第八章 白い馬車 4
《七つ揃えば、門は開く》
白い文字は、黒板の中央に浮かんでいた。
チョークで書いたものではない。
滲みもない。
削れた跡もない。
ただ最初からそこに存在していたみたいに、白い線だけが黒板へ張りついている。
ノアは動かなかった。
動けば何かが始まる。
そんな気がした。
レインも同じだった。
赤い瞳だけを細め、黒板と床の足跡を交互に見る。
入口から続く二人分の足跡。
アーク。
ルナ。
おそらく間違いない。
その足跡は教室の中央を通り、窓際まで続いている。
そして。
そこで消えている。
ただ。
消え方がおかしい。
転移なら魔力痕が残る。
空間削除なら周囲へ歪みが出る。
侵食なら黒い線が残る。
何もない。
二人が最初から存在しなかったみたいに。
ノアは奥歯を噛み締めた。
焦るな。
今、黒星が反応している。
《蓄積値:467》
さっきより高い。
恐怖。
不安。
焦り。
全部、黒星にとって餌になる。
だからこそ。
考えろ。
アークならどうする。
ルナなら何を残す。
あの二人が何もせず消えるとは思えない。
ノアはゆっくり教室へ入る。
「触るな」
レインが低く言う。
「分かってる」
「分かっている顔じゃない」
「触らない」
ノアは床を見る。
足跡。
アークの靴は大きい。
ルナは小さい。
二人並んで歩いている。
途中までは普通。
ただ。
窓際へ近づくほど。
ルナの足跡だけが僅かに乱れている。
歩幅が変わっている。
ノアはしゃがみ込む。
「……途中で気付いてる」
レインが隣へ来る。
「何に」
「分からない」
ノアは足跡を見る。
「でもルナだけ歩幅が狭くなってる」
「警戒した?」
「たぶん」
アークの足跡は変わっていない。
つまり。
ルナが先に何かへ気付いた。
それをアークへ伝えなかった?
いや。
言えなかった可能性。
あるいは。
声を出したら危険だと判断した。
ノアは床から顔を上げる。
窓。
閉じている。
錠も掛かっている。
外へ出た形跡はない。
黒板。
白い文字。
そして。
教室の隅。
古い机が一つだけ、少し動いていた。
ノアの目が止まる。
「レイン」
「見えている」
机。
他の机は全部埃を均等に被っている。
一つだけ。
脚の周りの埃が削れている。
最近動かした。
ノアは近づく。
机の上には何もない。
引き出し。
「触るなって言ったよな」
レインの声。
ノアは手を止める。
「じゃあ開けて」
「俺に触らせるのか」
「空間削除できるし」
「便利道具扱いするな」
「いいから」
レインが小さく舌打ちする。
指を少し動かす。
引き出しの取っ手周辺だけ。
空間が歪む。
触れずに。
引き出しが開いた。
中。
紙。
一枚。
ノアは目を細める。
白紙。
いや。
違う。
端に。
小さな文字。
ノアは近づいて読む。
《銀目に渡せ》
アークの字だった。
見慣れている。
雑。
大きい。
本人の字。
ノアの胸が少しだけ軽くなる。
少なくとも。
アークはここにいた。
記憶だけではない。
物理的な痕跡。
ノアは紙を取り出そうとして止まる。
レインを見る。
「安全確認」
「今だけ慎重だな」
「うるさい」
レインが魔力を流さず確認する。
目視。
臭い。
空間の歪み。
「大丈夫そうだ」
ノアは紙を取る。
裏返す。
何もない。
表。
《銀目に渡せ》
それだけ。
「これだけ?」
レインが言う。
ノアは紙を見る。
違う。
アークがこんな一言だけ残すか?
ルナもいる。
二人で。
しかも危険を察していたなら。
もっと書く。
時間がなかった?
それなら。
なぜ机を動かして引き出しへ入れる時間はあった。
隠したかった。
誰かに見つからないように。
でもノアには見つけてほしい。
つまり。
紙そのものに意味がある。
ノアは紙を光へ透かす。
何もない。
指で縁を触る。
厚さ。
普通。
匂い。
少し。
甘い。
「……インクじゃない」
ノアが呟く。
レインが見る。
「何が」
「アークの字」
「黒じゃない」
よく見ると。
文字は黒に見える。
だが。
光を当てると、僅かに紫。
ルナ。
「これルナの魔法だ」
ノアの目が鋭くなる。
ルナは光魔法を得意とする。
魔力を光へ変える。
ただ。
今は魔力を使うな。
相手が魔力を感知している可能性がある。
なら。
弱い光。
太陽光。
窓辺。
ノアは紙を窓の近くへ持っていく。
角度を変える。
紫の文字が。
薄く。
別の形へ重なる。
《見られてる》
ノアの身体が止まる。
レインも読む。
その下。
さらに。
文字。
《声出すな》
《七じゃない》
《白いのがいる》
白いの。
ノアは即座にフィリウスの白い手を思い出す。
いや。
決めるな。
白いものは他にもある。
白い馬車。
白い石。
白い侵食?
そして。
《七じゃない》
これが重要。
七つ揃えば門が開く。
でも。
ルナは“七じゃない”と残した。
何が七じゃない?
人数?
星?
失踪者?
鍵?
ノアは紙をさらに傾ける。
最後。
ほとんど消えかけた一文。
《六を数えるな》
ノアの呼吸が。
止まる。
六。
声。
さっき黒星の奥で聞こえた。
『六』
あと一つ。
でも。
ルナは。
六を数えるな。
真逆。
「罠だ」
ノアが言う。
レインが頷く。
「黒板か」
「多分」
《七つ揃えば、門は開く》
これを信じさせたい。
七。
七人。
七つの星。
七人目。
全部。
そこへ意識を向けさせる。
でも。
ルナは気付いた。
七じゃない。
六を数えるな。
ノアは黒板を見る。
その瞬間。
白い文字が。
少しだけ。
歪んだ。
まるで。
笑ったみたいに。
「レイン」
「分かってる」
二人は一歩下がる。
次の瞬間。
黒板の白い文字が。
一斉に崩れた。
粉ではない。
光。
白い光の粒になって。
教室中へ散る。
ノアは腕で顔を覆う。
レインが空間障壁を張る。
白い粒子は。
障壁へ触れた瞬間。
消えた。
「侵食じゃない」
レインが低く言う。
ノアも分かる。
黒星が反応していない。
いや。
反応している。
でも。
餌としてではない。
嫌悪。
初めて。
黒星が。
避けたがっている。
ドクン。
《蓄積値:466》
減った。
ノアの目が見開かれる。
白い粒子から離れた瞬間。
黒星が減った。
「逆だ」
「何が」
「白いの」
ノアは胸を押さえる。
「黒星が嫌がってる」
レインの顔が変わる。
「あり得ない」
「本当」
「黒星に忌避反応?」
レインの表情。
本気で知らない。
なら。
新しい現象。
白。
フィリウスの手。
白い石。
白い文字。
全部。
繋がる可能性。
ノアは思考を止めない。
フィリウスは向こう側で何かへ触れた。
自分の名前を失った。
白い線が残った。
白い石。
魔力を通さない。
脈打つ。
そして。
今。
白い粒子。
黒星が嫌う。
もし。
黒星と対になる何かがあるなら?
門の向こう側。
牢獄。
閉じ込めるための仕組み。
黒星は脱出するための欠片。
なら。
それを閉じ込める側の力もある?
白星?
いや。
名前を勝手に決めるな。
「ノア」
レインの声。
ノアが見る。
白い粒子。
完全には消えていない。
部屋の奥。
窓際。
一ヶ所へ集まっている。
形。
人型。
ノアの全身が強張る。
粒子が。
ゆっくり。
輪郭を作る。
人。
白い。
顔はない。
ただ。
人の形。
レインが前へ出る。
「下がれ」
ノアは下がらない。
「アークとルナは?」
「今は」
人型が。
顔のない頭を。
ノアへ向ける。
その瞬間。
ノアの頭の中へ。
声。
『違う』
さっきと違う。
白い。
音というより。
意味。
『六ではない』
ノアは息を呑む。
ルナと同じ。
六を数えるな。
白い人型は。
ゆっくり腕を上げる。
指。
窓の外。
学院の正門方向。
白い馬車。
そして。
フィリウスがいる応接室の方向。
『一つは』
『既にいる』
ノアの背筋へ。
冷たい汗。
「誰が」
聞いてしまった。
レインが。
「喋るな!」
遅い。
白い人型の頭が。
少し傾く。
『名は』
ノアの黒星が。
突然。
激しく暴れた。
ドクンッ!!
《蓄積値:470》
四つ。
増加。
「っ……!」
ノアが膝をつく。
頭痛。
黒星が。
拒否している。
聞かせたくない。
名前。
白い存在の名前?
それとも。
一ついる誰かの名前?
白い人型が。
口のない顔で。
言おうとする。
だが。
声が出る直前。
バキンッ――!!
空間が割れた。
レインが反射でノアを掴む。
「下がれ!」
黒い線。
白い人型の胸を。
貫いた。
ノアの目が見開かれる。
空間削除。
レインじゃない。
レインは隣にいる。
なら。
誰。
白い人型が。
崩れる。
最後。
ノアへ。
一つだけ。
意味が流れ込む。
『馬車を見るな』
消えた。
完全に。
静寂。
ノアは息を荒げる。
レインの赤い瞳が。
割れた空間を睨んでいる。
「外から撃たれた」
「誰に」
「分からん」
ノアは窓を見る。
見てはいけない。
『馬車を見るな』
でも。
人間は。
見るなと言われた方を見る。
ノアは。
寸前で。
止める。
窓の外を見ない。
代わりに。
窓硝子。
反射。
そこへ映る。
学院正門。
白い馬車。
遠い。
小さい。
でも。
見える。
馬車の横。
誰かが立っている。
白い外套。
フィリウス?
違う。
フィリウスは下。
応接室。
なら。
誰。
人物が。
ゆっくり顔を上げる。
反射越し。
顔はぼやける。
でも。
目だけ。
見えた。
銀色。
ノアの身体から。
一瞬。
力が抜けた。
銀眼。
自分と同じ。
いや。
もっと。
喰星に近い銀。
その人物が。
窓硝子の反射越しなのに。
まっすぐ。
ノアを見る。
気付いている。
見られていることに。
そして。
口が動いた。
距離が遠い。
声は聞こえない。
でも。
ノアは読めた。
『見つけた』
胸の奥。
黒星が。
歓喜する。
ドクンッ!!!
《蓄積値:475》
ノアは即座に窓から離れた。
「レイン」
声が低くなる。
「馬車にもう一人いる」
レインの表情が険しくなる。
「特徴は」
ノアは答える。
「銀目」
レインの身体が。
完全に止まった。
その反応。
ノアは見逃さない。
「知ってる?」
レインは。
数秒。
答えなかった。
そして。
「……最悪だ」
低く吐き捨てる。
ノアの目が細くなる。
「誰」
レインは窓を見ない。
代わりに。
ノアを見る。
「今すぐ下へ戻る」
「答えて」
「後だ」
「レイン」
「今は生き残る方が先だ!」
怒声。
初めて。
レインが。
本気で声を荒げた。
ノアは黙る。
そこまで。
危険。
喰星を前にしても。
向こう側の上位存在を前にしても。
この男はここまで焦らなかった。
なのに。
銀眼の人物を見ただけで。
「分かった」
ノアは引く。
今は。
無理に聞かない。
二人は教室を出る。
階段へ。
下。
三階。
その途中。
ノアは立ち止まる。
壁。
学院案内図。
一枚の紙が貼られている。
昨日からあったもの。
普通の案内。
でも。
一ヶ所だけ。
白い染み。
二階。
旧資料室。
「……レイン」
「止まるな」
「二人」
「何」
「アークとルナ」
ノアは案内図を見る。
白い染み。
そして。
その横。
薄い紫。
ルナの光。
ほんの少し。
矢印。
下。
「二階にいる」
レインが見る。
「確証は」
「ルナの印」
「罠の可能性」
「ある」
ノアは頷く。
「でも行く」
レインは一瞬だけ目を閉じる。
「五秒で判断する」
「十分」
二人は走る。
三階から二階へ。
旧資料室。
扉。
閉じている。
ノアが耳を当てる。
何も聞こえない。
レインが指を立てる。
三。
二。
一。
扉を開く。
中。
暗い。
埃。
古い棚。
そして。
床。
アークが倒れていた。
「アーク!」
ノアが駆け寄る。
「待て!」
レインが止める。
ノアは寸前で止まる。
アーク。
呼吸。
ある。
胸が動いている。
その横。
ルナ。
壁にもたれ。
意識を失っている。
二人とも。
生きている。
ノアの肩から。
力が抜けかける。
でも。
まだ。
近づかない。
おかしい。
傷がない。
魔力痕もない。
なぜ。
ここに。
「アーク」
ノアが離れた位置から呼ぶ。
反応なし。
「ルナ」
なし。
レインが空間を探る。
「周囲に異常なし」
「本当に?」
「今見える範囲では」
ノアは近づく。
一歩。
黒星。
変化なし。
二歩。
《蓄積値:475》
三歩。
アークの手。
何か握っている。
紙?
違う。
布。
白い。
ノアは止まる。
「それ」
レインも気付く。
アークの拳。
白い布。
刺繍。
青い魔法陣。
王国魔導院の紋章。
ノアの顔から。
表情が消える。
「なんで」
アークが。
魔導院の布を持ってる。
馬車。
フィリウス。
銀眼。
白い存在。
全部。
この学院へ来てから。
繋がっている。
その時。
ルナの瞼が。
ゆっくり開いた。
「……ノア、さん」
ノアが見る。
「ルナ!」
近づこうとする。
ルナは。
弱々しく。
首を横へ振った。
来るな。
ノアが止まる。
ルナの瞳。
焦点が合っていない。
でも。
必死に。
何かを伝えようとしている。
「……あの人」
「誰」
「白い……馬車」
ノアの胸が冷える。
ルナは。
震える唇で。
続ける。
「乗ってた、人……」
「うん」
「フィリウス?」
ルナは。
首を横へ振った。
違う。
ノアの背筋へ。
悪寒。
ルナが。
小さく。
「ノアさんと」
一度。
息を吸う。
「同じ、顔でした」
時間が。
止まった。
ノアは。
何も言えない。
レインも。
動かない。
同じ顔。
銀眼だけではない。
自分と。
同じ。
顔。
その瞬間。
学院正門の方角から。
鐘が鳴った。
カァン――。
一度。
二度。
そして。
三度目が。
鳴らない。
代わりに。
学院全体へ。
知らない声が響いた。
ノアと。
まったく同じ声で。
『やっと会えるな』
ノアの黒星が。
爆発するように。
脈打った。




