頬へ触れた。


 親指が、乾ききる前の涙の跡を静かに拭う。


「もう、あんなことをするな」


 低く、しかし震える声だった。


「二度と、自分自身を危険因子にするな」


 一瞬の沈黙。


 そして燦は、何かを決意したように言った。


「俺は、お前を失うことだけは、計算したくない」


 彼の指が、麻の頬に触れたまま止まる。


「だって……俺は、お前を愛している、麻」


 その言葉は、これまでの彼からは想像もできないほど、人間らしかった。


「自分の中に、こんな心があるなんて知らなかった。人間の心なんて、俺には不要なものだと思っていた」


 燦は僅かに笑った。


「けど、お前が目を覚まさせた」


 あの瞬間を境に――


 二人の間に残っていた境界線は、永遠に消えた。


 麻は、もはやただの同級生ではない。


 単なる協力者でもない。


 盤村燦にとって、彼女は唯一の錨だった。


 純粋な理性という名の底なしの虚無へ、彼の中に芽生えた「人間らしさ」が溶けて消えてしまわないように、この世界へつなぎ止めてくれる、ただ一つの存在。


 そして今、その麻は再び燦の隣にいる。


 事件を解くために。


 真実へ辿り着くために。


 そして――燦自身が、もう二度と人間の心を失わないために。

 筆記具の蓋が「かちり」と乾いた音を立てて閉じられた。


 その音に、江波麻は現実へと引き戻された。


 盤村燦が振り返り、彼女のもとへ歩み寄ってくる。


 いつもの、ひやりとした冷たい手が、そっと麻の頬へ触れた。


 殺人事件の臭気が充満するこの部屋には、あまりにも小さく、あまりにも優しい仕草だった。


 それでも、二人の間では、それがごく自然なものになっていた。


「集中が途切れている」


 燦が口を開く。


 低く温かな声。


 寝不足のせいか、わずかに掠れていた。


「さっき、お前の心拍数が一分間に十二回ほど上がった。何を考えている?」


 麻は小さく微笑み、燦の手の甲へ自分の手を重ねた。


「私たちって、そもそもこの学校の人間じゃないんだなって考えてたの」


 麻は一度、言葉を選んだ。


「ここは私たちの学校じゃない。私たちは、ただの部外者だよ。なのに今は、赤の他人の血で汚れた泥沼の中へ、私たちまで深く沈み込もうとしてる」


 燦は彼女のこめかみに落ちていた髪を、そっと耳へ掛けた。


 その眼差しは僅かに和らいでいた。


 だが、言葉の切れ味は外科用の刃物のように鋭い。


「完全な赤の他人というわけでもない」


「神崎陸は、お前が中学二年の頃から親しかった友人だ。あいつがこの学校から跡形もなく消えたことは、単なる物理的な失踪では説明できない」


 燦の声が低くなる。


「そして今、陸の存在に関する鍵を握っているらしい藤沢蓮が死んだ」


「俺たちがここにいるのは、好奇心からじゃない」


 燦は麻から手を離した。


「警察が、間違った方向へ進んでいるからだ」


 燦は部屋の中央に置かれた鉄製の机へ身体を向けた。


 その前では、黒田警部が法医学報告書の山を前に、頭を抱えていた。


 燦は机を拳の関節で二度、軽く叩いた。


「こつ、こつ」


 乾いた音が室内へ響き、年配の警察官に顔を上げさせる。


「時間を無駄にしている」


「皆さんは、ずっと同じ問いを繰り返している。『犯人は誰なのか?』」


 燦は淡々と言った。


「だが、それは現場にあるすべてが偽装されている可能性を考えれば、行き詰まった思考だ」


「顔の見えない幽霊を追いかけるのではなく、もっと基本的で、はるかに事実に即した問いへ置き換えるべきだ」


 黒田は赤く充血した目を擦った。


「それは何だ? 天才探偵殿」


 燦は白板を指差した。


 そこにあったのは、複雑に絡み合った人物相関図ではなかった。


 細かな時刻によって区切られた、一本の時間軸。


「藤沢蓮は、死亡するまでの最後の二十四時間に、何をしていたのか?」


 黒田は眉を寄せた。


「最後に会った連中からは、すでに事情を聞いている。だが、殺人の動機を明確に示すような人間は一人もいない」


「初歩的な心理分析の誤りです」


 燦は黒田の正面へ椅子を引き寄せ、腰を下ろした。


 その姿勢には、年長の捜査官を相手にしているとは思えないほどの圧倒的な威圧感があった。


「蓮が会った人間すべてを、殺人の容疑者として扱う必要はない」


「嘘が、常に殺人のためにつかれるとは限らないからだ」


 燦の声は冷静だった。


「人は、私的な秘密を隠すために嘘をつく。恥辱から逃れるためにも、自尊心を守るためにも、あるいは単純に――死とは何の関係もない、小さな罪を隠すためにも嘘をつく」


「だからこそ、蓮の最後の二十四時間を細部まで再構成できれば、単に死亡時刻を絞り込めるだけではない」


「もっと重要な問いにも答えられる」


 燦の目が細くなる。


「蓮は何を知っていた?」


「誰を狙っていた?」


「そして、何より重要なのは――」


 一拍。


「なぜ、あいつは自分から旧校舎へ向かい、命を差し出すような真似をしたのか?」


 部屋に沈黙が落ちた。


 燦は立ち上がり、映写機の電源を入れた。


 白い壁に、白黒の監視映像が映し出される。


 映像の視点は、学校正門を捉えていた。


 表示時刻――午前七時十分。


「ここが出発点だ」


 燦の声が暗い室内に、一定の調子で明瞭に響いた。


「藤沢蓮が正門を通過する。単独だ」


 映像の中で、蓮は一定の歩調で校内へ入っていく。


「歩調は安定している。躊躇も、不安も、動揺も見られない」


 燦の指先が画面へ向けられる。


「右手を見ろ」


 麻は目を細め、画面を凝視した。


「薄い書類の束……灰色がかった白色」


「そうだ」


 燦は頷いた。


「蓮は書類の束と携帯電話、それに通学鞄を持って登校している」


 燦は映像を一時停止させる。


「だが、現場と蓮の収納棚に残されていた遺留品をすべて確認した結果、この書類の束だけが完全に存在しない」


 黒田が鼻で笑った。


「どこかのごみ箱へ捨てた可能性もあるだろう」


「可能性はある」


 燦は否定しなかった。


「だが、人の死へつながる一連の出来事の中では、無意味だと証明されるまでは、消失に意味がないとは考えないことだ」


 燦は黒田を真っ直ぐ見据えた。


「この細部を、頭の片隅に残しておいてください」


 映像が切り替わる。


 今度は、二階廊下を映した別の監視映像だった。

 時刻――午前九時十五分。


 最初の休み時間。


 監視映像の中で、藤沢蓮は一人の女子生徒と向かい合っていた。


 水野怜香。


 肩口で切り揃えられた短い髪。


 かつて白沢ノアの成績管理システムに関して、何らかの関与があったことを供述している少女だった。


 映像に音声はない。


 しかし、二人の身体の動きを見れば、それが友好的な会話ではないことくらい容易に分かる。


 怜香は何度も胸の前で腕を組んでいた。


 典型的な防御姿勢。


 対して蓮は身体を前へ傾け、逃げ道を塞ぐように距離を詰めている。


 そして、映像開始から百四十二秒後。


 蓮が右手を上げ、廊下の東側を指差した。


 その先にあるのは――旧校舎。


 怜香は即座に激しく首を横へ振った。


 さらに二歩、後退する。


 そして、それ以上何も答えることなく、背を向けて立ち去った。


「会話時間、三分四十二秒」


 盤村燦が映像の記録値を読み上げた。


「黒田さん。あなたは水野怜香を直接取り調べた。彼女は何と話した?」


 黒田は手帳をめくった。


「少女の話では、『蓮からノアのことを聞かれた』そうだ。詳しく聞いたところ、『ノアの成績記録が以前、どうして再確認されたのか知っているかと聞かれた。私は知らないと答えた』と言っている」


 麻は唇を噛んだ。


「またノア……」


 その名前が出てくるたびに、胸の奥に重いものが沈んでいく。


「どうして蓮は、陸の失踪を調べているのに、そこまでノアのことを掘り返しているの?」


「それこそが問題だ」


 燦は机を指先で軽く叩いた。


 乾いた音が静かな室内に響く。


 燦は黒田を見る。


「あなたは怜香の供述を信用しているのか?」


「信用しない理由がない」


 黒田は肩をすくめた。


「彼女はかなり怯えていた」


「怯えていることと、正直であることは同義じゃない」


 燦は冷たく言い放った。


 そして、映像を一時停止させる。


 画面には、胸の前で腕を固く組んだ怜香の姿が映っていた。


「言葉を分析しよう」


 燦は画面を指す。


「あなたが質問した。彼女は答えた。『私は知らないと言った』」


「だが、以前の怜香自身の供述では、彼女はノアと一緒に成績処理室へ行ったことを認めている」


 黒田が膝を叩いた。


「なら、嘘をついているじゃないか!」


「必ずしもそうとは限らない」


 燦は首を横に振る。


 細く長い目がわずかに細められ、その瞳に思考の光が宿った。


「これは、言葉を曖昧にして責任から逃れる技術だ」


 燦は淡々と続けた。


「蓮が、『誰がデータを書き換えたのか知っているか』と聞いたのなら、怜香の『知らない』という答えは、真実である可能性がある」


「怜香は、ノアが成績について異議を申し立てた事実を知っている。だが、実際にシステムへ介入した人物の身元まで知っているとは限らない」


 燦の指先が停止した映像の上をゆっくりと滑った。


「つまり、怜香は完全な嘘をついているわけではない。質問に含まれている意味を狭く解釈し、その狭い意味においてだけ真実を答えている」


 黒田は黙った。


「腕を組んでいたこと。蓮から距離を取ったこと。そして最後には会話そのものから逃げるように立ち去ったこと」


 燦の声が低くなる。


「そこから分かるのは一つだ。怜香は、何かに巻き込まれることを恐れている」


「蓮は、怜香が絶対に踏み込みたくなかった領域へ触れたんだ」


「それは、本人が死ぬほど関わりたくないと思うほどの、触れてはいけない領域だった可能性がある」


 麻の背筋に、冷たいものが走った。


 燦は次の資料へ切り替える。


 画面には、学校図書館のサーバーから抽出された検索履歴が表示された。


 時刻――午前九時四十五分。


「怜香に拒絶された後も、蓮は諦めなかった」


 燦が説明する。


「図書館へ入り、共用端末第四番を使用している」


 黒田が画面を覗き込む。


「検索欄には何と入力した?」


 燦が顎で示した。


 黒田は緑色の文字で表示された記録を読み上げた。


「神崎陸――検索結果なし」


「次」


「神崎陸、学業成績――検索結果なし」


「次」


「陸は転校したのか――検索結果なし」


 麻は小さく身震いした。


「学校が、陸の痕跡を全部消してる……」


 その声が震える。


「まるで、最初からこの学校に存在していなかったみたい」


「そうだ」


 燦は否定しなかった。


「蓮も、おそらくそこで気づいた。陸に関連する検索語そのものが遮断されている」


 燦は検索履歴を指でなぞった。


「だから、正面から探すのをやめた。直接的な語句を捨て、別の経路から辿った」


「蓮が入力したのは――『陸 ノア』」


 画面が切り替わる。


 今度は、午前九時五十二分に取得された、唯一の検索結果が表示された。


 ファイル名――前年学術優秀者課程参加生徒名簿。


「面白いことを教えてやろうか」


 燦は微笑んだ。


 だが、その笑みには温度がなかった。


「俺が依頼した技術担当者に、このファイルの付加情報を調べさせた」


「そこで、ある事実が判明した」


 燦が画面を拡大する。


「このファイルには、人為的な改変の痕跡が残っている」


 黒田が眉を寄せた。


 燦は一つの行を指差した。


「以前、この名簿の十四番には神崎陸の名前が記載されていた」


「だが、午前九時五十二分に蓮が見たファイルでは――十四番の欄だけが完全に空白になっている」


「しかも、表計算の形式そのものが不自然にずれている」


 麻が画面を見つめた。


「消した人間が、焦っていた……?」


「あるいは――」


 燦が言葉を継いだ。


「こうした取るに足らない古い廃棄資料まで、誰かが掘り返すとは思っていなかった」


「だから、修正が粗雑になった」


 麻が呟く。


「その可能性も高い」


 燦は頷いた。


「そして、蓮は十四番の欄が異常に消されているのを見た直後、携帯電話で画面を撮影している」


 燦は一定の間隔で指先を叩いた。


「これなら、蓮が朝からあの薄い書類の束を手放さなかった理由にも説明がつく」


 麻の表情が変わる。


「何かを印刷していた……?」


「そうだ」


 燦の目が鋭くなる。


「電子上の記録は、遠隔操作で消すことができる」


「だが、紙に印刷された証拠なら、システムへ侵入しても消せない」


 黒田が黙り込む。


 燦は視線を次の映像へ向けた。


 時刻――午前十時十二分。


 場所――校舎B棟廊下。


 監視カメラの映像が切り替わった。


 そこには、藤沢蓮が一人の男子生徒の前に立ちはだかっている姿が映っていた。


 背が高い。


 髪は後ろへ撫でつけるように整えられ、整髪料で固められている。


 麻の眉が険しくなった。


「橘海斗……」


 記憶を辿りながら、その名を口にする。


「蓮と同じクラスだった奴。しかも……陸がまだこの学校にいた頃、いつも陸をからかったり、精神的に追い詰めたりしていた生徒たちの一人」


「その通り」


 燦は一枚の報告書をめくった。


「警察が、この接触について海斗を取り調べた際、最初の供述はこうだった」


 燦が読み上げる。


「『俺はただ通り過ぎただけだ。何も話していない』」


 燦は鼻で笑うことすらしなかった。


「お粗末で、愚かな嘘だ」


「監視カメラには、二人が六分四十五秒にわたって緊張した様子で会話しているところが残っている」


「警察が監視映像の切り抜きを突きつけた途端、海斗は動揺し、ようやく供述を修正した」


 燦は録音装置を再生した。


 部屋の中へ、橘海斗の震えた声が響き渡る。


 言い訳するような、落ち着きのない声だった。


「分かったよ……話した。あいつが俺の前に立ちはだかったんだ。それで、あの時のことを覚えているかって聞いてきた」


「俺が、『何のことだ』って聞いたら――あいつは、『陸のことだ』って」


 声に苛立ちが混じる。


「俺は頭に来た。あの野郎の名前を二度と口にするなって言った」


「どうしてって聞かれて……」


 一瞬、海斗は言葉に詰まった。


「……だから、掘れば掘るほど、自分にとって得にならないことになるって言った」


 録音が停止した。


 燦は装置の電源を切る。


 そして黒田を真っ直ぐ見つめた。


「取り調べを担当した警察官は、この供述について『海斗には被害者に対する威迫の兆候が認められる』と記録している」


「あなたも、そう考える?」


 黒田は少し迷った後、口を開いた。


「『掘れば掘るほど、自分にとって得にならない』……」


「確かに、かなり牽制めいた言い方だ。海斗は、蓮が昔の校内暴力やいじめを暴こうとしていることを恐れ、自分が口封じをした――そういう可能性もあるんじゃないか」


「間違いだ」


 燦は即座に切り捨てた。


 声には一切の揺らぎがなかった。


「また感情的な推測をしている」


「警察は、海斗が問題児だからという理由だけで、彼に犯人役の服を無理やり着せようとしている」


 燦は録音装置へ視線を落とした。


「もう一度、海斗の声を聞いてください」


「苛立っている。落ち着きを失っている。だが、その奥には、もっと明確な感情がある」


 燦の目が細くなる。


「逃避だ」


 黒田は黙って聞いていた。


「海斗は本当に蓮を脅している人間の声じゃない」


「自分の秘密を守るために相手を威圧している人間なら、もっと直接的な言葉を使う」


「たとえば、『調べたら殺す』」


「言っていない」


「『俺のことに首を突っ込むな』」


 燦は首を横に振る。


「それも言っていない」


「海斗が使ったのは、『自分』ではなく『自分たち』に近い意味を含む表現だ」


「『自分にとって得にならない』――そこには、自分一人だけの損得という意味ではない可能性がある」


 燦はこめかみに手を当てた。


 膨大な言語情報が、彼の思考の中で幾重にも組み合わされていく。


「これは殺害の脅迫じゃない」


「不気味な警告だ」


 燦の声が一段低くなった。


「海斗は、自分自身よりはるかに恐ろしい何かを知っている」


「そして、それに触れれば、蓮だけではない。海斗自身まで巻き込まれ、すべてを失う」


「だから、海斗は蓮を脅しているんじゃない」


 燦の視線が冷たく光った。


「逃げているんだ」


 麻の身体が震えた。


「もし……陸をいじめていた海斗のような人間まで怯えているんだとしたら……」


 麻は言葉を選ぶ。


「蓮が触れようとしているものは、一体どれほど大きいの?」


 燦は画面を切り替えた。


「夕日が沈むまでに、蓮の命を奪うほどには――十分に大きい」


 冷淡な声だった。


 映像が暗転する。


 次に表示されたのは、ひび割れた携帯電話から復元された一枚の画像。


 蓮の端末に残されていた、雲上保存領域の一時記憶から復旧された写真だった。

 時刻――午前十一時四十分。


 それは、使い捨てのプリペイド式SIMカードを利用した電話番号から送られてきた、一通の短い文字通信だった。


 匿名の送信者:

「お前は海斗に聞いた」


 蓮は、すぐには返信しなかった。


 一分後。


 二通目のメッセージが届く。


 匿名の送信者:

「二人目には聞くな」


 そこで初めて、蓮は返信した。


 鋭利な刃物のような一文だった。


 蓮:

「俺が誰に聞いたのかを知っているなら、俺が何を探しているのかも知っているはずだ」


 その後、この一連のやり取りは蓮自身の手によって端末から完全に削除された。


 だが、端末と外部保存領域との自動同期機能が、着信時に生成されたプッシュ通知の記録を雲上保存領域へ残していた。


「殺人犯が、いよいよ姿を現し始めたってわけか……」


 黒田が呟いた。


 額には、冷たい汗が滲んでいる。


「待ってください」


 燦が即座に遮った。


 その瞳には、ぞっとするほど鋭い光が宿っていた。


 彼は赤鉛筆を取り、午前十一時四十分の時刻を丸で囲む。


 次いで、それを午前十時十二分の時刻と一本の線で結んだ。


「時間差を見てください」


 燦の声は冷静だった。


「蓮と海斗の会話が終わったのは十時十八分。そのおよそ一時間二十二分後に、警告めいたメッセージが送られている」


 燦は赤鉛筆の先端を時刻の間に置いた。


「そこで問題になるのは――どうやって送信者は、蓮が海斗と接触したことを知ったのか、ということです」


 燦は片手を上げ、三本の指を立てた。


「可能性は三つある」


「一つ目」


 人差し指を立てる。


「送信者が偶然その場を通りかかり、死角になる場所から、蓮と海斗の会話を肉眼で見ていた」


「だが、俺は学校の監視カメラ配置図を確認した」


 燦の指が一本の経路をなぞる。


「二人が七分近く話しているあいだ、監視カメラに一度も映り込まずに見張り続けられるほど大きな死角は存在しない。周囲に設置された監視カメラの画角を考慮すれば、これは成立しにくい」


 燦は人差し指を折った。


「二つ目」


 中指が立つ。


「海斗自身が、蓮が立ち去った直後にその人物へ報告した」


「この仮説が正しければ、海斗は何者かの指示系統に組み込まれた駒か、あるいはその人物に操られている」


 そして、燦は中指も折った。


 残ったのは、薬指だけだった。


 声が、一段低くなる。


 その響きだけで、室内の人間の背筋を冷たくさせるような声音だった。


「三つ目……」


 沈黙。


「送信者は、そもそも廊下にいなかった」


 燦の視線が、監視映像へ向けられる。


「どこか安全な場所に座りながら、蓮の行動を逐一監視していた」


「学校内部の監視カメラ網を通してな」


 会議室全体が静まり返った。


 誰も口を開かなかった。


 窓を打つ雨音だけが、一定の間隔で響いている。


 先ほどまでただの悪天候の音だったはずなのに、今ではまるで――死神が扉を叩いているように聞こえた。


「もし三つ目だとしたら……」


 麻が小さく呟いた。


 喉が締めつけられたような声だった。


「蓮は朝からずっと、透明な檻の中に閉じ込められていたってことになる」


「歩いた場所も、誰と会ったのかも、何を見たのかも……」


 麻は息を呑む。


「顔をしかめた、その一瞬まで、暗闇の中にいる誰かに見られていた」


「そして、最悪なのは――」


 燦が言葉を継いだ。


「蓮自身が、自分が監視されていることを認識していた可能性が高い」


「『俺が誰に聞いたのかを知っているなら、俺が何を探しているのかも知っているはずだ』」


 燦は、蓮の返信を読み返す。


「この言葉は、単なる返答じゃない」


「暗闇に潜む相手への、直接的な挑発だ」


「蓮は、自分の命そのものを餌にして、相手を引きずり出そうとしていた」


 時刻――午後一時二十分。


 場所――校内相談室。


 燦は次の資料へ切り替えた。


「電子錠の入退室記録によれば、蓮は午後一時二十分に相談室へ入っている」


 一枚の資料を黒田の前へ差し出す。


「昼の担当者は、相談員の桜井美咲」


 黒田は報告書をめくった。


「彼女の供述では、蓮は部屋に入り、ノアの古い記録について尋ねた。美咲は、その記録はすでに閲覧権限の対象外だと答えた」


「その後、蓮は陸について質問した」


 黒田が続ける。


「美咲は、『陸はもうこの学校の生徒ではない』と答えた。以上だ」


 黒田は報告書を閉じる。


「それだけだ。供述は非常に簡潔だった」


「非常に簡潔?」


 燦は頷いた。


 口元には、僅かな嘲笑が浮かんでいた。


「簡潔すぎる」


 燦は画面へ視線を向ける。


「不自然なほどにな」


「廊下の監視カメラには、蓮が午後一時二十分に相談室へ入り、午後一時三十八分に出てくるところが記録されている」


「滞在時間は十八分」


 燦の声が冷たく響く。


「ノアの記録について一つ。陸について一つ。これだけの単純な質疑応答だったというなら、どうして十八分もかかる?」


「二人とも、一分に一語しか話さなかったとでも言うのでなければな」


 黒田が渋い顔をした。


「俺も問い詰めた。だが、彼女は頑として、蓮がほかに何を話したのか覚えていないと言い張った」


「追及する場所を間違えている」


 燦は呆れたように首を横へ振った。


「一部の真実を意図的に隠している証人に対して、『何を話した?』と聞いてはいけない」


 燦の声が静かに落ちる。


「聞くべきなのは――『なぜ、その会話を思い出すだけで怯えるのか』だ」


 燦の脳裏に、前日の光景が蘇った。


 ――回想。


 人の少ない喫茶店。


 その片隅で、桜井美咲は身体を縮めるように椅子へ座っていた。


 両手は固く組み合わされ、机の上に置かれている。


 親指の爪が、もう一方の手の甲へ深く食い込んでいた。


 皮膚は赤く腫れている。


 それでも美咲は、真正面に座る黒いシャツの少年を見ようとしなかった。


 その少年――燦の瞳は、冷たい。


 まるで、相手の心の奥まで見透かしてしまうような目だった。


「あなたは、会話の主題そのものは覚えている」


 燦は黒い珈琲をゆっくりとかき混ぜた。


「なのに、具体的な内容だけを覚えていないと言う」


 匙がカップの縁へ触れ、かすかな金属音を立てる。


 燦の声は穏やかだった。


 一定の間隔で音を刻み、まるで相手を催眠へ導くようだった。


「典型的な心理的防衛機制だ」


 美咲の肩が僅かに震えた。


「思い出したくないんだろう」


 燦は彼女の反応を見逃さない。


「なぜなら、その記憶の中には、時間をかけて爆発へ近づいている爆弾があるからだ」


 美咲は俯いたままだった。


「蓮は、相談員という立場の人間が知っているはずの範囲を超えた質問をした」


 燦は静かに断定する。


「そうだろう?」


 美咲の呼吸が乱れた。


「俺は、この学校の秘密を全部話せと言っているわけじゃない」


 燦の声がさらに低くなる。


 そこに込められた同情は偽物だった。


 だが、それゆえに効果的だった。


「だが、藤沢蓮はもう死んでいる」


「そして、あなたの嘘によって真実の発見が妨げられれば――法律の目から見て、あなた自身がその死に加担したと受け取られる可能性がある」


 燦は身を僅かに前へ傾けた。


「だから、教えてほしい」


「十八分のあいだに、一体何があなたから平静を奪った?」


 美咲は唇を噛み締めた。


 そして、限界を超えた。


 下唇の皮膚が裂け、赤い血が滲んだ。


 長い沈黙の後、心理的な防壁が崩れ落ちた。


 美咲は涙の溜まった瞳を上げ、初めて燦を正面から見た。


「……あの子は」


 声が震えていた。


「あの子は、私が陸はシステムから削除されたって話しても、全然動揺しなかった」


 美咲は息を呑む。


「普通の生徒がするような反応じゃなかった」


「私を見る目が……鋭すぎた」


「そして、あの子は私に、一つだけ質問した」


「何を?」


 燦が尋ねる。


 美咲の喉が鳴った。


「……こう聞かれた」


「『桜井先生。一人の生徒が、学校の電子データから存在の痕跡をすべて消されていたとしても――』」


 美咲の声が、さらに小さくなる。


「『物理的な資料保管室には、直筆の署名がまだ新しい紙の記録が残っているとしたら……法律上、その人間は、本当に学校から消滅したことになるんですか』――って」


 ――回想終了。


 会議室へ、沈黙が戻った。


 燦は、先ほど美咲から聞き出した言葉を、そのまま繰り返した。


 黒田の手からペンが滑り落ち、机の上へ転がった。


 麻は思わず口元を手で覆った。


「……蓮は」


 燦の瞳が、静かな興奮に燃えていた。


 真実を一つずつ解剖していく、異常なほど鋭い知性の光だった。


「嘘の構造そのものに、綻びがあることを見つけたんだ」


 燦は白板へ歩み寄る。


「陸の名前を電子上のシステムから消すことだけなら、ありふれた技術しか持たない者でもできる」


「侵入して、記録を書き換えればいい」


「だが、紙の記録は違う」


 燦が赤鉛筆で白板を二つに分ける。


「物理的に存在している」


「鍵のかかった保管室に収められ、人間の管理によって守られている」


「外部から遠隔操作して消すことはできない」


 燦の指が一つの文字を叩いた。


「蓮は、そこに気づいた」


「電子上に存在する陸の記録と、物理的に保存されている陸の記録――」


 燦は二つを並べる。


「この二つが一致していない」


 麻は息を呑んだ。


 燦は、静かに言い切った。


「そして蓮は、確認するために、自分がどこへ行けばいいのかを正確に理解していた」

 時刻――午後五時五分。


「その日の最後に蓮の姿を捉えた廊下の監視カメラだ」


 盤村燦は画面を指差した。


「放課後、蓮は教室へ戻っていない。薄い書類の束を携え、西北方向へ進んでいる。同行者はなし」


 燦は映像を停止させる。


「行動状態――自発的。目的地――旧校舎。物理資料保管室がある場所だ」


「そして、これだ」


 燦がマウスを操作すると、画面いっぱいに二進数の羅列が走り始めた。


「ついさっき通信事業者から回収できた通信記録だ。午後五時十五分、蓮の端末へ匿名番号から着信がある」


「通話時間、四十六秒。ただし、音声記録は残っていない」


 燦は麻を見た。


「だが、その四十六秒後だ。蓮は携帯電話のメモ帳を開き、たった五文字――いや、正確には一つの時刻と一つの場所だけを入力している」


 燦は記録を拡大した。


「『十九時十二分――資料保管室』」


「その直後、蓮は自分で消去している」


 麻は眉をひそめた。


「十九時十二分……」


 何かが記憶の奥で引っかかった。


「待って、燦」


 麻の目が大きく見開かれる。


「それって――白沢ノアが自殺した日の記録で、共同利用番号二十七の認証カードが校内システムへアクセスした時刻じゃない?」


「その通り」


 燦は指を鳴らした。


「よく覚えていたな、麻」


 燦は両手を机へつき、室内にいる警察官全員を見渡した。


「ここにある異常性に、気づきませんか?」


 室内が静まる。


「蓮が死亡したのは今夜、午後七時三十分頃だ」


「そして、十九時十二分という時刻がノアの過去の記録に残っていたことを、俺たちが発見したのもついさっきだ」


 燦は赤鉛筆の先で二つの時刻を結んだ。


「ところが蓮は――その十九時十二分という数字を、午後五時十五分の時点ですでに携帯電話へ記録していた」


「つまり、蓮は旧校舎へ入る前から、この『魔の時間』を知っていたということです」


 黒田の顔から血の気が引く。


「……誰が教えた?」


 やがて、黒田が唸るように尋ねた。


「電話をかけてきた奴か?」


「その可能性は高い」


 燦は答えた。


「匿名の人物は餌を撒いた。資料保管室に眠っている秘密を蓮へ示したのかもしれない。そして、『十九時十二分』という数字を、その秘密へ辿り着くための暗号として使った」


 燦は一度言葉を切る。


「あるいは――もっと恐ろしい可能性もある」


 その声が低くなる。


「蓮自身が調査の過程で十九時十二分という時刻へ辿り着き、虎穴へ向かう前に、自分への備忘として記録した」


 燦は長く息を吐いた。


 そして目を閉じる。


 その瞬間、脳裏に数時間前の光景が蘇った。


 止めることのできなかった、あの瞬間。


 ――回想。


 時刻――午後六時二十分。


 本校舎と旧校舎を結ぶ渡り廊下。


 その時、燦と麻は、陸に関する情報を探しているという名目で、この学校を密かに調べていた。


 そして偶然、誰もいない廊下で藤沢蓮と鉢合わせた。


 黄色く薄暗い照明が、三人の姿を不気味に照らしていた。


 蓮は制服を乱したまま、薄い書類の束を脇に固く抱えていた。


 目の下には濃い隈が浮かび、白目には無数の血管が走っている。


 それでも、その瞳だけは鋭く光っていた。


 蓮は麻の姿を見て足を止めた。


 そして、ゆっくりと燦へ視線を移す。


 まるで高校生ではなく、死神そのものを思わせる気配をまとった少年だった。


「お前……」


 蓮の声は掠れていた。


「麻と一緒にいるんだな。お前も陸を探しているのか?」


 燦は両手をズボンのポケットへ入れたまま、細く長い目で蓮を頭から足元まで観察した。


「なぜ、お前は答えを含んだ質問をする?」


 蓮の口元に、ひどく白々しい笑みが浮かんだ。


 笑顔というより、感情そのものが抜け落ちた表情だった。


「だって、お前と麻がこの辺りをうろつき始めて、昔のことを聞き回るようになってから――」


 蓮は一度、周囲を見回した。


「誰かが怯え始めたんだ」


「誰が?」


 燦が即座に問う。


 蓮は首を横に振った。


「まだ分からない」


「だが、そいつは暗闇の中にいる。そして、今かなり焦っている」


 燦の目が細くなった。


「正体も分からないのに、なぜそんな話を俺のような他人にする?」


 蓮は一度、瞬きをした。


 その視線が燦を通り過ぎ、麻のところで止まる。


 ほんの一瞬だった。


 しかし麻には、その少年の瞳の奥に、言葉では到底表現できないほどの悲哀が浮かんだように見えた。


「だって……」


 蓮が言い淀む。


 窓の外では雷鳴が低く轟いていた。


 その音に声が溶ける。


「もし今夜、俺が消えたら――」


「陸が消えたのと同じように」


 その言葉に、麻の表情が一変した。


「その時くらいは、ただの事故だなんて信じないだけの頭を持った人間に……俺のことを覚えていてほしい」


 麻は反射的に一歩踏み出した。


 蓮の手を取ろうとする。


「蓮、何を言ってるの? あなた、危険な目に遭ってるの? これからどこへ行くつもり?」


 だが、燦が手を上げて彼女を制した。


 視線は、蓮から一瞬たりとも逸らさない。


「誰かに脅されているのか?」


「……ああ」


「誰だ?」


 蓮は燦の目を真正面から見返した。


「まだ、顔は見ていない」


 その答えは奇妙だった。


『分からない』ではない。


『まだ、見ていない』。


 つまり蓮は、その人物の存在そのものについては確信している。


 近くをうろついていることも知っている。


 ただ、仮面の下に隠された本当の顔を、まだ見ていないだけだ。


 燦が一歩、前へ出た。


 周囲の空気が凍りついたように感じられる。


「自分が幽霊のような何者かに監視されていると分かっていながら、なぜ旧校舎へ向かい続ける?」


 蓮は一歩後ろへ下がった。


 脇に抱えていた書類の束を、さらに強く抱き締める。


「俺は……その人間が、俺を怖がらせて調査を諦めさせようとしているだけだと思った」


「心理戦だ」


「本当に、脅すだけで終わると思っているのか?」


 燦が距離を詰めた。


「……いや」


 蓮は小さく笑った。


 それは覚悟を決めた人間の笑みだった。


「でも、ここでやめたら……」


 蓮の瞳に、揺るぎない意志が宿る。


「俺が引き下がって、怖いからって全部投げ出したら――白沢ノアは何のために死んだ?」


「それに陸は……陸は、何のために消えた?」


 その声は震えていた。


 それでも、言葉だけは一つも揺らがなかった。


「みんな俺に、もう聞くなと言う」


「海斗は怯えている」


「美咲は逃げている」


「怜香は嘘をついている」


 蓮は燦を見た。


「おかしいと思わないか?」


「もし陸が、ただ学校を辞めたかっただけなら」


「もしノアの死が、本当に成績への重圧に耐えられなくなった末の自殺だっただけなら――」


 蓮の声が一段と強くなる。


「なぜ、俺が調べることを恐れる人間が、暗闇の中から俺の口を塞ごうとする?」


「なぜ、ここまで怯える必要がある?」


「この学校の床の下には――」


 蓮は低く呟いた。


「もっと巨大で、もっと腐り果てた秘密が埋まっているはずなんだ」


 それは、宣誓のような言葉だった。


 蓮は好奇心だけで真実を追っていたのではない。


 かつて陸をいじめる群衆の中に立っていた、自分自身の罪悪感を背負っていた。


 だからこそ、その過去を償うために、本当の怪物を暗闇から引きずり出そうとしている。


 その瞬間だった。


 蓮の携帯電話の画面が突然、青白く光った。


 新着メッセージ。


 燦は反射的に画面を見た。


 わずかな時間で、表示された文字列を記憶する。


『十九時十二分。資料保管室』


 送信者――表示なし。


「その呼び出しに従うつもりか?」


 燦が問う。


 蓮は頷いた。


「行く」


「一人では行くな。罠だ」


「分かってる」


 蓮は苦く笑った。


「でも行かなければ、あいつは俺が疑い始めたことを知る」


「それだけじゃない。俺があなたに話したことまで知られる」


「そうなれば、あいつは永遠に暗闇の奥へ潜り込む」


「なら、なおさら警察へ報告すべきだ」


 蓮は首を横に振った。


 その声には苦味が混じっていた。


「警察?」


「どうせ、妄想に取り憑かれた高校生の戯言だと思われる」


「俺の手元には、まだ物理的な証拠が一つもない」


「あるのは――推理だけだ」


「お前は殺されるかもしれない」


 燦は一語ずつ、はっきりと言った。


 そこに偽りの同情はなかった。


 ただ、現実の冷酷さだけがあった。


 蓮は黙り込んだ。


 軒先では雨が途切れず降り続いている。


 その雨音を聞きながら、蓮は燦を見る。


 それから、麻を見る。


「俺が行かなければ……」


 蓮は小さく息を吐いた。


「俺たちは永遠に、あいつが旧校舎に何を隠そうとしているのか知ることができない」


「それは、一人の人間の命を賭けるだけの理由にはならない」


 燦は冷たく返した。


 蓮は笑った。


 それは――生きている人間が浮かべる、最後の笑顔だった。


「たぶん、お前の言う通りだ」


「でも……」


 蓮は燦へ背を向ける。


「もう遅い」


 薄暗い廊下を歩き出す。


 明るい場所と闇の境界を越え、少しずつ西側の旧校舎へ溶け込んでいく。


 その背中が闇の向こうへ消えていくまで、燦も麻も、ただ立ち尽くしていた。


 ――回想終了。


 燦は目を見開いた。


 会議室の空気が、先ほどまでとは明らかに違っていた。


 重い。


 息苦しい。


 まるで部屋そのものが、事件の真相を押し隠そうとしているかのようだった。


 その隣で、麻は黙って座っていた。


 涙が、頬を伝って静かに落ちている。


 彼女には、あの時の蓮の背中がまだ見えていた。


 たった一人で闇の中へ消えていった背中。


 もしあの時、二人がもっと強引に引き止めていたら。


 もし力ずくでも蓮を残していたら。


 今頃、あの少年は法医学室の冷たい検案台に横たわってなどいなかったかもしれない。


「……蓮は、自ら狂ったような覚悟で死地へ向かった」


 燦が呟いた。


 その言葉が自責なのか、裁定なのか――本人にも分からない。


 燦はゆっくりと白板へ向き直った。


 そして、最後に残された時間の節目へ掌を叩きつけた。

 時刻――午後六時四十九分。


 異常――旧校舎監視・通信系統の障害。


「旧校舎の監視カメラが、すべて同時に沈黙した」


 燦は資料を一枚めくった。


「さっきも説明したように、この電源障害は過去にも発生している。だから、これ単独では犯人による意図的な妨害工作だと、早急に断定することはできない。単なる偶然という可能性もある」


 そこで燦は、真新しい技術報告書を取り出した。


「だが、今回は違う」


「俺は周辺に設置されていた各種センサーの通信記録まで洗わせた」


「映像だけが消えたわけじゃない」


 燦の指が、一つの項目を指し示す。


「旧資料保管室の扉枠に設置されていた磁気センサーまで、午後六時四十九分に同時に信号を失っている」


 黒田が椅子から身を乗り出した。


「……システムが一斉に落ちたのか?」


「カメラだけが故障したのなら、単純なカメラ障害だ」


 燦の語る速度が僅かに上がる。


「だが、交流電源を使用している監視カメラと、独立した電池を電源としている扉の磁気センサーが、まったく同じ時刻に信号を失ったとしたら――」


 燦は報告書を机へ置いた。


「原因は、旧校舎そのものの電源ではない」


「中央の通信経路を制御する装置に障害が発生したか、あるいは何者かが、その区域に存在する無線信号伝送機能を意図的に一括して停止させたか」


「どちらにしても、自然発生的な故障だけでは説明しにくい」


 燦の目が鋭く細められる。


「これは、意図的な介入の可能性が高い」


 ---


 時刻――午後七時三分。


 藤沢蓮の携帯端末が、旧校舎内の無線網との接続確認を完了した。


 映像記録――なし。


 目撃者――なし。


 この時点で、蓮は正式に監視の届かない闇の領域へ足を踏み入れた。


 ---


 時刻――午後七時十二分。


 校内の内部通信記録に、一つの認証履歴が残った。


 共同利用番号二十七の認証カードが使用され、白沢ノアの電子記録へアクセスが行われている。


 その時刻は、蓮が呼び出された時間と完全に一致していた。


 ---


 時刻――午後七時二十六分。


 蓮の端末が、完全に通信を失う直前に最後の通信照会を実行した。


 それが、最後だった。


 救助要請――なし。


 緊急通信――なし。


 緊急連絡――なし。


 燦は片手で顎を支えたまま、思考の海へ沈み込んでいた。


 もし蓮が「十九時十二分」を待ち合わせの時刻として事前に知っていた。


 そして実際に、その時刻に認証番号二十七が使用された。


 ならば――二つの可能性が、同時に成立する。


 一つ目。


 蓮は、誰かが十九時十二分に認証番号二十七を使用することを知っていた。


 だからこそ、現場へ向かい、犯人を現行犯で押さえようとした。


 二つ目。


 蓮は呼び出された通り資料保管室へ向かい、そこで殺害された。


 その後、犯人は蓮の書類を奪い取り、さらに現場に残された最後の痕跡まで消すため、平然と認証番号二十七を使って校内システムへアクセスした。


 燦はゆっくりと立ち上がった。


「……現場を確認する必要がある」


 黒い傘を手に取る。


「麻。行くぞ」


 ---


 旧校舎は、息苦しいほど濃密な闇に沈んでいた。


 現場鑑識班が持ち込んだ携帯式投光器だけが、不規則に明滅する光を周囲へ投げかけている。


 鼻を突くのは、長年閉ざされていた建物特有の黴臭さ。


 鼠の排泄物。


 そして、何十年ものあいだ雨風に晒され続けた鉄材から漂う、鼻を刺す錆の臭い。


 燦は黄色い立入禁止帯を跨いだ。


 磨き上げられた革靴が、欠けたコンクリート階段を踏むたび、乾いた冷たい音を返す。


 その後ろでは、法医学担当官が身を屈め、懐中電灯で足元を照らしていた。


 麻は燦のすぐ後ろを歩いていた。


 無意識のうちに、彼の黒いシャツの裾を掴んでいる。


 燦はそれに気づくと、何も言わずに片手を後ろへ伸ばした。


 そして、麻の手をしっかりと握る。


 冷たい手だった。


 しかし、その握力には一切の揺らぎがない。


 まるで、ここにいる限り何も恐れる必要はないと伝えるように。


 遺体発見位置として白い印が残されていたのは、地上一階と二階の中間にある踊り場だった。


 だが、燦は床に描かれた人体形状の白線を見なかった。


 彼の視線は、そのさらに先へ向かっていた。


 空間全体を立体的に走査する。


 階段の手摺り。


 段差の幅。


 一段一段の高さ。


 そして、遺体から一・五メートルほど離れた隅に引っ掛かっていた携帯電話。


 階段に残された細長い血痕。


 盲点となっている監視カメラの撮影角度。


 最後に――


 燦は廊下の先へ目を向けた。


 視線の延長線上には、古びた黒檀製の扉が閉ざされている。


 扉には、埃にまみれた小さな札が掛かっていた。


「学務資料保管室」


 燦が口を開いた。


 張り詰めた静寂を切り裂く声だった。


「法医学担当官」


「被害者の頭蓋骨と肩に残された損傷から判断して、もし本人が最上段付近から足を滑らせ、そのまま階段を転落したのだとすれば――」


「手にしていた携帯電話が、あの隅まで飛ぶことはありますか?」


 法医学担当官は喉を鳴らした。


「力学的には、可能性はあります」


「転落時に発生する回転運動によって、手にしていた物体が予測困難な軌道を描いて飛ばされることはあります」


「では、背後から誰かに突き飛ばされた場合は?」


「落下の初速度と方向が変わるため、軌道はより急になります」


「ですが、携帯電話があの位置まで飛ぶ可能性そのものは、排除できません」


「では――」


 燦の目が細くなる。


「三つ目は?」


 彼が投げかけた仮説は、これまでとは根本から違っていた。


「そもそも、この遺体は階段の上から落下したものではない」


「何者かが別の場所から遺体を運び、ここへ置いた」


「そして、携帯電話だけを遠くへ投げて、階段から転落したように見える偽装現場を作った」


 法医学担当官は眉を寄せ、顎へ手を当てた。


「それも……可能性としては排除できません」


「ここにある状況は、確かに転落事故と矛盾しない」


「しかし、物理法則を熟知した人物なら、意図的に似た状況を作り出すことも不可能ではないでしょう」


 燦は、それが曖昧な回答であることを理解していた。


 だが、失望する様子はなかった。


 法医学は、確率や物理現象には強い。


 しかし、そこから「何が真実なのか」という定性的な問いまで、自動的に答えてくれるわけではない。


「私は、どれが正しいかを選べと言っているんじゃない」


 燦はゆっくり振り返った。


 法医学担当官を真正面から指差す。


「聞いているのは、ここにある物理的な痕跡についてです」


「ほんの些細なものでもいい」


「極めて小さな痕跡でも構わない」


 燦の眼差しが鋭くなる。


「それが――遺体が別の場所から運ばれてきた場合にしか存在し得ず、被害者が自分で階段から転落した場合には、絶対に存在し得ない」


「そういう痕跡が、一つでもありませんか?」


 法医学担当官は息を呑んだ。


 燦の問いは、法医学的な問題の核心へ向けた、まっすぐな斬撃だった。


 転落と遺体移動。


 両方の可能性で生じ得る痕跡を一つずつ排除し、片方でしか成立しない痕跡だけを探す。


 法医学担当官は黙り込み、眉間へ深い皺を刻みながら考え込んだ。


 一分。


 二分。


 やがて、彼はゆっくりと証拠袋を開いた。


 中から一冊の資料を取り出す。


 そこには、被害者の衣服を細部まで撮影した接写写真が綴じられていた。


「一つ……あります」


 担当官は慎重に言った。


「些細なものですが」


「蓮の衣服を調べた際、左脚側の裾に、非常に特徴的な微細な塵が付着しているのを確認しました」


「塵が、繊維状に絡み合って凝集していたんです」


 無線機越しに、黒田の声が割り込んだ。


「塵が何だ?」


「こんな廃校舎、どこを見たって埃だらけじゃないか」


「違う」


 燦が即座に遮った。


 目が変わった。


 獲物を捕らえた捕食者のような光が、その瞳の奥に宿る。


「階段の表面に積もっている塵をよく見てください」


 燦はしゃがみ込み、階段の端に落ちている粉末状の物質を指した。


「これは無機質の塵だ」


「風化したセメントと、窓から吹き込んだ砂土が混ざったものだ」


 燦は法医学担当官を見る。


「では、蓮のズボンの裾に付着していた塵は何だった?」


 法医学担当官が唾を飲み込む。


「……有機質です」


「古い紙が腐食して細かく砕けたものと、木材の微細な削り屑が主体になっています」


「こうした種類の塵が高密度で堆積するのは、古い書籍や紙資料が大量に保管され、なおかつ外気の流入が少ない閉鎖的な環境です」


 麻の目が大きく見開かれた。


 彼女は廊下の奥へ視線を向ける。


「それって……」


「資料保管室の中みたいな?」


「その通り」


 燦は断言した。


 彼はゆっくりと階段を上り始める。


 靴先が、コンクリートの段を一段ずつ叩く。


 乾いた音が、静寂の中へ規則正しく響いていく。


「ズボンの裾に付着した有機質の塵」


「もし蓮が、ただこの廊下を通り過ぎただけなら、あれほど濃密な量が付着するはずがない」


 燦は一段上がる。


「しかも、あのような繊維状の付着痕が形成されることも考えにくい」


「蓮は、古い紙資料で埋め尽くされた部屋の奥まで入り込んだはずだ」


「その際、狭い書架の隙間へズボンの裾を擦りつけた」


 燦は最上段で足を止めた。


 そして、ゴム手袋を嵌めた指で、古びた木製の手摺りの表面をゆっくりと撫でる。


 指が止まった。


「……懐中電灯」


 燦の短い命令。


 白い光が即座に照射される。


 燦が指差していたのは、手摺りの下面。


 普通なら見落とすほど暗い位置だった。


 そこに、ごく小さな傷があった。


 細く、鋭い。


 しかし、その周囲には血液がない。


 指紋もない。


 ただし――


 木材の裂け目に、一本の極細の繊維が引っ掛かっていた。


 色は、暗い赤。


「赤い繊維……」


 麻が息を呑んだ。


 その瞬間、彼女の脳裏へ過去の事件の記憶が蘇った。


 以前、二人が遭遇した事件。


 あの一連の事件では、赤い紐といえば、ある特定の容疑者を想起させた。


 歪んだ心理を持つ、一人の人間。


「犯人がここにいたんだ!」


 無線機の向こうで黒田が叫ぶ。


「赤い紐を身につけていた奴だ!」


「その繊維を採取しろ! これこそ犯人を決定づける、最も有力な証拠だ!」


 だが、燦は獲物を貪る獣のような反応を見せなかった。


 特殊鑷子を取り出す。


 そして、その暗赤色の繊維を慎重に挟み、証拠用密封袋へ収めた。


 燦は袋を目の高さまで持ち上げる。


 懐中電灯の光を透かすようにして、長いあいだ観察した。


「俺たちは、赤い色を見つけると、無意識のうちに特定の人間へ結びつけることに慣れすぎている」


 燦の声はゆっくりとしていた。


 しかし、その理性はむしろ残酷なほど冷徹だった。


「赤を見れば、あの人間だ」


「赤を見れば、あの名前だ」


「そうやって、証拠より先に物語を完成させてしまう」


 燦は袋を見つめたまま言う。


「だが――人間の脳ほど、自分自身を欺くのが得意なものはない」


 麻は燦を見上げた。


 その言葉の意味を理解した。


「つまり……今回は、この色だけで誰かを犯人だと決めつけるなってこと?」


「そうだ、麻」


 燦は彼女へ向け、僅かに微笑んだ。


「心理的な先入観で、物証の物理的性質を塗り替えるな」


 燦は証拠袋を法医学担当官へ渡した。


「この繊維の構造をよく確認してください」


「手作業で撚った綿糸じゃない」


「護符や数珠、手編みの衣類などに使われるような繊維でもない」


「表面に光沢がある。断面は平たい」


「そして、端部には熱による切断痕が残っている」


 法医学担当官は袋を長時間、様々な角度から観察した。


 やがて、その顔色が変わった。


「……君の言う通りだ」


「これは合成繊維です」


「ポリエステル」


 法医学担当官が目を細める。


「こういう素材は、装飾品や一般的な衣類よりも、むしろ――」


「名札用の吊り紐」


 燦が言葉を引き継いだ。


「あるいは、機密資料の束をまとめるために使われる布製の結束紐だ」


 その瞬間。


 事件を見ていた者たちの中で、世界の向きが一気に変わった。


 暗赤色。


 それは、もはや狂気を宿した殺人犯の「署名」ではなかった。


 単なる事務用品かもしれない。


 教師が首から下げていた名札の吊り紐。


 あるいは、誰かが持ち運んでいた機密資料を束ねていた結束紐。


 どちらも、特別なものではない。


 だからこそ――意味がある。


 燦は階段の手摺りへ片手を置いた。


 そして、白い人体線が残された踊り場を見下ろす。


「これで、二つ目の物理的証拠だ」


「一つは、蓮の衣服に付着していた古紙由来の有機質の塵」


「もう一つは――資料の結束紐、あるいは名札の吊り紐に由来する可能性がある、暗赤色のポリエステル繊維」


 燦は静かに目を細めた。


「問題は、この二つが同じ場所を指していることだ」


 廊下の先。


 閉ざされた資料保管室。


 燦の視線は、その扉から一度も離れなかった。


「蓮は、ここに来た」


「それはほぼ間違いない」


「だが――」


 その声が、さらに低くなる。


「ここから先は、『なぜ来たのか』を証明しなければならない」


「そして、もう一つ」


「十九時十二分に、誰がこの部屋で何をしていたのかを突き止める」


 雨音が、遠くで低く鳴り続けていた。


 旧校舎の奥で、誰にも開けられることなく閉ざされていた一枚の扉。


 その向こうには、神崎陸。


 白沢ノア。


 藤沢蓮。


 三人の人生を一本の線で繋ぐ何かが、今もまだ眠っている。

 階段周辺を、重苦しい沈黙が覆っていた。


 これまで積み重ねられてきた古い仮説が、刃物のように鋭い論理的推論の前に、ひとつずつ音を立てて崩れていく。


 燦は階段を下り、床に描かれた人体輪郭線の中心へ立った。


 そして、目を閉じる。


 脳内で空間の三次元的な構造が、瞬時に再構築されていく。


 事件とは無関係なノイズを、一つずつ切り捨てる。


 残すのは、最も原始的で、最も偽装しにくい要素だけ。


 資料保管室の扉から階段最上段までの距離。


 蓮のズボンの裾に付着していた塵の量。


 強い摩擦によって手摺りに引っ掛かった暗赤色のナイロン繊維。


 朝から蓮が持ち続けていた薄い資料の束の消失。


 そして、落下時の慣性を考えれば十分に成立する、携帯電話の飛散位置。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 脳内で無数の要素が重なり、一本の経路へ収束していく。


 燦は目を開いた。


 黒い瞳孔は、月のない夜空のように深く、光さえ吸い込んでしまいそうだった。


 そのまま、麻を真っ直ぐ見つめる。


「俺たちは最初から、未知数の置き方を間違えていたんだ。麻」


「……どこを?」


 麻は息を殺し、答えを待った。


「俺たちはずっと、こう聞いてきた」


 燦の声が、無人の階段へ鋭く響く。


「『蓮は、どうやってこの階段から落ちたのか?』」


「自分で足を滑らせたのか。誰かに突き落とされたのか。それとも、別の場所から投げ落とされたのか――」


 燦は一語一語を切り分けるように話した。


「だが――」


 彼の腕が上がる。


 指先が、濃密な闇に沈んだ廊下の奥を指した。


 そこには、先ほどから微動だにせず閉ざされている資料保管室の扉がある。


「ここに残された痕跡は、別の真実を叫んでいる」


「消えた資料」


「衣服に付着した塵」


「手摺りに残された傷」


「そして、あの繊維」


 燦はゆっくりと言葉を繋いだ。


「俺たちは、『蓮がどうやって落ちたのか』を考えるべきじゃない」


 一拍。


 ほんの一拍だけ、燦は沈黙した。


 その短い間に、これまで集めてきたすべての情報が、麻の中で重みを増していく。


 そして――


 燦は決定的な問いを叩きつけた。


「俺たちが問うべきなのは――」


 鋭い眼差し。


「藤沢蓮は、本当は――」


「どこで殺されたのか、だ」


 その瞬間。


 窓の外で雷光が走った。


 ひび割れた窓硝子の向こうから放たれた白い閃光が、燦の顔の半分と、恐怖に凍りついた麻の表情を一瞬だけ照らし出す。


 もし――


 蓮が、この階段では死んでいなかったとしたら。


 もし――


 床に残された血痕も。


 あの携帯電話の位置も。


 そして、階段に倒れ伏した遺体さえも。


 すべてが、殺人犯によって用意された巨大な「舞台装置」にすぎなかったとしたら。


 死亡時刻を欺くため。


 殺害方法を隠すため。


 捜査そのものを、別の方向へ誘導するため。


 ならば――


 本当の地獄は、あの扉の向こうにある。


 資料保管室。


 そこが本当の屠殺場だ。


 藤沢蓮の秘密。


 神崎陸の失踪。


 そして、白沢ノアの死。


 三人の運命を一本の線で結ぶ真実が、その暗闇の奥へ沈められている。


 これまで誰も疑わなかった。


 目の前にある階段。


 残された血痕。


 白い人体輪郭線。


 そして、倒れている遺体。


 それらこそが「現場」だと、誰もが信じていた。


 しかし――


 この事件が始まって以来、燦が初めて、確信をもって断言した。


「ここは、現場じゃない」


 燦は、床に描かれた白線を見下ろす。


「これは――」


 一瞬の沈黙。


「嘘を見せるために作られた、ただの舞台だ」

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